第163話 ひとつの悲しみ ひとつの願い たったひとつの真実
「――――っ!? くそっ、動け!!」
どうした事か、女の白い喉を掴む寸前で手が勝手に止ってしまった。
まるで言うことを利かない腕にイラついて右腕を殴りつけてみる。だが、左拳に撥ね返ってきた金属的な感触に違和感を覚え、女の喉を凝視していた目を右腕に向けた。
「なっ、なんだよ、これ!?」
僕の右腕が機械になっている!?
機械弓と甲手が組み合わさったような機械仕掛けの腕に本能的な恐怖を覚え、無理矢理に腕を外そうと試みた。だけど、どんなに力を入れて引っ張ろうが腕の付け根が痛くなるばかりでビクともしない。
「それは自分で外せるような物では無いわ」
自棄になって滅茶苦茶に腕を振り回す僕に、女は椅子に座ったまま観察するような視線を投げかけてきた。
「なんだと……」
女の冷めた視線に釣られて自分の右腕に目をやると、バネや歯車の中に埋れた赤い石が脈打つように明滅していた。
「お前がこんな物を僕に取り着けたのか!?」
まるで剥き出しになった心臓みたいな赤石に言いようの無い不気味さを覚え、僕は叫ぶようにして女を怒鳴りつけた。
「今すぐ外せ! さっさと元通りにしろ!」
「そんな事をしたら、貴方は三十秒と待たずに死ぬわ」
「でたらめを言うな!!」
ちくしょう、右腕が動かないからって何だ。左手一本でも、その澄ました顔をグチャミソに叩き潰して、そこらの本の上にお前の脳髄ブチまけてやる。
「ふん……もういいや。殺してやる」
僕は明確な殺意をもって、女の顔を睨みつけた。
先ずはその尖った顎をバキバキに砕いて、それから真っ直ぐな鼻筋をガタガタにしてやる。そしたらどんな声で泣くんだろうな。その次は眼球を抉り出して――――
「――――姉さん」
ゾクゾクするような想像を巡らせていたはずなのに、思いも寄らない声が勝手に漏れた。思わず左手で口を押えたが、レンズの奥に見える涙黒子から目が離せない。
「違う! お前は僕の姉さんなんかじゃない!!」
目の前の顔色の悪い女は、姉さんと同じところに黒子があるだけの別人だ。そうだ……良い事を思いついたぞ。顎を砕くのは後にしよう。真っ先にその目障りな黒子を顔の皮ごと毟り取ってやる。
喉の奥から「くくっ」と忍び笑いが漏れた。
綺麗なモノを、誰もが目を背けるくらいに汚すのはとても気分が良い。
美しいモノを、元の形が思い出せないくらいに破壊するは凄い快感だ。
「死んじまいなァ!」
数秒後には約束された素敵な惨状を思い浮かべて、僕は床に散らばった本を蹴って女に飛び掛かった。
今度は役立たずの右腕はもう使わない。自由な左手を猛禽の爪みたいに開いて女の顔に掴みかかる。さあ、豚みたいな悲鳴を上げろ!!
「スワンソング!!」
だが、女は想像していたのとは全然違う、凛とした声を上げた。その声を耳にした途端、『岩喰猪』の突進のようなタックルが横っ腹を襲った!
「なっ、なんだ!?」
猛烈な体当たりに押し倒されながらも、正体不明の敵に掴みかかった。だが、僕の身体の上に馬乗りになった敵の、異様なまでの圧力に抑え込まれて身動きすらままならない。なんだ、この怪力は!? イノシシじゃないとしたら『黒鉄の猿人』か!?
「マスター、御命令を」
トーンの高い、だけど抑揚の無い少女の声。
僕の胸の上に跨る敵の姿が、やっと確認出来た。また女か。どいつもこいつも舐めやがって。
「活動不能になるまで疲弊させて。出来る?」
「はい。五分ほどお時間いただければ可能かと」
「脳とアームズだけは壊さないで。後はどうにでもなるわ」
「了解、マスター」
二人の女が意味の分からない事を話し合っている。だけど、椅子の上で足を組んだ眼鏡の女と、生気のない目で見下ろしてくるメイドが、僕をやっつける相談をしているのだけは分かった。
「上等だよ! お前らァ!!」
全身に殺意を漲らせると、今まで僕のいう事を利かなかった右腕がやっと動いた。
マウントポジションを取られながらも機械の右腕でもってメイドの胸部を殴り付けると、怪力に反して軽い身体が後ろに仰け反った。
その隙を逃がさず、メイドの身体の下から抜け出して反撃に移る。
「――――潰れろッ!!」
立ち上がりかけた少女の横っ面に渾身の右フックを叩き込むと、今度は少女の身体が本の山の中に突っ込んだ。
僕は無理に追撃せずに、機械の右腕の動きを確認した。
「ハハッ! なかなか良い感じじゃないか。この腕」
さっきまでのが嘘みたいに動くようになった右腕に満足した。これは良いや。格闘戦はイマイチ苦手だったけど、この鉄の塊みたいな右腕があれば、手元に剣が無い時でも闘えるぞ。
気分良く右手を握り締めていると、壁に走る金属製のパイプが目に入った。
パイプに右手を掛けて軽く力を入れただけで、小枝を折るみたいに壁からパイプを折り取る事が出来た。
「ふふん、これは丁度良い。お前らを撲殺するのにピッタリだ」
僕はパイプの長さと重さに満足して、手首の返しだけで振り回してみた。ブンブンと空気を切る音が心地良い。
「さァて……遊びは――――」
腰だめにパイプを構え、本の山から立ち上がったメイドに突進する。
「終わりだ!!」
手加減無しの水平薙ぎを細い胴体に打ち込む。
「泣け! 叫べ!」
咄嗟にガードしたメイドの細腕に鉄パイプがめり込んだが、奇妙な手応えが掌に残った。だが、迷う時間が惜しい。ここは勢いに乗って仕留めるのが正解だ。
「そして死ね!」
鎖骨と肋骨の粉砕を狙って袈裟切りと胴薙ぎを連続で叩き込む。このメイドはパワーこそ異常だが、身体が細くてウェイトが軽い。さっさと全身の骨を砕いて動けなくしてやる。
だが、相変わらず手に返ってくる感触は、柔らかな女の肉体を殴打する爽快なレスポンスとは全く違う。これは木人形を相手に木剣を打ち込んでいるような――――
「――――なにっ!?」
一瞬の逡巡の隙に、少女のローキックに足首を刈り取られる。咄嗟に踏みとどまった所に凄まじい速度の回転蹴りが飛んで来た!
身を投げ出して蹴りを回避したつもりだったが、空を切った蹴り足を軸にもう一回転した少女が追撃してきた。遠心力で重さを増した激烈な一撃を喰らい、僕は無防備な姿勢のまま壁に激突するしかなかった。
「くそっ……どうなってんだ」
崩れた壁が瓦礫となって、床に倒れた僕の身体に降り注ぐ。
鉄パイプを杖の代わりに立ち上がったが、メイドは脱力したような姿勢のまま瞬きもせず、ひたすらに僕の顔を見つめてきた。光のない瞳には、殺意や闘志みたいなものが欠片も感じられない。そこにはただ暗い穴が空いているだけにも思えてきた。
鳥肌が立ち、首筋がピリピリする。こんなの北の大森林で『陸王熊』と闘って以来だ。あの時はどうやって仕留めたんだっけ?
「三分経ったわ。白鳥の歌」
こんもりした丘みたいな巨体の灰色熊と殺り合ったのを思い出していると、眼鏡女が声を上げた。
「桜華と秋華を呼ぶ? それとも菊華の加勢が必要かしら?」
「ふふっマスター、御冗談を。姉さまの手を煩わせるなど」
ここまでずっと無表情を貫いていた少女が、頬を緩めてコロコロと笑う。
「残り一分四十秒、対象を沈黙させるに十分にございます」
頭がカッとなるのを感じたが、このメイドは少女の姿をした怪物だ。甘く見て良い敵じゃない。単体としては今まで闘った相手の中でも最強の部類に入るだろう。よし、右腕一本くれてやろうじゃないか。
シュミレーションが完了した瞬間、ふっ、と少女の姿が視界から消えた。
やばいっ! と思う前に身体が反応する。喉元を狙って突き出された手刀をスウェーで躱し、渾身の力を込めて鉄パイプを振り下ろす。
僕の直線的な攻撃を難なく避けた少女は、右に流れて溜めを作った。
――――もらった!!
読み通りだ! 心の中で快哉を上げ、カウンター覚悟で鉄パイプを振り切る。
少女のハイキックが唸りを上げて飛んで来たが、それより先に鉄パイプは少女の側頭部を捉えた。
それでも少女の蹴りはガードしたはずの右腕ごと僕の身体を吹き飛ばし、再び壁に叩きつけるのに十分な破壊力を持っていた。
――――手応えは、あった
ガラガラと音を立てて降り注ぐ瓦礫に全身を打たれながらも、手に残った感触に勝利を確信する。だが、舞い上がる粉塵に霞む視界の向こうに信じられない光景を見た。
何事も無かったかのように、少女はそこに佇んでいた。ただ、首が有り得ない角度に折れ曲がっているのを除いては。
胴体からぶら下がるような形になった頭は明後日の方を向いたまま、空虚な目だけが僕に向けられている。
「なんだ、土塊人形の類だったのか。最近のは良く出来てんな」
ようやく奇妙な手応えの正体が分かった。僕は今まで人形相手に踊ってたのか。
「……馬鹿にしやがって」
その身のどこかに隠された『魔術符号』を破壊しない限り、ゴーレムは倒れない。とんだムダ骨を折らされてた、ってワケだ。
僕は怒りと殺意を込めた目を眼鏡女に向けた。『命令者』が死ねば、ゴーレムは『最終命令』を繰り返すだけだ。だったら女を殺してから、メイド人形は後でゆっくりと破壊してやる。
「終りにしてやる」
メイドに突撃すると見せかけて、僕は未だに椅子に座ったままの女に向けて跳んだ。
その動きに、メイドの反応が一拍遅れる。
生れてきたのを後悔するくらいの苦痛を味あわせてやるつもりだったのに、すっごく残念だ。せめて亡骸だけでもグチャグチャに穢してやるとするか。
「五分まで、あと十秒」
僕が目の前に立っても、笑みを浮かべたまま眼鏡女は観察者の目を向けてきた。その態度が、その笑顔が、その涙黒子が無性に癇に触る。
「じゃあ、僕の勝ちだね」
視界の端にメイドの姿が映る。
だが、もう遅い。僕が鉄パイプを振り下ろす方が速い。
「さようなら。ね・え・さ――――」
カラン、と軽い音が足元から聞こえた。
熟れ過ぎたカボチャみたいに破裂した女の顔を期待していたのに、眼鏡女は顔に薄笑いを張りつかせて僕の顔を眺めている。足元に目をやると、右手に握っていたはずの鉄パイプが床に転がっていた。
「マスター、お怪我は?」
「大丈夫よ。お疲れ様」
「それで、あの、どういたしましょうか」
「放っておきなさい。じきに落ちるわ」
僕は、僕の首を万力のように締め上げる機械の右手を引き剥がそうと必死に抵抗したが、膝の力が抜けるのを感じた途端、そのまま床の上に倒れ込んでしまった。
土壇場で裏切った機械の腕を霞む目で睨みつけると、毒々しい赤みを増した石が目に入った。その色に僕は、燃えるような憎しみが籠った眼差しを連想した。
「ご期待に添えず、申し訳ございませんでした」
「不手際ね、スワンソング」
「御言葉ですが、私の想定していたシンナバル様の能力を大きく超えておりました」
「ふふっ、それはそうよ。この子はシンじゃないもの」
なにを、はなしてんだ、こいつら……
ぼくは……そんな…………なまえじゃ………………
「――――ねっ……ねえ、さん……」
首に食い込んでいた『錬金仕掛けの腕』を外すと、死ぬかと思うほどに咽せ込んだ。
俺は寝転がったまま、肺がパンクするんじゃないかと思うほど空気を吸いに吸い込んだ。
「マスター、シンナバル様がお気付きのようですが」
「そう、思っていたより早かったわね。スワンソング、例の物を用意して」
「かしこまりました」
パタパタと慌ただしい足音が遠ざかっていく。その音と入れ替わるようにして、姉さんの足音が近づいてきた。
「気分はどうかしら?」
「最悪です」
勝手に涙が溢れてきて、耳へと流れていくのを感じた。
悲しいのか何なのか、もう俺には良く分からない。
そもそも人は、何の為に涙を流すのだろう。
「姉さん、一つ教えて下さい」
「……何かしら?」
俺は仰向けになったまま右腕を天井に翳した。両剣水晶は暖炉の炎のような暖かな光を放ち、鼓動のように明滅を繰り返している。
「姉さん、俺は……」
右腕をそのままに、今度は左手を胸に当ててみた。
ああ、どうして今まで気が付かなかったのだろう。
「俺は錬金人形だったんですね」