第192話 いなくなっていく自分
そう言って老婆は屈託も無く笑った。だが不意に、太陽に雲が掛かったかのように老婆の頭上に影が差した。
「危ない!!」
叫んだって間に合わない! でも僕は、叫ばずにはいられなかった。
「死に潰れるべし! 完・全・圧・殺!!」
裂帛の気合いと共に、鋼鉄のハンマーヘッドが老婆の脳天に振り下ろされた!
大地が陥没するほどの衝撃に土埃が舞い上がり、辺りの木々が激しく揺れる。足元を襲った地震にも等しい激しい揺れに、僕はバランスを崩して転倒してしまった。
「そんな!? まだお礼も言ってないのに……」
地に四肢を突きながらも、何とか顔だけを上げて老婆の姿を探したが、もうもうと上がる土煙の向こうに見えたのは、角の張り出した牛頭人族のような聖堂騎士のシルエットだった。
「ふっほほほ。枯れ木のような老人を叩き潰したところで、手応えも何もあったもんじゃあ無いわね」
せせら笑うゴレストンの顔を、絶望的な気持ちで見上げるしかない。老婆を圧し潰した鈍器が、今度は僕に向かって振り上げられた。
「さぁて、坊や。貴方はどんなカワイイ悲鳴を聞かせてくれるのかしら?」
ゆっくりと時間をかけてゴレストンの巨体が近づいてくる。その顔に浮かんぶ微笑みは、無邪気な幼児が蟻を潰して遊んでいる時と同じ笑顔だ。ちくしょう!! 立ち向かおうにも、地に突いた手足がまるで根を張ったかのように動かない。僕は……ビビッているのか?
「僕はどうなったって構わない! だけど、姉さんだけは殺さないで!!」
「素敵! 上出来!! 百点満点!!! 久々に心地良い命乞いを聞けたわ」
ゴレストンは興奮した闘牛のような血走った目で、地に這いつくばる僕を見下ろした。
「貴方の心意気に免じて、その綺麗な顔は残しといてあげる。それに、弟の生首でも見せつけてやれば、『烈火の魔女』も大人しくなる事でしょう」
唾を吐きかけてやりたい気持ちでもって、巨大なハンマーを振り被ったゴレストンの顔を睨み付けた。もっと僕に力があれば……唇を噛みしめる僕の目に、銀色の閃光が走るのが見えた。
――――グワァアン!!
空っぽの寸胴鍋を床に落としたような重たい金属音と共にゴレストンの首が飛び、鉄巨人のような巨躯が地に倒れた。
「ふん、首を刎ねたつもりだったが。なかなか丈夫な兜だね」
二度も命を救ってくれた老婆が、再び僕を守るように立ちはだかった。すると、首を失ったはずのゴレストンが巨体に似合わぬ俊敏さで跳ね起き、傍らに転がっていた兜を拾い上げた。
「一つ忠告してやろう。そんな大層な飾りが付いた兜では、周囲への注意が散漫になる。視界が悪いから私の姿を見失ったんだぞ」
老婆は長剣の切っ先をゴレストンに突き付け、からかうように上下させた。
「おっ、おのれ……女王陛下より賜りし『聖牛の兜』を傷つけおって!!」
「おやおや、老人の小言は素直に聞くべきだよ」
大事そうに兜を抱え、被り直したゴレストンが吠える。
「今度こそ挽肉にしてくれる!!」
血管がはち切れそうなくらいに顔面を紅潮させながら、ゴレストンは戦鎚を構えて一回転、二回転と、その場で旋回を始めた。次第に回転速度が上がっていくのと同時に、空気を切り裂く音まで変わってきた。
「これぞ我がゴレストン家に伝わる戦鎚術奥義、『大回転・旋風陣』なり!!」
猛烈な旋回に木の葉が揺れ、舞い上がった砂塵が竜巻を形成する。しかも、竜巻の外周にはあの凶悪なハンマーヘッドが唸りを上げている。あんなのの直撃を喰らったら、どんな大木だろうが圧し折られてしまうだろう。
「うわわわわ!? 来た!!」
そう思った先から、辺りの木々を片っ端から薙ぎ倒して竜巻が迫ってきた。
剣を構えたまま動こうともしない老婆に向かって、僕は大声で呼び掛けた。
「お、お婆さん! 早く逃げましょう!」
「婆さんじゃなくて、婆ちゃんと呼べと言ったろうに」
「そんな事、いまはどうでも良いでしょう!?」
「少年、圧倒的な力にはどう対抗するべきか、良く見ておきなさい」
その言い草に剣技を教えてくれた教官を思い出したが、いま目の前で繰り広げられているのは演習じゃなく、殺る気満々の殺し合いだ。僕は、老婆の服を引っ張ってでも止めようと思ったが、その背に漲る闘気に気圧されて、思わず後ずさってしまった。
「ふふっ。『喰らえ! 必殺・ほにゃらら!!』みたいなのは性に合わないんだがね」
竜巻が眼前にまで迫っているのに、老婆は臆する様子を微塵も見せずに鋼鉄の嵐に立ち向い、オーソドックスな刺突の構えを取った。だが、僕の目には、その教科書通りの古典的なスタイルは、一切の無駄も一分の隙も無い、究極的な構えに映った。
「剣聖剣技・『霊鶏の啄み』」
老婆の手元から剣が消えた。いや違う、刺突が速すぎて目が捉えきれていないんだ。そう気が付いた時、竜巻の中から血飛沫が飛び散り、苦痛に満ちた呻き声が聞こえてきた。
「ばっ、馬鹿な……我が奥義が破られるなんて……」
回転を止めたゴレストンは戦鎚を杖の代わりにしてしがみ付き、憎悪を込めた顔で老婆を睨んだ。全身を覆う鎧の隙間からは止めどなく血が流れ、もはや戦鎚を振り上げる気力も無いようだ。
「あんたのその技は一回転する度に一度、0.6秒ほど動きが止まる。そこを狙えば造作も無い。完成度を上げたければ、足を止めるのはせめて0.4秒ほどにしておきな」
「……殺すが良い。聖堂騎士として斯様な生き恥は耐えきれないわ」
「大丈夫、問題無い。『白銀の魔女』と闘い、生き延びたとあれば、恥どころか名誉にすらなるだろう」
「白銀の魔女……? まっ、まさか魔導院の!?」
ゴレストンは雷鳴に慄く子供のように地面にへたり込んだ。だがその時、遠くから大勢の足音が聞こえてきた。
「ゴレストン様! 『烈火の魔女』を捕縛しました!!」
その声に慌てて振り向くと、姉さんを捕まえに行っていた戦士たちが戻って来ていた。
荒縄できつく縛りあげられ、引き摺られて歩く姉さんの痛々しい姿に、感じた事の無い怒りが込み上げてくる。
「ふふっ、ふっほほほっ! 運は私の方にあるようねえ。ほれ、剣を捨てて跪きなさい!!」
ゴレストンはよろけつつも立ち上がり、勝ち誇った顔をして僕たちを見下ろした。
万事休す、僕は地に両膝を突いた。そして、僕の隣に立っていた老婆が剣を投げ捨てた。だが、老婆は鋭い目で姉さんを睨み付け、大声で叫んだ。
「お前はそれで良いのか!? どこまでも逃げ回るつもりか!!」
「わ、私は……」
「いつまで弟に守って貰うつもりだ! その炎は何の為にある!!」
縄に繋がれたまま、姉さんは沈痛な顔をして項垂れていた。
「黙れ! 余計な事を言うな!」と、ゴレストンが喚き散らす声が聞こえたが、僕にはそんな声よりも、姉さんの全身からユラユラと立ち上る陽炎のような空間の揺らぎが気になった。
「いまこそ弟を守る為に炎を振るえ! 『烈火の魔女』よ、お前の名を答えろ!!」
「私、私は……私の名は……『燃え上がる最後の一葉』!」
老婆の声に答えた姉さんの両腕から、真紅に輝く炎の柱が立ち上がった。炎は瞬く間に姉さんの身体を縛る荒縄を焼き尽くし、慌てふためく戦士たちに襲い掛かった。
「助けてくれ!! 火が、火が追ってくる!?」
「う、うわああぁ!? 何だ、この炎!? 消えない、消えないぞ!?」
「ゴレストン様、お助け下さい! このままでは!!」
「お、おのれぇ……退却、退却だ!!」
炎に巻かれて逃げ惑うゴレストンと戦士の一団の背中に老婆が呼びかけた。
「聞け! 山王都の者ども! 『烈火の魔女』と『辰砂の杖』は、この私『白銀の魔女プラティナ』の預かりとする! 聖女王陛下にそう伝えておけ!!」
ゴレストンたちの姿が見えなくなると、姉さんの両腕から炎が消えた。そのまま力尽きて倒れそうになった姉さんの身体を、僕は駆け寄って抱き支えた。
「姉さん! 姉さん、しっかりして!!」
「ごめんね……いつもヴァンに迷惑をかけてばっかりで……」
「なに言ってんだよ! 僕が強ければ……僕がもっと強ければこんな事にはならなかったんだ!! 僕がもっと……」
優しいね、そう呟いて姉さんは意識を失った。
僕は擦り傷と痣だらけになってしまった姉さんの頬に、その目元を飾る涙黒子に頬を寄せて、自分の弱さと惨さに泣いた。
「おい、少年。泣くには勝手だが、そろそろ行かないと奴らの放った炎に巻かれるぞ」
僕は顔を上げ、プラティナと名乗った老婆に訴えた。
「お願いします。姉さんと一緒に僕も連れて行って下さい」
「元よりそのつもりだよ。お前の姉さんにやって欲しい事があるんだ」
「どうか僕に剣を教えてください。僕は姉さんを護る為に、お婆さんみたいに強くなりたいんです」
「だからお婆さんは止めろって。婆ちゃんと呼べって……いや、そうだな」
思案顔した老婆の背後で、僕と姉さんの小さな家が焼け落ちるのが見えた。
僕はもう、後には戻れないと何となく悟った。
「私を『婆ちゃん』と呼んで良いのは孫だけだ。だから少年よ、今日から私の事を『師匠』と呼ぶと良い」
*
僕と姉さんは、師匠が用意してくれた小さな家で暮らす事になった。そこは魔導院の南に広がるエルフの森にあり、人間族の侵入を容易には許さない森の中までは、僕ら姉弟を追ってくる者はいなかった。
そこで姉さんは、エルフにしてはやたらに体格の良い男性から魔術の手解きを受け、僕は師匠に剣の技を教わった。
二人の教師はとても厳しかったけど、親という存在を知らない僕は、二人を実の父母のように慕っていた。年齢不詳の厳ついエルフと婆さんだったけど。
「お前には、『ある呪物』を焼き滅ぼして貰いたい」
魔導院の地下に眠る強力な呪物『王の剣』の破壊、それが師匠の願いだった。姉さんの持つ紅炎を抱いた双剣水晶『辰砂の杖』だけが、『王の剣』を滅ぼす事が出来るらしい。
僕はどんな無理難題を押し付けられようとも、僕たち姉弟を救ってくれた師匠の恩義に応えようと心に誓っていた。それに、全てが終わったら好きに生きて良いよ、と師匠は言ってくれた。
「じゃあ、王の剣を滅ぼした後も、ずっと僕に剣技を教えて下さいね」
そうお願いすると、師匠は笑って約束してくれた。その頃にはもう、師匠の身体は病魔に侵されてボロボロだったと言うのに。残された時間が少ない師匠の為にも、僕は自分から過酷な修行を願い出た。
そして修行を終えた僕と姉さんは、師匠が育て上げたという優秀な戦士たちと共に魔導院の地下に眠る最凶の呪物、『王の剣』へと挑んだ。
地下訓練施設最下層、そこは広大な地下墳墓だった。無数の棺桶と、そこかしこに転がる白骨化した遺体。その中心にそそり立つ黄金の剣。
その美しくも禍々しい呪物を目にした途端、どこからか不気味な歌声が聞こえてきた。
――――折れた羽根は太陽を目指す お前の翼ならば届くだろう
誰よりも強くなりたいという欲望に、僕は支配された。
姉さんは命を懸けて、僕と呪物を炎でもって分断した。
――――ごめんね。姉さんを許して
そして、姉さんは命を燃やし尽くす前に僕に託したんだ。
呪物を滅ぼす紅の炎を。
――――その炎で全てを終わらせて
尽きること無き永遠の紅。その炎の名は『紅炎』
其を灯す燭台こそは――――英雄遺物『辰砂の杖』
突然、右腕を包みこんだ炎に、俺は悲鳴を上げてしまった。
「どうしたの? 大丈夫?」
いつの間にか背後に立っていた姉さんに、俺は「何でも無いです」と笑って答えた。『錬金仕掛けの腕」はいつもの通り、冷たい銀光を放っている。一瞬、自分がヴァーミリアンなのかシンナバルなのか、分からなくなりかけていた。
「ふふっ、変なの」
姉さんは戸惑う俺に微笑みかけてから、水槽の底に沈んでいるアリスに目を移した。
「姉さん。先輩は……アリスは大丈夫でしょうか?」
じっ、と研究者の目でアリスを観察している姉さんに声を掛けたが、返事は戻って来なかった。
仕方なく俺も、姉さんと同じように水槽の中のアリスに目をやった。捻じくれてしまった手足。骨が覗くほどに深い切り傷。そして、超高熱で炙られた酷い火傷や炭化してしまった皮膚が痛々しい。
……待てよ、アリスは火傷なんてしていないはずだ。
未だ身体に残る麻酔に霞む目で、アリスの全身に目を凝らす。すると、腫れ上がった顔がこちらを向いている事に気が付いた。
「ね、姉さん! アリスがこっち向いてます!!」
意識を取り戻したのだろうか!? 俺は嬉しさの余りに姉さんに抱きついた。だけど、姉さんは痩せた腕で抱き返してくれながらも、冷え冷えとした青灰色の瞳で俺を見詰めていた。
「ねえ、あれは本当にアリスかしら」
「は? 姉さん、何を言って……?」
姉さんの不思議な一言に、俺はもう一度、水槽の中を覗き込んだ。
真っ黒な枯れ枝のようになってしまった手足。炭化して捲れ上がった皮膚。人相も分からないくらいに焼けて爛れた顔。ただ、真紅に輝く瞳だけが俺に向けられていた。
「貴方は護ると誓った私を護りきれなかった」
水槽の中に沈んでいる誰かが言った。
自分が失われていくような感覚に、急速に意識が遠退いていく。
何もかもが歪んで見える世界に、鮮やかな赤い眼鏡のフレームだけが確かな物だった。その奥のいつもの場所に涙黒子があるのを見て、やっと安らいだ気持ちになった。
「姉さん……僕は……」
「ヴァーミリアン。貴方は私の可愛い弟よ」
「ああ、そうだね。安心したよ」
「ねえ、ヴァン。姉さんの願いを……私の最後のお願いを聞いてくれるかしら?」
ぼんやりした頭の中に、姉さんの声だけが響く。
改めて誓おう。僕はもう二度と姉さんを失わない。