第124話 そんな彼女の意外な一面
やり切れない気持ちを胸に、木製の欄干に手を掛けて湖面を眺めていると、ふと幼い頃に婆ちゃんがしてくれた寝物語を思い出した。
――――いいかい? 真夜中に水面を覗き込んではいけないよ。
気に入った若者を水底に引きずり込むという魔女の怪談を、恐ろしげな笑みを浮かべて話してくれた婆ちゃん。蝋燭の火に照らされたその不気味な笑顔を見て、幼心に思ったもんだ……婆ちゃん、あんたが魔女か。
懐かしい思い出に、苦笑いが口の端に浮かんだその時、ぞっとするような冷気が唐突に足元を襲った!
喉の奥から、ひぃっ、と短い悲鳴が出る。慄きつつも、冷気の正体を確認するために足元に目をやると、ぬうっ、と湖面から突き出た黒い手が、俺の足首を掴んでいるではないか!?
「たっ、助けっ!」
恐怖の余りに逃げ出そうとするも、氷の様に冷たい手に足を取られ、強かに尻餅をついてしまった。
突然に始まった怪奇現象にチビリそうな俺の目前に、ざばぁん! と水しぶきを上げ、湖の中から恐ろしい黒き魔女がその姿を現した!!
「カースぅ……」
「ネ、ネイト!?」
水を滴らせて橋の上によじ登ったネイトは、水揚げされた人魚のように、いや、そんな奇特なモンを目にした事は無いが、多分そんな感じに俯せになって凍えた身体を震わせていた。だが、濡れた髪の奥の、その怒りの色に燃える瞳だけは、ただ真っ直ぐに俺の顔を見据えていた。
「貴様ぁ……」
「あっ、あのっ……」
凍える寒さに口も身体も満足に動かせないのだろう、腕の力だけで這い、にじり寄って来る全身ビショ濡れ美女のド迫力に圧倒された俺は、橋板に尻を付けたまま後退するしかない。
「よくも邪魔してくれたな……」
「いや、その……」
ずるずる後ずさる俺。
じわじわ這い寄るネイト。
ついには追いつかれ、肉弾戦の達人である特殊部隊の隊長に、あっさりとマウントポジションを取られる。何とか逃れようと頭をフル回転させてみたものの、俺の両肩を膝で押さえ込み、馬乗りになったネイト隊長を相手に為す術は見つからない。
「……観念したか。何か言いたい事はあるか?」
ネイトは「錬金仕掛けの腕」で俺の両襟を締め上げたまま、覆い被さるようにして詰問してきた。
「あの……えーっと」
「男らしくないぞ。せめて私の目を見ろ」
「いえ……それは、ちょっと」
「何だ? 言いたいことがあるなら、はっきりと言え」
「あのね……お前のその、濡れた服がね……ピタッとさ、その……張り付いちゃってて……」
俺はそっぽを向いたまま、なんとか肘を曲げてネイトの胸元を指差した。瞼を閉じても容易には消え去らない、思いの外に深い谷間と、形良くツンと上向いた……へへへっ。
言われてまじまじと自分の胸元を見つめるネイト。
一瞬の静寂。そして――――
「きぃやぁあぁあー!!」
彼女もこんな時には、女の子みたいな悲鳴を上げるんだな。意外に可愛いとこあるね。
妙に感心しながらも猛烈な勢いで投げ飛ばされた俺は、折角なので爽快とも言える浮遊感を楽しんだ。
「ああ、月が綺麗だ」
冴えた光を放つ満月に向かい、素直な賛辞を口に出してみた。
そして、次の瞬間には、寒中水泳に挑む自分の姿を想像した。
*****
おう、お前らか。また、変なトコで会ったな。え? 何してんだ、って? バーカ、そりゃこっちの台詞だ。
お前らこそ何なんだよ? ゾロゾロゾロゾロつるみやがって。どうして男同士で「こんなトコ」に来てんだっての。気持ち悪いったらありゃしねえ。
言っとっけどな、俺は高速で移動する乗り物とか、高速で回転する乗り物とか、高速で走り回る子供とかが苦手なんだ。その全部を余すこと無く堪能できるのがここ、遊園地だ。女連れでも無けりゃ、いい歳こいた男が来る場所じゃないぜ。まったく。
ほれ、分かっただろ? おデート中なんですよ、俺は。邪魔すんなよ。冷やかすのは店だけにしろ。じゃあな。
「いっくしっ!」
クソっ、風邪引いたかな? しっかし、何でまたあいつら、野郎オンリーで遊園地になんて遊びに来てんだっての。あれが最近流行りの草食系男子とかいう新種族か?
「……遅っせえな、あいつ」
身に沁みる寒さに縮こまりながらベンチに座り、首に巻いた厚手のマフラーに顔を埋めてみると、自分の吐いた息で少しは暖かくなった気がする。
「どこまでコーヒー買いに行ったんだ」
クルックー言いながら寄ってきた鳩を爪先で追い払いながら、連れの姿を目で探しつつ、人で溢れかえる賑やかな遊園地を見渡してみた。
ありえない速度で高速回転する、妙にリアルな回転木馬。
絶叫する乗客を満載した、猛スピードで園内を巡る暴走トロッコ列車。
とんでもない高さから轟音と共に落下する、人を乗せた巨大ゴンドラ。
……あんな恐ろしいモン、どこの誰が考えたんだ。狂気の産物としか思えん。
実に危険な様でいて、誰も傷つかない平和な乗り物をボンヤリ眺めていると、視界の端で鮮やかな赤が揺れた。
「すまん、待たせたか?」
「このクソ寒いのにアイスだと……どういうセンスしてんだ、お前」
てっきりホットコーヒーでも買いに行ったと思っていたネイトが、右手に茶色、左手に白のソフトクリームを持ち、小走りで帰って来た。
「カース、お前はどちらを選ぶ?」
両手にソフトクリームを掲げ、嬉しそうに微笑むネイトの顔を見てから溜息を吐き、「茶色いの」と指差し答える。
「えー、そっちー?」
「……だったら聞くな」
「半分食べたら交換しよう」
はにかみながら茶色いのを差し出してきたネイトに、「あーはいはい」と返事をしながらも、何がどうしてこうなった? と自問自答してみる。
冷たい水の中に放り込まれた後、重たい鎧と寒さのせいで溺れかけていた竜人族の青年を、ネイトの力を借りて救出したものの、怒り心頭な彼女に対し「何でも言うこと聞く」と約束をして許して貰った結果がこの様だ。まさか遊園地に付き合わされるとは思ってもみなかったが。
「日に日に寒くなるな」
そう言いながら俺の隣りに腰を下ろしたネイトは、ふわふわしたファーの付いたジャケットの身頃を合わせ、短いスカートの裾を伸ばした。俺は「そんな暖かそうな上着を着て、どうして足元の装備がそんなに脆弱なのか?」と訊きたくもなったが、女性に対しこの手の疑問は言わぬが華だ。
俺の、いや、世の男性の抱く総意的な疑問を余所に、ネイトは、はむっ、とソフトクリームの頂上を一口含んで、ぶるっ、と身を震わせた。
「寒い! でも美味しい!」
ネイトは大袈裟に一声叫び、身体を擦りつけるようにして寄ってきた。
「だったらアイスなんて買ってくんなよ。それと、必要以上にくっつくな」
「ほう。私にあんな恥辱を味あわせたクセに、まだそんな口を利くのか。この恥知らず」
「うっ」
「その上、助けを求められるままに快く応じたこの私に、まだそんな態度を取るのか。この恩知らず」
「……すいませんでした」
「許す」
ころころと笑ったネイトは、再びソフトクリームを口にしては「さむーい!」と言って、俺の肩に頭を乗せてきた。……なんだ、このシチュエーションは? ご褒美か? それとも新手の罠か?
決まりの悪さを誤魔化す為に、わざと大口開けて茶色いソフトクリームにかぶりついてみた。案の定チョコレート味だったが、見た目を裏切らないその味に不思議と安心感を抱いた。
「早く食べないと溶けるぞ」
早々にソフトクリームを半分平らげたネイトが、物欲しそうに俺のチョコソフトに目線を送ってきた。本人はどう思っているが知らないが、威圧的とも言えるその視線に負けて八割方残ったソフトクリームを差し出すと、お返しにアイスの中身がコーン部分にしか残っていないのを手渡された。
「溶けるかよ、この寒さで」
半分食べたら、って言ってなかったか? と心の中でツッこんだが、美人の食いかけにはそれ以上の価値があるだろうと納得し、黙って白いのをコーンごと食べてみた。濃厚なバニラの風味の中に、はっきりとした塩味を感じる。ああ、これはあれだ。いま話題の塩バニラってのだ。ほら、やっぱり見た目からの想像ってのは、裏切られる為にある。
「うーん、チョコも良いな。だが、イチゴミルクも良かったか……」
目を閉じてウンウン頷きながらチョコソフトを舐めまわす特殊部隊の隊長。こいつとも長い付き合いだが、こんな一面もあったんだな。冷酷無比な戦闘マシーンみたいな印象を持っていたが、安心するような、ビックリするような。
そんな思いを抱きつつ、なんとなくネイトの横顔を眺めてみる。直線的な眉や、線を引いたような鼻梁には男性的とも言える鋭さを覚えるが、柔らかな輪郭や、濃すぎるくらいに長い睫毛は意外な色気すら匂わせている。だが、恋愛感情とかそんなの抜きして、俺がこの女の一番気に入っているパーツは――――
「なんだ? 人の顔をジロジロと」
突然、目を開けたネイトとばっちり目が合った。燃えるような、それでいて冷たい瞳に思わず息を飲む。
「あ、いや……良く喰うなあ、って思ってさ」
最高純度の紅玉石みたいな瞳は、いつまでも眺めていたいような美しさだったが、さすがに気恥ずかしくなって目を逸らした。彼女はそんな俺の気も知らず、ふて腐れたような顔で、かりり、とコーンを前歯で齧った。
「悪かったな。『錬金術の騎士団』は男所代だから、こういうのを食べる機会が少ないんだ。ディミータは甘いの苦手だし」
「そうそう、ディミータさんはしょっぱいのが好みだよね。あいつは? シンナバルは?」
「あの子はな、味覚がどうかしてると思うくらいに辛いのばっかり食べている」
良かった、上手く話題を逸らせたようだ。そして、シンナバルの異常な味覚の話で盛り上がりつつもコーンの最後の一片まで食べ尽くしたネイトは、急に真面目な顔になって、俺の顔を覗き込んできた。
「それで、例のサムライはどうした?」
「ああ、あれから二日ほどウチにいたんだけどね、聞いて驚くなよ。シロちゃん、魔導院に入るんだ」
「そうか、だが驚くような話でもあるまい。彼の実力なら試験に落ちるとは思えない」
「いやいや、驚くのはその理由だよ」
「理由?」
軽く眉が寄り、赤い瞳が揺れる。
「ネイト、お前を倒すんだとよ。その為には、魔導院の地下訓練施設で腕を磨くのが最適だってアッシュに勧誘されてね」
「アッシュ? あの金髪の優男か?」
「そうそう、その金髪イケメン騎士ね。あいつもさ、お前を倒すんだ、って息巻いてたよ。モテモテだな、ネイト」
俺がそういうと、ネイトは面白くなさそうな顔をした。
「そんなのにモテても嬉しくない。私、わたしは……」
ネイトは何かを訴えかけるような目を向けてきた。潤むようなその瞳に見詰められていたら、何だかそわそわした気持ちが湧き上がって、俺は慌てて彼女から顔を逸らした。
「いっくしゅっ」
くしゃみが出そうになったら、他人様のいない方向を向く。マナーだよ、マナー。