第202話 さよなら、ルルティア
「ヴォオオォォ! タカガ人間ガ……タカガ人間ゴトキガァアア!!」
「諦めな、アッシュ。いつの時代もドラゴンを退治すんのは、たかが人間如きなんだ」
白一色に塗りつぶされた空間の中心に発生した強烈な輝きを放つ球体が、辺りに散らばった瓦礫や夥しい鎖の破片ごとドラゴンの巨体を吸い込み始めた。そして、立ち上がる力すら残っていない俺の身体も、為す術も無く引き寄せられるしかなかった。
「グゴォオオオォォォ――――!!」
すでに身体の半分近くを光球に喰われかけたドラゴンが、断末魔の叫びを上げる。だが、破壊の現象はそれで終わりではない。喰うだけ喰った後、飽和状態に陥った魔力の塊は外に向かって弾け飛ぶ。
「リサデル!! ルルティア!!」
俺は光球へと引き摺り込まれながらも、ルルティアとリサデルの姿を探した。かなり離れたつもりだったが、やがて起こる破滅の奔流に彼女たちが巻き込まれない保証なんてどこにも無い。
「……何だ、あれ?」
何もかもが白っぽく見える視界の片隅に、やたらと存在感のある灰色の塊が転がっていた。眩しさに目を細めながら注視すると、それは光を跳ね返す鈍色をした鎖の繭だった。
「ははっ! さすがはルルティアだ」
魔導院の誇る最高の錬金術師が作った鎖の結界ならば、これから始まる破壊の嵐にも耐え切る事が出来るだろう。
ふと、口元が緩むのを感じた。こんな極限的状況でも最適な判断を下せる冷静な頭脳……ルルティア、やっぱりお前は凄いなぁ。そんな女に惚れられたなんて、俺の人生も満更でもなかったな。
腰に下げていた『鋼玉石の剣』が狂ったように暴れ出した。ご先祖さん、悪いけど一族の悲願は果たせそうに無いわ。まぁ多分、親戚の内の誰かが俺の跡を引き継いでくれると思うよ。
「……始まったか」
ドラゴンをすっかり飲み込んだ光球が不規則に明滅を始める。だけども俺は、不思議と穏やかな気持ちでその輝きを眺めていた。こんな時、煙草を吸う奴は最後の一服なんてのを堪能するんだろうな。
俺は煙草吸いがそうするように深く、深く息を吐いてみた。そして、ゆっくりと息を吐き切ったその時、光球の放つ輝きを遮るようにして飛び込んで来た人影に、俺は息の根が止まるかとさえ思った。
「ば、馬鹿野郎!! お前、なんのつもりだ!!」
光球を背にした彼女の姿は、まるで太陽から降りてきた女神にさえ見えた。
「おめでとう。これで貴方は文句無しの『竜殺しの英雄』よ。他の誰でも無い、この私が証明してあげる」
嬉しそうに祝福を告げたルルティアは、それこそ女神のような微笑みを向けてきた。
「ルルティア……お前……」
眩いばかりだった世界が暗転した。そして、数千発の落雷が一度に落ちてきたような破壊音が、真っ暗になった世界に鳴り響いた。
「――――っ! 来るぞ!」
魔導塔がボッキリ折れちまうんじゃないかと思うほどの振動に、御陵邸の正門を吹き飛ばした『核撃』の猛威が記憶の底から蘇る。次に襲い来るのは、全てを粉砕する振動波だ。
「ルルティア! 伏せろ!!」
俺はルルティアの頭を引っ掴んで抱え込み、その上に覆い被さった。
どれくらいそうしていたのだろう。自分の荒い呼吸音の他に、聞こえる音は何一つ無い。
恐る恐る顔を上げると、薄暗いながらも頭の上を何かが覆っているのが見えた。首を巡らせてみると、それはドーム状に展開された、鎖でもって織られた天幕だと気が付いた。鎖で出来たテントみたいなモンか?
「何とも……無い、のか?」
細かな編目の隙間から外の様子を窺ってみたが、極端な明暗に曝された目は、思うように働いてくれない。リサデルは無事だろうか?
「ねえ、他の女の事を考えてるでしょ?」
不機嫌そうな女の声に、俺はようやくルルティアを抱き締めたままだった事に気が付いた。慌ててその身体を横たえようとすると、ルルティアは「このままが良いの」と甘えた声を上げて子供の様にしがみ付いてきた。
「お願い。今は私だけを見て。私の事だけ考えて」
「アホか。ンな事、言ってる場合じゃ無いだろ」
尚も絡みついてこようとするルルティアを引き剥がそうとしたが、その異様なくらいに冷たい、金属的な感触に手が止まった。
「お前、どうしたんだよ、その身体……」
黒いワンピースの隙間から覗く身体の上を、銀色の蛇が這い回っているのかと思った。
乱れた胸元を整えるルルティアの手が、鎖で編まれた手袋に覆われているようにも見えた。
「はっはぁ〜ん、分かったぞ。それ、新手の錬金術だろ?」
わざと明るい声色で訊いてみた。そうでもしないと平静ではいられなかった。柔らかだった肢体の殆どが、冷たい鎖の束に変わり果てていたからだ。それなのにルルティアは、女神の微笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「これは錬金術では無くて、失われた古代魔法よ。術者の身体を代償に捧げ、『非破壊の鉄鎖』に変換するの」
「へえ、何か良く分からんけど、何か凄いな。で、すぐ元通りになるんだろ?」
「さあ? 戻す方法はあるのかも知れないけど、私の研究はそこまで辿り着いていないわ」
「お、お前……それって一体、どういう意味だよ?」
「どういう意味って、貴方とこうしていられるのも、あとちょっと、って意味」
ルルティアは俺の顔を見上げながら、「あとちょっと」と悪戯っぽくウィンクした。
「お、お前、なに言ってんだよ!? ばっ、馬鹿じゃねえのか!?」
「悲観する事ではないわ。だって私、ダメになっちゃった身体を鎖に置き換える事で、ここまで永らえてきたのだもの」
ワンピースの袖から伸びた鎖が、ジャラジャラと音を立てて俺の頬を撫でた。
「血の通わなくなった私の手足は、指先から順に腐ってしまったの。今まで錬金製人工皮膚で誤魔化していたのだけど、貴方って鈍感だから気付かなかったでしょ?」
「はっ……ははは! 分かったぞ。お、お前、俺をからかってんだろ?」
「足から腰、それからお腹。もう、この辺りまでダメになっちゃった」
「こっ、この期に及んでその手にゃ乗らねっての。なあ、そうだよなぁ……そうだよなあ!!」
他人事みたいに語るルルティアに、怒れば良いのか笑えば良いのか、どうしたら良いのか分からない。大体、この女はいつだってそうだ。また俺をからかって、心のどっかでクスクス笑ってんだろ?
「心配を掛けてごめんね。ねえ……そんな顔しないで」
俺はいま、どんな顔をしているんだろう。
俺はいま、どんな言葉を掛けるのが正しいのだろう。
持て余した手でルルティアの身体を撫でると、生身の身体では有り得ない感触が伝わってきた。
「もったいねぇよな。あんなに綺麗だったのに」
結局、俺はそんな事しか口に出来ないのか。自分の気の利かなさが本当にイヤになる。なのに、ルルティアは顔を真っ赤にして、見た事が無いくらいに嬉しそうに笑った。
「そんな風に見てくれていたの? じゃあ、もっと勇気出して誘惑すれば良かった? 頑張ったら、一度くらいは愛してくれた?」
「アホか。なに馬鹿なこと言ってんだよ」
「キレイを磨けば振り向いてくれると思ってたのにな……でも、貴方って絶望的にロリコンだし」
「ロリコン違うわ! しかも、”絶望的に”って何だよ!?」
そうだった……いつだって、俺とルルティアはこんな風にして過ごしていたはずだった。
いつの間に、どうしてこんなに酷い事になっちまったんだろう。
「そうね。貴方って、いつまで経っても幼女趣味が抜けないから、リサデルみたいな小柄で愛らしい女性がタイプなんでしょ?」
「だから! 俺は歳下の女性が好みなだけであって、決して小っさい女の子が嫌いなんじゃなくて! ってアレ? 俺、なに言ってんだ?」
こうして顔を見合わせて笑いあっている間にも、青灰色の瞳からは輝きが失われていった。
話し疲れたのだろう、ルルティアは満足そうに大きく息を吐いた。
「ねえ……私って『銀髪の剣士』を護って死んだ『赤き魔女』みたいじゃない? 大スキな人を護りながら逝くなんてステキじゃない?」
「待ってくれ、ルルティア。待ってくれよ」
「でも油断しないでね。貴方には最後の戦いが待っているんだから」
このまま穏やかに逝かせてやりたい。楽しかった日々の思い出を抱きながら、彼女の終りを見届けたい。でも、それじゃ駄目なんだ。
彼女の望んだ世界、彼女の描いた未来がどんな形をしていようとも、俺は受け入れなくてはならない。
「……教えてくれ。お前の計画ってのは何だ」
「私の計画? だから貴方をドラゴン退治の英雄に……」
「違う。お前はまだ何かを隠している」
光を失いつつあったルルティアの瞳が、一瞬、凄惨な光を放った。
背筋にゾクリとした物が伝う。もしかしたら俺は、開けてはいけない箱を無理やり抉じ開けようとしているんじゃないか? そんな気持ちにさえなった。
「ディミータが何か言ったのね」
「シンプルで合理的で……愛に満ちた計画だと」
ルルティアは眼鏡の奥の瞳を閉じて、小さく息を吐いた。
「ディミータったら……諜報員のくせして口が軽いのは困るわ」
「そうじゃない。ディミータさんは、お前が自分の口で語るように仕向けたんだ」
「そう……でも、私の計画を知ったら、きっと貴方は私をキライになっちゃう」
ルルティアは苦しげに眉を寄せた。俺だって本当は、彼女を追いつめるような事はしたくない。
「約束する」
だから、俺は断言した。
「何があっても、俺はお前を嫌いにならない」
「絶対に?」
「ああ、絶対に」
血の気を失い、ひび割れた唇が微かに綻んだ。
「分かったわ……一度しか言えないだろうから、良く聞いていてね」
強く頷いて見せると、ルルティアは穏やかな口ぶりで話し始めた。
「北部紛争が無くとも、遅かれ早かれ山王都と海王都の激突は必至だったわ。だけど、その抑止力たる魔導院は……それを束ねるはずの長老会議は沈黙を保っていた」
ルルティアは長老会議の変質を見抜いていなかったのか? だが、俺は口を挟まずに黙っている事にした。
「それなのに、アイザック博士からは錬金兵器の開発ばかり命じられたの。本当にイヤだったわ。だって、私のやりたかった事は兵器の開発じゃなくて、世界を変えるような大発明をすることだもの」
「ああ、そうだったよな」
「でもね、リサデルやルルモニ、それに『錬金仕掛けの騎士団』を護る為の防衛兵器を作るんだ、そう考えて取り組んでいた錬金兵器の研究が、錬金人形の開発に繋がったの」
「それが『琺瑯質の瞳の乙女』か」
あの日、店に送られてきたリサデルに似せた人型掃除機を思い出した。
「ええ。そして私はオリンピアでもって、どうしたら世界を変革する事が出来るのかって考えたの」
「世界の変革? また、大袈裟だな」
「私ね、前から自分が致命的な病気に罹っていると悟っていたわ。だから、残り少ない命でもって、どうしたらこの大キライな世界を変えられるのか、それだけを必死で考えた」
ルルティアの口調は異様な熱を帯び始めた。それは、消えかけた蝋燭の芯が放つ、最後の赤い輝きを思わせた。
「錬金術の発展により人間族はますます繁栄するでしょうね。だけど、それは大陸の人口バランスを著しく崩す事になる。私の計算ではこれから十年以内に深刻な食糧難が起こるわ。そうなると、何が始まると思う?」
「……戦争か」
「そうね。しかも、それは欲を満たす為の醜い争い。私の憧れた”英雄たちの戦争”とは違うわ」
「ルルティア、お前は何を仕組んだんだ?」
「思い付いちゃったの。増えすぎた人間族に対する新たな脅威を。狂王やドラゴンに代わる、新たな敵を」
「まさか、オリンピアを……」
「オリンピアだけでは無いわ。私が死んだら全ての錬金人形たちに『最終命令』が発信されるように設定してあるの」
「ラスト……オーダーだと?」
「私が死亡した時に下される命令、それは――――」
――――マスターが死亡した場合、最終命令が発動するよう設定されて……
スワンソングの一言が耳に蘇る。
「人間族の抹殺」
俺はいま、胸に抱いているのが哀れな死にゆく女では無く、美しい姿をした怪物なのだと悟った。
「お前……なんて事を……」
「安心して。この腕輪をしている者は、錬金人形の攻撃対象にならないの」
突然、手首を襲った冷気に心が凍りつく。幾筋もの細い鎖が、俺の右腕に嵌められた銀のバングルに触れていた。愛おしげなその動きは、まるでルルティアが撫で、慈しんでいるようだった。
「貴方とリサデルは共に手を取って、人間族の敵となった錬金人形と戦うの。貴方が新たな英雄物語の主役になるのよ」
ルルティアはうっとりとした表情で俺を見た。その瞼は半分落ちかけ、美しかった瞳は膜がかかったように濁り始めていた。
「ああ……なんてステキなの。大スキな貴方が本物の英雄になるなんて、夢……みたい」
”癒されない孤独”と”迫り寄る死”への恐怖。それが彼女を蝕む呪いの正体だ。それなのに俺は、無責任に彼女を救い上げたくせに、餌も愛情も与えずにルルティアが怪物になるまで放っておいた……ここまで彼女を追いこんだのは他でも無い、この俺なんだ。
「すまなかった。こんなになるまでお前を放ったらかして。俺が……悪かったんだ」
長い睫毛に隠された瞳から、滑らかな頬にかけて一筋の涙が伝う。
その涙を拭い取ってやる事しか、彼女にしてやれる事は無い。
「お願い、キライにならないで。わたしを……キライに、ならない、で」
「約束しただろ。俺はお前を絶対に嫌いにならないって」
「うれ、うれし……い」
「もういいよ、ルルティア。いいからもう喋んな」
ルルティアの呼吸が短く、荒くなる。俺は、それでも無理に話を続けようとするルルティアを制しようとしたが、彼女は驚くほど明瞭な声で訴えかけてきた。
「ねえ、最後のお願い。”あれ”見せてよ」
「”あれ”って何だよ?」
「ほら、”その呪いを粉砕する!”って」
「……見せモンじゃねっての」
苦笑いしつつルルティアを横たえ、『鋼玉石の剣』を取り出して発動させる。すると、揺らめく炎が刃の形を取った。
「狭いから、あんまり派手にはやらないぞ」
やれと言われると、意外に気恥ずかしいモンだ。それでも俺はそれっぽいポーズでもって、コランダムを振り上げた。燃え上がる炎が、一時だけ鎖のドーム内を明るく照らし出す。
久々に明るい所で見たルルティアは、とても死に向かっているとは思えないほど穏やかな微笑を浮かべていた。
「うふふっ、カッコイイよ」
それは、店のカウンターでコーヒーを飲みつつ、俺のバカ話に付き合う時と同じ……
それは、俺とルルモニの、まるでコントのような掛け合いを眺めている時と同じ……
それは、俺とシンナバルが、ネフティスにお説教を喰らうのを見ている時と同じ……
俺は、彼女の笑顔をこんなにも愛していたんだ。
「んじゃ、やるぞ。その呪いを……」
――――ルルティア、お前に掛けられた呪いを
「の、呪いを……俺は、俺はその呪いを――――!!」
――――俺は粉砕してやれなかった
どうしてもコランダムを振り下ろせない俺に向けて、ルルティアは最高で……最後の笑顔を見せてくれた。
「大スキよ。私のソードマスター様」
ざああっ、と鎖のドームが崩れ、俺の全身に細かな鎖の雨が降り注ぐ。
ルルティアが居たはずの場所に目をやると、そこには人の形をした鎖の山と、抜け殻みたいな黒いワンピースが一枚、ただ遺されているだけだった。