第12話 婆ちゃん伝説
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しまった。少し寝てしまっていたらしい。東の空が白み始めていた。
しかし、何だ? この血生臭さは? 肉屋か? 屠殺場か? そんなの、この辺にあったか?
ニチャニチャッニチャニチャッニチャ
背中に気配を感じ、ゆっくりと振り返る。
「よう、ビーフィン。酷い様だな」
俺は、かつてビーフィンだった肉塊に話しかけた。
「おやゆびがないときりにくいよう」
人の形をした生肉は、血と脂を滴らせながら、逆手に持った短刀で自らの腹を切り裂いている。親指を立てて見せたつもりだろうが、そこにあるべき指は無い。
俺が座っているベンチの周りに、かつては人間だった生肉たちが集まってきた。
奴らは手に手に持った短刀で、互いの胸を腹を背を顔を腕を足を、ただ無心に切り裂きあっている。
ニチュニチュグチュッニチャニチャッグチッニチャッニチャッ
ベンチはまるで、血の海に浮かぶ筏みたいだ。
しまった。少し寝てしまっていたらしい。東の空が白み始めていた。
あんな夢を見るなんて、いよいよ呪いに冒されてきた証拠だろう。俺の周りに漂うモヤは、殆ど人の形に見え始めていた。
馬鹿め、手前ぇらの思い通りなんかにさせるかよ! お前らの一団になんて入ってたまるか!
彼女をあんな無限の地獄に堕とさせるものか! 人間を、俺を舐めるなよ!
……最後に婆ちゃんに会おう。旅に出るとでも言えば良い。
『聖なる騎士と魔法の竜』を抱いて、湖の底に沈もう。なあに、リーザ姫が勇気を与えてくれるさ。
迷いが消えると、足取りも軽くなるもんだな。
◇◆◇
ところでお前ら、俺が「婆ちゃん、婆ちゃん」って言うから、シワシワの小っさいのを想像してないか?
婆ちゃんは、二十歳そこそこで母さんを産んで、母さんは二十歳前に俺を産んでいるから、婆ちゃんは世間の常識的な尺度からみれば、かなり若い婆ちゃんだ。しかも、俺と変わらないくらいの背丈がある上に異様に姿勢が良いから、元気な頃は四十代に見られる事もしばしばだった。
そういえば、ちょっと彼女に似た顔立ちだったな。彼女を好きになったのも、俺がお婆ちゃん子だったからかも知れない。
◇◆◇
武器屋の朝は早い。夜明け前に装備を整え、出立する冒険者が多いからだ。
地下訓練施設には魔導院の関係者以外は立ち入り出来ないが、学院都市の周りに広がる広大な湖や豊かな草原、荒涼とした岩場は、研究には欠かせない貴重な動植物や鉱石の宝庫だ。良い素材は魔導院が高値で買い上げてくれるから、自然と学院都市には冒険者が集まる。
学院の卒業生も学院都市に留まって、冒険者に転身する者も少なくない。これが学院都市が大陸一の大都市になった理由のひとつだ。
「婆ちゃん、帰ったよ! 朝早くからゴメンな」
店の扉を空け、俺は務めて明るく振舞った。そうでもしないと婆ちゃんの顔をみた途端、涙が溢れちまいそうだ。
さして広くは無い店内だが、見やすく綺麗に陳列された武具がセンス良く並べられている。使い込まれ、磨き込まれた木材のカウンターが、また良いアジを醸し出していた。
「すまないね。まだ開店前……」
カウンターの向こうにしゃがみ込んで作業をしていた婆ちゃんが、ひょっこり顔を出す。俺の顔を見て、にっこり満面の笑みを浮かべた婆ちゃんの顔が突然、鬼のような凄まじい形相に変わった。
「ばっ……婆ちゃん? はっ、半年も連絡しなくてスイマセン」
婆ちゃんは、ゆっくり立ち上がりカウンターからフロアに出てきた。
俺に向かってにじ寄るその足捌きは、まるで熟練の戦士みたいだ。それは正に近接戦闘用の歩様じゃないか。
婆ちゃんの長いスカートとエプロンが擦れ合い、スルスルと乾いた衣擦れの音を立てる。
「あっ、あのっ、俺……いや、ぼっぼっ僕、たっ、旅に出ようかなー、とか何とか言っちゃったりして……」
慌てて手を振ろうとして、絶句した。いつの間にか俺の手には「第七等級呪物・赤い短刀」がしっかりと握られていた。
「なっ、何で……これが俺の手に?」
取り出した覚えは無い。ズダ袋はカウンターの上だ。
「つまらん土産を持って帰って来たな」
氷の刃みたいな声。婆ちゃんがこんな声を出すのを始めて聞いた。
赤い短刀を握った手が震える。いや、震えているのは赤い短刀か?
黒いモヤが俺の全身にまとわり付く。一瞬、意識を乗っ取られかけた。その感情は狂気。いや、恐怖? 赤い短刀が、このクソ呪物が怯えているのか? 婆ちゃんに?
婆ちゃんは両手で剣柄を握り、ゆっくりと『雄牛の構え』を取った。
婆ちゃんのクセの無い、真っ直ぐな銀髪がサワサワ揺れる。
――――婆ちゃん、カッコイイ……
俺は婆ちゃんに見蕩れた。その姿には微塵の隙も無い。学院にも、これほど完璧な戦闘姿勢が取れる教官はいなかった。
ただ、婆ちゃんが構えるその剣には剣身が無かった。
――――婆ちゃん、いよいよボケが来たのか……
俺の手の中で赤い短刀が暴れ出す。俺は引っ張られるように婆ちゃんに突きを繰り出した。
――――避けて! 婆ちゃん!
俺は心の中で叫ぶしかなかった。
婆ちゃんは長い銀髪を翻し、いとも容易く俺の突きを避ける。
婆ちゃんの戦闘姿勢が『雄牛の構え』から『長き切っ先の構え』に変化した!
「その呪い!」
裂帛の気合いと共に剣身の無い剣を振り下される。
「粉砕してくれる!」
婆ちゃんの持った剣柄から、まるで剣身の代わりとでも言うように灼熱の炎が迸る!!
ごうごうと音を上げる猛炎に視界が覆われ、見える物の全てが真っ赤に燃え上がる。追って、叩きつけるような炎の袈裟斬りが襲い掛かってきた。
「婆ちゃん……』
俺は悲鳴を上げたのだろうか。
身を灼かれる苦痛を最後に、意識が途絶えた。