第51話 どちらを選ぶの?
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私は、カイラルとアスベルと共に、街の酒場で食事をした時の出来事を思い出していた。
「なぁなぁなぁ! これ見てくれよ」
アスベルが取り出したのは美しい宝石があしらわれた赤い短刀。だが、そのギラギラした不吉な輝きが私の不安を掻きたてる。
「シケた武器屋で手に入れたんだけど、なかなか良いだろ? 思ったよりも安かったんだぜ」
そう言って笑ったアスベルが、クルクルと短刀を回し弄ぶ。
赤い宝石の輝きが私の目を射る。柄どころか峰まで赤く、なんとも気味の悪い短刀だ。
「おい、アスベル。食事中になんだ。ネスが怖がっているだろうが」
分厚いステーキにナイフを入れていたカイラルが、食事マナーの悪い弟を窘める。
だが、アスベルはかえって面白がって、赤い短刀を右に左に持ち換える。見事な手捌きだ。生命を持った赤い短刀がアスベルの両手の間を飛び回っているようにも見える。
「いやいや、これが凄いんだよ。いいかい? 見てろよ」
軽く刃を当てただけで、皿の上の肉の塊に切れ目が入る。不気味なくらいに切れ味の鋭い短刀だ。
「どうだ? なかなかの切れ味だろ? これをだなぁ……」
何を思ったか!?
アスベルが己の側頭部に短刀を突き立てた! 噴き出した血飛沫が辺りに飛び散る!
「あが……ががが……ぐおぁ」
痙攣するアスベルが白目をグルリと剥いた!
「い――――イヤァァァア!」
ビクビクと痙攣を続けていたアスベルが、やがて動かなくなった。
汗が、涙が、震えが止まらない。私は膝が砕けて、そのまま床にへたり込んでしまった。
「……あ、ゴメン。やり過ぎた?」
気の抜けた呑気な声が聞こえた。
死んだはずのアスベルがムックリと体を起こして、赤い短刀の刃先をピコピコ押した。押した分だけ刃がピコピコと柄に引っ込むのが見て取れた。
「これ、刃は本物だけど、刃先は潰してあんの。で、刃が柄に引っ込む仕組み」
「ひっ、ひぐっ、血……血は……?」
「え。マジで泣いてんの? こ、これはね、押した分だけ柄から赤インクが出てくる仕組みなんでぇ〜す。てへっ」
「ひっく……うぅうう、うううぅ」
「アスベル……貴様ァ……」
「あ、兄ィ……これは、その……あの、てへっ」
カイラルが見事な背負い投げを決め、倒れたアスベルに馬乗りになった。
「あ、兄ィ、その、あの、ウゴッ! 止めて! ゴッ! やめっ、ガゴッ! すいませっ!」
私は驚きと安堵で混ぜこぜになった感情に翻弄されて、どうにも涙が止まらなかった。
*****
なにか、よくないものがきた。
なにか、よくないことがおきた。
アスベルの胸から細長い刃物が飛び出したのを見て、彼の手品に驚かされたことを思い出した。
これはまた趣味の悪い手品道具か? だが、頰に飛んだ返り血の生温かさに、これは冗談の類では無いと瞬時に悟った。
アスベルは崩れるように床に膝を突き、前のめりに倒れ伏した。私は膝を突いたまま身体を投げ出し、その場を離れた。
アスベルを除いたパーティ全員が、丸太の様に無様に倒れた仲間を見つめ、それから天井からぶら下がる、それに釘付けになった。
緑と橙の縞模様の派手な道化服。巨大な鎌を持った道化師。アスベルの胸を鎧ごと貫いた刃物は鎌の切っ先。
奇怪な道化師は、天井から一回転して床に降り立った。
「カイラル、指示を! 迎撃するのか!」
アスベルな己の血溜まりに倒れ伏し、ピクリとも動かない。あれだけの出血では、今すぐに救命措置を施しても助からないかも知れない。
道化師がゆっくりと顔を巡らす。仮面のような顔。いや、仮面なのか。目は三日月のように弧を描き、笑っているようにも見え、叫んでいるようにも見える。あの敵はいけない。私の本能が最大級の危険を警告している。
「カイラル! 早く指示を……カイラル?」
カイラルは、うつ伏せに倒れた弟の傍で座りこんでいた。その無防備な首筋を収穫の鎌が薙ぐ。
「い、い、い、いや、いあぁあぁぁぁ!」
室内に響き渡るミュラの悲鳴。
前衛は私を除いて壊滅した。
この道化師は、私たちが今まで遭遇した敵とは桁違いの強敵だ。人喰い鬼なんて比較にならない。
「ソカリス、撤退だ! このままでは全滅する!」
サブリーダの魔術師ソカリスに向かって叫んだ。エルフの魔術師は答える代わりに攻撃魔術の準備に入った。
ソカリスの持つ杖の先が青白く輝く。
放電を繰り返す球体が杖の先に宿る。
人喰鬼の弓兵を撃った激烈な雷電。あれなら如何に道化師が素早くとも直撃は避けられないだろう。閃光に紛れて撤退するのが最善だ。
青白い放電が激しさを増す。
抱える程の大きさに成長した雷球。
ソカリスが雷球を宿した杖を道化師に向けた瞬間、大鎌が伸びた。
届きえない距離からの一撃。道化師の腕が伸びたのか、大鎌の柄が、刃が伸びたのか、私の目では捉え切れなかった。
ソカリスの杖が二つに分断された。杖が分断されたのと同じ角度で、杖の持ち主も二つに分断された。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだあぁぁ!」
絶叫が部屋に反響する。そして、すぐに静かになった。
修道衣に似た制服が、人の形をした布が床に広がっている。床に落ちた白い手袋が、白いディンプルがじわじわと赤く染まっていく。
――――ここから逃げろ。一刻も早く。
本能が警告する。ルルモニだけでも連れて逃げなくては。ルルモニ、どこにいる?
床に視線を巡らすと、倒れた仲間たちの躯の中に壁に背を預け、赤黒い水溜りの中に座り込んでいるルルモニを見つけた。
「ルルモニ! 逃げるんだ!」
ぽかんと天井を見上げたまま身動きしないルルモニに、道化師が巨大な鎌を振り上げる。
私に背を向けたな……道化師のいる位置は四つ角の隅。奴が攻撃を避けるスペースは無い。
許さない。私の仲間をよくも。
私の大切な仲間たちをよくも。
絶対に許さない。
絶対に敵を取る。
私はドラゴン・トゥースの発動姿勢を取った。奴に避けるスペースは無い。一撃で殺してやる。
両手で鋼の槍の柄を握る。
憎しみを柄に。怒りは穂先に。
「喰らえぇぇい!」
道化師に向けて必殺の突撃を放つ。私は一筋の槍になった。だが、穂先が敵の背を捉えたと思った瞬間、道化師の上半身だけがこちらを向いた。
掬い上げるような一閃!
ひゅん、と空気を裂く音が後から聞こえた。
咄嗟に鎌の一撃を受け止めたが、槍ごと両腕が跳ね上げられた。
両肘に感じた事の無い激烈な痛み。
突撃姿勢のまま、前につんのめった私に襲い来る強烈な反撃。
大鎌の柄頭で強烈に胸を突かれ、回避行動を取る事も出来ず、反対側の壁まで吹き飛ばされ、土壁に叩きつけられる。
凹み、ひしゃげる胸鎧。胸郭からパキペキと乾いた音。オーガロードの正拳など比では無い破壊力に気が遠くなる。
「くっ……肋骨が」
胸に激痛が走る。膝に力が入らず、壁を背にへたりこんでしまう。
まだだ! まだ私は戦える!
敵を取れ。わたし、立て! 仲間の無念を晴らせよ!
地面に手を突き、立ち上がろうとしたが、どうしても上手くいかずに倒れ込んでしまう。
もがく。這いずる。腕に力が入らない。違う。何かがおかしい。
道化師が近づいてきた。その右手には収穫の鎌。左手には私の槍。
道化師は私の前に立った。恭しく一礼をして、這いずる私の目の前に、そっと槍を置いた。
半ばから折れ曲がった鋼の槍。
それを握る私の手。
なぜそこに私の腕が。
――――限りない恐怖感
――――限りない絶望感
――――限りない喪失感
長く続く絶叫が、自分の喉から出ていると気が付いたのは、しばらくしてからだった。
もう立ち上がれない。
ルルモニの鎧は私を護ったのに。
私は何も護れかった。
自分の命さえも。
「あらあら。なんで地下四階の主がこんなところに」
女の声。それを合図に複数の制服姿が部屋に飛び込んで来た。うつ伏せに倒れ、辛うじて頭だけ上げた私には、男女の区別すらつかない。
「警報の罠か。ついてなかったねぇ」
聞き覚えのある女の声。どこかで。
「全員散開! 油断するなよ、強敵だ」
女の号令に仮面の戦士たちが無言で頷く。彼らは瞬時に戦闘態勢を取った。
「バックラー! 前に出て動きを封じろ! ナックルは右から! バガテル援護しろ!」
小柄だが鋼のような肉体の戦士が道化師に接近する。両腕に装備した丸い小型の盾を前方に突き出す。
道化師が素早く反応し、大鎌が小柄な戦士を襲った。
金属が激しく擦れあう音。
盾が大鎌を弾く。
大きくバランスを崩した道化師に、両腕に手甲を装備した男が飛びかかる。
鋼鉄の腕で、道化師の腹に強烈な右フックを叩き込む。
身体を、くの字に折り曲げて吹き飛ぶ道化師。
だが、吹き飛ぶ瞬間に大鎌が男の胴体を薙いだ。悲鳴を上げることも無く、男の身体が二つに分断された。
「ナックルが殺られた! 畜生!」
巨大な弓を担いだ男が吐き捨てるように叫ぶ。構えた巨大な弓は両端に滑車が付き、何重にも弦が張られた奇妙な弓。男が化合弓を道化師に向けた。間髪入れずに、まるで投槍のような矢が放たれた。
――空気を抉るような射出音。
凄まじい勢いで放たれた矢は道化師の脇腹を貫く。勢いのまま壁に突き刺さり、道化師を土壁に釘付けにした。形容出来ない人外の呻き声が耳を打つ。
「うふふ、上出来よぅ」
黒い猫科の動物のような雰囲気の女が、踊るようなステップで間合いを詰める。鞭のような尾が揺れる。
その両手には投げナイフ。ひらひらと手を動かすたびに手品のようにナイフが現れて、消えていく。
黒猫が道化師に近づくたびに、手にしたナイフは現れては消え、身動きの取れない道化師の身体に次々とナイフが突き立っていく。
呻き、苦しげに身をよじる道化師が、脱皮するかのようの道化服から抜け出た。大量のナイフが床に散らばる。
全身から濃褐色の液体を滴らせた裸の身体には数えきれないほどの仮面が張り付き、それぞれの仮面が苦悶の叫びを上げている。あまりの悍ましさに吐き気が込み上げる。
「うふふ、面白い芸ねえ」
手負いとは思えぬスピードで裸の怪物は、壁を、天井を走り通路の暗闇の先へ逃げていった。怨嗟の声が暗闇に木霊する。
「ディミータ、追うか?」
「必要ない。掃除が終われば、ここの仕事は終わりだ。他の場所を掃除に来たのに仕事増えちゃったなあ」
「ナックルが死んじまった。遺体はどうする?」
「奴はもう十分戦った。地上に連れて帰ってやろう。さて」
ディミータと呼ばれた女が、地面に転がる私に近づいてくる。
もう、かなりの量の血を失った。痛みは薄れ、寒気だけが酷くなる。震えが止まらない。
「お久しぶり。お姉さんの事、覚えてる?」
「……壁地図の……ところで」
「覚えてた? 嬉しいわぁ。ところで可愛いダークエルフちゃん。あなた、このままだと死ぬわ。そうなると荷物が増えて面倒なの」
「なにが……いいたい」
「私の物になりなさい。それか、死んで荷物になれ」
仮面の男たちが、私のパーティの仲間たちを死体袋に詰めていく。
霞んできた目で、かつて仲間であり、友であった遺体を目に焼き付けた。
お調子者のアスベル。私を好いてくれたのか? ありがとう。嬉しいよ。
リーダーのカイラル。貴方には努力を、高みを目指す精神を教わった。尊敬している。
御淑やかなミュラ。私を野獣なんて言ったな。もう許すよ。痛い思いをさせてごめん。
同族のソカリス。君と理解し合えて良かった。君と出会えて私は変わったんだ。
ルルモニ。私の初めての友。大切な親友。私はルルモニを護りきれなかった。
待っていて。私もすぐに逝くから。
「ディミータ、生存者がいるぞ」
「あら。運が良いのか悪いのか。助かるか? 無理ならここで死なせてやれ」
「ノーム族の女生徒だ。治療薬を持っている。これを使えば地上までは持つかもな」
ノーム族の女生徒? ルルモニが生きている?
視界が薄暗くなってきた。ルルモニ、生きていて。
「ねぇ、あなたは生きたいの?」
ルルモニが私に向かって手を伸ばしている。遠い、遠すぎるよ。
「ねぇ、あなたは死にたいの?」
ぽろぽろと小さな手から何かが零れ落ちる。
ごめん。私にはもう、その飴玉を拾い上げることは出来ないよ。
「ねぇ、あなたは、どちらを選ぶの?」