第156話 猫の森の宿
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前に来た時には木々の葉っぱが青々と生い茂っていたけど、すっかり落葉したな。ずいぶんと見通しが良くなって、何だか違う場所に来たみたいだ。
それにしても冬の森っていうのは静かなもんだな。虫の声どころか、鳥の鳴き声すらも聞こえない。
「まーだーあーるーくーのー」
たまに吹く北風が、辛うじて枝に残っていた枯葉を散らしていく。その乾いた音だけが、森の静寂を破る唯一の音だ。
「あーしーつーかーれーたー」
見えなくなるくらいに石畳を覆う落ち葉を踏みしめると、サクサクとした小気味好い感触が靴裏から伝わってくる。これは都市生活では味わえないな。
「おーなーかーすーいーたー」
冬の森林に漂う清涼な大気と土の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、瑞々しい生気が身体中に満ちてくる。
「さーむーいーよー」
ほうっ、と息を吐くと、湯気みたいな白い息が立ち昇る。なるほど、市街地とは冷え方が違うなあ。
「ねーえー」
歩きながらチラリと振り返ると、耐寒装備に身を固めたアリスの姿が目に入った。
フワッフワした真っ白いコートに揃いのフワッフワの帽子、モッコモコの手袋にモッコモコのブーツ。これにホワッホワした尻尾でも付けてやれば、新種のもふもふした獣人族だ。
……それはそれで、良い。
「なにニヤニヤしてるの?」
「別に何も」
「ふーん。まーいーや。ねえ、休憩しよーよ」
俺は歩みを止めて、さっきっからずっと文句ばっか言い続けているアリスに向き直った。
「先輩……森に入る前に一休みしたばっかじゃないですか」
「だって、こんなに遠いなんて思わなかったもの」
「あと十分も歩けば着きますよ」
「やっぱり君と一緒に病室でヌクヌクしてれば良かったな」
「だーかーらーだーめーでーすーよー」
「まーねーすーんーなー」
俺たち二人は、顔を見合わせて笑いあった。
「でも、一週間も休み取って良かったんですか? 普段から講義に出たり出なかったりな俺はともかく」
「いいのいいの。どうせ二、三日は学院祭の片付けだし、長老会議の命令で『地下』も立ち入り禁止になっちゃってるし」
「あのう、先輩の友だちの……騎士科のお姉さんたち、ホントに怒ってませんでしたか?」
「事情を話したら凄く心配してたよ。病み上がりの子に無茶させたって、みんな反省してた」
「そうですか……」
つい、アリスの頬に目が行ってしまう。
すでに頬の腫れは引けていたが、俺が彼女を殴り飛ばし、蹴りつけた事実に変わりは無い。
「あ、見て見て! あそこにも猫の置物!」
「ええ、なんせ『猫の森』っていうくらいですから」
ともすれば落ち込みがちになる俺に、今日のアリスは務めて明るく振る舞ってくれているように感じる。それがかえって申し訳ない気持ちに拍車をかけた。
「さあ、行きましょうか。あともうチョイです。頑張って下さい」
自分を励ますように言ってから、いったん地面の上に置いた一週間分の荷物を担ぎ直した。
「ねえ、シンナバル。手、繫ぎたい」
「あのう……これ見てお察し下さい」
両手に持った鞄を、持ち上げて見せつけてやった。どちらも中身はアリスの着替えでパンパンだ。
「もう、仕方ないなぁ。一つ持ってあげる」
「そういう事、良く言えますね。これ、先輩の鞄でしょ」
アリスは、とととっ、と駆けてきて俺の左側に並び、腕を絡ませてきた。
「さ、行こ行こ」
「けっきょく鞄は俺が持つんすか……」
昨日のアレ以来、常にお姉さん風を吹かせていたアリスが妙に甘えてくるようになった。別に嫌という訳では無いが、どうにも慣れなくて変な感じがする。
「ちょっと先輩。あんまり寄りかかって来ないで下さい」
「えー、いーじゃんケチ」
「歩き難いんで、せめて歩調くらい合わせて下さいよ」
「歩調を合わせる? こうかな? こんな感じ?」
「そうそう、その調子。先輩、上手ですよ。はい! いっちに、さんし、いっちに、さんし、と」
基本、体育会系なアリスを調子に乗せて二人三脚よろしく歩いて行くと、木々の合間に目指す建物が見えてきた。
「ほら、先輩。見えてきましたよ。あれが例の猫屋敷です」
「もう着いたの? せっかく楽しくなってきたのに」
「……ホント、現金な性格ですよね」
「ん、何か言った?」
「別に何も」
「ふーん。まーいーや。って、あれ……」
森が切れると、そこにはちょっとした庭園が開けていた。こじんまりとした屋敷を中心に色鮮やかな花々が一面に植えられ、そこかしこに猫のオブジェやガーデンテーブルが点在している。
遮る木々のない庭園には穏やかな陽光が降り注いでいて、此処だけ季節が違うんじゃないかとさえ思えた。
「うわぁ、すっごい! きれい!」
絵に描いたようなフラワーガーデンを前にしたアリスは、歓声を上げてひとり駆けて行ってしまった。その背をやれやれと見送り、よいせっと背にした荷物を跳ね上げて担ぎ直す。
「早くおいでよー!」
「はいはい、今すぐに……ああ、これは確かに綺麗だ」
俺は荷物の重さも忘れ、手入れの行き届いた庭園を見渡した。
灰色の森に突如として現れたような庭園を彩る花々は、たぶん冬場に強い種類なのだろう。北風にそよぐ花弁と、ピンとした葉っぱからは力強ささえ伝わってくる。
「見て見て、あそこ! 噴水もある!」
嬉しさを抑えきれないように飛び跳ねるアリスを目指して歩いて行くと、そこには腰の高さ程度に噴き上がる、小さな噴水が設けられていた。
「先輩、落ち着いて。あんまり近づくとコートが濡れますよ」
言った先から跳ねた水飛沫が、見るからに高級そうなコートの裾を濡らしている。
――――企画と設計はルルティアさんだけど、庭のデザインはボクが考えたんだよ!
自慢げに語るセハトの顔を思い浮かべながら、噴水から溢れ出た水の行方を目で追ってみる。水は石畳の上に模様のように刻まれた溝を伝って、花畑へと流れ込んでいるようだ。
「……なるほど、これなら水遣りの手間と人手が省ける」
こんな時期にも豊かな水量を誇る噴水には、当然、錬金術が利用されているのだろう。農業に魔術を活かしたいと考えているモディアに見せたら、あいつどんな顔すんのかな?
ルルティア姉さんは「世界を変える発明をしたい」って、口癖のように言う。姉さんが作った錬金アイテムは、人を喜ばせたり楽しませる物ばっかりだ。きっとルルティア姉さんなら、世界を変えることが出来るんだろうな。
「ちょっと、なにボケっとしてるの」
「ああ……すいません、すぐ行きます」
「ほら、見て。こんなところにも」
アリスが指差した噴水の縁石には、猫の顔を模したレリーフが刻まれている。それだけじゃない。この庭園、いや、この森は、どこを切っても猫が絡んでいるんだ。
「セハトって猫好きなのね」
「あいつは猫だけじゃなくて、動物全般が好きなんです。ちょっと一緒に来てもらえますか」
そう促して、屋敷の脇に寄り添うように立っている大木へと向かい、さてどこだったけ? と、下生えを手で払った。
「あ、ここにも猫がいる」
後ろから付いてきたアリスが、俺より先に目聡く猫のオブジェを見つけ出した。そいつは大木の根っこに埋もれるように、ちんまりと丸くなっていた。
「あの、これはですね……」
「この猫、お昼寝しているみたいね。カワイイ」
「これ、お墓なんです」
「……お墓?」
膝を付いて墓石の周りを掃除しながら、この屋敷の由来をアリスに話して聞かせた。猫好きの女主人が辿った、悲惨な物語を。
「この下にその女性の死体が埋まっている訳じゃないんですけどね。でも、この森で死んだ猫は、ここに埋めてやってるんです。そうすれば……寂しくないんじゃないかな、ってセハトが」
俺の手元を、じっ、と見つめていたアリスが突然、花畑に向かって走って行った。何だろう? と、思いつつ白いコートを見送ると、彼女は一輪の花を手に戻って来た。
「お供えの花、枯れちゃっていたから」
差し出された花を受け取って猫のオブジェの前に供えると、アリスは俺の隣にしゃがみ込んだ。そして、俺たちは互いに頷きあってから、墓石に向かって手を合わせた。
*
「……猫くさい」
ぼそり、とアリスが呟く。
玄関の古びた扉を開けるなり、茶色いのとブチ模様のがニャーニャー言いながら階段を降りて来た。
「うわ、さっそくお出迎え。全部で何匹くらいいるの?」
「さあ? それはセハトに聞かないと。少なくとも五匹はいると思うんですけど、俺にはそれ以上、見分けが付きません」
茶猫を抱え上げたアリスの足元に、ブチ猫が顔を擦りつけている。アリスが猫嫌いじゃなくて助かった。
「外観は古めかしいけど、内装は今風なんだね」
結局は二匹とも抱え上げて、アリスは屋敷の中を見渡した。釣られて辺りに目をやると、捲れ上がっていた壁紙は綺麗に貼り直され、ささくれだって荒れていた床板もすっかり修繕されていた。どこをどう見ても、盗賊団のアジトだった頃の名残は無い。
「結構なボロ屋だったんですよ。ほら、そこの壁、見て下さいよ。俺が直したんですよ、それ」
「ふぅん。ここを別荘にでもするのかしら」
「いや、セハトの奴、この屋敷を旅館にするつもりらしいんですよ」
「旅館に?」
眉を寄せたアリスの顔は、驚いたというよりも、戸惑っているように見えた。
「殺人事件があったような建物を旅館にしたって、お客さん来ないんじゃない?」
「セハトの事だから、経営なんて二の次なんじゃないですか。あいつ、パブロフの為にも広いトコに引っ越したい、って前から考えてるみたいでしたし」
「引っ越し……あの子、魔導院を離れるつもりなの?」
「住み込みオーナーとして旅館をやる、って張り切ってんです。あいつ、休みの日に宿屋でバイトしてるの知ってますよね。そこで宿屋のイロハを教わってるんです」
「……いつから始めるの?」
アリスは猫二匹を抱えたまま詰め寄ってきた。
「地下七階のマッピングが終わったら学院から出るつもりです。『地図が完成したら魔導院にいる理由が無いから』って」
「そんな……せっかく仲良くなったのに……」
力を入れ過ぎたせいか、二匹の猫は居心地悪そうに身じろいで、アリスの腕から零れるようにして逃げて行ってしまった。
「……ひと休みしたら外に出て、魚でも釣りに行きませんか。裏手に良い感じの泉があるんです」
猫が逃げ去った先をぼんやりと眺めているアリスを元気付けようと、魚釣りに誘ってみた。
「ここには保存用の干し肉とか、野菜のピクルスしか置いていないんです。持って来た食材だけじゃあ、晩飯が寂しくなっちゃいますよ」
振り向いたアリスの両目にはじんわりと涙が溜まり、いまにも零れ落ちそうだ。
「あと、猫用のカリカリなら腐るほど在庫があります」
我ながら詰まらない冗談だと思ったけど、いまのアリスに掛ける言葉が見つからない。その点で俺はまだまだ子供だ。
「君はどこにも行かないよね」
アリスは縋るような目をして、言葉に詰まった俺の腕を取った。
「ずっと傍にいてくれるんだよね。約束したよね」
色々とありまして遅くなりました。
ホントはこのパートは一気に書き終えたかったのですが、今年のお盆は仕事が忙しいので、キリの良いトコで投稿しました。
もうしばらく、シンナバルとアリスのイチャイチャ劇場にお付き合い下さい。