第61話 武器屋の日常 ハードボイルド劇場
この季節はまだ、扉を解放しても屋内と外気の差はそれほど変わらない。今日は風も穏やかだ。扉を開け放しても店内に砂埃が入る心配をしなくて良いだろう。
一昨日の夜に害虫駆除の燻蒸剤を焚いたばかりだ。説明書によれば人体に影響は無いらしいのだが、気分的には換気したい。ついでに掃除でもしておくかな。
「はぁーい、カース。お元気ぃ?」
「らっしゃい。あぁ、ディミータさん。頼まれてたの入荷してるよ」
手に持ったばかりの箒を壁に立てかけて、来客にカウンターの前の椅子を勧めた。
ディミータは猫のような、まあ人猫族だから当然だが、しなやかな動きで、するりと椅子に収まった。
黒猫のような女、ディミータは「獣人族」だ。ピンっと立った猫耳は、カチューシャでは無く本物の耳だ。ゆらゆら揺れる長い尻尾も飾りの類では無い。
学院都市には人間族以外にも多様な種族が生活している。獣人族は、人間族と生活様式が似ているので共存しやすい。
獣人族には「獣化深度」という、どれほどベースになっている獣に近いかを表す言葉がある。人間族に近いほど「獣化深度が浅い」といい、獣に近いほど「獣化深度が深い」という。俺の見立てでは、ディミータは猫が三割、人が七割といったところか。
「なんか飲みます?」
「コーヒーいただける? ウチの研究主任が、ここのコーヒーが美味しいって言ってたよ」
あのメガネ……。褒められるのは嬉しいが、ウチは喫茶店じゃ無いっての。でも、律儀にコーヒーを淹れてやる俺って紳士だよね。
俺は一日に五杯は飲む程の珈琲党だ。コーヒーには拘るぜ。今日は、挽いてもらったばかりの「ノムマン」の良い粉がある。大陸南部の山岳地帯に住むノーム族が丹精込めて育てたノームズ・マウンテン、略してノムマンは大陸全土のコーヒー好きからの絶大な支持を集める。
「ちょっと待ってて下さいね」
カウンター裏の休憩所・兼倉庫・兼リビングに入り、コーヒーを淹れる準備をする。コーヒー粉の入った缶を開けると、芳醇な香りが鼻を鼻孔をくすぐった。
豆から挽くのはさすがに手間なので、婆ちゃんの代から世話になってる喫茶店で焙煎からお願いしている。ちなみにミディアムロースト・中挽きだ。
ノムマンは酸味と苦味のバランスが良く、爽やかな風味の奥に豊かなコクを感じる最高級豆だ。こんな良い物を無料で客に出すなんて、自分で言うのも何だが大サービスだ。だが俺は、自分が良いと思った物しか客に出さない主義だ。それがロングソードだろうがコーヒーだろうがね。
「さて、と」
棚から来客用マグと俺の愛用マグを取り出す。どちらも「フレイムキング」のヴィンテージマグだ。肉厚で重厚だが、カラフルで優しい風合いのマグカップは意外に女性にも人気がある。あの偏屈メガネのルルティアですらも翡翠色のマグカップを気に入って、コーヒーを飲む時には翡翠色のを指定してくる。マグの値段を教えてやったらコーヒー噴いていたな。
フィルターの上にノムマンの粉を入れると、何とも言えない香気が立ち昇る。たっぷりと粉を入れ軽く均す。そして保温性抜群の錬金魔法瓶から九〇度に設定した熱湯を粉の上に注ぐ。この時に湯を注ぐコツはだな……
「ねぇ、まだぁ」
「うっ、うるさいな! 人の厚意に催促するとは何様だっ!」
なんだってウチの店に来る女ってのは、こう、奥ゆかしさ? 慎み? 恥じらいみたいなモンに欠けてんだ? 恥じらいは関係無いか。
粉を蒸らしている間に「投げナイフ」が満載の、ずっしりと重たい木箱をディミータの前に置いた。
「ほい、注文の品ですよ。コーヒー淹れてる間に中味を確認しておいて」
さあ、蒸らした粉の上に追加の湯を注がねば。俺は急いで休憩室に戻った。
「三十五、三十六、三十七……」
ナイフの本数を数えるディミータの声が聞こえる。注文のスローイングナイフの本数は百二十本。彼女のナイフ捌きを見た事があるが、これだけの本数のスローイングナイフを使って、どの様な戦い方をするのか興味が湧く。敵に回したらさぞかし危険な相手だろう。
「はい、コーヒーお待たせ」
二つのマグカップを乗せたトレイをカウンターの上に置くと、ディミータが難しい顔をして首を捻っていた。
「あれ? 一本足りない?」
「その手に持ってるナイフは数に入れましたか?」
「あら……うふふ」
ディミータは照れ隠しなのか、ナイフをクルクルと器用に回してカウンターに置き、マグカップを手に取った。
「ブラックで良いのですか?」
「ブラックが良いわ」
彼女らしい選択だ。余計な物は要らない。それが大人の選択。
「いただくわ」
ディミータは紅を引いた唇をマグカップに押し付けた。
ミステリアスな美女とカウンター越しに向き合う。女の前にはナイフ。店内に漂うは珈琲と危険の香り。
……イイね、この雰囲気! ロリコンだの変態だの、どうも近頃、俺のキャラが不本意な方向に転がり始めていたところだ。
だが、どうだ。この風! この肌触りこそハードボイルドよ!
俺は長年連れ添った相棒に口を寄せた。黒みを帯びた褐色の液体が、乾き切った心と身体に染み込んでいく。
珈琲の苦味は人生のそれに似ている、と誰かが言ったな。
マグカップから視線を上げると、物憂げな顔をした美女と視線が絡んだ。
「……私」
妖艶な唇から時折垣間見える八重歯が、彼女の大人びた美貌に意外な幼さを与えている。
「私……ごめんなさい……」
潤んだ金色の瞳が、俺の荒んだ心臓を射抜く。
女の唇から漏れた一言。それは――――
「こんなに熱いの飲めないにゃ~」
ディミータさん、台無しだ。
俺のハードボイルド劇場は三十秒で幕を下ろした。
「熱いうちのが美味いから、ふーふーして飲んで下さい」
マグカップを両手に持ち、一生懸命ふ~ふ~してる黒猫の姿に、ちょっと心が揺らぐ。その姿をニヤニヤしながら眺める俺。いや、俺は猫が好きなだけだ。