第37話 紅玉石 燃える炎の石
「お父様、大切な話があります」
父の執務の合間を見計らって相談を持ちかけた。
大きな机に隔てられた父と私の距離感。それは、父と私の心の距離のように感じる。
「どうするのか、決めたのかね」
父は筆を握ったまま、私の顔を見上げた。
冷厳を絵に描いたような父の険しい表情に鼓動が早まる。偉大な郷長の前で、はっきりと意見の言える者は少ない。
「わ、私は、あの、私は……」
「はっきり言いなさい。大切な話なのだろう」
父の低く重たい声。目が回り、軽く吐き気がしてきた。このまま下を向いたら眩暈を起こして倒れてしまいそうだ。
「わ、わた、私、森から出たい……」
何とかそれだけは言えた。
――お父様、私は外の世界を見てみたい!
たった一言。ただ、それだけで良いのに。
郷長は大きく溜息を吐いた。私は父を失望させたみたいだ。そうだろう。姉とは違い、出来の悪い娘なのだ、私は。
「そうか。分かった」
父はそれだけ言うと、机の上に広げた書類に筆を走らせ始めた。
私は一礼して、逃げるように執務室を後にした。
*
特に当ても無いが、とりあえず小屋で暮らす事に決めた。
翻訳を続けた甲斐もあって、私は人間族の言語を殆ど習得することが出来た。一人の生活に慣れたら、人間族の住む街に行ってみよう。六英雄物語にあるような、色んな種族が集まる大きな街に。
だが、このところ六英雄物語を読み進めるのを止めてしまっていた。物語の中盤に差しかかった辺りに、私にとって出会いたくなかった人物が現れたからだ。それはダークエルフの女将軍。
狂王軍の幹部にして、狂王の愛妾。
恐るべき残虐性と悪魔の如き奸智。
闇に魅入られた邪悪な黒いエルフ。
私は生まれながらのダークエルフだったのだ。郷の者たちが私を避け、忌み嫌う理由が分かった。
やっぱり私は、森に居るべきでは無かったんだ。
*
旅立ちの日は、朝から小雨が降り続いていた。
父は所用で昨夜から出かけていた。元より見送りなんて期待していない。
玄関で靴に履き替えていると、床に臥せりがちだった母が、介添の者に支えられて起き出していた。
「お、お母さま?」
靴紐を結ぶ手を止め、振り返って母の顔を見た。
病に侵され、痩せて頬のこけた青白い顔。でも、母はどんなにやつれても美しかった。何故、これほど美しい母から、私のような娘が生まれてしまったのだろう。
「奥様、もう十分でございましょう」
郷の者が、靴紐を手にしゃがみ込んだ私を見下ろして早口に言った。
蔑むような視線には慣れている。気付かない振りをして、やり過ごせば良いだけだ。
母の口が何かを呟くように動いたが、結局は何も言わずに傘を差し出した。
母の頬から涙の雫が零れたのを、私は不思議な物を見るような気持ちで眺めた。
「お母様、長らくお世話になりました。どうか、どうか、お元気で」
私は傘を受け取り、小雨の降る中を駆け出した。振り返りはしなかった。泣き顔を郷の者なんかに見られたく無かったから。
泉から流れる川沿いを歩いた。草の匂い。虫の鳴く声。青葉から落ちる水滴。水面にぽつぽつと絶え間なく浮かんでは消えていく水の輪。
傘は差さなかった。全身に故郷を刻みたかったから。
美しい澄んだ泉よ。
さようなら、お母様。
強い風と共に雨足が強くなってきた。閉じた傘を手に小屋へ急いだ。
ろくに中を確認もせずに扉を開け、小屋の中に飛び込むと、予想もしていなかったことに先客がいた。
私は傘を魚獲りの銛のようにして身構える。
椅子に座り、暖炉に向かって手を翳していた男性が私を振り返った。
「お、お父様? お父様が何故ここに?」
驚きのあまりに上ずった声が出てしまう。
「ここで一晩明かしたのだよ。こうでもしなければ見送りも出来ないからな」
椅子から立ちあがった父が、私の肩に手を乗せる。これから何が始まるのか訳が分からず、身体が固くなるのを感じた。
「ずいぶんと背が伸びたな」
華奢で小柄なエルフ族の中では大柄な父だが、いつの間にか私の背丈は父と同じくらいになっていた。
「女の子にしては上背がありすぎだ。嫁の貰い手に困るやも知れぬ」
軽口を叩く父に驚いた。常に威風堂々と構え、余計な事を口にしないのが郷長の姿。
「お父様は、どうしてこんな所で一晩も過ごされたのですか?」
「郷の者に見られては後々、口うるさい連中が何を噂するか分からぬ。それに大事な話をすると、お前は逃げてしまうからな」
微笑みを浮かべる父。遠い記憶に残る優しい笑顔がそこにあった。
「しかも外は大雨だ。これは実に都合が良い」
くっくっ、と笑う父を前に、私は黙って立っているしかなかった。これから父が何を語るのか。私には見当もつかない。
郷長はテーブルの上に置かれた一冊の本を手に取った。それは六英雄物語。
「これは、私が魔導院という研究機関で学んでいた頃に読んだ本だ。郷に戻った時に、人間族の書いた本は全て処分しなくてはならなかったのだが、これだけはどうしても捨てられなかった」
「申し訳ありません。そんな大切な本を勝手に読んでしまいました」
「いや、良いのだ。お前が読むのを期待して、ここ置いたのだから。お前の好奇心に期待してな」
窓を叩く雨が強さを増す。薄暗い部屋の光源は暖炉の炎だけだった。揺れる炎に合わせて、私と父の影が揺れる。
「……何の為でしょうか。何の為に私にその本を?」
「お前が外の世界に興味を持つ様に」
「私が自分から森を捨てるように仕向けたのですか」
「それは違う。済まなかった。お前には辛い思いをさせた」
父が、エルフの郷の長が深々と頭を下げた。
「お父様! おやめ下さい。郷長が首を垂れるなど。誰かに見られようものなら……」
「郷の者たちの手前、お前を手許に置く為には仕方なかった」
「な、何を今更……」
「許せとは言わぬ。ただ、これだけは信じて欲しい。辛い思いをさせてでも、私は娘を、お前を傍に置いておきたかった」
「では、何故これを、六英雄物語を私に読ませたのですか」
「お前はその本を最後まで読んだか?」
答える代わりに首を降った。その動きに合わせて影が揺れた。
「私は穢れたダークエルフです。森に、泉に、お父様の傍にいてはなりません」
「馬鹿な事を言うな! お前は私の娘だ! 娘が親の傍にいて、何がいけない!? 何がおかしいというのだ!!」
大きな声に、思わず身体が竦んだ。
冷静にして沈着な郷長が怒鳴る姿など、見た事が無い。
「だが、郷の者たちは、お前を悪しき存在と信じて疑わない」
「お父様は……どうお思いなのですか」
「私は魔導院にいた。そこは大陸中の叡智が集まる場所だ。私は伝承に残る様なダークエルフなど存在しないと確信している」
「では教えて下さい! 私は何者ですか! 何でこんな、こんなの……こんな肌……こんな色、こんなの嫌なのに!」
私は胸元に両手を広げ、浅黒い両掌を見つめた。
広げた掌に涙がポツポツ落ちる。私はその手で顔を覆った。
「お前を受け入れるには森は頑なすぎる。森は深いが狭すぎる」
父は、子供の頃にしてくれたみたいに私を抱きしめてくれた。強く、優しく。
「お前は紅玉石、燃える炎の石だ。森は炎を抱けない」
父は私から体を離し、強いが優しい口調で言った。小さな子供に言い聞かせるように。
「行きなさい。そして見てきなさい、この世界を。その広さはお前を受け入れるだろう。北に向かいなさい。そこには魔導院がある。そこで世界を学びなさい」
雨は止んだ。
私は森を出る。
「お父様、私は行きます。行って学びます。自分が何者かを知る為に」
そして向おう、北へ。
さようなら、深大なる森よ。
ありがとう。お父様。