第175話 水晶のドラゴン
「セハト、あれが何だか分かりますか?」
隊列の前に出たアッシュが、水面に浮かんでいるようにも見える光りの源を指差した。
「ダメ、遠すぎる。あと半ブロックは近づかないと」
首を横に振ったセハトに、「分かりました」と答えたアッシュは、すぐさま振り返って指示を出した。
「全員、最大警戒時の隊列を組み、あの光に向かって直進。障害を敵と見做した場合、各自の判断で先手を取るように行動を」
皆に合わせて、俺も「了解」と応えて隊列の持ち場に付いたものの、慎重派のアッシュにしては珍しい指示がどうにも引っ掛かった。いつもなら「敵勢力を見極めてから」とか「相手の出方を次第で」とか言うのにな。冷静沈着なアッシュでも、地下訓練施設の最下層である地下七階の雰囲気には敏感になっているのだろう。
「イヤな感じの光」
ぼそりと一言呟いて、アリスは担いでいた長槍を両手に持ち直して歩き始めた。
槍の穂先が不安定に上下する。機嫌が悪い時の仕草。
「嫌な感じ、ですか?」
「……暖かさを感じない光。嫌い」
不機嫌さを隠さないアリスの声に、進む先、まだ遠くに見える黄色を帯びた光に目を凝らした。ゆっくりと明滅するその輝きに、何となく路地を照らす街灯を連想した。
「先輩、あれって何だか魔陽灯に似て――――」
自分で言い掛けて、自分でハッとした。
俺はあの黄色い光を何処かで見たことがある。
そう古くない記憶を探ろうとすると、目の奥にズキッとした痛みを覚えて、その場に立ち止まってしまった。
「どうしたの? 大丈夫?」
バシャバシャと水を蹴りながらアリスが駆け寄ってきた。
「痛つつ……大丈夫、です」
差し延ばされたアリスの手を取ろうと右手を伸ばすと、甲に埋め込まれた赤い水晶が目に入った。
――――いくな
右手に宿る赤い光を意識した途端、耳打ちするような小さな声が聞こえて、ふと周囲を見渡した。
そんな俺を不審に思ったか、アリスが「どうかした?」と心配そうな顔をして覗き込んできた。
「先輩、いま、何か言いました?」
「え? 『どうかした?』とは訊いたけど」
「いえ、その前です。『行くな』って、言いませんでしたか?」
「そんな事、言ってないよ」
不思議そうな、不安そうな顔をしたアリスに向かって、「すいません。たぶん、空耳です」と笑って誤魔化した。
「それなら良いけど……」
固さを感じる笑顔を浮かべて、アリスは持ち場へと戻って行った。
アホか俺は? こんな時こそ勇気づけるべき『大切な存在』を不安にさせて、どうすんだっての。
自分で自分を叱りながらも、確かに聞こえた空耳が気になって仕方が無い。でも、確かに聞こえたんだ。どこか聞き覚えのある、高くて鋭さを感じる声。
「あれは……島? いや、そんな筈は……」
呻くようなセハトの声に、思索を止めて光の方へ顔を向ける。
島、と先に言われてしまうと、それはもう島にしか見えない。俺の大して良くない視力でも、学院都市を囲む湖に無数に浮かぶ小さな島みたいな一塊が見えた。だけど、あんな輝きを放つ島なんて……
――――ちかづくな
はっきりと聞こえた少年の声に、動いていないはずの俺の心臓が大きく跳ねた。思わず右手を胸に当てると、まるで脈動するかのように赤い光が明滅を繰り返していた。
「あれは……!?」
スワンソングの頭部に埋め込まれていた金色の魔術符号。あの混じりっけの無い透き通った輝きと、浮島が放つ光が重なって見えた。
「セハト、あれって魔陽石の結晶かも知れない」
「え? それはどういう――――」
「ちょっと! あの島、動いてない!?」
アリスの声が合図だったかのように、今まで真っ平だった水面が波立ち始めた。
「扇状隊列を取れ! 繰り返す! 扇状に隊列を整えろ!!」
アッシュの号令に、夢に出るほど繰り返し練習させられた扇状隊列の定位置に駆け込む。
魔術発動の準備を始めながら、一塊だった小島が水中へと溶け解れていくような奇妙な動きに目を見張った。
「な、何が起こっているの……」
リサデルの震えた声が耳に入る。
ランタンの光だけでは、その全容までは捉えきれない。
「セハト! 照明弾!」
返事の代わりに、セハトはボールのような照明弾を高々と放り投げた。天井に当たって跳ね返ったボールは、小さな燃焼音を上げながら砕け散り、分裂を繰り返して辺りを昼間のように照らし出した。
「あれは『牛喰い蛇』? それとも、もしかして『巨神の王蛇!?」
「いや、どちらも違う! かなり大きいぞ!」
目が眩むような照明弾の光に、圧倒的な存在感を放つ偉容が浮かび上がる。
激しく波うつ水面に足を取られないように踏ん張りながらも、牛三頭をまとめて丸のみにしてしまうティタノボアを、更に上回る巨体に目を奪われてしまった。
「金色の……」
長大な身体に透き通るような六枚の羽根を大きく広げ、大蛇は天井に届くほどに鎌首を擡げて俺たちを見下ろしていた。
「ドラゴン……」
金色の宝石で出来ているような神秘的な姿に、誰もが身動きすることすら忘れていた。
そこで俺はやっと気が付いた。小島のように見えていた物は、蜷局を巻いた巨大な竜だったんだ。
「皆、しっかりしろ! 気を飲まれるな!!」
怒号のようなアッシュの声に我に返ったが、圧倒的な存在感の前に息を吸うことすら忘れそうだ。
あれは敵なのか……いや、そもそも生物なのか? まるで氷の彫刻のように静かに佇むドラゴンからは、命あるもの特有の『生臭さ』が感じられない。
それでも、ただ穏やかに羽ばたく竜の羽根だけが、この広大な地底湖で動いている唯一の物だ。
***剣を求めるか 有資格者たちよ***
男の物とも女の物とも言えない、大勢が一度に喋っているような不思議な声が辺りに響いた。
声の出処を探ろうと頭を巡らせてみたが、頭上から、足元から、耳の傍から、一体どこから聞こえたのだろう。あるいは、その全てからかも知れない。そんな不思議な声だった。
「私は前王アウルムが三女、アイリスレイア! 我が一族の宝剣、英雄遺物『王の剣』を求めに参った!!」
照明弾に照らされ、大音声で名乗りを上げた、俺の知らない彼女の声。
槍の穂先を足元に突き立て、恐れる者など何も無い、と宣言するような堂々とした姿を、俺はただぼんやりと見つめる事しか出来ない。
***狂王が末か 美しい少女よ***
竜は鼻先に生える鋭く伸びた角を巡らし、アリスに向けた。
対峙する竜と戦乙女。
俺は英雄物語の一幕を見ているような気がしてきた。
***再び流血を求むか 狂王の末裔よ***
「私はそんな物は求めていない!」
***再び大地を戦火に包むのを望むか***
「そんな物なんて望んでない! 私は私である為に剣が、力が欲しいの!!」
訴えるアリスの声に応じるように、大剣みたいな鋭い角が強い輝きを帯び始めた。
その輝きに魔力にも似た圧力を感じ、俺は火炎魔術の発動準備を急いだ。
***なれば欲望のままに手を伸ばすがいい 愚かな娘よ***
「あの光、まずいよ! アッシュ、指示を!」
「前衛散開、先手を奪え! 後衛は僕の背後に!」
ズラリ、と鞘ずれの音を響かせながらアッシュは長剣を抜き放った。
照明弾とランタンと、ドラゴンの放つ光を受けて金色に煌めいた剣身に目が、心が眩む。視界が、心が揺れる。
ちくしょうっ、考えるのは後だ。まずはドラゴンを斃すんだ。他でもない、アリスの為に。
「戦闘開始!!」
アッシュの号令を受けて、水面を蹴ってシロウとアリスが左右に散る。
俺は指示を待たず、即座に完成させた火炎魔術を発動させた。
「突き上げろ! 『猛炎の塔』!!」
水の中に赤熱する右腕を叩きこむと、一瞬のうちに水が沸騰し蒸気が上がる。
息苦しくなるような熱い煙の中、目標とする巨大な蛇のようなドラゴンの周りに、渦巻く火炎の柱が五本、突き上がるのが見て取れた。
「やった! 良いぞ!」
炎の渦に巻き込まれるドラゴンの姿に、思わず快哉の声が漏れる。
炎柱を四本作れれば絶好調の証だったが、五本は新記録だ。さすがは姉さんの最新作!
俺は誇らしい気持ちになって、銀の右手を強く握り締めた。
「次はもっと強烈なのをお見舞いしてやる!」
反撃する時間も余裕も与えないよう、間髪入れずに次の魔術の発動を始めた矢先、ドラゴンを包みこんでいたはずの炎柱が次々と砕けて、シロウとアリスに向かって飛び散った。
「なっ!? どうして!?」
降りかかる炎を受けて水中に倒れ込む二人の姿に、口から勝手に驚愕と焦りの声が漏れた。
「シンナバル! 僕の後ろに! 早く!」
アッシュの声に気を取り直し、大盾を構えた重装騎士の背後に回る。
「お、俺の魔術が……」
「いいから伏せろ!!」
伏せろと言われたのに、俺は思わず真っ正面を向いてしまった。
茫然とする俺の目に飛び込んできたのは、六枚羽を放射状に拡げた美しい竜の姿。そして、金色を帯びた巨大な魔力が宿る角。
「来るぞ!!」
キィィイン、と耳鳴りにも似た高音が聞こえた直後、目を開けられないほどの閃光と凄まじいエネルギーの奔流に巻き込まれ、身体が一回転、いや、二回転した。
全身を焼かれるような灼熱感と身体中の骨を砕くような衝撃に襲われ、水面に叩きつけられる。四肢がバラバラになるような激痛に気が遠くなっていく。
「シンナバル、しっかりするんだ!!」
アッシュに助け起こされながらも、朦朧とする意識の中にリサデルの歌声が響いた。
その天使のような歌声を聴いているだけで、頭がはっきりして来るのを感じた。
「あ、アリスは!?」
リサデルの神聖術の効果だろう、痛みの薄らいだ身体を起こしてアリスの姿を探す。
「大丈夫。彼女は奮闘している」
険しい目をしてアッシュが言う。
長槍を振るい、果敢にドラゴンを攻め立てるアリスの姿に胸を撫で下ろしたが、膝まできている水に足を奪われて思うように戦えないようだ。
シロウは木刀でもって一太刀を浴びせては離れるを繰り返していたが、その動きにいつもの鋭さは見当たらない。
「どうしよう。俺の炎が弾かれた」
自信を打ち砕かれた俺の呟きに、アッシュは苦しい顔をしてドラゴンを睨んだ。
「やはり、あれが伝承に残る『龍』か」
「龍?」
「そう、僕たちが今まで戦ってきた『竜』よりも一段上の存在、それが『龍』です。その中でも、あらゆる魔術を反射すると言われているのが水晶の龍、『レクセリアス』と伝えられています」