第195話 僕はあなたが欲しいんだ
考えるよりも先に身体が動いた。私はアリスが眠る水槽には目もくれずに、ルルティアの身体を庇って身を投げ出していた。
「頭を下げて!」
ルルティアの上に覆いかぶさった私の背中の上を、魔力を孕んだ光の奔流が突き抜けていく。間を置かずに山鳴りのような轟音が聞こえ、天井が崩れて落ちてきた。
叩きつけてくる瓦礫の雨に背中を打たれ、まともに息も吸えない時間が続く。やっと崩落が収まった頃には、私は気を失いかけていた。
「リサデル! しっかりして! お願い、目を開けて!!」
朦朧とする意識の中、呼びかける声が聞こえてきた。どうにかして薄目を開けると、巻き上がった埃に煙る視界の中にルルティアの顔が霞んで見えた。どうやら私は、彼女の胸に抱かれていたようだ。
「ルルティア……良かった無事で」
やっとそれだけ言うと、私の顔を覗き込んでいたルルティアの目に、じわじわと涙が溜まってきた。
「イヤよ、リサデル! 死んじゃイヤ!」
「あはは……大丈夫。まだ死なないわ」
そう嘯いてみたものの、咳をしただけで背中に走る鈍痛に平静を装うだけで精いっぱい。こんな風に身を投げ出して誰かを護るなんて、今までの私の人生にあっただろうか? 私はいつだって、誰かに護ってもらってばっかりだった。
「ねえ、聞いてルルティア」
「リサデル、どこか痛む?」
「ふふっ、痛いのは平気よ」
「じゃあ、どうしたの?」
「私ね、”寮長さん”って呼んでもらった方が嬉しいみたい」
心配させまいと思い強がってみせると、ルルティアは一瞬、泣き笑いのような顔をした。それから彼女は強い決意を秘めた眼差しを背後に向けて、立ち上がった。
私は、この『魔力を帯びた光線』に覚えがある。地下七階で戦った水晶龍が放った光と同じ物だ。だけど、あの金色のドラゴンは地下で撃破したはず。では、今しがた錬金強化されているはずの魔導塔の外壁を、いとも簡単に打ち抜いたのは……?
「あ、あれは……」
崩れた外壁の向こうに、巨大な翼を羽ばたかせた真っ赤なドラゴンが悠然と滞空していた。降りしきる白い雪と灰色に塗りつぶされた空に、その鮮やかな色彩は異物にしか見えない。私はその鮮烈な赤に、常に目の前にあった重装騎士の頼もしい背中を思い出していた。
「よくも寮長さんを……許さない」
赤いドラゴンを前に言葉を失う私の前で、ルルティアは怒りの声を上げると共に、右手を顔の前に掲げた。すると、手首に巻かれたチェーンブレスレットが太い鎖へと姿を変え、床に零れるように増殖し始めた。
「寮長さんはアリスと一緒に逃げて!」
床に伸びた鎖の一本が水槽を強かに打つと、ガシャン! と鋭い破砕音を上げてガラス壁が砕け落ち、水槽を満たしていた治療液が流れ出た。
一気に押し寄せてきた大量の液体とガラスの破片を避けつつ、私は治療用チューブの中に埋もれたアリスの元へと走った。その白い裸体に絡み付いたチューブを引き千切っていると、崩れた壁の向こうから、おどおどした様子でスワンソングが顔を覗かせた。
「スワンソング? 良い所に!」
「これはリサデル様。あの、宜しければ御命令をいただけませんか? 想定に無い緊急事態につき、処理能力が追いつきません」
「お願い。アリスを連れて避難して!」
「はい。かしこまりました」
スワンソングはニッコリと笑い、その薄い肩にアリスの身体を担ぎ上げて「リサデル様もご一緒にいかがですか?」と、ピクニックにでも誘うような緊張感に欠ける声で訊いてきた。
「ルルティアを置いて逃げるなんて私には出来ないわ。ここに残ります」
「そうですか。では失礼いたします」
アリスを担ぎ、ぺこりと頭を下げて退避するスワンソングと入れ替わるように、東洋風の給仕服に身を包んだ少女が崩れた壁を一息に飛び越え、私の傍に立った。
少女は光を反射しない琺瑯質の目で私を見て、「ご指示を」と抑揚の無い口調で呟いた。
「菊花! ルルティアを助けて!!」
私がお願いすると、黒髪の少女はおかっぱ頭をコクリと下げて、牛すら一刀両断にしそうな巨大な穂先をもつ薙刀を片手に駆け出した。
ルルティアが最初に造った『琺瑯質の瞳の乙女たち』のファーストナンバーである『菊花』は、感情面の制御よりも戦闘能力を優先した錬金人形だと聞いている。
「桜花、秋華、来い! 妹たちを集め、襲撃者を撃退しろ!!」
ルルティアの声に、キッカに続いて武器を手にしたオリンピアたちが次々と駆け付けてきた。その間にもドラゴンは大剣のような突き出た角でもって、塔の外壁に空いた穴を押し広げながら研究所の中に乗り込んで来た。
「第五層錬金術・『縛鎖の檻』!!」
ルルティアの腕から伸びた数百本もの鎖が、意志のある生物のようにドラゴンに纏わりつく。思うように身動きが出来なくなったドラゴンが苦しげに吼えると、投槍を手にしたオリンピアたちが、大きく開いた咢の中へと次々に鋼鉄の槍を投げ込み始めた。
「グゴゥオォオオ!!」
口の中を針山のようにしたドラゴンが怒りの咆哮を上げると、竜の全身を拘束していた鎖が弾け飛び、心を持たないはずのオリンピアたちすら動きを止めた。
自由になったドラゴンが一瞬の停滞を突いて横薙ぎに首を振るうと、巻き込まれたオリンピアの何体かが崩れた外壁の向こうへと吹き飛ばされてしまった。
「なんてこと……」
悲鳴も上げずに墜ちていく少女たちの姿に、思わず声が漏れる。
いくら命の無い人形と言えども、さすがに心が痛んだ。それでもキッカは妹たちの犠牲に怯むこと無く、疾風の勢いでドラゴンの首元に飛び込み、体当たりをするように薙刀を突き立てた。その一撃は竜の喉を貫通し、さしものドラゴンも動きを止めた。
「第七層錬金術・『錬金換装』!」
見計らっていたかのようにルルティアが両手を掲げると、千切れた鎖は新たな命令に従い、未知の生物の群れのように集合して何かを形作り始めた。
「我が両腕と成りて命に従え! 『巨神の剛腕』!!」
ギュラギュラと金属音を響かせながら二つの山に分かれた塊は、天井に届くほどの両腕と化してドラゴンに襲い掛かった。
左右からドラゴンに掴みかかる鎖の両腕は、まるで床下に身を沈めた巨人がドラゴンの身体を握り潰そうとしているようにも見えた。
「す、凄い……」
私は初めて見る最高レベルの錬金術に言葉を失った。そもそも錬金術師は、戦闘には向いていない職種のはず。アイテム制作の他には補助的な術技しか持たないので、地下に潜って魔物相手に戦う錬金術師は数少ない。なのに、この戦闘能力はどうした事だろう。これが『魔導院の宝石』、ルルティアの実力なの!?
巨人の両腕がドラゴンの翼を掴み、一気に左右に引きちぎる! 悲鳴に似た吼え声を上げたドラゴンが鋭い牙で噛みついても、鎖の腕は一瞬だけ形が崩れるだけで、何事も無かったのように攻撃を続ける。
「こんなものでは終わらせない……錬金換装!!」
ルルティアは攻撃の手を緩めるつもりは無いらしい。ルルティアの声に従い、腕の形を失った鎖は再び一か所に集まり、今度はより巨大な一本の右腕を作り上げた。
「叩き潰せ! 『巨神の鉄槌』!!」
ちょっとした家ほどの大きさにまで成長した巨腕は、天井を押し崩しつつ、床ごとドラゴンを圧し潰した。
凄まじい光景に足が竦んで動けないでいると、自分の立っている床に亀裂が入った。慌てて無事なフロアを探していると、足元に這ってきた数本の鎖が足場を作ってくれた。
「やったの……?」
鎖で組まれた足場から階下を覗き込んでいると、ドラゴンに止めを刺しに向かったのか、瓦礫の中から立ち昇る砂煙の中へオリンピアたちが飛び降りていくのが見えた。それにしても、あの赤いドラゴンは何だったのだろう? 私は確かに黄金の剣の呪いに当てられ、醜悪な怪物に姿を変えたアッシュをこの目に見た。だけど、あの無残な姿と、まるで絵本から飛び出てきたようなドラゴンの姿は結びつかない。
もうもうと立ち込める土煙の中をどれだけ睨んでも、答えなんて見つからない。諦めてルルティアの姿を探そうとした途端、足元の鎖がぐらついた。
「わわわっ、危ない!」
解けていく鎖の足場から崩落していないフロアに乗り移ると、床に手を突いて苦しげに咳き込むルルティアの姿が目に入った。
「ちょっと! ルルティア!!」
今にも崩れそうな部分を避けて慎重にルルティアの元へ向かうと、大量の鎖が巻き上げられるようにしてルルティアの手元に戻った。それと同時に争うような物音が階下から聞こえてきた。まさか、あれだけの攻撃を受けても、まだドラゴンは健在だというの?
「とにかくこの場を離れなきゃ……」
心の声が口を突いて出た。だけど、学院都市は戦場と化し、足元にはドラゴン。階下に降りたオリンピアたちがどうなったのかも分からないし、アリスやシンナバルは戦える状態じゃない。頼りの『錬金仕掛けの騎士団』は、この場には居ない。一体どうしたらいいの……?
「生命神よ。どうかお導きを」
半ば無意識に神への祈りを口にした時、背後から誰かの手が私の肩に置かれた。逞しくてがっしりしているのに柔らかな掌の感触は、この肌が覚えている。
「アッシュ?」
私は何となく安堵した気持ちで振り返り、そして、あまりの恐怖に悲鳴すら上げる事を忘れた。私の背後に立っていたのは、アッシュに似た、だけどアッシュでは有り得ない恐ろしい姿をした怪物だった。
「どうしたリサデル。そんな顔をして」
「あ、貴方は……アッシュ、なの?」
震える声で尋ねると、怪物は口元だけを歪めて微笑んだ。瞬きをしないアイスグリーンの瞳が、私の頭から足元までを舐めるように見つめていた。
「そうだ。僕はやっと望んでいた姿を手に入れた」
確かに声や外見はアッシュと似ているように思える。だけど、荒縄のように捻じくれた筋肉質の身体を覆う赤い鱗、額から生えた鋭い角や蝙蝠のような翼はまるで……まるでドラゴンのよう。
「王の剣が、貴方にその姿を与えたの?」
「そうだ。この身体こそ、どれほど手を伸ばしても手が届かなかった僕の願望そのものだ」
アッシュの右手に握られた黄金の剣に目をやると、彼は満足そうな顔をして剣を床に突き立てた。剣身から噴き出てくるような濃厚な呪いの気配に、頭の芯に痺れるような痛みが走る。
こんな物をアリスの手に取らせようとしていたなんて。この悍ましい呪物をアリスが手にしていたら、あの子は一体、どんな怪物に姿を変えてしまっていたのだろう。
黄金の剣の正体が何だったのか、ようやく分かった気がする。これは魔陽石の塊。そして、魔陽石とは人々の願いの結晶。だけど、強すぎる願いは呪いと同義。人は死ぬ直前に未練を残す。そして光を求める。だからこそ、『王の剣』はこんなにも強く光り輝く。
「何を震えている? 僕が怖いのか?」
「ええ、怖いわ。その剣が、その剣に込められた想いが」
「この剣が何故『王の剣』と呼ばれているのか、君は知っているか?」
私が無言で首を振ると、アッシュは感情の籠らない口調で続けた。
「一人一人の願いなんて、実にちっぽけな物だ。だが、凝り固まって結晶になるほどの願いは、万人の想いを叶える『王』の存在を求めたのだ」
「アッシュ、貴方は王になりたいの? その剣の力で」
私の問いに、アッシュの顔に表情らしいものが浮かんだ。
「黄金の剣は、願いを叶える願望の器。持ち主に三つの願いを叶えさせる力がある」
「三つの……願い?」
「そうだ。そして、僕には欲しい物があと二つある。だがそれは、出来ることなら剣の力に頼らずに、己の力で手に入れたい」
彼の顔に浮かんだ感情は、私には悲しみに思えた。
「リサデルさん。僕はあなたが欲しいんだ」
「ありがとう。でも、ごめんなさい。私には好きな人がいるんです」
あの人の名前が、自然に口から出ていた。きっとルルティアの耳にも届いているはず。だけど、ここで私の命が終わってしまうとしたら、口にしないと絶対に後悔してしまうと思うから。
「私には、ずっと好きな人がいます……私は今でも彼を愛しているんです」
私は彼の名前を、心の底から愛しているあの人の名を叫んでいた。