第164話 マスターピース
俺の左手は、そこにあるはずの鼓動を捉える事が出来なかった。その代わりのように、外装を外されたアームズの中で赤い水晶が明滅を繰り返している。多分、これが『魔術符号』なのだろう。
床に寝転がる俺の傍に、姉さんは何も言わずに腰を下ろした。それから俺の頭を優しく支え上げて膝枕をしてくれた。
「姉さん……」
鼻孔をくすぐる花の香りと柔らかくて暖かい姉さんの膝に、胸が苦しくなるような切なさが込み上げてくる。だけど、この気持ちですらも誰かに造り出されたものなのだろうか。
俺は左手で顔を覆った。姉さんに顔を見られたくなかったから。
「ねえ、シン」
上から降りてくる声は、限りない優しさが籠っている。
「もしも想いを形に出来るとしたら、どんな想いを形にしてみたい?」
だけど俺は返事をしなかった。
それでも姉さんは話を続けた。
「私は『スキ』って気持ちが、どんな色をしているのか見てみたい」
「……」
「形は、たぶんハート型だと思う」
「……ブふっ」
あまりにも乙女チックな台詞に、つい吹き出してしまった。
「あー! いま笑ったでしょう!?」
姉さんは怒ったように口を尖らせて、膝の上に乗った俺の頭をポカスカ殴りつけてきた。俺は「ごめんなさい、ごめんなさい」と連呼しながら、さりげなく涙を拭った。
「あのね、シン」
殴る手を止めて、姉さんは俺の顔を覗き込んできた。
「錬金人形は涙を流さないの。そういう風には出来ていないのよ」
「そう……なんですか」
自分ではバレていないと思っていたのに、姉さんにはお見通しだったようだ。
「あの子たちの目には、涙を流す機能は搭載してあるの。だけど、私には涙を流す為の『理由』までは与えてあげられなかった」
「りゆう……」
「そう。私には、人が涙を流す『理由』の根源、『心』を作る事が出来なかった」
「こころ……」
『心』ってなんだろう? 涙を流す『理由』? 俺は悲しい時とか嬉しい時に、人は涙を流すんだって知っている。
俺はもう一度、左手を胸に当ててみた。『心』ってのは、ここに宿るんじゃないのか?
なのに俺の左手は、なんにも掴む事が出来なかった。
「姉さん、教えて下さい。俺は何なんですか?」
悲しげな、だけど、研究対象を観察する冷たい目が俺に注がれる。
「人形じゃないとしたら、俺は一体、何ですか?」
観察者は瞳を閉じて、深く息を吐いた。
「貴方に伝えなくちゃいけない事があるの」
「教えて下さい。俺は、俺が何なのかが知りたい」
こくり、と頷いた姉さんは、俺の頭の下に両手を差し入れた。だけど、俺は頭を振って「このままが良い」と、子供みたいに駄々を捏ねてみた。
「うふふっ、甘えているの?」
「何とでも言って下さい。今は、こうしてて欲しいんです」
何故だろう。姉さんに膝枕をして貰うのなんて今日が初めての筈なのに、前にもこんな風に膝枕をして貰いながら、姉さんと話をしたような記憶がある。
「貴方の髪、大スキよ」
そう言って姉さんは、俺の髪を撫でながら話し始めた。
「それは私がまだ学院の生徒だった頃の話。そうね……私が『錬金術の騎士団』の研究主任になったばかりの頃だったわ」
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「主任! 主任!」
……むうう、うるさいなぁ。昨夜は徹夜だったのにぃ。
「主任! 大変です!!」
……ちょっと静かにしてくれない? 主任、早く名乗り出なさいよ。
「ルルティア主任! どちらにいらっしゃいますか!?」
……そっか。主任って、私だったっけ。
「はぁーい。ここ、ここ。ここにいまーす」
枕代わりにしていた分厚い辞典から頭だけを起こし、机の下からひらひらと手を振ってみせると、昨日に紹介されたばかりの私付けの助手が血相を変えて駆け寄ってきた。
「主任、すぐに来て下さい!」
大袈裟に振った助手の手が、弾みで机の上に積んであった資料の山の一つを崩す。すると、資料と実験器具とお菓子とマグカップが連鎖崩壊を起こし、机の下で仮眠を取っていた私に向かって降り注いできた!
「ひいやぁあ!!」
重たい器具や大量の本の雪崩に巻き込まれまいと、慌てて机の下に避難する。やっぱり災害時には机の下、ってのは正解のようね。
「主任! そんな所で何を遊んでいるんですか!」
「誰のせいでこうなったと思っているのよ!」
ひょろりと痩せた青年助手は、崩落してきた障害物を押しのけて、私を机の下から引き摺り出した。
「まったくもう。それで何? 何がどうして大変なの?」
多分、寝癖で酷いであろう髪を手櫛で整え、辛うじて無事だった眼鏡を机の上に発見して手に取った。
「とにかく向こうで説明します! 今は一刻を争うんです!」
「ちょっ、ちょっと! 眼鏡くらい掛けさせて!」
ぐいぐい強引に引っ張られる先に、白衣姿の研究者たちが右往左往する姿が目に入る。寝起きでぼやけた目を彼らの頭上に向けると、彼らが慌ただしく出入りしている部屋の案内プレートに、『緊急処置室』と書かれているのが読み取れた。
「緊急処置室で何かあったの? 怪我人?」
「そうなんです。『地下』から運び込まれてきたばかりの怪我人が――――」
助手が最後まで言い終わらないうちに、私は白衣の群れを掻き分けて処置室の中に押し入った。清掃局直轄の緊急処置室に運ばれるのは、アルキャミスツの隊員に他ならない。怪我をしたのは誰だろう? ネイト? それともディミータ?
「怪我人はどこ!?」
思わず口から出た上ずった大声に、自分で驚いてしまう。だが、私の危惧を裏切ってベッドに横たわっていたのは、酷い火傷を負った見知らぬ少年だった。
「……この子、誰? 学院の生徒?」
とりあえず、としか言えない程度の応急処置を施された少年は、すでに手遅れに見えた。真っ赤な髪の色とは対照的な血の気を失った顔色が、それを物語っている。
「可哀そうだけど、楽にしてあげた方がその子の為じゃないかしら」
入れ替わり立ち代わりに治療にあたっているスタッフたちに声を掛けてみた。彼らがやっているのは、もはや治療というよりも無理矢理に延命しているようにしか見えない。
「それがなんですが、『どうにかして生かせ』との命令なんです」
ようやく追いついてきた助手が、忙しない施術者たちに代わって返事した。
「命令? どの系統からの? アイザック博士なら先週から海王都に出張中のはずだけど」
「長老会議です」
「長老会議が? でも……」
私は改めて少年の姿をまじまじと眺めてみた。少女と見間違えそうな顔立ちだけど、治療の為に服を脱がされた痩躯は確かに男の子のものだ。
「どっちにしても助かる命とは思えないわ」
少年が右半身に負った無残な火傷は、誰が見たって致命的だ。特に右腕の火傷は焔熱性に診て取れるが、どれほどの高熱に晒されたのだろう、それはもう火傷と呼べるレベルでは無い。すっかり炭化してしまった腕に、枯死した木の枝を連想した。
「あら……何かしら?」
火傷の具合よりも腕一本をここまで焼き尽くした火力に興味が湧いて、焼け焦げた右腕をじっくり観察していると、少年の拳の中から赤い光が漏れ出ている事に気が付いた。
何故だか心惹かれる光の源を確かめようと真っ黒に焼け焦げた手に触れたその時、少年の身体が激しく痙攣を始めた。
「熱傷性ショック! 鎮静剤投与静注、急げ!!」
近くにいた治療スタッフに指示を出しながらも、輝きを握り込んだ拳を解そうと手を掛けた途端に、焦げた指の数本が脆くも崩れてしまった。それでも辛うじて残った指は、赤い光を固く握り締めたまま放そうとはしない。
「これはまさか……」
少年の身体を傷付けてしまった罪悪感よりも、指の隙間に垣間見える赤い結晶体への興味の方が数倍勝った。
「こんなに大きいのは初めて見た。でも、どうして赤いのかしら?」
緩やかに明滅する結晶に眼鏡のフレームが当たるほどに顔を近づけると、数式を一瞥しただけで近似値が思い浮かぶ、あの感覚に似た直感が頭の中を突き抜けた。なるほど、この赤い両剣水晶が少年の命を繫ぎ止めているのね。
脳内に次々と仮説が構築されていく疾走感にも似た快感に浸っていると、鎮静剤の効果が出たのか少年の痙攣が治まった。
「ねえ……さん」
空耳にしては妙にハッキリとした声に、脳内を駆け巡る思索を中断して声の出所を探った。すると、少年の双眸が私に向けられていた事に気が付いた。少年の瞳の色と両剣水晶を交互に見比べる。同じ色だ。
「君、自分の名前、言える?」
瀕死の状態から意識を取り戻した生命力に驚嘆しながらも、直ぐに瞼が落ちかけた少年の頬を叩いて呼びかけた。少年は「ねえさん、さむいよ」と、まだ幼さの残る声で返事をした。
「大丈夫よ。姉さんが傍にいるわ」
私は少年の頭を胸に抱きながら、大声で話し掛けた。
「教えて。姉さんは、いつも貴方を何て呼んでいたかしら?」
少年の口が微かに動く。ヴァン、という小さな声が耳に残った。
「ヴァン? それが貴方の名前なのね?」
少年は幸せそうに微笑みながら、最後に「ヴァーミリアン」と一言呟いて、再び意識を失った。
「へええ。大したものですね」
少年の頭を抱いたまま首だけで振り返ると、助手がさも感心したような顔で立っていた。
「本物の医療者みたいでしたよ。さながらルルティア女医ですね。僕も診てもらいたいなぁ」
「無駄口を叩いている暇があったら、予備の『錬金仕掛けの腕』を持ってきて」
「は? ネイト隊長の、ですか?」
「それ以外のアームズがどこにあるのよ。急いで!」
私には予感があった。今、研究している錬金人形の技術を応用すれば、この少年を蘇生する事が出来る。
私は確信を持って輝く結晶に目を向けた。これさえあれば、必ず上手くいく。これはきっと、私の最高傑作になる。