第129話 長老会議
穏やかな表情で歌う彼女は、いったい何の歌を口ずさんでいるんだろう?
直属の上官からの情報では、アリスは山王都の出身らしい。敬虔で信仰心に篤い聖堂都市の人々は、日常的に聖歌を歌う習慣があると聞く。そうなると、彼女の唇から漏れるのは、神々への感謝を込めた讃美の歌だろうか。
うぅ……ダメだ。薄く紅を引いた口元ばかりに、どうしても目がいってしまう。先日、師匠の店で暴れ出したアリス先輩を止める為とはいえ、俺は……俺は、あの唇に……。
「ねえ、シンナバル?」
「うわぁっ! なっ、なんだよ、いきなり!?」
俺を名を呼ぶセハトのあまりのタイミングの良さに、つい変な声が出てしまった。
「なんだよ、って、名前を呼んだだけじゃん。なにビックリしてんの? 変なの」
「び、ビックリなんてしてないって!」
無理に繕おうとするほどに気が焦る。セハトは俺の顔を覗き込みながら、ニヒヒと笑い「平常心、平常心」と呟いた。
「声が震えてるよ、シンナバル」
「お、俺は、そんな、別に……」
「またシショーに笑われちゃうよ」
「分かってるって! で、何だよ? もう発情期の話は勘弁してよ」
くそう、喋るほどにボロが出る。俺は話の矛先を変えつつも、セハトに釘を刺しておいた。すると、彼女はしゃがみこんだまま肩を竦めて笑った。
「うん、発情期はもう良いや。ボクがしたいのは」
セハトは竜の牙を持たない方の手で、床を叩いた。「この地下訓練施設の話だよ」
「ああ、それなら良いよ」
「ねえ、シンナバル。君もこんな深い階層まで潜るのは初めてだよね?」
「そりゃあ、そうだよ。だってリサデルさんのパーティに入れてもらって……それからだよ。こんな深い所まで潜ったのは」
「ふうん。その前は?」
セハトは右手に持った竜の牙を、ナイフワークのように玩びながら訊いてきた。
「その前って、その前はルルモニさんと一緒に、浅い階層で素材集めをしていたくらいで……そん時はセハト、お前もいただろ?」
「そうだったね。で、その前は?」
「えーっと。その前って言われてもなあ……」
その前は、「錬金術の騎士団」の研修で地下三階くらいまでの浅い階層に潜った事があるくらいだ。
そこで俺は、特務機関の副長に「掃除」の作法を教わりつつ、極秘の任務を命ぜられたんだ。
任務の内容は――――神聖術科院生「リサデル」の監視。
*
優秀な神聖術師だということ以外は、特に目立った経歴も特徴もない魔導院生「リサデル」は、その実、山王都の要人であり、魔導院にとっては山王都への外交の切り札に成り得る人物だという。
海王都と山王都による北部紛争が活発になりつつある現状、中立を保つ魔導院の立場を安定させる為にもリサデルを監視下に置きたい。それが「長老会議」の意向だと副長は言った。
「そんなの身柄を確保して」
ベットリと貼り付いた、なかなか落ちない血糊に辟易しながら、俺はモップで床を擦りつつ訊いてみた。
「軟禁でも監禁でも良いから、さっさと捕まえちゃえば良いんじゃないですか?」
政治外交に関して知識も無ければ興味も無い俺の疑問に、ディミータ副長は眉一つ動かさずに答えた。
「下手に刺激して、海王都に逃亡でもされたら面倒なことになる。だが、幸いに彼女は地下訓練施設に何か用があるらしい。不用意に手出しをしなければ、姿を晦ます理由は無いだろう」
深夜とも言える時間帯、地下訓練施設には俺の荒げた呼吸音と、副長の淡々とした声しか聞こえない。
掃除に勤しむ俺の働きを、副長は暇を持て余した猫のような顔で眺めていた。俺はそんな調子のディミータ副長に、「じゃあ、放っときゃ良いじゃないですか」とボヤきつつ、床を削り取るような気持ちで力一杯に床を擦る。
「今までは、な。だが、風向きが変わってきている」
そう言って腕を組んだまま壁に寄りかかった副長の姿は、壁の染みのようにも見えた。
俺は、汚れなのか、それとも床の模様なのか、もはや判別が付かない汚れとの闘いを一時休戦した。それから額に浮いた汗を袖で拭い、「難しいことは良く分からないです」と己を飾るまでも無く、正直に言っておいた。
「リサデルは地下に潜るためのパーティメンバーを募っているのだが、その点ついては既に手を打ってある。特務機関から人員を出すってね」
「その人員って、俺の事ですか」
「そーゆーコト」
突然、砕けた口調に変わった副長が、俺に向かって手を伸ばしてきた。
その不可解な行動の意図が読み取れず、どう対処して良いのか分からずにまごついていると、するりと伸びてきた長い腕にモップを奪い取られてしまった。
「あ、ちょっと副長?」
「ほらぁ、シンナバルぅ。見てなさいよお」
ディミータ副長は、その長過ぎるほどに長い手足をいっぱいに伸ばして、ダイナミックな動作で床掃除を始めた。
「モップ掛けってのはね、力任せに擦ってるだけじゃあ、汚れが引き伸ばされるだけなのよぅ」
「はぁ、勉強になります」
モップを支点に足を踏ん張り、腰の入ったその姿勢には、ある種のスポーツにも似た美しさすら感じる。
「ガッシ! ガッシ! じゃなくて、シュッ! シュッ! って感じ」
「はぁ、恐れ入ります」
みるみるうちに薄くなっていく赤茶色の汚れに目を見張りながらも、どうもピンとこない気持ちが胸に残る。
「あのう、やっぱり良く分からないのですが……」
「だからさぁー、こう、角度を立て過ぎないように、顎の位置の延長にモップの先がくるようにしてねえ」
「あのう、モップ掛けのコツじゃなくてですね、何で俺みたいな新人隊員に監視役が回ってきたんですか?」
副長はモップ掛けを続けながら俺の顔をチラリとだけ見て、再び床に目を落とした。
「リサデルは、特務機関の研究主任と長い付き合いだ。そして、お前はルルティアの弟分でもある。適当な理由をつければ怪しまれないだろう」
「はあ。そりゃまあ、そうですね」
確かに俺は、ルルティア姉さんに連れられて、何度かリサデルと会ったことがある。レストランの席取りとか、買い物の荷物持ちとしてだったけど。
「それにね……」
副長はモップを動かす手を止め、金色の瞳で喰い入るように見詰めてきた。
俺は、その猫の目のような大きく開いた瞳孔に、光の届かない底無しの穴を連想した。
「長老会議のご指名なんだよ」
「長老会議、ですか?」
「ああ、リサデルの監視にお前をつけろ、ってね」
「何で長老会議が俺なんかを……」
「さあね。そんなの私が知るわけないじゃない」
*
「シンナバル、どうかしたの? 怖い顔して」
「あ、ごめん。ちょっと考えごとしてた」
誤魔化すようにそう言うと、セハトはニヤリと意地悪そうな顔で笑った。
「またアリスの事?」
「違うって。まったくしつこいな。師匠みたいだ」
思わず漏らした愚痴が面白かったのか、セハトは弾けるような笑い声を上げた。
「あははっ! あの人、確かにしつこいよねーっ!」
「おいおい、声がデカいって。またアッシュに怒られちまう」
「あははっ! あの人、確かにすぐ怒るよねーっ!」
「ちょっと、いい加減にしろよ」
まいったな。変なスイッチを押してしまったようだ。
「なっ、なあ、セハト。『長老会議』って知ってる?」
セハトの「変なスイッチ」をオフにする為に、俺は長老会議の話を振ってみた。
「魔導院長老会議」は、学院都市に住む者なら知らない物はいないであろう最高決定機関。それは魔導院の進むべき方向や意思を決定する、いわば魔導院の頭脳だ。
俺の所属する「錬金仕掛けの騎士団」は、長老会議の直轄機関に過ぎず、司令官たるアイザック博士ですら、その意向に従って動いている。意識はしていないが、俺だって長老会議の手足、いや指先の爪のそのまた先っちょみたいなモンなんだろう。
「ん? なに? ヨーローの滝がどうかしたの?」
「ヨーローの……ってお前、それは師匠の行きつけの……って、誰が飲み屋の話をしてんだっての」
「あはは、ごめん。長老会議の、なに?」
セハトは、大きな目をパチクリさせて逆に訊いてきた。
「あ、いや、ごめん。何となく訊いてみただけなんだ」
……しまった。脈絡もなく振ってしまった。極秘任務に関わる事なのに!
だが、セハトは訝しがることも無く、「あんまり良く知らない」と返してきた。
「あれじゃない? お爺ちゃんたちの集まりとか? お達者くらぶ、みたいな?」
「まさか。そんな老人会みたいなのとは違うだろ」
「じゃあ、なんで長老会議とか言うの?」
「言われてみれば……」
向かい合ったまま、俺とセハトは首を捻った。
初等科に通う子供ですら知っている長老会議だが、その実態は明らかにはされていない。はっきり言って興味が無いので調べるつもりもないが、俺は構成員はおろか、その人数すら知らない。
何となく耳にした話では「各種族の代表者の集まり」だとか「魔導院OBの集い」とか「大富豪の利権組織」とか、どれもはっきりとした確証は無く、あくまで噂の域を出ていない。俺は何となくだが、頭の良い偉い人の集まりかな? と漠然とイメージしている。
「拙者の生国では、家臣団の中でも特に位の高い要職に就く者を家老と呼ぶ」
壁に背を預け、影のように押し黙っていたシロウが口を開いた。「老中、とか年寄、とも言うな」
「それって、やっぱり年配の方なんですか?」
俺の質問に、シロウは首を横に振った。
「能力さえあれば、若くても家老職に就く」
「じゃあ、役職の名前、ってことですね」
俺の返答にシロウは頷き、何か考え込むように腕を組んで目を閉じた。
それ以上の質問は許されないような気がして、俺はセハトに「だってさ」と言っておいた。
「おい、みんな! こっちに来てくれ!」
アッシュの声に、シロウが目を開ける。
「話がある。この地図を見て欲しい」
よいしょ、と立ち上がったセハトは、竜の牙を投げ捨てて俺に手を差し出してきた。
「ほら、呼んでるよ。さあ、行こう。シンナバル」
俺は、女の子にしては大きくて分厚いその手を握り、「ああ、行こう」と応えて立ち上がった。




