第66話 英雄には遠すぎた
「え? うそ? マジで? 俺、寝ちゃってた? 恥ずかしいな。最近疲れ気味でさぁ」
俺は照れ隠しに後ろ頭に手をやった。何だろう? なんでこんなに後頭部が痛いんだ?
それに、こいつは誰だ? 良く知っている顔なのに思い出せない。しかし頭が痛い。
「おいおい、身体は大事にしろよ。ところで、あのメガネの女の子が、お前の新しい彼女か?」
「んなワケ無いって。アレは友だちだ。ただの友だち」
――友だち? アイツは友だちだったか? 友だちでは無かったような気がする。
「上玉じゃねえかよ。それに、あれくらい気が強い女の方がお前に合ってるよ」
「冗談じゃないぜ。ありゃ、見た目が良いだけだ。中身はとんでもないヤツだよ」
「いやいや、あの女は抜群に頭が良いし、胸もデカい。何よりお前の事を好いてるぜ」
「やめてくれよ。俺には他に好きな子が……」
――何だ? 何を言っているんだ? さっきから俺は何を言っているんだ?
――誰だ? お前は一体誰なんだ? さっきから俺は誰と話しているんだ?
「ルルティアにしておけよ。お前がどんなに臆病な卑怯者と知っても、あの女はお前を受け入れる。あれはそういう女だ」
「なっ、何言ってんだよ。ルルティアなんて関係無いだろ」
「魅せられたんだろう? その美しい魂に。憧れたんだろう? その健気な魂に」
あぁ、そうか、てめぇか。あんまり久しぶりだったから、すっかり忘れてたよ。
「一言、愛してるとでも言えば良いんだよ」
「違う! 俺は、俺が愛しているのは……」
――――どうして泣いてんだ?
――――あんまり綺麗で。あんまり嬉しくて
「はい、サンドウィッチセットお待ちどうさま。ハム増量だよ」
目の前のカウンターにランチプレートが置かれた。
プレートの上には、ハム増量のサンドウィッチの代わりに肌色の芋虫のような指が一本乗っていた。切断したばかりだろうか、芋虫からは赤い液体がジワジワと滲みだしている。
俺は隣に座る男の右手を見た。
「やっぱりお前か。いい加減しつこいぞ」
「痛みを分かち合えよ。傷を舐め合えよ。お前らは似た者同士だろ?」
男は親指が在るべき部分を舐め回した。ボタボタと鮮血が床を汚し、舐めまわす口の周りが赤く染まる。趣味の悪い道化師化粧だな。新しい趣味にでも目覚めたのかい?
「ルルティアは関係無いって言ってんだろうが」
「強がるなよ。すぐムキになる癖も相変わらずだな」
「相変わらずだと? 笑わせんな。お前にだけは言われたく無ぇ。ただ、あいつは関係無い。巻き込むな」
「素直に彼女に甘えちまえよ。慰めてもらえよ。お前の罪も、嘘も、全て黙って受け入れるさ。あの女は」
「ふざけんなよ。罪も、痛みも、後悔も、全部まとめて俺のモンだ。だがな、嘘を吐いた覚えは無ぇし、甘える必要も無ぇ」
「認めろよ。他人任せの生き方を。受け入れろよ。理想に届かなかった自分を。お前に英雄は遠すぎた」
「俺を舐めるなよ、ビーフィン。俺はもう騎士に憧れた餓鬼じゃねえ。お前はなんだ? 何だ、そのザマは? 燃やされ足りねえのか?」
――燃やす?
やりかけた使命を思い出した。蹴倒す勢いで椅子から立ち上がり、そのまま出入り口に向かう。
「なんだよ。もう帰るのか」
「用事を思い出した。次に会ったらテメェ、粉々に粉砕するからな」
「そうかい。じゃあ、またな」
またな、じゃねえよ。俺は振り返る事も無く、出入り口から外に出た。
*****
どうやって燃え盛る炎の中から脱出したのか覚えていないが、叩きつけるように浴びせられる水の冷たさに我に返った。
「武器屋の! 大丈夫か!? 聞こえているか!?」
大丈夫です、大丈夫です、と地面に手を突いて、土下座をする様に何度も何度も頭を下げて返事をしていたような気がする。
フードを脱ぎ、マスクを外して喘ぐように空気を吸い込んだ。空気に含まれた喉を刺す刺激にむせ返ったが、かえって生きている事を実感した。肉体的よりも精神的な痛手に、すぐには立ち上がる気力が湧かない。
「俺は――大丈夫です。マスターは?」
顔馴染みの消防団員は首を振り、団員の背後に置かれた、担架に横たわる男性を指差して言った。
「お前は勇敢だった。決して無駄な事をしたんじゃないぞ」
俺は担架の上に横えられた男性に這い寄った。
煤に覆われ、炎に炙られた無残な姿に、小さい頃から憧れた渋い面影を見出した。その身に纏った焼け焦げたボロ布は、辛うじて給仕服の名残を残していた。
「マスター、俺だよ。分かるかい?」
マスターの全身は所々が炭化して、焼け焦げた炭のように成り果ててしまっていた。すでに生命の残火は消えかけていた。
「マスター……済まない。俺が、もう少しでも早く……済まない……」
俺はマスターの隣に座り込み、謝罪と懺悔を繰り返すしかなかった。
酷い火傷で形が変わってしまった口元が動いた様に見えた。俺は慌ててマスターに覆いかぶさり、微かに聞こえる呟きを聞き取ろうと顔を寄せた。
火ぶくれで腫れ上がった瞼から、僅かに見える焦点の定まらない瞳が、確かに俺を捉えた。
「……えに……きて……くれた……のか……」
マスターは、最期に大ファンだったという女性の名を呼んだ。それっきり何も言わなくなった。それっきり。
西日と炎に照らされた亡骸は消防団員が運んで行った。
取り残された俺は、暫く座り込んで燃え続ける喫茶店を眺めていた。
まるで、デカい暖炉みたいだ。ビーフィンの指を放り込んだ暖炉。「聖なる騎士と魔法の竜」を放り込んだ暖炉。燃え上がるリーザ姫の似顔絵。
あと、どれくらいの後悔を重ねればいいのだろう。これは新たな背負った罪なのか。それとも更に科せられた罰なのか。
喫茶店が轟音を立てて焼け崩れ始めた。火柱が上がり黒煙は魔導塔に届かんばかりだ。
歓声にも似た悲鳴とどよめきが上がる。火事の見物客は更に増えて、もはや路上を埋め尽くさんばかりだ。
日が落ちかけてきた。見物客は特大のキャンプファイアでも見ている気分なんだろう。盛大な収穫祭だ。焼き尽くす供物は何だ? マスターの生命か? 火事の原因は何だ? ルルティアの不審な行動が頭を過る。あいつは何かを知っているはずだ。
確信にも似た決意を持って駆けだした。
俺はルルティアに安全な所へ行けと言った。思い付くのは俺の店しか無い。
店の近所の住人は、火事の見物客以外にも避難した人も含めて出払っているのだろう。路地には人っ子ひとり見当たらない。
俺は走った。こんなに走ったのも久しぶりだ。熱で変形したクレープソールの履き心地が悪い。すぐに太腿が上がらなくなってくる。酸っぱい胃液が上がってきた。昔、こんな気持ちで学院の寮内を全力疾走をしたな。また切断された親指を思い出した。いい加減にしろよ。
「なっ、なんだってんだ!? 何だこりゃ?」
俺の店の入り口の扉が盛大に破壊されていた。ルルティアの仕業か? いや、俺の店には強力な対魔術障壁が施されている。彼女の能力で破壊は無理だ。灰色熊でも連れてきたのか? そんな馬鹿な。
無残な扉の残骸を乗り越えて店内を覗いてみたが、人の気配は無い。意味が分からない。何が起きたのか理解できない。とにかくルルティアを探すのが先決だ。
通りに転がっていた吊黒板を拾い上げ「*休憩中*」を消して「*修理中*」に書き換えて、扉の残骸の上に置いた。これで良し。いや、全然良く無い。何かが頭に引っ掛ったが考えるのは得意では無い。
俺は子供の頃に動物園で見た灰色熊のようにグルグル回りながら考えた。もう手がかりは魔導院しかないだろう。俺とルルティアの共通の繋がりは特殊清掃部隊の隊長と黒猫くらいか。よし、あとは走りながら考えよう。
まず、この灰色の外套は何だ? 防火耐熱錬金外套だと? ルルティア自ら試作品のテストか? いや、実験台にされるのは大概、俺だ。自分で考えても理不尽な話だ。それに、何故、あの時間に火事の現場の近くにいた? 何故、ゴミ箱を開けていた? 何故、魔導院の制服を着て学院都市にいた? あの銀色の腕輪は何だ? 俺はルルティアが新しく買った装飾品は必ずチェックしている。あんな腕輪は見た事が無いぞ。何だか偏執的な彼氏みたいだな。考えがまとまらない。ルルティア、考えるのはお前の仕事だろう……どうしちまったんだよ。
日も暮れてきたが、途方にも暮れた。人間は途方に暮れると、ついつい慣れた道を選んでしまうのか、気が付くと俺の店に程近い公園の前を通りかかった。
――――俺、戦士~! お前、僧侶~! え~嫌だよ僧侶~
子供の頃に遊んだ公園。そして、血の海に浮かぶ筏。まただ。また思い出した。もしかしたら、お前が寄ってくるんじゃなくて、俺が求めているのかもな。
緑の多い公園だ。いつもなら素通りだが、つい因縁のあるベンチを目で探していた。公園には誰もいない。この辺りの住人は見物か避難しているのだろう。
「……てよ! ……でしょう!」
悲鳴にも似た甲高い女の声を聞いた気がして、走りながら首だけ巡らした。木陰の奥に二つの人影。薄暗くなってきたので、はっきりと確認出来ないが、手前の人影は錬金術科の制服か? 長いアッシュブラウンの髪。ルルティアか? 女と向かい合うのは見慣れない制服。いや、あれは……
俺は走るのを止めて様子を窺った。言い争うような声が聞こえてくるが、時折吹く風と遠くから聞こえてくる火事の見物客の声で、上手く聞き取れない。
「……って言っているでしょう! ……だから! ……わよ!」
女のヒステリックな怯えた口調。そして予兆も無く噴き上がった火柱が制服の女を飲み込んだ。




