第148話 遅い起床
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炎の中に僕はひとり、ぼんやりと立ち尽くしていた。
……いつからここに立っていたのだろうか? 見上げる空も踏みしめる大地も、視界に入る全ては余す所なく火の海だ。叫ぶようにして姉さんの名を呼んでみたが、僕の耳に返ってきたのは炎の起こす轟々とした荒々しい音だけだった。
足元には焚火の跡のような燃え滓が散乱している。その中に僕は、赤い針金のような物が埋もれているのに気が付いた。しゃがみ込んで手を伸ばしてみたが、思うように身体が動かない。
……あれ? 上手く掴めないや。
感覚の鈍い右手を眺めてみると、僕の肘から先は、役目を終えた薪のように酷く焦げ果てていた。
「――――っ!!」
ボロボロと崩れて落ちる腕に、声にならない悲鳴を上げた。恐怖に襲われて右腕を抑えると、いつもと変わらない重く冷たい鋼鉄の義手がそこにあった。
師匠の教えを思い出し、荒い息を整えてから何度か深呼吸をしてみる。時刻は明け方だろうか、分厚いカーテンの隙間からは冬の朝特有の透き通った光が射し込んでいた。
「ここは……?」
さっきのは夢だったんだ、と納得するまでに、たぶん数分を要したと思う。ようやく落ち着いて、イマイチしっくりこない『錬金仕掛けの腕』の動作を確認しながら、ベッドの上に半身だけ起こして自分の周りを見渡してみた。
やたらと広い部屋に配置された、見るからに高級そうな調度品の数々。高い天井に吊り下がる豪華なシャンデリア。ここはどう考えても俺の部屋ではない。仄かに鼻をつく消毒液みたいな薬品臭は、学院の保健室を連想させた。
ここはどこだろう? たしか地下六階でドラゴンと戦って、地下七階に続く階段を見つけて、それから――――ダメだ。記憶が混乱していて考えがまとまらない。
自室のそれとは段違いに柔らかいマットレスにもう一度横になってみて、ギクリとした。すぐ傍で誰かが寝てる!?
ゆっくりと上下している掛布団を恐る恐る捲ってみると、金色の波のような長い髪が目に入った。子供みたいな無邪気な顔をして身体を丸めて寝ていたのは、見間違えようもなくアリスだった。なぁんだ、びっくりした。
……じゃないし!! どうしてアリス先輩が、俺の隣りでパジャマで寝てんだ!?
「ん……んん」
ピンク色の唇から、経験値の少ない俺にとっては刺激的な寝息が漏れる。俺は軽く頭を振って平常心を取り戻した。そして、アリスを起こして事情を訊こうと思い立ち、左手で彼女の身体に触れた。
――――んなっ!? や、柔らかっ!?
女の子ってこんなに柔らかいのか!? 想像以上にふんにゃりした感触につい手を引っ込めて、震える手からアリスの寝姿に視線を移した。彼女の着ているフリフリしたピンクのパジャマは寝乱れてしまっていて、経験値の少ない俺にとって、あんまりにも刺激的な眺めがそこに展開されていた。
――――見てちゃダメだ。見てちゃダメだ。見てちゃダメだ。見てちゃダメだ。見てちゃ……
どれほど強く念じても、はだけたパジャマの隙間からチラチラしている白い素肌から目を逸らせない。俺は思わず唾を飲み込んだ。
と、とにかくコンフォートを掛け直そう。いや、もう少しだけ眺めてから……俺の中で理性と欲望が押し合い圧し合いしている最中、どことなく何となく視線を感じた。
「良かった。気が付いたね」
いつから目覚めていたのだろうか。アリスは横になったまま、その翠玉みたいな瞳で、じいっと俺の顔を見つめていた。
「はぁうっ! すいません!」
焦ったら喉の奥から変な音が出た。咄嗟に謝った俺に、アリスは怪訝な表情を向けてきた。
「どうしたの? 何を謝るの?」
「あ、いや、何でもないです……あの、ここ、どこですか? 俺、どうしてここに? で、なんで先輩が隣りに?」
焦りを誤魔化す為に、本題をアリスにぶつけてみた。彼女は身体を起こし、訝しむ素振りも無く説明を始めた。
「ここは魔導院病院の特別室よ。君は地下で気を失って、二日間も眠っていたの」
「病院に二日も……」
「その間、ずっと私がお世話してたの。心配したんだからね」
「そうなんですか。ありがとうございました……って、えええ!?」
二日も寝込んでいた割には、髪も身体も清潔ですっきりしている。いま着ている寝間着だって見覚えの無い物だ。
「うふふふ……シンナバル君の色んなとこ見ちゃったあ」
「ええぇそんなぁうわぁ」
恥ずかしさに顔が火照る。いくら年上とはいえ、女性に色んなトコを見られてしまった事実には、さすがにちょっと気落ちした。
「ごめんね。でも私、君を独り占めしたかったの。だからね、このまま君が目を覚まさないのもアリかな、って思っちゃった」
目を輝かせつつ這い寄ってくるアリスから、腰を浮かせて距離を取る。逃げるスペースがあるくらいにベッドが大きくて助かった。
「ねえ、シンナバルくぅーん」
「はっ、はい……」
「約束、覚えてる?」
「や、約束? ですか?」
「地上に戻ったら、ちゅーしてくれるって」
「そっ、そんな約束した覚えありませんがっ!!」
四つん這いになって、猫のようににじり寄って来るアリスに対し、ジリジリと後退するしか逃げ場が無い。
「寝顔も良かったけど、やっぱり動いている君の方がス・テ・キ。その怯えた顔、可愛いわ」
違う、これは猫じゃ無い。爛々と光る瞳はネコ科の肉食獣の目だ。
「んにゃー!!」「ひぇええっ!」
文字通り、猫のように飛びかかってきたアリスの勢いに押され、ベッドの下まで転落してしまった。
「ご、ごめんね! 大丈夫!?」
「痛ててて……大丈夫、です」
思いっきり後頭部から落ちたせいか、未だに頭がクラクラして身体に力が入らない。
「あれ? 何だか身体が変です。上手く動けない」
「ああ、それはきっと二日間も食べてないからだと思う」
アリスはベッドの上から心配そうな顔で、無様に引っくり返った俺を見下ろしていた。
「また調子に乗り過ぎちゃった。いつもリサ……寮長に怒られてるのに」
「ぜんぜん平気ですから、気にしないで下さい」
アリスは「やっぱり君は優しいね」と、しょんぼりした顔で言ったが、その表情に反した力強さで俺の身体を抱え上げ、ベッドに寝かせてくれた。ふわふわのマットレスと、ふかふかのコンフォートに包まれ、その極上な寝心地の良さに意識が遠のいていく。
「ねえ、シンナバル。君は寝ていたから忘れているかも知れないけど、今日は学院祭なんだよ」
ぼーっ、とした頭で「ああ、そうなんですね」と、答えて頭をアリスの方へ傾けると、彼女は大人が二、三人は隠れられるくらいに大きなクローゼットの扉に手を掛けているところだった。
「私も出し物に参加しなくちゃいけないから、スープくらいは作っておくね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「私、張り切っちゃうから、体調が良かったら見に来てね」
「はい、分かりました。見に行きます」
確か俺が所属する魔術科は、錬金術科との共同研究の実証実験をするんだったっけ。どっちみち低ランクの氷系魔術も使えない俺みたいな劣等生は、ミーティングにもまともに参加させてもらえなかったし、いま一つ興味も湧かない。アリスやアッシュが籍を置く騎士科は、どんな催し物をやるんだろう。
「あの、先輩たちは……」
言い掛けてから、俺は慌てて顔を逸らした。鼻歌混じりにパジャマを脱ぎ掛けたアリスの真っ白な背中が目に入ったからだ。なっ、なんであの人、恥ずかし気もなく普通に着替えしてるんだ!? 俺はいったい何だと思われているんだ!?
「んんー? 何か言った?」
鼻歌を止めたアリスが訊き返してきたが、俺は返事をせずに俯せになって枕に顔を押し付けた。ぱたぱたとスリッパの立てる足音が近づいてきたが、寝た振りをしておく事にした。このまま彼女のペースに巻き込まれていくのは何か怖い。
「あれ? 寝ちゃったのかな?」
枕に顔を埋め、寝た振りをする俺の隣に腰を下ろしたアリスは、何故か俺の後頭部に顔を寄せ、すんすんと匂いを嗅ぎ始めた。
「ふふーん。落ち着く匂いだなー」
……ひ、人の頭の匂い嗅いで何いってんだ。この人、やっぱちょっとなんか変だ。
恐怖にも似た感情に息を潜めたが、俺の背中を優しく撫でる、その柔らかな手付きに緊張が解れていく。その時、何となく頭の片隅に引っかかっていた疑問の答えがはっきりした。アリスに触れられていると何故か懐かしい気持ちが溢れてくるのは、彼女の纏った香りのせいだ。その薔薇の花のような香りは普段使いの石鹸によるものなのか、それとも愛用の香水なのかは分からないけど、ルルティア姉さんも、夢の中に見た『姉さん』も同じく花の香りを纏っていた。
そう思い出して枕に沁み込んだ薔薇の香りを吸い込むと、いっそう眠気が増してくる。
……そっか。好きな人の匂いって、落ち着くんだな。
やっぱり俺はアリス先輩が好きなんだ。でも、それは学院の男連中と同じようにアリスの外見に魅かれていただけと思っていたけど、それも違うのかな。きっと俺は、彼女の匂いも、声も、その変な性格も、全部まとめて好きなんだ……ああ、なんかもう、何が何だかワケ分かんないや。師匠に相談したら笑われるかな。セハトは……ダメだ。あいつに相談するくらいなら、パブロフに相談したほうが百倍マシだ。
そんな事をモヤモヤと考えていると、アリスの鼻歌が聞こえてきた。
――――あなたの足跡は砂に消えた 零れ落ちた涙も砂に消えた
散歩中でも食後でも、アリスは機嫌の良いときにこの歌を歌う。なんて題名の歌なんだろう? ちゃんと全部聞いてみたいな。
悲しいような、それでいて綺麗な調べ。俺は『睡眠の魔術』にかけられたように、再び眠りに落ちた。
やばい、ペルソナQが面白すぎる……
週イチ投稿は心がけますので、どうかご容赦を!!