第178話 終末へのクワイア
じわり、と熱を帯びてきた右拳を握り締めながら、もう一度少年の声が聞こえないかと耳を澄ましていると、少年の声の代わりにアッシュの怒声が耳に飛び込んできた。
「アリス、待つんだ!」
光の波動で負ったはずの怪我の影響を、微塵も感じさせない足取りで歩くアリスに向かって、アッシュが一方的に怒鳴りつけている。
セハトの安否も気にしないで、二人して黄金の剣に向かっていると思っていたのは、どうやら俺の勘違いだったようだ。
「あの剣は何かがおかしい! 行っては駄目だ!」
尚もアッシュは声を張り上げ、アリスの肩を掴んで引き留めようとしていたが、彼女はその手を振り払いもせずに龍の遺骸へと辿り着いた。
どうしたんだろう? いくら鍛えているとはいえ、重たい鎧を着込んでいる上に左腕が異形と化したアッシュを引き摺りながら前進するなんて……まるで何かに取り憑かれたような――――
「取り憑かれて……って、まさか!?」
嫌な予感に駆られて走り出しかけたが、ついに膝上まで上がってきた水に阻まれて、そう簡単には足が捌けない。それでも俺は焦る気持ちを抑えて水を蹴り上げた。
「マズい……あれは絶対マズい」
猫の森で見た、あの『猫の姿見』が脳裏に浮かぶ。もしかして、アリスはあの時の俺と同じように、黄金の剣に魅入られ、呪われてしまったんじゃないだろうか?
「リサデルさん!!」
もし、そうだとしたら、掛けられた呪いを解呪できる神聖術師の出番だ。
そう思い立ち、すぐ傍にいたリサデルに声を掛けて――――そのまま足が止まった。
「無力な女王は泉を去り 剣は再び引き上げられた」
リサデルは見えるはずの無い大空に向かって両手を広げ、抑揚が無いくせに妙にハッキリした声で歌い始めた。
「死せる妃は瞳を開き 朽ちた腕で王を抱く」
「リサデルさん?」
「等閑にされた者は 有るべき姿を取り戻した」
その歌声に酷く不吉なものを感じて、俺はリサデルの肩を掴んで強く揺さぶった。
「ちょっと、どうしたんですか!?」
首が前後にガクガクするほど激しく揺さぶっているにも関わらず、リサデルの歌声は少しも揺るがない。
「天地を支える六柱 忘却された七柱に 王は己の名を刻む」
「リサデルさん、聞いてますか!?」
心配になってリサデルの顔を覗きこむと、強い意志の籠った真っ青な瞳が見返してきた。
光を返さない、深すぎる海のような色に圧倒されて細い肩から手を離すと、リサデルの歌声に黄金の剣から漏れる声が重なり始めた。
折れた羽根は太陽を目指す
お前の翼ならば届くだろう
狂いし王は歓喜に震え
民に滅びを分け与える
葡萄の木々は枯れて果て
実は熟さずに地へ落ちる
従順なる犬は炎を以て
迷える民を追い立てる
祭典は終わることを知らず
王は惜しみなく贄を捧げた
水面を、岩壁をも震わす合唱に怖気が走る。それは学院で聞いたことのある『神聖祈祷』と良く似ていたが、そこには調和なんてものは無く、ただ声の大きさを競い合っているだけに聞こえた。
***我ら祭祀なり 我ら聖書記なり 我ら神意を告ぐ者なり***
割れんばかりの大合唱に合わせて、黄金の剣が放つ輝きが増していく。
ピクリとも動かないドラゴンの背に乗ったアリスは、公園に置かれた遊具で遊ぶ子供のようにグイグイと登り、黄金の剣へと手を伸ばした。しかし、その手が剣に届く寸前、アッシュの右腕がアリスの身体を背後から抱きすくめた。
「アリス! それに触れるな!! リサデル! その歌を止めろ!!」
アッシュは、もがくアリスを押さえつけながら声を荒げた。だが、リサデルは歌うのを止めないどころか、より高く、より大きな声を張り上げた。
「王は冠を望まず ただ剣のみを求める」
音程とリズムが合っているだけで、抑揚も情緒も無い歌声に鳥肌が立つ。こんなの、とてもじゃないが俺たちの命を幾度となく救ってくれたリサデルの歌声とは思えない。これはまるで……死者の歌だ。
もしかして、リサデルすらもあの黄金の剣に操られているのんじゃないか? そう思ったが、間違いなく合唱を導いているのはリサデルの声だ。彼女は自分の意志でもって、この不気味な合唱団をコントロールしているとしか思えない。
「まさか、こうなる事を知ってたのか? リサデルさん、答えろよ!!」
どんなに強く問いかけても、一心不乱に歌い続けるリサデルからの答えは無い。
***王の手に剣を! 王の手に剣を! 王の手に剣を!***
その間にも、いよいよ合唱は渦を巻くように大きくなる。水は波立ち、空気がビリビリと震えだす。
俺は耳を塞ぎたくなる衝動に耐えて、黄金の剣を睨みつけた。アリスにあの剣を触らせてはいけない。
「リサデルさん、ごめん!」
血を吐くような声で歌い続けるリサデルを思いっきり突き飛ばし、俺は全力でアリスの元へと急いだ。
「シロウさん、あの剣は恐らく呪物です! 早くアリスを遠ざけないと!」
ドラゴンの背中に足を掛けて「シロウさん!」と、いつもみたいに目を閉じ佇んでいるシロウに声を掛けると、隻眼のサムライは眼帯をしていない方の目を細めて俺を見た。
「……どうやら未だにシンナバルのままのようだな」
「シロウさんも俺の知らない事を知ってて、そして黙っていたんですね」
「主ではあの剣には勝てぬぞ」
「そうやって……そうやって皆、分かった風な事ばかり言いやがって!!」
もどかしくって叫び出したくなるような怒りの衝動に『錬金仕掛けの腕』が反応する。
一瞬のうちに燃え上がり、渦巻く火炎が巻き付いた銀の腕に「信じられるのはお前だけだ」と、心の中で呼びかけた。
――――燃やせ
分かってるよ。あの剣を燃やせばイイんだろ、相棒。
岩場みたいなドラゴンの死骸に手を掛け登って行くと、目指す頂上、それは両断されたドラゴンの顔面だった所でアリスとアッシュが争っていた。
「あれは……あの剣は……」
俺たちが龍の角だと思っていた物こそが、黄金の輝きを放つ大剣だった。それは向こうが透けて見えるほどに透明な剣身を持つ、まるで宝石で出来た剣。
ズキッ、と頭ン中を走った痛みに顔を顰めつつも、どこか見覚えがある剣の記憶を漁った。それはヴァーミリアンの……そうじゃない、もっともっと身近な所だ。
「アリス、その剣はダメだ。正気に戻ってくれ」
アリスの両手は、すでに剣柄を握り込んでいたが、柄頭に置かれたアッシュの右手が黄金の剣を引く抜く事を阻んでいた。
「ふふっ。正気に戻れなんて、アッシュでも冗談が言えるのね」
全力を込めているのだろう、ぶるぶると震える両腕とは裏腹に、アリスは無邪気な幼女のようにクスクス笑った。
「私は正気よ。この上なく正気」
「ならば、その剣から離れるんだ」
「イヤよ。絶対にイヤ。欲しい物を欲しがる事の、いったい何が悪いと言うの?」
「その剣は人間族の、いや、人が手にして良い代物ではない」
「もう、そんなことを言って。アッシュ、本当は貴方も欲しいんでしょう? だって、これが欲しくって学院都市まで来たんだもんね」
ちろり、と舌先だけを出して、アリスは悪戯っぽく桃色の唇を舐めた。その妖艶な仕草は、歓楽街で見かける客引きを連想させた。
「アリス、それは違うな」
らしからぬ仕草に怒りを覚えたのか、アッシュの声のトーンが一段低くなる。
「確かに僕は黄金の剣を求めて学院都市に来た。だが、僕にはもう、それは必要無い。僕は他に欲しい物を見つけたんだ」
「うふふっ。それってリサデルのこと?」
「……」
アッシュは上から抑え込んだ柄頭から顔を動かさず、目だけを動かした。その目の動きを追うと、シロウに助け起こされているリサデルの姿が目に入った。
「否定はしないが、少し違う」
薄く笑ったアッシュの顔は、いつもの気取った微笑みでは無く、やけに自然な笑顔だった。
「それはもう手に入っているようだけど、触れられないからこそ愛おしい。僕はそれを見つけたんだ。だから、僕には剣は必要無い」
「そう、とってもロマンチックね……でも」
アリスの口調が変わった。
「それすら欲望の一つと知れ」
それは上位者が下位の者に命令を下すような、女主人が下男に下すような蔑んだ響き。
「この剣に触れてやっと気が付いたわ。貴方にこの声、聞こえるかしら?」
「声だって? アリス、何を言っているんだ?」
「聞こえないの? 剣に込められた無数の渇望が。無限の絶望が」
「アリス……君は……」
「私には分かったの。希望も野望も欲望も、祈りや願いも……そうよ、愛ですらも全ては呪いと同じこと」
握った剣柄に涼しい顔をして力を込めるアリスと、額に玉の汗を浮かべて必死の形相で柄頭を押えるアッシュ。
対峙する二人の姿に気ばかりが焦る。もう少し、もう少しで頂上に手が届く。早くあの剣を焼き尽くさなければ。
「私は今まで沢山の物を奪われてきた。暖かいベッドも、レースがいっぱいのドレスも、美しい薔薇の園も、大事にしていたウサグルミも、優しかったお姉さまも、私を護る騎士団も、お気に入りの侍女も、自分の名前ですらも!」
アリスは左手を剣柄に残したまま、右手を高く振り上げた。
「ねえ、奪われた物を取り返す事の何が悪いの? 私は自由が欲しい。シンナバルを愛してるの。だから欲しい。とても欲しい。すごく欲しい。欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲し」
狂ったように繰り返すアリスの姿に、俺は瞬きを忘れた。それはアッシュも同じなようだった。
「リサデルは大切。欲しい。セハト大好き。欲しい。ルルモニ可愛い。欲しい。でもね、アッシュ」
掲げた右手に凄まじい魔力が集まっていく。アリスの頭上に集った精霊たちが互いに衝突し、閃光を放ちながら消滅する。その時に発生する、膨大なエネルギー。
それは全てを穿ち貫き通す、英雄遺物『女神の聖槍』――――
「貴方は要らないわ」