第191話 聖堂騎士団『セイクリッド・ガーズ』
「ヴァン? ちょっと痛いよ」
「え? ああ、ごめん姉さん」
つい力を込めすぎていたようだ。後ろから抱きしめていた身体を開放すると、姉さんは僕の腕の中でクルリと一回りして向き直った。長く生え揃った睫毛の奥から向けられる澄んだ瞳に、どきり、と胸が高鳴る。
「どうしたの? 怖い顔してる」
「いっ? いや、あの、別に……」
最上級の魔術師だからか、姉さんは異様に勘が鋭い。僕は「姉さんの事で頭がいっぱいでした」なんて言う訳にもいかず、誤魔化すようにして姉さんの胸元に下がるペンダントに手を伸ばした。
「姉さん……こんな物がウチにあるからいけないんじゃないかな?」
首から下げるにしては、やや大振りな水晶柱で出来たペンダントトップの中には、渦巻く炎が輝いていた。それは、僕らの御先祖が遺した強大な魔力を秘めたアイテムだと聞いている。
「僕らの手元にあったところで風呂を沸かすくらいの役にしか立たないんだし、思い切って山王都に渡しちゃえば?」
そうっと水晶に触れると、指先に沸騰するヤカンに触れた時みたいな熱を感じて、反射的に手が引っ込んだ。
こんな物が肌に触れていて、どうして姉さんは火傷しないのだろう? 僕は不思議に思って、襟の開いたブラウスの胸元をまじまじと覗き込んだ。まっしろすべすべふんわりぽわん、ボリューミーでいて柔らかそうな……
ずっどォん! と、突如として脳天を襲った激しい衝撃に、僕はたまらず両膝を突いた。
「んがふっ!?」
涙に霞む目で見上げると、姉さんは読んでいた分厚い本の背表紙を突き付け、仁王立ちになって僕を睨み付けていた。
「こらあ!! いくら姉弟といえども、女性の胸元を凝視するなど不埒千万! ごめんなさいしなさいっ!!」
「ご、ごめんなさい!」
「よろしい。今後、これに懲りたら女子の胸を覗き込んだりしない事。彼女が出来たら嫌われちゃうからね」
はーい、と返事しながらも「姉さんが傍に居てさえくれれば、他の誰も必要ない」なんて、僕は心の中で呟いていた。
「じゃあ、罰として夕食の準備はヴァンがやること」
「ええ!? 今日もまた!?」
「だって、ヴァンの方がお料理上手だし……ダメ?」
甘えるような表情で両手を合わせ、いわゆる『お願いポーズ』を取った姉さんの愛らしさに、自分の頬が緩むのが分かる。僕は照れ隠しに下を向いた。
「し、仕方ないなあ。じゃあ、僕がご飯を作っている間にお風呂に入ってきちゃいなよ」
やったー! と、飛び跳ねつつ、着ていた服をポンポン脱ぎ捨て始めた姉さんに慌てて背を向ける。まったく、言っている事とやっている事が全然、噛み合って無い!!
「覗いちゃダメだからね」
覗かないよ! なんて答えつつも、頭をブンブン振って邪な妄想を振り払う。だがその時、僕の耳は浴室から漏れる調子外れの鼻歌とは別に、外から微かに聞こえてくる複数の靴音を捉えていた。
「やれやれ、また新聞の勧誘か……やっぱり、もっと霧を濃くして貰わなきゃ」
壁に立て掛けておいた長剣を手に外へ向かうと、品性と知性が欠けた顔面に「ならず者」って書いてある様な、柄の悪い集団に出くわした。
僕の姿を見て馬鹿にしたような表情を浮かべた男たちに向い、大声で呼びかけた。
「新聞なら間に合ってるんですけど!!」
さて、ヤツらの狙いは姉さんに掛けられた懸賞金か?
それともあの、炎を内に秘めた水晶柱だろうか?
*
僕が正式な見習いとして『聖堂騎士団』に入団を許された頃、姉さんは大掛かりな魔導実験に参加していた。魔術に詳しくない僕は、何遍と説明を受けても実験の内容がイマイチ理解出来なかった。何でも古代遺跡から見つかったアイテムを利用して新たな火炎系魔術を開発する、とか何とかかんとか?
「姉さん、その実験って危なくないの?」
そう訊ねても、姉さんは曖昧に笑って返すだけだった。姉さんは基本的に嘘を吐けないタイプだ。僕は、姉さんのその素直な性格から、「実験は危険を伴うのでは?」と危ぶんでいた。
それから数か月後、魔導実験が最終段階を迎えたその日に、野外の練武場で騎士見習いの仲間と共に剣を振り回していた僕は、魔術局の実験場が紅蓮の炎に包まれ、建物もろとも爆発するのを見た。
天に向かって炎の柱が突き上がるのを見た直後、呆然とする僕らを凄まじい衝撃波が襲った。不可視のエネルギーに煽られ、もんどり打って地面に倒れ込んだ身体の上に、大小様々な大きさの石がスコールのようにして降り注いできた。
「総員、魔術局の反対に向かって全力で走れ!! 爆風に巻き込まれるぞ!!」
剣技指導に当たっていた聖堂騎士ですら、絶え間なく飛来する瓦礫の雨に為す術もなく逃げ惑う中、僕は避難する仲間たちとは逆の方に向かって走り始めた。
崩れた建物の陰に隠れ、幾度となく吹き荒れる爆風をやり過ごし、ひたすら爆心へと向かった。僕には、そこに姉さんがいるという確信があった。
――――今回の魔導実験はね、君のお姉さんが主役なんだ。これは凄い事なんだよ。
僕の機嫌を取る為だろう。姉さんに気のある研究員の一人が、そう教えてくれていたからだ。多分、その気の良い青年研究員は、今はそこらに転がる炭化した死体の一つなのだろうけど。
しかし、どれほど強力な魔力が暴発したのだろうか。立派な五階建ての建物は壁から天井まであらかた吹き飛び、壮絶な事故が起きた直後とは思えない穏やかな陽光を遮る物は何も無かった。
「姉さん! どこにいるんだ、姉さん!!」
夥しい数の黒焦げ死体を踏み越え、積み重なった瓦礫の山を乗り越えて、僕はやっとの思いで焼け果てて何も無くなった空間に一人、ぽつんと佇む姉さんの姿を見つけた。
「姉さん! 良かった無事で!」
だが、ぽかんと空を見上げたままに身動きすらしない姉さんの様子に、僕は不安を感じて駆け寄った。
「姉さん、どうしたの? 返事を、返事をしてよ!!」
姉さんは笑うでも泣くでもなく、感情の欠片も籠らないガラス玉みたいな目を僕に向けた。
「わ、わた、わたし、な、な、なにを、したの……」
それだけを口にして、姉さんは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。気を失った姉さんの身体を咄嗟に抱き支えると、瓦礫の向こうに人の気配を感じた。
「これはこれは凄まじい威力ですな。これでは生存者は絶望的ですねぇ」
「構わん。むしろ好都合だ。魔術局と例の小娘に全ての責を追わせれば良い」
男にしては妙に甲高い声と、威厳を感じさせる低く抑えた声。足音からして二人だ。
「ふほほほほ。あの娘、『烈火の魔女』とか言いましたか? しかし、実に惜しいですなぁ。あの美貌にあの肉体、一度くらいは――――」
「下らぬ無駄口を叩くな、ゴレストン。我らは『辰砂の杖』を回収次第に早々に退く」
「ふほっ! 魔女の死体くらいは残っていませんかねえ、ふほほ」
姉さんを辱めるような言い草に、猛烈な怒りと殺意を覚えた。だけど、今は個々から離れる事が先決だ。僕はぐったりとした姉さんの身体を抱え、急いでその場から逃げ出した。
その日の内に僕は姉さんを連れ、生まれ育った山王都を捨てた。その時、姉さんが正気を取り戻すまで固く握りしめていたのが例の水晶柱、英雄遺物『辰砂の杖』だった。
*
「ヴァン! 早くこっち来て!」
「ごめん、ちょっと待って」
「早く! 早く! ヴァンってば早く~っ!!」
念入りに庭を見回っていると、妙に高いテンションで僕を呼ぶ姉さんの声が聞こえてきた。
「もうっ! ヴァンったら、何してるのっ!?」
「えーっと、庭の掃除……です」
昨晩、一人残さず皆殺しにしてやった傭兵団の肉片を掃除してます、なんて言えるはずも無い。仕方が無い事なのに、姉さんは僕が殺しをするのを嫌がるからだ。
僕は「いま行きまーす」と言いながら、草葉の陰に切断された手首を見つけて拾い上げた。それを茂みの中へとブン投げてから、姉さんの声がする方へと足を向けた。
「どうしたの、姉さん? そんなに慌てて」
僕が声を掛けると、いつも冷静な姉さんが顔を上気させ、ハァハァ言いながら興奮気味に詰め寄ってきた。
「すごいっ、めずらしいっ、あおいとりっ」
「……あーはいはい、後で良いです」
「だめっ! かわいいっ! にげちゃうから、こっち早くっ!!」
姉さんが大きな声を出したからか、観察する間もなく小鳥たちは飛び立ってしまった。いや……違う。僕の耳が、鼻が、肌が森に漂い始める危険の気配を感じ取った。
「なに、この臭い?」
ハンカチを取り出し、口元に当てた姉さんが呻くように言った。清浄な森の空気に、まるで生ゴミが腐りきったような臭いが混じる。
「この臭い……これは確か……」
騎士見習いだったころ、登山訓練中に嗅いだ事のある臭いだ。だけど、どうしてこんな場所に? だが、考えている時間も思い出している暇も無かった。
「ヴァ、ヴァン! 大変! 森が、『霧の森』が燃えてる!!」
姉さんの悲痛な叫び声で、臭いの正体を思い出した。この腐敗臭は――――
「ふほほほほ! 燃える燃えるわ良く燃える! 『燃える水』とは良く言ったものね」
森の奥から完全武装の一団を率いて、巨大な戦槌を担いだ重装備の戦士が姿を現した。
雄牛のような角が左右から張り出した兜。猛牛の顔を模した鋼鉄の鎧。そして、身に纏うのは血の色をした『真紅の聖衣』。間違いない……まさか聖堂騎士が自ら乗り込んで来るとは。
「ほほほっ、その顔、見覚えあるわ。貴女が『烈火の魔女』ね。さあ、さっさと大人しく投降なさい。悪いようにはしないから」
男は角兜の面頬を上げ、それこそ牛のようなギョロリとした目で僕と姉さんの顔を見比べた。
僕は、姉さんに逃げるように促し、腰に下げていた長剣を抜いて男の前に立ちはだかった。
「わざわざ聖堂騎士様がお出ましですか。おじさん、暇なんですか?」
「ほっほっほっ、可愛い顔して言うじゃない……でも、どうしてかしら? 貴方の顔も見覚えがあるわ」
「そんな事はどうでもいい。どうして森に火を着けた!」
「そりゃあ貴方、妙な霧のせいで『烈火の魔女』の捜索が上手くいかないから、手っ取り早く燃やしたまでよ」
少しでも姉さんが逃げる時間を稼ごうと話を長引かせていたが、女みたいな話し言葉にイライラしてきた。それに、この妙に甲高い声はどこかで聞いた覚えがある。
「でもね、霧が出るくらいだから湿っぽいのよ、この森。なかなか火が着かないから、わざわざマームード渓谷から汲んできたのよ。しっかし臭いわね『燃える水』って」
聖堂騎士は顔の前を手甲に覆われた掌で煽り、厳つい顔に似合わない声で「ふほほ」と笑った。その背後には、揃いの鎧兜に身を固めた戦士が6人。たまたま霧を越えて襲ってきた山賊紛いの連中とは雰囲気が違う。その身熟しは正規の戦闘訓練を受けた物だろう。
「この坊やは私が相手するわ。お前たちは魔女を捕えなさい」
容易には動けない僕を見透かしたか、聖堂騎士は控える戦士たちに指令を出した。男たちは声を揃えて返答し、すぐさま姉さんの後を追い駆けて行った。
「姉さんに手を出――――」
言い掛けた途中、首筋に寒気が走った。僕は殆ど無意識に身体を投げ出していた。一瞬の後、僕の居た場所に酒樽よりも一回り大きなハンマーヘッドが打ち込まれた。
「なっ!?」
大地を穿った猛烈な一撃は何とか避けたはずなのに、衝撃の余波に煽られ、大木の幹に叩きつけられてしまった。背中を襲った激痛に、立っているのがやっとだ。
「ほう、良くぞ我が聖鎚を避けたな。小僧、名を聞いておこう」
「……ヴァーミリアン」
「ふほっ! 思い出したわ。騎士見習いに見どころのある赤毛の少年がいると耳にしていたが、貴方だったのねん」
騎士は再び戦鎚を腰だめに構え、力を溜め始めた。その間にも炎は木々に燃え移り、僕らの家まで到達するのも時間の問題に見えた。
「我が名は『聖堂騎士団』が一人、聖鎚のゴレストン。渾身の一撃でもってお前を屠ってやろう」
僕がこの強敵に勝っているのは戦闘速度だけだろう。だが、ハンマーの先端はゴレストンの背後に隠されていて、その攻撃範囲が計れない。不用意に飛び出せば、二の手を打つ前に圧殺される。
噴き出る汗は、森を燃やす炎のせいか。それとも単に焦りからか。その時、額を伝う汗を拭う余裕すら無い僕の耳に姉さんの悲鳴が届いた。
「姉さ――――」
しまった! そう思った時には、もう遅かった。電光石火の勢いで振り下ろされた戦鎚が目前に迫っていた。
もう、駄目だ……悔しさと後悔に目を閉じる。だけど、いつまで経っても圧殺の衝撃は僕を襲わなかった。
「やれやれ……子供を相手に大の男が本気を出すんじゃないよ」
凛とした声に薄目を開けると、長い銀色の髪と、それを束ねる青いリボンが目に入った。
信じられない光景に僕は目を疑った。聖堂騎士の渾身の一撃を、僕の前に立ちはだかった老婆が片手に握った長剣で受け止めている!?
「わ、我が聖鎚を片手で受け止めただと!? きっ、貴様ァ何者だ!?」
老婆は返事の代わりに戦鎚を弾き返し、僕を遥かに上回る戦闘速度で聖堂騎士に強烈な一太刀を加えた。ただの一振りで重装備の騎士を茂みの向こうまで吹き飛ばす剣圧に、僕はただただ息を飲むしか無かった。
「ふふっ、聞いて驚くな。私の名は『白銀の……って、あらあらあら? ちょっとやり過ぎたかしら」
ゴレストンの巨体が吹っ飛んで行った方へ目をやってから、老婆は振り返って僕を見た。
「大丈夫かい、少年? 怪我は?」
「だ、大丈夫です。あの、お婆さんは一体……?」
僕が尋ねると、老婆は何とも言えない苦笑いを浮かべた。
「まあ、あんたから見たら婆さんか……でも、婆さん呼ばわりは嫌だな」
「すっ、すいません。じゃあ、なんて呼んだら良いですか?」
「そうだねえ。せめて『婆ちゃん』って呼んでおくれ」