第110話 ミニチュア・ランドスケイプ
頭を振って剣呑な想像を頭から追い出す。
俺はいま、シロウを斬る事を考えていたのか? 馬鹿な。それこそサムライかぶれだ。
「どうかしましたか?」
そう言って、シロウは徐に振り返った。
――――まさか、俺の殺気を読んだのか?
「先ほどから何も喋られないので、どうかされたのかと思いまして」
「え? ああ……立派な庭園だな、って感心してたんだ」
実際そうだった。ちょっとした公園に匹敵するほどの広さはあるだろう道場の敷地には、見事な枝ぶりの大木が植えられているのを始め、所々には荒々しい姿の巨岩が配置され、魚が泳ぐ池があるどころか、せせらぐ小川まで流れている。
……なんか、俺の考えていた「剣の道場」とはかけ離れた場所だな。勝手な想像だけど、魔導院の戦闘訓練所みたいのを考えていたんだよね。
「真なる剣の道に至るには『天地万物の理』を身と心に宿さねばならぬ、亡父の言葉です」
「なんだそりゃ? シロちゃんの親父さんってのは聖職者の類だったのか?」
俺の返事に苦笑で返したシロウの目が寂しげに翳った。「いえ、父はサムライでした。僕の知る、誰よりも」
シロウの父親が亡くなったのは、つい最近の事だと定食屋で聞いた。おまけに兄が弟子たちを斬り殺した上に行方不明ときたもんだ。その胸中には、未だに消化しきれない想いを抱えているのだろう。
少年の黒髪から滴る水滴から、哀しみにも似た何かを感じた。
「この庭園は、父の考える『剣の道』を目に見える形に表したものだと聞いています」
言われて辺りを見渡してみた。
もう間もなく日が落ちる。厳しさを感じさせる岩石も、清廉な精神を思わせる澄んだ小川も、全て等しく染め上げる夕焼けの色は、大陸もヤマトも変わらない。
夕暮れの風が、無言で立ち尽くす俺たちを包み、通り過ぎていく。
シロウは目を潤ませ、視線を落とした。
俺は口を挟まずに、次の言葉を待った。
ふと、シロウが顔を上げる。
一瞬の沈黙。
そして。
「――――っくしゅん!」
「ちょっ、お前! おつゆ飛んできたぞ!」
「ずびばぜん。ちょっど、びえでびばしばね」
「なに言ってるか分かんねえし。しかも鼻水垂れてるし。くしゃみするときは手で押さえんのはエチケットって、お母さんに教わんなかったか?」
「ふへへ。ずいまぜん」
「ったく、しょうがねえなぁ」
手拭きを取り出そうと愛用ズダ袋を地面に置いた時、先ほどの勇ましい少女が「お茶の用意が整いました」と、シロウの背後から歩み寄ってきた。
ゔぁ、びざぎざん、と鼻声で振り返ったシロウの姿を見て、少女はガックリと項垂れた。
「士郎さま……あなた、仮にも御陵流第十八代当主なのですよ。自覚をお持ち下さいってば」
懐から取り出した紙でシロウの顔をグイグイと拭う少女。
痛い、痛いです、と言いながらも、されるがまま棒立ちのシロウ。
うん、良い組み合わせだ。同じくらいの背丈をした二人のやり取りは何と言うか、実に微笑ましい光景だ。
「お醤油買いに行っただけで、何でびしょ濡れで帰ってくるかなあ、もう」
ぶつぶつ言いながら、汚れた紙を躊躇なく懐に仕舞った少女が「お恥ずかしいところをお見せしました」と、俺に向かって頭を下げた。
これはあれだ、「お辞儀」ってヤツだ。相手が頭を下げた時には、こちらもすぐに下げ返すのが礼儀だと船で聞いたぞ。
すぐさま少女に倣って腰を折ると、「まぁ、これは御丁寧に」と少女はさらに深く頭を下げる。
なんだと? 何回頭を下げれば正解なんだ!?
延々と頭を下げ合う俺と少女の脇で、シロウがもう一発「くしゅっ!」と、くしゃみをした。
少女は俺との頭下げ勝負を切り上げて、鼻をすするシロウに向き直った。
「士郎さまは、お食事の前に湯浴みをなさって下さい」
「はい、そうします。こちら、大陸からいらしたばかりのクロちゃん。失礼の無いようにね」
そう言ってからもう一度、いっくしっ、と一発かまして、シロウは一際大きな建物の方へと立ち去った。途端に所在無い気持ちになったが、すぐに察してくれたのか、ミサキと呼ばれた少女が「お客様は、どうぞこちらへ」と、大樹の木陰にある小さな建物に誘ってくれた。
「申し遅れました。わたくし、御陵家にお仕えさせていただいております、未咲と申します」
少女は俺を案内しながら、半身だけ振り返って頭を下げた。ゆったりとした口調はクセなのか、それとも大陸モンの俺に伝わりやすいように、って配慮なのかな。
歳の頃は俺やシロウと変わらないくらいだろう、素朴で可愛らしい女の子だ。目が細いヤマトの人間にしては珍しく大きなタレ目と、口角の上がった微笑んでいるような口元が印象的で、言うなれば妹系な感じに見える。
だが、先ほどの筋肉ダルマと渡り合う胆力といい、シロウをあしらう振る舞いといい、見た目よりもしっかりした女性なのだろう。学院にいたら「お母さん」と渾名されそうなタイプ。
「俺は、えーっと……クロちゃんで良いよ」
「では、クロちゃんさま、とお呼びすれば宜しいでしょうか?」
「あのさ、『クロちゃんさま』は、さすがにおかしくないかい?」
「あの、その、ちょっと……クロちゃん、とお呼びするのは憚られます」
「大丈夫、大丈夫。俺、そういうの全く気にしないから」
「いえ……申し上げ難いのですが、シロウさまが可愛がっていた飼い犬が『クロ』という名前でして。シロウさまは『クロちゃん、クロちゃん』と、それは可愛がっておいででした」
あ、あの野郎……俺は犬と同じレベルか。
「昨冬に死んでしまったのですが、シロウさま、それからしばらく落ち込んでしまわれて」
「そうなんだ……病気だったのか?」
「シロウさまが幼い頃に拾われたそうなので、犬としては長命でしたが、好物の饅頭を喉に詰まらせてそのまま……でも、犬に饅頭を食べさせるシロウさまもどうかと思いますけど」
そうか。それであいつ、俺が饅頭を食べるのを嬉しそうに見ていた、ってワケか……まったく。
「白毛の犬だったのに『クロ』なんて名前だったんですよ」
「へえ、何でだろう?」
「それが、『シロ』って名前だと、誰かがシロを呼んだ時に士郎さまが返事をしてしまう事があったからなんですよ」
頬を赤らめて笑うミサキの姿に「ああ、この子はシロウが好きなんだな」って、直感した。俺だって、伊達に魔導院で恋愛経験値を積んできたワケじゃない。それくらいは分かる。
その時、俺たちの向かう道の先から賑やかな話し声が聞こえ、木刀を担いだ少年の団体が歩いてきた。彼らは俺たちの姿に気付くと道の脇に逸れ、横一列に並んで頭を垂れた。
お疲れ様、と言い、ミサキは少年たちの前を通り過ぎた。その後ろを追う俺が通り過ぎても、整列する少年たちは頭を下げたまま微動だにしない。見たところ俺よりもずっと年下、たぶん十二、三歳くらいだろうに、ずいぶんと礼儀正しいし何より統制が効いている。
少し離れてから振り返ると、すでに少年たちの姿は見えなくなっていた。
「ミサキさん、今のはお弟子さんたちかな? 若い人が多いんだね」
「ええ、あの子たちは皆、住み込みの弟子です」
「そうか、寄宿舎とかも備えてんだ」
それこそ魔導院のように全寮制なのだろうか。だが、ミサキの返答は俺の想像とは違っていた。
「彼らは戦で家族を失った子たちなんです。皆、士郎さまが拾ってきたのです」
戦災孤児か。物心付いてから学院都市の周りでは大きな戦乱なんて起きていないから、戦災なんて言葉自体を忘れていた。
「士郎さまは優しいお方です。私も士郎さまに拾われて、ここに置かせていただいております」
返答に詰まった俺を見かねてか、ミサキは「口が滑りました。お忘れ下さい」と言って黙り込んだ。
俺は何も言えなくなって、静々歩く彼女の後を付いていくしかなかった。
俺が通されたのは、ヤマト風の設えの質素な佇まいの小屋だった。ミサキが言うには、つい最近までシロウが使っていたのだと言う。
手慣れた所作で茶の支度をしたミサキは、「お食事の用意が出来ましたらお呼びします」と言い残して部屋を出て行った。ひとり残された俺は、草っぽい味のする緑色した茶を啜りながら、こじんまりとした室内を見渡した。
植物で編まれた若草色の柔らかい床、木目の浮いた柱や梁。細く格子状に組まれた枠と、そこに紙を貼りつけた引き戸。うん、良いぞ。これぞ異国情緒ってヤツだ。
手を伸ばして引き戸をスライドさせると、外からは木の葉がこすれ合う音と、虫の鳴く声が聞こえる。そんな音に耳を傾けている内に、外と室内の境目が曖昧に思えてきた。部屋は狭いはずなのに、どういう事だか広く感じる。でも、それは違和感じゃなくて、不思議な居心地の良さだ。
妙に穏やかな気持ちになって風情溢れる庭を眺めていると、いよいよ外が暗くなってきた。すると、そこにあった事にすら気が付かなかった照明が存在感を増してきた。これ、いつから点いていたんだろう?
「クロちゃーん、いますかー」
四角い照明の中を覗き込んでいると、俺を呼ぶシロウの声が聞こえた。
あいよー、と返事をすると、開け放した引き戸の脇からシロウが顔を出した。
「夕餉の準備が調うまで、少し庭を歩きませんか?」
薄手の服に着換えたシロウが散歩に誘ってきた。俺に断る理由は無い。
日が落ちかけて辺りは薄暗くなっていたが、所々に立てられた石造りの外灯の明かりが、庭に仄暗く幻想的な雰囲気を与えていた。そうか、ここは昼と夜の境までもが曖昧なんだな。
「その辺、暗いですから足元には気を付けて下さいね」
言ったそばから木の根に躓いたシロウが「おわっ!」と短い悲鳴を上げる。
俺は咄嗟に手を伸ばして、シロウの腕を掴んだ。
「自分が転んでいては世話無いですね」
シロウは、俺の手にしがみ付くような姿勢になって照れ笑いした。
当主がこれではミサキが心配になるのも分かる。優しいだけでは剣術道場の主は務まらないだろう。
だが、俺の心配を余所にシロウは無邪気に話し続ける。
「いかがですか。当家の庭は? 気に入っていただけたでしょうか?」
「ああ、見事なモンだ。ここに来てようやく『ヤマトに来た』って気になったよ」
これは嘘偽り無い気持ちだ。この庭園にはヤマトの美意識が凝縮されている様に感じる。
「俺の育った街ではさ、庭園ってのは、こっからが花壇、ここまでが池、これが歩道で、はい建物、って感じでね」
手で区切るような仕草で説明してみた。乱れた衣服の裾を直しながら、シロウはうんうん頷きながら聞いている。
「木だってさ、見栄えの良い形に切り揃えちゃうんだけど、ここは違うよな」
俺は手近かな松の木肌を撫でてみた。ゴツゴツざらり、とした手触りに力強さを感じる。
「だけど、手入れがされていないってワケじゃない」
俺は樹上を見上げてみた。伸びすぎたであろう枝が切られた痕が目に入った。
ふと、視線を戻すと、シロウは居住まいを正して神妙な面持ちで立っていた。
「何だよ。真面目な顔して」
「クロちゃん。貴方はこの庭を見て、何を感じましたか?」
「え? だから、ヤマトって感じだなぁ、ってさ」
「他には?」
「他に? ……そうだなあ」
何を言わせたいんだ? 俺は辺りを見渡してみた。
適当に配置されたような樹木と、何の意味があるのか分からないデカい岩、草を毟っただけの歩道と道端に生える野の花。川のせせらぐ音とジージーいってる虫の音。覆う藍色の空、西には名残の赤。
「この木だって、他にも似たようなのがそこらに生えてんだけど、岩があって川が流れてて虫が鳴いてて空が広がってるから良いんだよな、って思ったよ。これがさ、ひょっこり一本だけ立ってたら、それはそれで何かおかしい景色になるよな」
シロウは驚いたように目を見開く。何だよ? そんなビックリするような話か?
「ここではさ、昼と夜も、はい昼! こっから夜! ってんじゃなくて境目が無いんだ……ああ、そうか。それもひっくるめての庭なんだな、ここは」
言ってて自分で気が付いた。この庭は「世界」だ。小さな世界を表しているんだ。
シロウは俺の返答に、軽く頭を振って大きく息を吐いた。
「多くの門弟たちがこの庭を歩き、幾数年を費やしてもそこまで至らずに道場を去って行きました。それを貴方はたったの数刻で理解してしまうとは。御見逸れしました」
「いやぁ……そりゃきっと、余所から来たから素直に入ったんだよ。たぶん」
「その気付きこそが『行雲流水』、それこそが我が流派の神髄であり、父の考える剣の道なのです」
流派の神髄。剣の道、か。それを会得した者がサムライって事なのだろうか。俺は思い切って聞いてみた。
「俺はサムライってのに会いたくてヤマトに来たんだ。シロちゃん、君はサムライか?」
シロウは答えなかった。だが俺は、その左手が腰に差した木刀を握りしめたのを見逃さなかった。
「それには答えられない。僕はまだ、答えに辿り着いていないから」
シロウの口調が変わった。だけど、俺にはそれが嬉しくも感じた。コイツはいま、流派の当主でも道場主としてでも無く、一人の人間として俺に向き合ってくれている。
だが、シロウの口から発せられた言葉は、友情や親愛を表すような優しい言葉では無かった。
「クロちゃんは人を……人を殺した事はありますか?」
今度は俺が黙る番になった。
自分を守る為、大切な人を護る為に、俺は決意を持って人を殺した事がある。
時には仕方の無い事も、他に方法が無い状況もあった。だが、俺の脳裏には最初に殺した人間の顔が浮かんだ。
俺は右手を握りしめた。手の中には在るはずの無い指を、切断された親指の存在を感じていた。
活動報告にも書きましたが、右手首を負傷しまして……今回は主にスマホで書きました。
あれって、予測変換があるから書きやすいのですが、下手すると似た言い回しが増えちまいます。
変な部分がありましたらご報告いただけますと幸いです。