第184話 優しくて美しい日々
そしてボクは、これ以上ないくらいに劇的なタイミングで現れた『銀髪の剣士』の勇姿に興奮し過ぎたのか、それとも単に首を吊られて頭に血が行かなくなったのか、そのまま気を失ってしまった。後から聞いた話では、どうやらボクは三日も目を覚まさなかったらしい。
「良かった。気が付いたみたいだね。もう大丈夫、ここは安全な場所だよ」
まだ夢から覚めきらない頭の中に、凛とした声が響く。力強いにの尖った感じがしない優しい声が、霧がかかったような意識に染み込んでくる。
瞼越しだというのに耐え難いほどの眩しさを感じる。どうにかして薄目を開けると、澄んだ緑色の瞳がボクの顔を覗き込んでいた。
「気分はどう? 無理に起きようとしなくて良いからね」
翠玉のような瞳を縁取る長い睫毛。柔和な微笑みを湛えた唇。暖かな日差しが透けるブロンドの髪。
ボクは声の主に天使を連想した。という事は、ボクはあのまま死んじゃったのか。
「ここは……?」
自分の喉が発した思えないような皺枯れた声が出た途端に、咳が止まらなくなった。
「はい、お水。ゆっくりと飲むんだよ。慌てて飲んで気管に入るといけない」
半身を起こしてから目の前に差し出されたコップを受け取り、言われた通りに冷たい水を喉に流し込む。喉からお腹の底までひんやりして、ようやく自分が生きている、って実感が湧いてきた。
ふうっ、と大きく息を吐いてから礼を言ってコップを返すと、天使はニッコリと笑ってそれを受け取った。
「どう? 落ち着いた?」
「……まだ、喉が痛い、です」
「首を吊るされたんだ。痛くて当然だよ。かわいそうに」
天使はボクの喉に軽く触れて、くっきりとした眉を寄せた。
「あの、ここはドコですか? ボクを助けてくれた人は?」
「ここは病院だよ。君を助けた人なら、ほら、そこに」
何故だか苦笑いを浮かべた天使の視線を辿ると、長い銀髪を大きなリボンで括った人が、ベッドの端っこに突っ伏して大きな寝息を立てていた。
「わあ! 銀髪の剣士だ!」
会いたくて仕方がなかった人にやっと会えて、嬉しさの余り大きな声が出てしまった。そんなボクを見て天使は首を傾げて怪訝な顔をした。
「ちょっと待って。『シルヴァルウ』って六英雄の?」
「そうです! ボク、『銀髪の剣士』に会いたくって森を出てきたんです!」
「盛り上がっているところ申し訳ないんだけど、そこの『ぐーたら娘』は、そんな偉大な人物とは似ても似つかないよ。しかも、六英雄は五百年も前の人たちじゃないか」
「え? ご、五百年前って……?」
金髪の天使はアホなボクに、五百年前の『狂王大乱』後の大陸史について説明をしてくれた。アホなボクにも分かり易いよう、ごくごく簡潔に。
「そんな……うそでしょ……」
どうやらボクは、とんでもない思い違いをしていたみたいだ。『六英雄物語』って現在進行中、もしくはここ数年の話だと思ってたよ……
「何だかよく分からないけど、元気出して」
頭を抱えるボクを心配そうに眺めていた天使が、慰めてくれながら自己紹介を始めた。
「僕の名はリュカルオン。長ったらしいから皆、ルカって呼んでる。それから、そこで寝ているのは――――」
天使、改めリュカルオンが、ひたすらに惰眠を貪る銀髪のポニーテールの根元を掴んでグイグイ揺さぶった。すると、『ぐーたら娘』と呼ばれた人物はムックリと顔を上げ、寝ぼけ眼でボクとリュカルオンの顔を交互に見比べた。
「んん……朝ごはんの時間か? 私はお腹が空いたぞ」
前髪には酷い寝癖、額と頬に寝跡を付けたまま、銀髪の女性が大きく伸びをすると、その姿を見たリュカルオンは困ったような顔をして額に手をやった。
「……で、この腹ペコ娘が君の命を救った人物だよ」
「プラティナだ、宜しく。それで、君の名は?」
ボクを見つめる月長石みたいな神秘的な瞳にボーっとしてしまい、名前を聞かれていた事にワンポイント遅れて気が付いた。
「あっ、はい! ボ、ボクは、セハトって言います」
慌てて答えたボクの顔を、プラティナは面白そうに眺めながら訊いてきた。
「セハト……うん、セハトか。それではセハト、君は女子なのに『ボク』と自称するのには何か理由があるのか?」
「え? 理由、ですか? ええと、ボク、見た目が男の子っぽいから、しょっちゅう間違われて……説明するのも面倒だから……」
「そうか、良く分かった。それでは、好きな食べ物は?」
「え? ボクの好きな食べ物、ですか? ええと、ボクは木の実が好物です」
「ほう、木の実が好きなのか。そうか……それは良い」
「はい。特にクルミの実が好きです」
「クルミか。うんうん……良いな。実に良いな」
「生のクルミも良いけど、ボクはじっくりローストしたのをこう、カリカリって食べるのが好きなんです。もう随分と食べてないけど……」
見えないクルミを両手に持って、カリカリする真似をしてみせると、何故かプラティナは胸を抑えて「はうっ」と、短い悲鳴を上げた。
「おいリュカルオン、聞いたかお前。いますぐクルミ買って来い」
「何で僕が?」
「さあ、走れ。じっくりローストだぞ。間違えるな」
「……プラティナ。また悪い癖が出たね」
「なに? 悪い癖だと?」
「君は小さくて可愛い女の子を見ると、すぐにそれだ。セハトはこの間、保護したノーム族の孤児とは違うんだ。彼女はホビレイル族、森の民だよ。帰る場所がある」
「うっ……でもまだ退院まで時間が掛かるだろう」
「いや。もう意識も戻ったし、そもそも被害者の救出は僕らの仕事じゃないだろう。すぐに学院に戻って報告しよう」
「やだ」
「やだ、じゃない」
「い~や~だ~! まだ一緒にいたいんだよ~!」
「駄目です。帰ります」
「だってカワイイよ~! ウチで飼いたいよ~!」
「飼いたいなんて、失礼な事を言うな!」
不満げに頬を膨らませるプラティナと、怒ったような顔で窘めるリュカルオン。ボクは話の流れが分からなくて、とりあえず根本的な事を聞いてみた。
「あの……どうしてボクを助けてくれたんですか?」
「カワイイから!」
「プラティナ、君は黙ってなさい」
むくれるプラティナを強い口調で制して、リュカルオンは事の経緯を説明し始めた。
「僕とプラティナは魔導院の生徒で、課外学習の一環として人身売買に関わる組織を調査していたんだ。本来なら攫われた人物の救出は仕事内容に含まれていなかったんだけど、プラティナがね」
「その……魔導院って何ですか?」
「え? 君、魔導院を知らないのかい?」
「う、うん……」
「学院都市は?」
「聞いた事があるような、無いような」
自信無さげに答えると、リュカルオンは助けを求めるようにプラティナの方を向いた。
「これはあの、先日入学してきた例の新入生並みだな。何て名前だっけ? 森から出てきたばっかりの赤毛のエルフの……」
「トートの事か? あいつは抜群に面白いぞ。頭が良いのに物を知らないから、からかうのに最適な男だ」
「また、プラティナはそうやって人の事を馬鹿にして……ああ、ごめんセハト。君の話だったね」
リュカルオンは口元に拳骨を当てて、ゴホンと咳をした。
「まあ、君を助けたのは成り行きとはいえ仕事だったんだ。だから必要以上に気を使わないで欲しい。そうそう、ここの入院費も報酬から出ているから、心配しないで森にお帰り」
彼はボクの頭を一頻り撫でてから「じゃあ、行こうか」と腰を上げ、プラティナにも立つように促した。
「僕は看護師さんを呼んでくるから、プラティナは帰り支度をして」
病室から出て行こうとするリュカルオンと唇を尖がらせながら荷物をまとめるプラティナに、ボクは「待ってください!」と声を掛けた。
「ボクを連れてって……いや、ボクを飼って下さい!」
ベッドから身を乗り出したボクに、プラティナは目を真ん丸にして、血の気の薄い頬を紅潮させて叫んだ。
「良いよ! 飼うよ!!」
「プラティナ、君は黙ってなさい。あのねえ、セハト。君は自分で何を言っているのか、分かっているのかい?」
天使みたいだと思っていた顔が、険しく厳しい形相に変わった。だけどボクは、それを怖いとは思わなかった。
「ボクは外の世界を知りたくて、もう帰らないつもりで森を出たんです。このまま退院したって、また変なおじさんに捕まっちゃうかも知れない。だったらボク、プラティナに新しい御主人様になって欲しいです!」
唖然とする二人。しばらくしてリュカリオンが口を開いた。
「むう、自分自身を人質に取るとは……やるな」
「セハトは自分の意志で一緒に行きたい、って言っているんだぞ」
興奮気味に捲し立てるプラティナに対し、リュカルオンは髪の中に手を突っ込んで、ポリポリと掻いてから大きく息を吐いた。
「……それを止める権利は僕には無い」
やったー! と飛び上がったプラティナは、ベッドの上のボクの手を取って喜んだ。
「セハト、世界を知りたいんだろ? だったら早く怪我を治して外に出よう! 君は海を見た事はあるか?」
溢れるような喜びを隠し切れないプラティナに、ボクは戸惑い気味に首を振った。
「夏でも溶けない雪の山は? 地平線まで広がる草原は? 見渡す限りの砂の海は?」
彼女が口にする一つ一つは本で読んで知っていたけれど、どれ一つとして見たことが無い。ボクは首を横に振り続けた。
「セハト、私に付いて来い。私と一緒に見に行こう」
そう言ってプラティナは、ボクの頭を胸に抱いてくれた。
「この世界はどうしようもなく汚くて、死にたくなるほど酷い事もあるけれど、それを全部包み込むくらいに世界は広くて優しくて、そして美しいんだ」
『銀髪の剣士』にしか見えないプラティナに『六英雄物語』のセリフみたいな事を言われて、感激し過ぎてまた気を失うんじゃないかと思った。
「だけどね、セハト。一つだけ」
プラティナはボクの頬を両手で挟んで、上向かせた。そして、寝癖で跳ね上がった前髪の奥の額を、ボクのおでこに擦り付けた。
「私は御主人様じゃないし、君は奴隷なんかじゃない。いいかいセハト、君と私は友だちになるんだ」
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「それがボクとプラティナ、そして君の祖父、リュカルオンとの最初の出会いだ」
ボクが話を一段落させると、彼は『鋼玉石の剣』の鞘から手を離し、銀色の癖毛を軽く掻き回した。ああ、この癖はルカ譲りなんだな。いま、気が付いたよ。




