第180話 その答えを知る者は
返事の代わりに飛んできた巨腕の一振りを、殆ど反射的に避ける。いや、俺の反射神経では反応出来ない速さだった。間違いなくヴァンが避けてくれたのだろう。ただ、そのおかげで冷静になって、そいつの姿をまともに見る事が出来た。
四つんばいになった、とてつもない肥満体の男、そう表現するのが一番近いだろうか。その肌の表面はボコボコと沸騰するかのように泡立ち、皮膚が破けて弾けるたびにドロリとした粘液が流れ、ピンク色した肉が内側から盛り上がってきていた。
「なんなんだよ、これ……」
俺はこの『地下』で、たくさんの酷い物を見てきたつもりだ。
大型のスライムに飲み込まれ、死ぬことすら許されずに、ゆっくりと溶かされていく生徒。
絶命した後に食屍鬼と成り果てて、浅ましく仲間の屍肉を漁るクラスメイト。
俺は清掃部隊の一員として、そいつらを数え切れないほど『掃除』し、そして『回収』してきた。
慣れないうちは、その場で嘔吐したり腰を抜かしたりしてたけど、いつの間にか男女の区別もつかないような腐乱死体を前にしても、鼻歌混じりで掃除が出来るようになっていた。だけど、そんな俺が吐き気を催すほどに、眼前で蠢く怪物は、いや、肉塊は目を背けたくなるような姿をしていた。
――――来るぞ 気を付けろ
ヴァンの警告に、動揺した心を鎮める。
およそ人間の関節ではありえない角度に捻じれた手足を蠢かして、そいつはにじり寄ってきた。
ごくり、と唾を飲み込んだのは俺の意志か、それともヴァンの生理現象か。巨体の割に爬虫類みたいな小刻みな動きで俺の方に向き直った怪物は、今さっきよりも一回り大きくなったように感じる。
ドラゴンもどき、とヴァンは言ったけど、俺は巨大なウシガエルを思い浮かべた。
「……お前、アッシュなのか?」
怪物に向かって呼び掛けると、何の前触れも無く肉塊の中心から鋭い切っ先が飛び出してきた。刹那、銀の右腕が勝手に反応して、剣の一突きにも等しい一撃を弾く。追って炎が帯状に広がり、辺りが明るくなる。
照明弾の効果が失せた今、頼りになるのは足元のドラゴンの死骸が放つ光と、右腕に宿った炎だ。それらに照らし出された悪夢のような光景を前に、全身に怖気が走った。
「それが……その姿が、あんたの望んだモンなのか」
自分の喉が発した声か? 自分でも疑うような嗄れた声が出た。
肉塊の中心から突き出た剣身の根元に人の顔があった。焦点の合わない濁った瞳は忙しなく動き、だらしなく半開きになった口元からは唾液と共に舌が零れ出ている。
あまりの惨たらしい姿に、軽い眩暈を感じる。元々の整った精悍な顔つきが、悍ましさに拍車をかけていた。信じたくないけど、この怪物はアッシュに違いない。
「しぃん、な、ばぁるうぅう」
ギョロギョロと辺りを見渡していた眼球が俺を捉えたようだ。ほんの一時、瞳に輝きが戻る。
俺は一縷の望みをかけて、大声で呼びかけた。
「アッシュ! どうしたんだよ!! こんな、こんなの意味が分かんないよ!」
アイスグリーンの瞳が揺れ、すぐにまた幕が掛かったように濁り始める。それでも彼は、振り絞るような声を上げて返してきた。
「ぼ、ぼくは、ね、ねが、ねがってしまった」
「願った?」
「しに、たく、ない……い、い、生きたぁい!!」
ビクッビクンッと肉が波立ち、アッシュは苦悶の表情を浮かべた。そして、低い唸り声を上げたかと思うと、突然、だらりと垂れた舌を噛み切った。蛇口を捻ったように噴き出した血液に、俺は思わず後ずさる。
「あ、アッシュ!?」
「シンナバル、聞いてくれ。この額の剣こそが『王の剣』だ。今すぐに君の炎で僕ごと焼き尽くしてくれ」
「そっ、そんな……」
束の間、正気を取り戻したかのようなアッシュの眉間から角のように生えた剣身、それは苦闘の末に倒したあの『水晶龍』の角と同じ輝きを放っている。
どうにかして黄金の剣だけを滅ぼせば、みんな助かると思っていたのに……俺の動揺に同調したか、右腕の炎が弱々しく揺らめいた。
「もう、身体の自由が効かないんだ。このままでは僕は、呪われた僕の身体は『生きる』ために何をするのか分からない。僕は仲間たちを……君たちを護りたいと願っていたはずなのに」
「何か他に手段は!?」
「頼む、僕の最後の願いを叶えてくれ。君たちの、いや、友だちの為に、ぼっ、ぼく、を、ころし――――おごごっ、ぐごうぅおオオオ!!」
野獣のような咆哮を上げたアッシュの口がこれ以上開かないくらいに開き、ビリリと音を立てて一気に耳元まで裂けた。たじろぐ俺の全身に、大量の血飛沫が降りかかる。
凄惨な光景に棒立ちになってしまった身体が、勝手に後ろに跳ぶ。目の前を猛烈な勢いで横切っていった物体が巻き起こした突風に目を瞬かせた。
――――ぼけっとするな! 死ぬぞ!
鋭い叱責にハッとして、横薙ぎに振るわれた竜の腕に見合った巨体に変貌しつつあるアッシュの姿に意識を集中する。
「ヴァン、あの角に攻撃を絞ることは出来ないか?」
――――この期に及んであの男を助けようと思っているのか
「頼むよ。俺はアッシュを、アリスも、セハトだって、誰も死なせたくないんだ」
身体のコントロールをヴァンに任せて目を閉じた。忌々しげな舌打ちが聞こえた気がしたけど、敢えて気にしない。
今まで試した事が無いくらいに深く、深く、自分の心の底を探った。すぐに視界が真っ赤に染まり、火が辺りを覆い尽くす。立っていた床が燃え落ち、俺の意識は炎の中を落下していった。
*
「……もっとだ。もっと深く」
不思議と落ち着いた気持ちで深い谷底へと落ちていくような感覚を味わっていると、世界は赤から紅へと色を変えた。気が付くと、俺はとても静かな場所に立っていた。
逆巻き、渦を巻く炎。足元から遠い空まで、どこまで見渡しても世界は紅色に包まれている。だが、燃え盛る音も無く、身を焦がすはずの熱も感じない。炎はただ、炎としてそこに在った。
「んん? 何だこれ?」
爪先に何かが触れた気がして、俺は膝を落として足元を探ってみた。手に触れたのは、赤いフレームの眼鏡だった。
どこか見覚えのある眼鏡を手に取って立ち上がると、背後に人の気配を感じて振り返った。
「やっと見つけてくれたね」
儚げに微笑む女性は、見間違えるくらいにルルティア姉さんに良く似ていた。
漆黒のロングドレスに包まれた、折れそうなくらいに細い四肢。体温を感じさせない病的に白い肌。冷酷にも見える整い過ぎた美貌に優しさ添える涙黒子。そして、俺と同じ色をした長い髪。
「これ、姉さんのだったんだね」
「そうよ。やっぱり無いと不便ね」
俺が差し出した眼鏡を受け取ると、姉さんはレンズに、ふう、と息を吹きかけてから眼鏡を掛けた。すると、ますますルルティア姉さんに似ているように感じる。
「あら? 君はヴァンじゃなくてシンナバルね」
「見ただけで分かるんですか?」
「当たり前じゃない。この世にたった一人の弟だもの」
姉さんは、ルルティア姉さんのようにクスクス笑った。その朗らかな笑顔が俺の胸奥を焦がす。だけど、俺がいま求めているのは暖かな感傷じゃない。呪物を滅却する灼熱の炎だ。
「俺とヴァンは、いま強大な呪物を相手に闘っているんです。姉さんに会えたのは嬉しいけど、早く戻らなきゃ」
「知っているわ。私はここでずっと君たち二人を見ていたもの」
「ここで? ずっと?」
「そうよ。私はここで、ずっと君に力を貸してきたのよ」
意味が分からない、きっと俺はそんな顔をしたのだろう。姉さんは一つ頷いて話を続けた。
「君はね、多くの人々の『想い』の結晶なの」
「想いの結晶?」
「英雄遺物『辰砂の杖』が滅ぼしてきた呪いの欠片。その集合体がシンナバル、君なのよ」
「のっ、呪いの欠片!?」
「ごめんね、言い方が悪かったわ。『呪い』というのはね、強い『想い』と同義なの。可哀そうに、アッシュは『死にたくない』という想いを捻じれた形に増幅させられて、呪いに囚われてしまったわ」
「そうだ! 俺はアッシュを助けたいんです!」
俺は姉さんに詰め寄り、その細い肩を掴んだ。姉さんは難しい顔をしていたが、紅玉石みたいな瞳で俺を見返してきた。
「本来、英雄遺物同士は全くの互角。だけど、『辰砂の杖』が他の英雄遺物に並ぶには決定的に欠けている物があるわ。それは――――」
その時、世界全体がグラリと揺れた。慌てて膝を突く俺の隣で、姉さんは紅く染まった空に遠い目を向けて呟いた。
「ヴァンが押されている……丸腰じゃあ当たり前ね」
すっ、と差し伸べられた姉さんの手を無造作に握り返すと、痛みや熱を感じないはずの『錬金仕掛けの腕』に耐え難い高熱と強烈な意志が伝わってきた。
「ね、姉さん!? この熱さは一体!?」
「君に私の炎をあげる。『赤き魔女』の血と炎を受け継いだ私の全てを」
足首まで覆うドレスの裾に火が点いたかと思うと、瞬く間に燃え上がった。俺は……僕は、あの日から何度も、何度も、何度も夢に出てきた光景に絶叫を上げていた。
「姉さん! 僕を、僕を置いて行かないで! 一人にしないで!!」
「ヴァン、貴方はもう一人じゃないでしょう? 我がままを言わないの」
すでに全身を炎に包まれた姉さんは、まるで紅色のドレスを纏っているように見えた。あんまりにも哀しくて美しいその姿に涙が止まらなかった。
「嫌だ! 僕は姉さんと一緒が良い! 姉さんが傍に居てくれるだけで良いんだ!」
「私はずっと傍にいるわ。炎になって貴方を護り、ずっとずっと暖め続けるから。だから、もう泣かないで」
「嫌だ……嫌だよ。姉さんが、姉さんだけが僕を……」
誰よりも美しい、僕の自慢の姉さんは、火の柱へと姿を変えた。そして僕は、急速に痩せて縮んでいく火勢を涙を流して見守るしかなかった。
「ヴァン、シンナバルを大切にね。仲良くするのよ」
僕の、俺の掌の上で踊るように揺らめく小さな炎が消え入る寸前、姉さんの声が聞こえた。
「シンナバル、ヴァンを宜しくね。二人とも私の可愛い……おとう……と」
*
「点火!!!」
顎から滴る涙を拭いもせずに心の底から炎を喚び叫ぶと、『錬金仕掛けの腕』が篝火のように炎上した。
「うぉおおおおおぉ――――!」
魂を揺さぶる雄叫びは、誰の喉から迸っているのか? ヴァンか、それとも俺の喉か!?
狙いはアッシュの額から突き出た黄金の剣身、英雄遺物『王の剣』。俺は右腕に紅炎を纏い、呪物に向かって驀進した。
「喰らいやがれ!!」
錬金人形?
呪いの欠片?
想いの結晶?
英雄遺物『辰砂の杖』?
違う! そんなんじゃない! 俺は――――
俺は自分自身の存在の全てを炎に変えて、黄金の剣に叩きつけた。
激突の瞬間、何も音は聞こえなかった。飛び散る金と紅の火花、そして閃光。ドラゴンへと姿を変えつつあるアッシュの巨体がぐらついた。
いける! 俺は勝利を確信して、より強大な炎をイメージする。手の甲の『辰砂の杖』が強く輝き、右腕に宿った無尽蔵にも思える魔力を糧に炎は勢いを増した。
一撃! 二撃! 炎の拳をぶつける度に、破片のような火花が飛び散る。俺の目は、苦痛に歪むアッシュの顔と明らかに刃こぼれの見える黄金の剣身を捉えた。
「これで終わりだ! 『紅炎』!!」
俺の喚び声に応えて右腕を、紅炎の螺旋が取り巻いた。それはさながら炎の蛇。こいつで呪物を滅ぼして地上に帰ろう。ルルティア姉さんが、師匠が待っている地上へ。
ところが、赤熱する銀の拳が黄金の剣に届く寸前、まるで見えない壁に阻まれたように腕が止まってしまった。
「なっ!? 動け、動けよ!!」
俺は全神経をアームズに集中させたが、腕どころか指一本動かない。
「どうしたんだよ!? あと一撃で終わんだぞ!!」
奥歯が砕けんじゃないかと思うくらいに力を込めたのに、金縛りに遭ったように身体が動かない。
「ヴァン!! 何のつもりだよ!? 姉さんの想いを無駄にするつもりか!!」
――――止めろ それ以上はお前が砕けちまう
ヴァンの声に、はっとして右腕に目をやると、ついさっきまで新品同様だったアームズが、すぐにでもメンテナンスを受けないと修復出来なくなるくらいに傷つき、『辰砂の杖』には細かい亀裂が走っていた。
「だからって、ここでやめる訳にはいかないだろ!!」
俺は身体のコントロールを握る相棒を怒鳴りつけた。しかし、その隙が命取りだった。黄金の剣だけを意識し過ぎて、死角から迫り来る竜の腕に気が付いていなかった。
「くそおっ! うぐうっ、ううぅ……」
アリスと同じように胴体を握りしめられて、身動きどころか息すらまともに吸えない。それでも俺は、幸いにも竜の腕に握り込まれなかったアームズに、もう一度だけでも火を着けようと集中した。
「燃えろ! 燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ――――!!」
いまやらなきゃ、何にもならないんだよ! このままじゃ、みんな死んじまうってのに!
気持ちは焦るばかりだし、まともに息も吸えないこの状況では、大した炎は喚び出せなかった。だけどまだ諦める訳にはいかない。せめてアリスが逃げる時間だけでも稼ぎたい。
ヴァンは意識を失ってしまったのだろう、右腕は思ったように動いた。俺は自由になった右腕で、胴体を締め上げる指の一本を抱え込んで、自分ごと燃えても構わない、そう思って火を放った。きっと、シロウならばこの隙を突いて、アリスとリサデルを連れて撤退してくれる。
俺は姉さんがそうしたように、自分の身体を火柱に変えた。
不思議と苦しみは薄かった。そもそも俺は人間じゃあ無いみたいだし、言うなれば炎の化身みたいなモンだ。なぁんて、ちょっとカッコ良いな。
遠くなっていく意識の中で、色んな人の顔が浮かんだ。
モディアにライカール、魔術科の教官とクラスメイトたち。ムカつく事も多かったけど、割と楽しかった。
ディミータ副長にネイト隊長、錬金仕掛けの騎士団たち。俺も皆みたいに強かったら、こんな事にはならなかったのに。
もう一回でも師匠に会いたかった。いま思えば不思議だな。どうして俺はあんなに師匠に惹かれたんだろう。
そして意識が途切れる寸前、やけにはっきりとアリスの笑顔が浮かんだ。
「アリス……」
それだけで俺は、涙が零れるくらいの幸せに満たされた。大好きな女の子の顔を思い出しながら死ねるなんて上等じゃないか。おそらく人間では無い俺を好きになってくれて、本当にありがとう。
――――ほら、ほら! 見て見て!
どこからか、アリスの燥ぐ声が聞こえた気がした。
頬をくっつけ合って見た窓の外には、ふわふわと羽毛のように舞い散る雪が、鏡みたいに透き通った湖に吸い込まれては消えていく一面の銀世界。もう一度だけでいい。アリスとあの景色を見たい。
その時、陶器にヒビが入るような軽い音が耳に入った。その途端、身の毛もよだつ絶叫と共に身体を締め上げていた力が弱まった。
「これは……何が?」
赤熱していたはずのアームズが、真っ白なキラキラした何かに覆われている。つい左手で粉のような白い物を払ってみると、思わぬ冷たさに手が引っ込んだ。これは霜か?
ふと、学院際で破壊した『超金属』が脳裏に浮かんだ。どういう事だ? 都合良く氷系魔術が発動したとでもいうのか?
まだ霜に覆われた手の甲で、紅いはずの『辰砂の杖』が、見覚えのない色に明滅している。待てよ、俺はこれをどこかで見た事がある――――
訳が分からないまま残った力を振り絞って身を捩ると、俺の胴に喰い込んでいた竜の指が根元から折れた。まるで湿気った石膏のようにボロボロと崩れ落ちる竜の指と共に、丘の頂上から転げ落ちる。また水の中に落ちるのを覚悟して身を固くすると、誰かが待ち構えていたかのように受け止めてくれた。
「シロウ……さん?」
水に落ちる寸前の俺の身体を抱き止めてくれたのはシロウだった。
「主の覚悟、そして死力。確かに見せて貰ったぞ。良く頑張ったな」
いつだって険しい表情を崩さないシロウの顔に優しげな微笑みが浮かんでいるのを、俺は不思議な物を見ているような気持ちで眺めた。
「ここは拙者が引き受けよう。主はリサデルとアリスを連れて去れ」
「でも、俺たちの戦力じゃあ、とてもじゃないけど地上まで戻れません」
「案ずるな。間もなく『錬金仕掛けの騎士団』が救出に来る手筈だ」
「アルキャミスツが? やっぱりシロウさんは……」
シロウは俺を立たせてから、何を思ったのか、腰帯から愛刀を鞘ごと抜いて差し出してきた。
「我が一族の宝、英雄遺物『村正』。これを主に託す。いつか我が娘の手に渡してくれ」
「シロウさん!? 武器も無しでどうやって戦うんですか!?」
「武器? 武器なら此処にある」
シロウは不敵な笑みを浮かべて、腰に差した木刀の柄を叩いた。
「あの『王の剣』を滅ぼせるのは『辰砂の杖』か『鋼玉石の剣』のみ。主は傷を癒して再び挑め。さあ、もう行け」
音も無く龍の死骸の上に飛び乗ったシロウに、俺は最後の質問を投げかけた。
「一つだけ教えて下さい。シロウさんは長老会議の一員だったのですか?」
シロウは半身だけを振り返らせて、俺を見下ろしながら答えた。
「違う、とも言えぬな。拙者はクロ……いや、主の師匠を守る為に、長老会議の手助けをする契約を結んだのだ」
「師匠を? どういう事ですか?」
「……拙者はクロちゃんの為に、主らを利用したのだ。済まなかったな」
深々と頭を下げてから、シロウは頂に向かって駆け上がっていった。その行先を目で追うと、ゾロリと首を伸ばした、もはや人間の姿を留めていないアッシュの姿が目に入った。
ここは支援に回るべきか? 一瞬迷ったが、シロウの一言を思い出して思い留まった。
痛みと疲労に悲鳴を上げる全身を引き摺って、薄暗い中をアリスとリサデルを探したが、腰の辺りまで上がってきた水に阻まれて思うように前に進めず、ただ体力だけが消耗していく。
「先輩! リサデルさん! どこですか!」
大声で呼びかけると「はぁああ~い」と、緊張感に欠けた声が暗闇の向こうから返ってきた。声の聞こえた方向へと目を凝らすと、松明の炎に照らされた猫を思わせる白面が浮かんでいた。
「副長? そこにいるのは副長ですか!?」
「あらららぁ、そこに居るのはシンナバル? あらやだ、不燃ゴミかと思ったわぁ」
ザブザブと水を切って駆け寄ってきたディミータ副長は、松明を持たない方の手で俺の身体を点検するかのようにポンポンと叩いた。
「大丈夫? まだ死んでない? もしくは死にかけ?」
「はあ。まだギリギリ死んでません」
「よろし」
副長は真面目くさった顔で俺の身体を担ぎ上げた。
「あ、あの、副長。アリスとリサデルさんは?」
「バックラーたちが回収したわ。ご心配無く」
細い身体からは考えられない膂力で、水の抵抗すら物ともせずにズンズン進んでいくディミータ副長に、俺は慌てて「待って下さい!」と声を掛けた。
「ちょっとぉ、耳元で大っきな声出さないでよ。人間族と違って敏感なのよぅ、私」
「まだシロウさんが戦ってます。手助けして下さい!」
「ん、ダメダメ。『回収品』の目録に入ってないし」
「目録? どういう事ですか?」
「長老会議から受け取った命令書には、リサデルとアリス。それからシンナバル、あんたの名前しか書いて無かったし」
「そんな! どうして!?」
「っさいわねぇ。耳元で騒ぐなって言っただろうが」
「じゃあ、あの、セハトは……」
「セハト?」
前触れも無く、ディミータ副長の足が止まった。水中の何かに躓いたのかと思ったが、どうやらそうでは無かったらしい。
「副長? どうかしましたか?」
考え込むように動きを止めたディミータ副長の表情は、担がれている俺からでは窺い知れない。ただ、長い尻尾だけが、ゆらりゆらりと揺れていた。
「ねえ。セハトって、あのチビっちゃいの? ホビレイル族の?」
「はい、そのチビっちゃいホビレイル族のです」
「あら。そのチビっちゃいのなら、さっき……」
徐々に消え入るような副長の声が不穏な色を帯びる。
「ははあ、そうか。そういう事だったのね……ふふう、うふふふふふう」
手にした松明を投げ捨て、副長は俺を担いだまま駆け出した。
途切れる事の無い不気味な含み笑いに、俺は不吉な予感しか抱けなかった。
エピローグに続きます。