第193話 記憶して下さい。彼はこんな風にして生きて来たのです。
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「ルルティア! あなた、何をしているの!?」
アリスの容体を看る為に治療研究室を訪れた私の目に、黒いワンピースに身を包んだルルティアの背と、虚ろな目をしてユラユラと身体を揺らすシンナバルの姿が飛び込んできた。
「あら、寮長さん。どうしたの? そんなに慌てて」
何にも無いような顔をして振り返ったルルティアを押しのけて、私は明らかに正体を失っているシンナバルに駆け寄った。
「シンナバル! どうしたの!? しっかりなさい!!」
「……シン、ナ……バル……?」
肩を揺すり、何度も頬を叩いても彼は「姉さん……姉さん……」と、譫言のように繰り返し、口の端から涎を垂れ流し続けていた。
「何て酷い事を……これは何のつもり!? ルルティア、答えなさい!!」
「何のつもりって? 治療よ」
「治療ですって? これのどこが治療なのよ! あなたがシンナバルに使っていた薬、あれは何の薬なの!!」
「別に大した薬じゃないわ。ちょっとした麻酔薬よ」
「あなたがモニちゃんに作らせていたの、私、見ていたのよ」
「……そう。『錬金仕掛けの腕』を交換するのは苦痛を伴うから、傷みが紛れるように、ね」
」
「あんまり私を見くびらない事ね、ルルティア。材料を見れば何の薬かくらい、私にだって見当は付くわ」
数日前の事だ。浮かない顔で薬の調合をしていたルルモニに声を掛けると、彼女は長い垂耳の先をプルプルさせながら震える声で返事をした。
――――こ、これはだな、ティアにクスリをつくってくれ、っていわれちゃっただけだったりして
ルルモニは額に汗を浮かべ、テーブルの上に視線を這わせたまま顔を上げようともしなかった。
彼女とは長い付き合いだ。馬鹿が付くほどの正直者のルルモニが嘘を吐いているかどうかなんて、声の調子だけでも簡単に分かる。彼女が慌てて隠した薬の材料には、治療者でもある私としては、看過する事の出来ない危険な薬物が混じっていた。
確かに重たい肺病を患うルルティアの薬には、通常では使われる事のない劇薬を極少量だけ利用する事もある。だけど、ルルモニが咄嗟に服の中へと隠した薬草は、精神に影響を及ぼす類の物に見間違いは無かった。しかも彼女は、わざわざ『ルルティアにクスリを作れと言われた』と口を滑らせている。それは、『ルルティアから、何か後ろめたい薬品を作るように依頼された』と白状しているのと同じ事だ。
「モニちゃんが作っていたのは強力な幻覚剤でしょう。そんな危ない物をシンナバルに投与して、あなたは何をするつもりなの!?」
「だから、治療だって言ったじゃない」
魔陽灯の橙を帯びた光が、治療液に満たされた青い水槽に跳ね返り、研究室の壁という壁を緑がかった不気味な色に染めている。私の前に静かに佇むルルティアの痩せた細った美貌が、何か得体の知れない、此の世の物では無い存在のように見えてきた。
「ヴァン、もう疲れたでしょう。控室のベッドで休んでいなさい」
ルルティアが声を掛けると、シンナバルは虚ろな表情のまま、夢遊病者のようなフラフラとした足取りで隣室へと歩み去って行った。あんな快活な少年が、まるで出来の悪い操り人形のように振る舞う姿に、私は憤りよりも深い悲しみを覚えた。
「ルルティア、あなたシンナバルをどうするつもりなの? それに『ヴァン』って、何の事よ?」
ルルティアはすぐには私の問いに応えず、まずは窓から激しい戦闘が繰り広げられている学院都市の様子を窺い、次に水槽の底に沈むアリスの容体を観察していた。
「ちょっと、聞いているの!?」
痺れを切らして更に問いかけようとすると、ルルティアは赤いフレームの眼鏡を指で押し上げてから、「そろそろ全てを話しておかないとね」と、穏やかな笑みを浮かべた。それは本当に久々に見る、ルルティアらしい素直な表情だった。
「寮長さん……いいえ、リサデル。泣いたり怒ったりしないで冷静に聞く、って約束してくれる?」
彼女が私をリサデルと呼ぶ時は、真剣な話をする時だけ。私が決意を持って頷いてみせると、彼女は実に研究者然とした、冷静にして淡々とした口調で話し始めた。
「まずは、あの赤毛の少年の話から始めるわ。最初に断りを入れておくけど、『シンナバル』なんて人間は、この世界には存在していないの」
「さっそく意味が分からないわ。じゃあ、今さっきここに居たのは誰なの?」
「彼の名前はヴァーミリアン。かつて『赤毛の悪魔』と恐れられ、山王都から追われていた殺人狂の賞金首よ」
「じゃあ、私たちと一緒に闘ってくれた、あのシンナバルは?」
「シンナバルとは、ヴァーミリアンという名の死にかけた少年の身体に、英雄遺物『辰砂の杖』を記憶媒体として植えつけ、仮初めの人格を与えた架空の存在なの」
「か、架空の存在ですって?」
「そうよ。その研究成果でもって、魔陽石を『錬金符号』に据えた『琺瑯質の瞳の乙女』の実用化に向けた研究が大きく前進したわ」
「そんな……あの子が錬金人形と同じだなんて……」
地下へと挑み、肩を並べて闘い、共に喜びと苦しみを分かち合ったシンナバルが……
初々しい恋愛をアリスと一緒に暖め合っていた、あのシンナバルが作り物だっただなんて……
泣いたり怒ったりしないと約束したばかりなのに、私は溢れてくる涙を抑える事が出来なかった。
「シンナバルは『琺瑯質の瞳の乙女たち』の雛形」
どうにかして嗚咽を抑えようと歯を食いしばる私に、ルルティアは感情の欠片も感じさせない、あのラストソングのような口調で語り続ける。
「オリンピアとは錬金術でもって錬成した素体に、記録媒体として魔陽石を組み込んだ疑似的な生命体。あの子たちは作られた『記憶』を元に、与えられた『設定』に沿って最適な行動を取っているに過ぎないの」
「シンナバルも、そうだと言うの?」
「シンナバルとは、私が設定した理想の少年であり、思い描いた理想の弟よ。どう? 可愛かったでしょう?」
余りの驚きに、私は絶句するしか他がなかった。
「あんなに純粋で無垢で優しくて面白くって可愛げのある少年が、こんな汚れた世界に自然発生する訳が無いじゃない。十四、五歳の男子って、もっとイヤらしくて不潔で下劣な存在よ」
「もう止めて! それ以上は聞きたくない!!」
「最初期段階では殺人狂の意識の影響下から抜け出るまでに時間が掛かったけど、アリスと出会ってからは不安定な状態が一変したわ。愛の力って本当に素晴らしい。予想を上回るシナジーをシンナバルに与えてくれたわ」
ルルティアはそう言って、巨大な水槽に右手を添えた。
意識の戻らないアリスからの返事なんて、あるはずが無い。その代わりに、こぽこぽと空気の泡が浮いて弾ける音だけが返ってきた。
「そんな、人の心を弄ぶような真似を……どうして……」
「深く考えない方が良いわ、リサデル。つまりシンナバルの存在とは『心』なんて高尚な物じゃなくって、付与した『記憶』とそれに沿って動くように『設定』した行動の結実。それ以上でも以下でも無いの」
「――――っ! あなた、よくも自分の弟をそんな風に言えたわね」
「弟? 元から私には弟なんていないわ。頭が固いわね、リサデル。私はさっき、そういう『設定』だと二回ほど説明しなかったかしら? ヴァーミリアンには姉と呼ぶには愛し過ぎた存在がいた。私はその確たる事実に基づいた『記憶』を利用したの」
あの朗らかな笑顔も、苦悩する眼差しも、アリスに注いでくれた溢れるような愛情も、全てはルルティアが考え、彼に与えた『設定』だったというの?
その理屈を理解する事は出来る。だけど、私の『心』は真実を受け入れる事を拒否していた。
「そしてシンナバルは現在、姉を失って『心』が壊れてしまったヴァーミリアンと同じように、守るべきアリスという大切な存在を失いかけて、彼が彼である為の根源たる『設定』が揺らいでしまっている」
ルルティアは、その痩せ衰えた細い腕からは思いもよらない激しさで水槽の壁を叩いた。忌々しげに、何度も何度も。
その度に、無数のチューブに繋がれたアリスの身体が水中で揺れ動いたが、私はルルティアの鬼気迫る様子に気圧されて、止めるどころか声を掛けることすら出来なかった。
「だから! 私は壊れかけたシンナバルの『設定』を、ヴァーミリオンの『記憶』を元に再構築しようとしているの。どう? 分かってくれたかしら?」
私の知っているルルティアという女の子は、尋常では無いくらいに研究に没頭し過ぎる悪癖はあったとしても、こんなにも非道な選択肢を選び取るような子では無かった。それがどうして……?
「何の為に……誰の為にこんな事をしたの?」
絞り出すように、やっとそれだけを言うと、ルルティアは水槽を叩く手を止め、そして私の顔を見て悲しげに首を振った。
「……誰の為って? それは貴女の為じゃない、リサデル。まだ気が付いていなかったの?」