第145話 彼女の欲しがる理想の未来は此の世の何処にも在りはしない
「訊きたいことは売るほどあるんだけどさ……元気だったか? お前、ちょっと痩せたんじゃないか?」
元々が「健康」の二文字からは程遠いイメージのルルティアだが、久々に見たその顔には明らかに血の気が足りてなくて、それこそアンティークの陶器人形を思わせた。
「うふふっ。人の心配が出来るなんて、少しは成長したんじゃない?」
それでも俺の言葉をどう受け取ったのか、ルルティアは燥いだ声を上げてベッドの上に弾んでみせた。
「ふん、俺は昔っからジェントルマンで通ってんだっての。忘れたか?」
「そうね……だからあの時、通りすがりの私を助けてくれたのよね」
どんなに時が経とうが、眼鏡越しに俺を見るアッシュブルーの瞳だけは、あの頃から変わらない。
俺は「ああ、懐かしいな」と言ってルルティアから視線を外した。知らず知らずに彼女の美貌に引き込まれかけていた自分を認めざるを得ない。
「んで、この部屋は何だ。いったい何の冗談だ?」
手近にあった椅子の背当てに手を置き、ルルティアに尋ねた。
背当てを掴んで運ぼうとすると、背もたれごとスッポ抜けるくらいガタがきていた筈なのに、椅子の作りは妙にしっかりしている。これは婆ちゃんが元気な頃に座っていた椅子だが、鑑定士の目で見れば古びた風に加工されているのは一目瞭然だ。
「ねえ、そんなところに突っ立っていないで、傍にきて」
ルルティアは俺からの質問をまんま無視して、自分が腰を下ろしているベッドをぽんぽんと叩いた。隣りに座れ、って言いたいのか?
「……ここでも話は出来るだろ」
そう言って婆ちゃんの椅子に座ろうとすると、「じゃあ私、なーんにも喋らないから」とルルティアは膝を抱え、そっぽを向いてコンコンと乾いた咳をした。
「しょうがねえなぁ」
仕方なくルルティアの座る窓際まで歩いてみたが、見れば見るほど俺の部屋にそっくりだ。
わくわくした顔で俺を見上げるルルティアの傍まで来た時、今さっきまで彼女が覗いていた窓の外が気になって、ちらりと横目で確認した。そして、思わず一歩引いた。
「うわっ高っけぇ! なにこれっ怖っ!」
魔導院のみならず、学院都市を取り囲む湖すら一望できる眺めに面食らった。昔、超高級ホテルのロイヤルスイートに泊まった事があるが、あれは確か三十階くらいだったか。その時、眼下に広がる学院都市を見下ろしては「人がゴミのようだ」なんて感想を漏らした覚えがあるが、それとは比較にならない高さだ。
「やっぱり魔導塔の中、なんだよな。ここ」
「そう、ここは私の私室。寝て起きて食っちゃ寝て、日がな日ゴロゴロして過ごしているの」
「良い御身分だな、ルルティアさんよ。でも、何故に俺の部屋なんだ?」
「……だって寂しいんだもん」
ルルティアはそう言って、窓辺に立ったままの俺の腕を取り、引き寄せるようにして思いっきり引っ張ってきた。
「うわっ! ととと……」
つんのめり、勢いのままルルティアの身体をベッドに押し倒すような姿勢になる。すると彼女は「やだぁーん、だいったーんっ」と甘い嬌声を上げた。
「アホか。からかうのも大概にしろ……っての……」
ルームウェアであろう薄手のワンピースに浮き上がる、露骨なくらいに女性的な曲線美が目に飛び込んできた。ベッドの上に寝そべるルルティアの肢体から慌てて目を逸らすと、逃がした視線の先に一冊の絵本を見つけた。
「これは……?」
つい手を伸ばして枕元に置いてあった絵本を手に取ると、それは「聖なる騎士と魔法の竜」だった。
まさかと思いパラパラと絵本を捲ったが、おそらくは買ったばかりなのだろう、ページは手が切れそうなくらいにピンピンだった。そして、リーザ姫の似顔絵は一枚たりとも出てこない。そんな当たり前の事実にホッとした自分が何とも不思議だった。
「こんなモンまで……お前、どうやって俺の部屋を丸ごと複製したんだ?」
「ほら、あのホビレイル族の子に手伝ってもらって」
「ホビレイルって、まさかセハトの事か!?」
「そうそう、そのセハトのまさか君」
「またか。またアイツかっ!」
得意満面に笑うセハトの顔が瞼に浮かんだ。あいつの事だ。今頃、してやったり、みたいな顔をしてんだろうな、くそっ!
だが俺は、そこで妙な事に思い当たった。シーツを換えたのは一昨日の晩だ。その間、セハトは絶対に俺の部屋には入っていない。
「お前、どうして俺のベッドのシーツの柄を知って……ああ、そうか。その眼鏡か」
「眼鏡がどうかしたの?」
ルルティアはズレた眼鏡を直そうともせず、寝転がったままに答えた。
「博士から聞いたぞ。その眼鏡で色んな所が覗けるそうじゃないか」
「そうよ。貴方が年下の子猫ちゃんとニャンニャンしている所も丸見えなんだから」
俯せになり、にゃんにゃーん、と猫の物真似をするルルティア。大胆に開いたワンピースの胸元に、釘付けになりかけた己の眼球を制するので精一杯だ。
「誤解を招くような言い方をするな。飼い猫とニャンニャンして何が悪い。だいたいなあ、人のプライベートを覗き見するなんて良い趣味してんな、お前」
「なによ。人の胸元ガン見したクセに」
「がっ、ガン見じゃないですチラ見です! そもそもだなぁ、お前がそんなはしたない恰好しているのが怪しからんのであって……」
「安心して。私は見ちゃいけない事は見ないように自制しているから。極力」
「極力かよ」
「貴方のどんなにえげつなく無差別級に下劣な性癖を見せ付けられても、受け入れられるように努力するわ。極力」
「人を異常性欲者みたいに言うな!」
「違うの? ロリコンなのに。しかもガン見したくせに」
「誰がロリコンだっての!! そっ、それにガン見、いやチラ見は不可抗力だ!」
駄目だ。すっかりペースを握られちまっている。そもそもルルティアの頭のキレは、アイザック博士以上だ。俺なんかが知恵比べで対抗できる由も無い。しかし、今日のルルティアは何かがおかしい。妙に挑発的だ。色んな意味で。
「まったく。んで、なんのつもりだよ。俺の部屋を完コピして何がしたいんだ」
俺はベッドから立ち上がり、壁紙を確認する振りをしてルルティアから距離を取った。そうでもしないと平静を保てる自信が無い。ベッドの上に寝そべる無防備な寝間着姿の美女……俺だって健康的な成人男性だ。
「何のつもりって、お嫁さんごっこしてたの」
「はい? お、およめやさん!?」
「あははっ。およめやさん、だって。動揺しすぎ」
俯せの状態から半身を起こしたルルティアは、笑みを湛えたまま傾いた眼鏡を直して上目使いに俺を見た。それだけの仕草なのに、息を飲むほどの妖艶さだ。
「私ね、ここで貴方のお嫁さんになったつもりで生活してたの」
「んなっ……」
絶句した俺に向かって、ルルティアは華やかな笑みを浮かべた。
「いけなかったかしら? お嫁さんごっこするにも貴方の許可が必要だった?」
「いや、その、別に、許可は、いらん……かな」
「ねえ。あの黒い猫、名前なんて言うの?」
「いきなり何だよ。エレクトラの事か?」
「良いわね、エレクトラは。貴方に可愛がってもらえて幸せね」
「あのなあ、エレクトラは拾った猫だぞ。それはそれは可哀そうな子猫だったんだ」
「私、生まれ変わったら猫になりたーい。そして、貴方の飼い猫になるー」
「なに馬鹿なこと言ってんだよ」
「馬鹿なことなんて一つも言ってないわ。貴方、拾った猫は大切にするくせに、助けた私は蔑ろにするじゃない」
「猫と人間を同列に語るなって」
「同じよ! 同じ命なのよ! 助けたつもりがあるのなら、最後まで私を見ていてよ!」
声を荒げたルルティアが咽込むような苦しげな咳をし始めた。心配になってその背に手を伸ばすと、彼女は中途半端に伸ばしかけた俺の手を取って、その豊かな胸に押し当てた。
「ちょっ! お前!?」
「私ね、初めて貴方に会ったときから、貴方のことが好きで好きで好きで……ずうっと貴方のお嫁さんになりたいって、必ず貴方のお嫁さんになれるって信じていたの。えへへっ、可愛いでしょ?」
「あんま無理に喋るな。いま、誰か呼んでくるから」
「良いの、このまま聞いて。私にはあんまり時間が無いの」
ルルティアの胸に押し当てられた掌からは、暖かな鼓動が伝わってくる。
「でもね、どんなにキレイを磨いても、貴方は私を見ないで他の誰かを見ていた。悔しくて悔しくて、どうしたら良いのかひたすら考えた。だから調べたの。貴方の事を。貴方の過去を。貴方の全てを」
「……それで、あの錬金人形をウチに送ってきたのか」
「そう。それで貴方が誰を見ているのか分かったわ。そして、貴方と彼女が出会うように仕組んだ。いまでも互いに好きあっているのかって、確かめたかったから」
「ルルティア、俺は……」
「言わないで。リサデルは素敵な女性よ。貴方と違って最後まで私から目を逸らさないでいてくれるもの」
ルルティアの胸に押し当てられた掌からは、悍ましい呪いの気配が伝わってくる。
「勝ち目が無いのは分かっているわ。それでも私は貴方を諦めきれなかった。だって私……」
色を失った唇の端から、赤い筋が伝う。
彼女を蝕む死の呪いに、鋼玉石の剣が激しく反応する。
「もう、そんなに長くは生きてはいられないから」
――――ルルティアの命を砕けというのか
――――彼女の魂を喰い散らせというのか
俺は心の底から鋼玉石の剣を、この高い塔の上からブン投げて、粉々に粉砕してやりたくなった。
「お願い、そんな顔をしないで。嫌な思いをさせたくて貴方をここに呼んだんじゃないの」
ルルティアは俺の手を放し、使用人を呼ぶ女主人のように「おいで、御挨拶なさい」と手を叩いた。
「見て。これが『琺瑯質の瞳の乙女たち』のラスト・ナンバー。錬金術師ルルティアの最終作品よ」
極力、音を立てないように遠慮がちに扉を開き、おずおずと部屋に入ってきた美しい少女の姿に、俺は思わず声を上げてしまった。
「そんな……君は……」