第138話 燃え残った記憶
「んんっ、おほん」
リサデルに抱かれたまま、ボンヤリとした幸福感みたいなのに浸っていると、頭の上から咳払いが聞こえた。そのワザとらしい咳払いがした方へと頭を巡らすと、何とも言えない表情を浮かべたアッシュが、俺とリサデルを見下ろしていた。
「もう、痛いの治りました。ありがとうございます」
すっかり痛みが治まった俺は、リサデルに礼を言って立ち上がった。
「あのう……次は僕にも治療をお願い出来たら、その……あの……」
どんなに厳しい状況に陥っても涼しい顔を崩さないアッシュが、言葉に詰まりながらも治療を急かすなんて、相当なダメージを負ったに違いない。ハァハァと呼吸は荒いし、額には汗の玉が浮いている。きっと痛みに耐えかねての脂汗だろう。
「そうですか。では立ったままで結構ですので、痛むところを教えて下さい」
「ああ……僕には、そんな感じの治療なのですね」
微笑みつつ首を傾げるリサデルと、悲痛な顔で天を仰いだアッシュを横目に、アリスとセハトの姿を探す。
未だに床を焦がす炎の傍らで、アリスはいかにも戦乙女に似合う羽兜を脇に抱えて頭に手をやっていた。セハトと言えば、さっそく取り出した地図帳にペンを走らせ、シロウはその隣で腕組みして地図を眺めていた。
「あの、先輩?」
取り込み中のセハトは後回しにするにして、何度も頭を触っては眉間にシワを寄せるアリスの姿が気になって「頭、怪我しました?」と、声を掛けた。
「シンナバルぅ。もぉ~っ! これ見てよ、これ」
浮かない顔のアリスは金色の毛束を摘まみ、見せつけるようにして突き付けてきた。言われたまま毛束に目を凝らすと、ところどころが焦げて傷んでしまっていた。
「髪の毛、焦げちゃいましたね」
「大ショック……地上に戻ったら直ぐに髪結いさんに行かなくっちゃ」
なんだ、髪の毛か。なんて言葉が口から出掛かったが、爪でも服でも俺にとってはどうでも良い物が、アリスにとっては一大事らしい。だったら戦闘からは遠ざかった生活を送ったほうが良いと思うんだけど、きっと彼女には彼女の『理由』があって、こんな地下深くで戦い続けているのだろう。
「――――と思う?」
「あ、すいません。聞いていませんでした」
考え事をしていた間に、アリスは俺に何か訊ねてきていたようだ。
頭を下げて話を聞いていなかった事を謝ると、すっと彼女の手が伸びてきて、俺の三つ編みにした髪を手に取った。
「次からは君みたいに編み込んで行こっかな。ねえ、私にも似合うと思う?」
セハトに散々引っ張り回されたのを思い出して、ついつい身が固くなったが、アリスは手にした俺の三つ編みを、猫を可愛がるような手付きでナデナデし始めた。
「た、多分、似合うと思われます」
「それとも切っちゃおっかな。ねえ、短いのも私に似合うと思う?」
「た、多分、似合うと思われます」
「でも私、あんまり切りたくないんだよなー」
「はあ、そうなんですか」
甘えるようなアリスの声に、嫌な予感がする。
「だって結婚式は自分の髪でアップにしたいじゃない? サイドアップにしたくなってもレングスが足りなくなったら困るし。私は出来るだけ地毛でやりたいの」
「はぁ、そうなんですね」
零れるような笑みを浮かべるアリスの顔に、実に嫌な予感がする。
「オールバックとかポンパにしてタイトでシンプルなオーセンティックな夜会巻も素敵だけどやっぱり巻いて巻いてモリモリに盛るのが流行じゃない? でもそれだとヴェールが上手く活かせないのが残念ね。私、ヴェールは刺繍とレースがいーっぱい入っているのが好みだから背中がバーンって空いたドレスが良いわ。そうなるとハーフアップがマストだけど私はやっぱり」
「あっ、あのう、先輩。話の途中で申し訳ないのですが……」
ヤブヘビかと思ったが、このままでは話が終わらなそうなので「それは、ご友人の式に招待された場合の話ですよね?」と、思い切って訊いてみた。
「やっぱり、お色直しは三回はしたいと思っているの」
「あの、俺の話、聞いてましたか?」
不可視の圧力を全身に纏ったアリスが一歩を踏み出すと、彼女の足元から聞こえた、ジャリッという音だけが妙に耳に残る。それは、凄腕のサムライが踏み込むのと同じ音だった。
「私、ドレスに合わせて色んなアップスタイルを楽しみたいな」
迫力に負けて一歩後退すると、圧力を増したアリスがもう一歩前に出る。
「あなたには、タキシードよりもフロックコートが似合いそう」
だ、誰か助けて……心の中で助けを求めると、祈りが通じたのか「シンナバルーちょっと来てー」と、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、あの、セハトが呼んでますので、話の続きは後日、また、ゆっくりと」
その場から俺が逃げ出すのと、アリスが三つ編みの先ッちょを掴んだのは殆ど同時だったが、間一髪で俺が動くのが速かった。
忌々しげな舌打ちが背中越しに聞こえたが、とりあえず聞こえなかった事にしておこう。
「セハト、呼んだ? って何してんの?」
何故かシロウに肩車されているセハトに声を掛けると、彼女は「シロさん、ありがと」と言って、シロウの頭をポンポン叩き、その肩から軽快に飛び降りた。
「お前、なにシロウさんに肩車なんてさせてんだよ」
「えーっ、だって背が届かなかったんだもん。お願いしたら『良いよ』、って言ってくれたから」
ホントかよ? と思ってシロウの顔を見ると、彼は着崩れた服装を直しながら俺に向かって二回、頷いた。前から思っていたんだけど、セハトとシロウは何故だか仲が良いみたいだ。学食で二人で食事しているのを良く見かけるし、図書館で並んで本を読んでいる姿を見たこともある。
「でさぁ、これ見てよ……って、シンナバル、その髪どうしたの?」
「え? 髪?」
言われて自分の髪を触ると、固く編んでおいたはずの三つ編みが解けて、単なるストレートヘアになってしまっていた。きっと、アリスの手から逃れるときに髪留めが外れてしまったのだろう。
襟足に残る編み込みに手を梳き入れると、一度に全部が解れてしまった。まったくもって、まとまりが悪い髪の毛だ。
「シンナバル。さらさらさららーって、女の子みたいだし」
「っさいなぁ。ほっとけよ」
「シロさんとか、アッシュみたいに短くすれば?」
「これはだなぁ、姉さんの好みなんだよ」
言ってしまってから恥ずかしくなってきたが、同時に頭の片隅に何かが引っかかった。
「んんん? どうしたのシスコンバルくん?」
「いや、なんでも……無い」
また目の奥の方がズキリと痛んで、思わず左手で瞼を強く押さえた。
「ちょっと、大丈夫? 疲れたんじゃない?」
「平気だよ、って言いたいけど、否定は出来ないな」
さすがに高位魔術を行使すると、とにかく心が疲れる。正直なところ早く熱い風呂に入りたいし、激辛カレーも食べたいし、ベッドに寝っ転がって手足を伸ばしたい。そして何より姉さんの顔が見たい……姉さんの、顔?
「ねえ、顔色悪いよ。探索打ち切って早く帰ろって、寮長さんに言ってくるよ」
「いや、大丈夫……俺に見せたい物って、なに?」
心配そうな顔をして、「これなんだけど」とセハトが差し出したのは、階段の天井から垂れ下がっていた、例の氷柱状に溶け固まった煉瓦だった。
「煉瓦がこんなになるほどの炎、って魔術で出せるの?」
「いや、第五位魔術『猛炎の塔』でも煉瓦を溶かすほどの炎は作り出せないよ。それに、煉瓦をこんな形状にするには桁外れの高温が必要だ」
魔術科の教官であろうとも、煉瓦をも融解させるほどの超高温を容易に発生出来るはずが無い。魔術の手解きを受けた事がない者でも炎をイメージする事は出来るが、目に見える物では無い『温度』を想像するのはとても難しいからだ。もしイメージが出来るとすれば、それは煉瓦が溶けるほどの状況を目にした事がある者だけだろう。いや……待てよ。
いつの間にか『錬金仕掛けの腕』の装飾に戻っていた『辰砂の杖』が目に入った。
「それからコレ。壁に半分埋まってたのを引っこ抜いてきたんだけど」
次にセハトが手渡してきたのは、赤い塗装が所々に残った金属の棒切れだった。針金よりは太い金属で出来ているが、高熱で歪んでしまったせいもあり、元々は何だったのか想像が付かない。
「フォークとかナイフにしては細すぎるし、こんな所に食器があるのも変だしね。何かの枠かなぁ?」
そんなのどうでも良いよ、と隅を突つくようなセハトの探究心に呆れながらも、金属の棒を目の高さに掲げた瞬間、殴られたような衝撃が眼球に走り、俺は悲鳴を上げて床に倒れ込んだ。
右腕が燃えるように熱い。熱い熱い熱い熱い熱い熱い!!
鋼鉄の腕から立ち昇った炎が、あっという間に全身に燃え広がる。
髪を服を肌を、余す所なく炎の舌が舐めつくす。
誰かが俺の顔を覗き込み何かを叫んでいたが、燃え盛る炎しか目に入らず、自分の身体が燃える音しか耳に入らなかった。
「……あれ?」
はっ、と目が覚めて、跳び起きるようにして半身を起こすと、そこは湖を見下ろす小高い丘の上だった。昼下がりの陽を受けて湖面はキラキラと輝き、灰色にくすんだ学院都市の街並みすらも美しく飾っていた。
「なぁんだぁ夢かぁ」
陽の光を遮る木陰には爽やかな風が渡り、青っぽい草の匂いを運んできた。
清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、うーん、と背伸びをしてみたら、何とも言えず気分が良くなって、再び草の上に身を横たえた。
「あー、ビックリしたなぁ。寝汗かいちゃったよ」
ちちっ、ちちちっ、と囀る小鳥の歌を聞きながら、肌に張りついた服をパタパタしてみると、服の隙間から涼しい風が入ってきて、火照った身体を冷やしてくれた。それがまた、何とも心地良かった。
寝転がったまま空を見上げると、葉の間から眩しい陽光が射し込んできたので、右手で光を遮ってみた。
「そう言えば、右腕がとんでも無い事になっちゃってたな」
ざざぁ、と木々の葉が、枝が擦れあう音が耳を楽しませてくれる。自然の奏でる音楽に耳を傾けていると、さくっさくっ、と草を踏む足音が聞こえて、すぐ近くで止まった。
「また御稽古サボってお昼寝してたの?」
仰向けになりながら声の主を確認すると、逆光で顔が良く見えなかったが、その小鳥の囀りにも負けない可愛らしい声は姉さんのものに間違いなかった。
声の主は衣擦れの音をさせながら、すぐ隣りに腰を下した。
「姉さん。膝枕、良い?」
「もう、いつまで経っても子供ね」
姉さんが自分の太腿をポンポンと叩いたのを合図に、寝転がったまま少しだけ頭を上げて身体をずらし、柔らかな膝の上に後頭を沈めた。姉さんのスカートからは、優しい花の香りがした。
「あなたの髪、大スキよ。さらさらして、ずっと撫でていたい」
そう言って髪を撫でてくれる姉さんの顔を、薄目を開けて見上げてみた。相変わらず眩しくって姉さんの顔は良く見えなかったが、目元を飾る小さな黒子を見つけて、何だかとても安心した。
「剣の御稽古はもう終わり?」
「うん、今日はもう良いや。変な夢見て、すっごい疲れたし」
「昨日もそんな事、言って無かった?」
「別に良いよ。だって、師匠にも褒められたんだよ先週」
「その一週間で追い抜かされるのよ。油断大敵」
「うへえ。師匠みたいなこと言うね、姉さん」
「魔術の腕だって同じなの。それで、どんな夢を見たのかしら?」
「えーっとね……何か、やったらめったら色んな物が燃えるんだ」
めちゃくちゃリアルな夢を見たはずなのに、もう忘れ始めてる自分の現金さが笑える。
「そうだ! 夢の中で火の魔術使ってたんだ!」
「へえぇ、あなたが? 魔術なんて絶対ムリー、なんて言って、剣ばっかり振り回しているくせして」
くすくす笑う姉さんに笑い声に釣られて、何だか無性に可笑しくなってきた。
一頻り笑いあった後、姉さんは相変わらず俺の髪を撫でながら訊いてきた。
「その夢には私は出てこないの?」
「うーん、出てきていたような、出てこなかったような?」
「ひどい。この世に二人だけの血を分けた姉弟なのに」
「えへへっ。でも、とびっきりに綺麗な女の子が出てきたんだ……ような?」
光り輝く金色の髪。雪花石膏のように滑らかで白い肌。大きな宝石みたいな翠の瞳。
「どうしたの?」
「ん。寝すぎて頭痛い、かな」
「大丈夫なの?」
姉さんの心配そうな声に、「うん、平気平気」と笑って答える。
「それで、その女の子って、あなたの好きな子? 守ってあげたいようなタイプ?」
「えーっ!? 違うよ。そんなんじゃないよ」
――――私を守って
「だって、姉さんを守る為だけに、剣の技を磨いているんだから」
――――そうしたら、私があなたを護ってあげる
「姉さんを守る……その為だけに……僕は」
姉さん。頭が、頭が痛いよ。
それに、熱い。熱くて堪らないんだ、姉さん。
「じゃあ、その右手に宿った炎は何の為にあるの?」
穏やかで優しい、だけど悲しげな姉さんの声に促され、激しい頭痛に耐えて右手を見る。
すると、いつの間にか右腕は轟轟と燃え盛る紅の炎に包まれていた。
「なあっ!? なんだよこれ!!」
恐怖に襲われて火の着いた腕を振り回すと、飛び散った火の粉が木に花に草に燃え移り、たちまち辺りは火の海に変わった。そして、炎はすぐに姉さんのスカートにまで燃え移った。
「姉さん! 逃げて! 早く逃げてよ!」
炎の中で姉さんは、悲しげに微笑んで立ち尽くすだけだった。
「ごめんね。姉さんを許して」
炎は足元から、容赦無く姉さんの身体を焼いていく。
「あなたが私を守りたいと思ってくれていたように、姉さんもあなたを守りたかった」
優しく受け止めてくれた柔らかな膝も、抱きしめてくれた腕も、暖かい胸も。
「お願い。姉さんから受け継いだその炎で」
髪を撫でてくれた優しい掌も、僕の名を呼ぶ声も、流れるその涙すらも、一つも残らずに燃えていく。
「あなたの大切な人を護って。そして――――」
――――そして、全てを終わらせて。
そして、最後に僕と同じ色をした髪が燃え上がり、姉さんの全てが焼き尽くされた。
そして、僕の前にはもう、たった一握りの燃え滓しか残されていなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/lulutialulumoni/12086510.html
ヤフーブログに、リサデルさんの画像を貼っておきました。