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お前ら!武器屋に感謝しろ!  作者: ポロニア
第八章 天の高み 地の深み
155/206

第155話 切れない絆を君と編もう

 瞬く間に紅い炎が肘までを包み込み、音を立てて燃え上がった。

 炎に炙られた右腕からは黒焦げになった肉が炭のように焼け崩れ、象牙色の骨までもが覗いて見えた。


「離すかっ! 絶対に離すもんか!!」


 経験に無いほどの激痛に襲われながらも、僕は指の一本、腱の一筋でも動く限り、姉さんの手を離すつもりは無かった。

 身を焼く苦痛に奥歯を噛みしめ耐えていると、何を考えているのか、さっき蹴り飛ばしてやった女が松明のように燃える僕の右腕にしがみ付いてきた。


「なっ、何を!? 邪魔すんな!!」


 怒鳴りつけて腕を振り払ったが、炎ごと抱きかかえる様にして女は喰らい付いてきた。


「離せよ! 殺すぞ貴様ァ!!」

()れるもんなら殺ってみろ!!」


 (ひる)むどころか威勢よく怒鳴り返してきた女の顔に、姉さんの怒った顔が重なる。


「そん時は、あんたも道連れにしてやるんだからっ!」


 驚いて、物騒なことを捲し立てる女の顔をまじまじと見た。涙に滲んだ勝気そうな緑の瞳は、姉さんのそれとはまったく違う。だけど、この女は……


「……あ、アリス?」

「そうだよ! 私だよ!」

「お、俺は何を?」


 瞬時に炎は消え失せ、鋼鉄の腕は元の姿を取り戻していた。


「良かった……ぐすっ、元のシンナバルに戻った……」


 アリスは『錬金仕掛けの腕』を抱きしめたまま、うわぁーん、と子供のように泣きだした。

 俺は泣きじゃくるアリスを落ち着かせようと、震える背中に手を置いた。だが、手の甲に付いた血液を目にして、すぐに引っ込めてしまった。


「せ、先輩……」

 

 震える声で呼ぶと、アリスは(はな)をすすり上げながら顔を上げた。

 煤にまみれた頬は腫れ上がり、口の中を切ったのか、唇の端からは血が流れていた。それだけじゃない。スーツの胸元の生地が焦げて穴が空き、白い肌に火傷を負っているのが見えた。


「血が、火傷が……」


 俺に言われて初めて気が付いたようにアリスは自分の頬や胸に触れたが、すぐに、はっとした顔をして首を振ってみせた。


「大丈夫だよ。こんなの神聖術ですぐに治っちゃうんだから」

「俺……俺は先輩を」

「ねえ、そんな顔しないで」

「俺が先輩を……こ、この手で」

「シンナバル? 私は大丈夫だから――――」


 待って、と言いかけたアリスの手を振り払い、女性陣の囲みを破って控室から逃げ出した。廊下を行き交う生徒たちにぶつかり、人波を掻き分けるようにして駆け抜けた。

 俺には後ろを振り返る余裕も、立ち止まる勇気も無かった。


「護るって……約束したのに」


 アリスを護ると誓ったはずなのに、その俺がアリスを傷付けた。

 とにかく人の居ない方へと走り、気が付くと総合戦闘科の校舎を抜けて、『地下』への入り口の近くに辿りついた。広いロビーには、座る人のいないベンチだけが静かに並んでいる。

 アリスたちが追ってくる気配は感じない。そこで俺は足を止めた。


「……気持ち悪りぃ」


 病み上がりに走り過ぎたか、それとも魔術を行使したせいか? 

 ……いや、この手で大切な人を傷つけたからだ。


 込み上げてくるような罪悪感と疲労感に、心と身体が悲鳴を上げている。

 疲れ果ててベンチに座り込むと、俺の向かいには装備の確認をする為に置かれた数十枚の鏡が立ち並んでいた。

 青白い顔をした少女が、紅い瞳で俺を見つめている。鏡に向かって笑いかけると、少女も同じく笑い返してきた。


「姉さん」

 

 ゆっくりと呼びかけてみたが、少女の唇も「ねえさん」の形に動いただけだった。


 ――――それ以上は止めろ


 本能がそう警告したが、構わず鏡に向かって「ヴァン」、と知らない誰かの名を口にしてみた。


「姉さんを許して」


 続けて呟いた瞬間、絶望的な記憶の断片が脳裏に蘇った。


 血溜まりの中、溺れるようにのたうつ男たち。

 右手に握るは血塗られた黄金の剣。

 悲痛な色を帯びた女性の叫び声。

 白い指先に宿った紅の炎。

 世界を覆う紅蓮の業火。


 ――――ヴァン


 姉さんの声が聞こえた気がして、鏡を覗き込んだ。それが合図だったように、ずらりと並んだ鏡の中から何本もの白い腕が抜き出て、何十本もの指が俺を求めて伸びてきた。

 突き付けられた無数の指に悲鳴を上げた俺は、恐怖に駆られてベンチから転げ落ち、とにかく鏡から離れようと四つん這いになってもがいた。


 ――――姉さんを許して


 鏡からではなく『地下』の奥底から聞こえてきた声を耳にして、俺は最悪の事実を思い出した。

 

 姉さんは

 俺を殺そうとしたんだ。

 



 



 『地下』から聞こえてくる声から少しでも遠ざかりたい一心で階段を駆け上ると、進む先から清涼な歌声が聞こえてきた。助けを求めるような気持ちで歌声を追っているうちに、気が付くと屋上へ続く階段の踊り場に立っていた。

 歌声は階段を登り切った先にある、開けっ放しにされた扉の向こうから聞こえてくるようだ。俺は導かれるように屋上へと踏み出した。


「誰?」


 誰何(すいか)の声と同じくして歌が止む。冬の夕陽に照らされて、(いぶか)しげな視線を投げかけてきたのはリサデルだった。


「あなた……もしかして、シンナバル?」


 紅い夕陽を背にしたリサデルが、俺に向かって歩み寄ってきた。


「どうしたの? そんな恰好して」


 すっ、と差し伸べられた手に、姉さんの幻が重なって見えた。再び襲ってきた恐怖に堪え切れず、その場にしゃがみ込んでしまう。


「姉さん……姉さんが……」


 膝を抱えて震えていると、頭上から優しい歌が降りてきた。

 天使の歌だ。そう思って顔を上げると、俺の額のあたりに手を翳して歌い続けるリサデルがいた。それが神聖術だと分かっていても、優しい歌声に自然と涙が溢れてきた。


「私が傍にいてあげるから安心して」


 零れた涙が屋上の床に染み込んでいく。もう十分に神聖術は効果を発揮したはずなのに、リサデルは傍でずっと歌い続けてくれた。


「すいません。恥ずかしいトコ見せました」


 やっと気持ちが落ち着いて、よろけながらも立ち上がる。


「何があったの? 言いたく無かったら、言わなくても良いけど」

「俺……アリス先輩を怪我させました」

「どういう事?」


 女装をした自分を鏡で見て姉さんを思い出し、混乱してアリスに怪我を負わせた事をリサデルに説明した。


「少しだけ思い出したんです」


 さっき見たフラッシュバックの内容を、出来るだけ詳しくリサデルに話してみた。

 姉さんに火を着けられたシーンを思い出して再び身体が震えだしそうになると、リサデルは、ぎゅっと俺の身体を強く抱きしめてくれた。それだけでまた涙が出そうになったが、どうにかして堪えてみせた。女の人にそう何度も泣き顔を見せるわけにはいかない。

 リサデルに全てを伝えきると、ちょっとは救われた気持ちになった。これが懺悔というものなのだろうか。


「黄金の剣……」

「え? 何か言いましたか?」

「ん、何でも無いわ。気にしないで」


 それでもリサデルは難しい顔をしていたが、すぐにいつもの柔和な微笑を浮かべた。


「アリスの事は心配しないで。騎士科には神聖術の心得がある子も多いから、火傷も怪我もすぐに手当されているはずよ」

「でも、俺が怪我させた事には変わりはないです。俺、もうどんな顔して先輩に会えば……」

「いま、私に話したみたいに、君の抱えた記憶をアリスに伝えなさい」


 まるで教会の聖職者のようにリサデルは言う。


「君とアリスが互いに魅かれあっているのは知っているわ」

「えぇ!? あぁ、はぁ……」


 顔が赤くなるのを感じる。時刻が夕暮れで助かった。


「君がそこまで罪悪感を感じているのは、それだけアリスが好きだからよ。逆に考えなさい。アリスがいま、どうしていると思う? どんな気持ちでいると思う?」

「……」

「きっと今頃、学院内を走り回って君を探しているわ。もしかしたら泣いてるかも」

「そんな……」

「君が本当にアリスの事を大切に思っているのなら、そんな風に抱え込まないで。一人で解決する、なんて思っているのなら、それはただの我儘よ」

「でも、俺の記憶なんてアリス先輩には何の関係も無いじゃないですか」


 そう言い返すと、リサデルは一瞬、困ったような顔をして、すぐに吹き出した。


「ちょっ、なんで笑うんですか!?」

「ほんと、男の人ってみんな同じね。それとも私の知っている男性が、そうなだけかしら」


 返事に困って黙り込むと、リサデルは笑いすぎたせいで目尻に浮かんだ涙を指で拭った。


「笑ったりしてごめんね。私も昔の事を思い出しちゃった。それでその、『ヴァン』というのは、記憶を失う前の名前なのかしらね」

「それが、良く分からないんです。なんか、途切れ途切れに思い出すんですけど、地下六階に到達したあたりから思い出す事が多くなってきました」

「そう。あまり思い出したくない記憶だったら……辛いね」


 吹き付ける風に目を伏せたリサデルは、自分に言い聞かせたように見えた。

 魔導塔から吹き返してくる風は、厳しくて鋭い。


「忘れたままの方が良いんでしょうか」

「真実というものは、時にとても厳しいの。思い出したくもない過去って、誰にでもあるものよ」

「リサデルさんにもあるんですか」

「当たり前じゃない。私だって人間よ」

 

 真っ当な人生を真っ正直に直進しているようにしか思えない寮長リサデルにも、思い出したくない過去があるのだろうか。


「でもね、逃げ回るような男になっちゃダメだからね。逃げても良い事なんて一つも無いんだから。そこには後悔が残るだけよ」

「はあ、覚えときます」

 

 だんだんお説教じみてきた。俺は話題を変える為にも「そういえば聖譚祈祷(ヲラトリオ)はどうしたんですか?」と訊いてみた。


「えへ、サボっちゃった」

「サボった!? リサデルさんが?」


 リサデルらしくない単語に言葉を失う。聖譚祈祷は学院内のみならず、都市教会に所属する市井の聖職者も一同に会する大祝祭だと聞く。そんな大事な行事に参加しないで良いのだろうか。

 絶句する俺に、リサデルは悪戯っぽい笑みを返してきた。その表情はアリスのそれと良く似ている。


「さっき、逃げちゃいけない、なんて偉そうに言ったけど、私だって逃げたくなる時もあるわ。そんな時はね、昔からここで歌っているの。大勢で歌うのも気持ちいいけど、一人で歌うのも良いものよ。ちょっと寒いけどね」


 リサデルは首に巻いたマフラーを整えながら、俺を頭の天辺から爪先まで、じーっと眺めてきた。


「ところでそれ、寒くないの? アリスに無理矢理に着せられたんでしょう?」


 リサデルに指摘されて、まじまじと自分の着ている物を目にした途端に恥ずかしさと寒さを覚えた。肩に掛けたショールを纏って前を閉じると、どちらもそれなりに緩和された気がした。


「ごめんなさいね。私が母親代わりとして教育してきたつもりなんだけど、男性から遠ざけて育てていたら、変な恋愛観を身に付けてしまったみたいなの」

「変な恋愛観、ですか」

「気を悪くしないでね。あの子はその……君のその整った外見が好きなの」


 ギクリ、とした。思い当たる節は……ある。と、いうか、思い当たる節ばっかりだ。

 でも、それでも俺は――――


「そんなの知ってます……じゃないや。何て言ったら良いんだろ? 俺、分かってるんです」

「分かっている?」

「あの、俺ってガキなんで、これからガキ臭いこと言いますけど、笑っちゃっても良いから聞いて貰えますか?」

「笑わないわ」


 リサデルはいつもの柔らかな笑みも浮かべず、真剣な顔をして俺の目を見た。

 その青すぎる瞳に気後れする。だけど、俺の正直な気持ちを聞いてもらおう。


「先輩が俺のことを見た目で好きでいてくれてんだろうな、って自分でも分かってるんです」


 リサデルは何も言わずに頷いた。それを見て、話を続ける。


「だって俺って、アッシュみたいに女の子たちからキャーキャー言われたりしないし、シロウさんみたいに男からしてもカッコ良いな、って思えるタイプでも無いですし」

「あの二人は……あはは」


 言い掛けてリサデルは笑ったが、すぐに、しまった、といった顔をして慌てて謝ってきた。


「やだ。笑わないって言ったのに、ごめんね」

「へへへ、いっそ笑ってもらった方が俺も話しやすいです」

 

 笑い返すと、こっちまでリラックスするような微笑をリサデルは見せてくれた。


「リサデルさんは、俺が本来は『錬金術の騎士団(アルキャミスツ)』の所属だって知ってますよね」

「ええ……」

「俺、アルキャミスツではマスコットと言うか、最悪、ペットみたいな扱いなんですよ」


 自分で言いながら、呪いで猫化したあの事件を思い出して一人苦笑い。


「アルキャミスツ……ルルティアはそこの研究員だったわね」

「はい。ルルティア姉さんからは弟として可愛がってもらってます。だから俺、アリス先輩にはペットとか弟みたいに思われてんのかな、って今でも思ってて」

「そんなこと……」

「でも、それってお互い様なんです。俺だってアリス先輩の見た目、好きです。学院で初めて見た時、すっごい美人がいるなぁ、って思ってましたから」

「ありがとう。自分が褒められているみたいに嬉しいわ」

「ホントですよ。だからディミータ副長の紹介でリサデルさんのパーティに入った時も、嬉しい半分、緊張半分でしたから。魔術科でも大変だったんですよ。『何でお前があのアリスさんのパーティに!?』なーんて」


 リサデルは口に手を当てて「そうだったの?」と、楽しげに笑った。


「今でも一部から目ぇ付けられて大変なんですから」


 ライカールの苦々しげな顔が思い浮かぶ。


「でも、アリス先輩と一緒に行動するようになって最初に思ったのが、『この人、喋んなきゃ良いのに』、次に思ったのが『この人、動かなければ最高なのに』」

「耳が、耳が痛いわ」


 耳を塞ぐように仕草をして、リサデルはそれでも愉快そうに笑った。


「なんかあの人、ムチャクチャなこと要求してきますし、そのくせ言うこと聞かないと叩いてくる上にすぐ機嫌悪くするし、お昼になると必ずと言って良いほど人のオカズを横から奪うし、味見とか何とか言っちゃって、結局全部食べちゃうし、それからですね……」

「うん。不満があるのは分かったから先に続けて」

「すいません、つい脱線しました。そういう事で、最初に考えてた『理想の女の子』みたいのと違ってガッカリしたんですけど、いつの間にか、そんな先輩と一緒にいるのが楽しくなってて」


 リサデルは嬉しそうに微笑んでいる。その笑顔に、彼女が「お母さん」とあだ名されている理由が改めて良く分かった。


「俺、アリス先輩が好きです。先輩の声が好きです。もっといっぱい傍にいて、もっといっぱい話をしたいんです。笑った顔が好きです。怒ると怖いけど、怒った顔も好きです。だけど、だけど……」


 夕陽に照らされてギラギラした光を放つ、鋼鉄の腕に目をやった。


「もし記憶が戻って、その『ヴァン』とかいう奴が戻ってきたら、また先輩を傷つけるんじゃないかって……先輩のこと、忘れちまうんじゃないかって」


 もう涙を見せまいと誓ったばかりなのに、最後まで上手く言えなかった。左手で目を擦ったけど、溢れてくるものが止められない。

 リサデルは黙って俺の前に立っていたが、突然、「そこにいるんでしょう!」と、大声を上げた。


「アリス! 出てきなさい!」


 思いがけない言葉に驚いて振り返ると、階段の扉の陰から気まずそうな顔をしたアリスが顔を出した。

 俺は慌ててショールで涙を拭った。なんか、生地に化粧とか色んな物がくっついてしまった。


「立ち聞きなんてみっともない。そんな事をするような子に貴女を育てた覚えはありません」


 俯き加減でとぼとぼとアリスが歩いてくる。治療を受けたのか頬の腫れは治まっていたが、スーツの胸元に空いた焦穴はそのままだった。

 リサデルはその姿を見て、驚きと怒りの表情を浮かべた。


「どうしたの、その格好は!? そんな姿で校舎の中を歩いてきたの!?」

「りょ、寮長……いや、リサデル。お願いがあります」


 おどおどした態度から一変して、アリスは強い意思を漲らせた。


「私、覚悟を決めたわ。貴女のいう事に全て従います。その代り、一週間……いえ、三日でいいから私の好きにさせて」


 睨み合うように対峙するアリスとリサデル。

 ぶつかり合う青い瞳と碧の瞳。

  

 先に目を逸らしたのはリサデルの方だった。


「……いいでしょう。一週間、時間をあげます。シンナバル、アリス」


 はい! と同時に返事をして、俺たちは顔を見合わせた。


「互いの真心を確かめ合いなさい。自分以外の誰かを愛する事を知りなさい。決して切れない絆を編みなさい。あなたたちなら……出来るはずよ」


 それだけ言うと、リサデルは去って行った。返事くらいはしようと思ったのに、寂しげな背中に声を掛けることが出来なかった。

 リサデルの姿が見えなくなるまで見送ってから、アリスに向き直った。


「それで、どこから聞いていたんですか」

「へ? あ、あの、『オレ、アリス先輩がスキですー』のトコから……です」

「嘘ですね」

「……はい。最初っからです」

「じゃあ、全部ですね」

「……はい。そうです全部です」


 はぁーっ、と溜め息を吐いたあと、しばらく無言の時間が続いた。


「あのね……」


 沈黙を破ったのはアリスが先だった。


「私もシンナバルの事、好きだよ。全部、ぜーんぶだよ」


 頷き返してから「寒くなってきたから戻りましょう」と、アリスの背に触れた。するとアリスは「待って。ちゃんと聞いて」と言って、俺の顔を両手で挟んだ。また力技で来たか。


「過去に何があったかなんて、私、知らない。だけど、それもまとめてシンナバル……君なんだよ」

「だけど俺、先輩の事を忘れちゃうかも知れない。また先輩を傷つけるかも知れない。俺は、それが怖いんです」


 また涙が溢れそうになったから顔を伏せようとしたのに、アリスの両手がそれを許してくれない。


「あの、すいません。ちょっと痛いんですけど」

「シンナバル! 私、良いこと思いついた!」

「良いこと?」

「思い出、作ろう! 過去の記憶なんかに負けないくらいに強い強い思い出をいっぱい作ろう! そうすれば私の事を忘れる事なんて出来ないよ!」

「はあ、そう言う理屈ですか」

「思い出は理屈なんかじゃないよ。それに私がシンナバルの事がこんなにも大好きなことだって、理屈なんかじゃないもの」


 アリスは両手に力を込め、俺の顔を上向かせた。桃色に濡れた唇が迫ってくるのを見て、俺は慌てて叫んだ。


「ちょっと待って!」

「なによぅ、良いトコなのにぃ」

「違う! これは何かが間違ってる!」


 俺はアリスの顔を両手で挟み返した。


「……」


 向かい合い、両手で顔を挟み合う男女。しかも女装男子と男装女子。傍からみたら斬新過ぎるコントのようだろうか。


「……で、どうすんの。これから」

「こっ、こうするんです!!」


 俺は背伸びして、アリスの唇に自分の口を押し付けた。勢いあまって互いの前歯がぶつかり、カチッと音がしたけど、そんな事に構っている余裕は無かった。


「――――っ」


 だんだんと息が苦しくなってきたけど、息継ぎのタイミングが分からない。限界まで我慢してから顔を離すと、至近距離でアリスと目が合った。


「……へたくそ」

「くっ、初心者なんですっ」

「……っふふふ」「……っへへへ」


 俺たちは、互いの顔を手で挟み合ったまま、互いの顔を見つめたまま笑い合った。

 涙が出るほど笑った。アリスも泣きながら笑っていた。


 最初の思い出が出来た。

 それは切れない絆の最初の一目。

 俺はその結び目を、死ぬまで大切にしよう。


 屋上に二人の影が長く伸びて、くっついた。

 もうすぐ陽が落ちる。


「さ、帰ってキスの練習しよ」

「なっ……なに言ってるんですか! それに帰るって何処にですか!?」

「何処って、病院に決まってんじゃない」

「びょ、病院? ダメですって! そんなの絶対ダメですよ!」

「なに言ってんの。私がどれだけお金積んだと思ってるの? 病室丸ごと買い取れるくらいに前金納めているんだから、文句なんて言わせないわ」


 アリスはその信じられない膂力で、ひょいっと俺の身体を持ち上げて肩に担いだ。ジタバタ暴れようにも、もうどうにもならない。


「あの、せめて着換えを」

「ほら、つべこべ言わない。男の子でしょ」

「そっ、そんなぁ……」


 俺とアリスの思い出作りは、こうして始まった。

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