第106話 エトセトラ
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俺の店の周辺、良く言うと閑静な、悪く言えば寂れた路地を抜けて少しは賑やかな通りに出ると、夕飯の買出しらしき主婦や、遊んだ帰りか習い事の帰りか分からんチビッ子ども、犬の散歩をする人々が行き交っていた。
飲み屋に向かう俺たち三人の脇を、フワフワした小型犬を連れたキラキラした女性が通り過ぎた。シロウが女性を振り返り、包帯に覆われていない方の目で追う。
「どうした? 好みのタイプか?」
シロウの堅物っぷりを承知の上でからかってみた。
「……犬が服を着て歩いている」
「ん? ああ、そろそろ冷えてくる時期だからね。この街って湖に囲まれている上に石畳だろ? 底冷えするんだよ。犬からしてみたら、足元が寒いなんてレベルじゃないんじゃないか?」
「いや、学院都市は豊かだ、と思ってな」
シロウの出身地、「ヤマト」は風光明媚な美しい国だが、山がちで農耕に適さず、自然災害の多い島国だ。ヤマトの国が、大陸の東方を支配する山王都から侵略を受けずにきたのは、大国にとって食指が動かない貧しい国だからだ。
「そういえばさ、彼女どうした? ミサキちゃん、だったっけ?」
俺は話題を変えようと、シロウに許婚の名を出してみた。
気が強いけど、一本気でなかなかに可愛らしい少女だったと覚えている。
「正式に道場を継いだ後、祝言を挙げた。今では娘が一人いる」
「シロウさん、お子さんがいるんですか? そうは見えませんね」
素っ頓狂な声を上げて、アッシュが会話に割り込んできた。
「ヤマトの連中は結婚すんのが早いんだよ。そういう風習なんだ」
早死するヤツが多いから、とは言わずにおいた。
ヤマトの国はその貧弱な国力から全土を統一するほどの国家が育たず、多数の小国が分裂と合併を繰り返し、国内は長く内乱状態に陥っている。
「娘さんは幾つくらいなんですか?」
アッシュの問いにシロウは「六つ、いや七つになる頃か……」と、指を折って数えた。
「まあ、その話も飲み屋でしようや」
そう言って、俺は二人の背を叩き「ほれ、もうすぐそこだ」と通りの先を指さした。
……アッシュのヤツ、まったく空気を読もうともしねぇな。
嫁さんと幼い娘を置いて、こんな遠い街まで来てんだ。何かしらの理由があるに決まってる。それにヤマト出身の連中は、思っていることや感情を顔に出さない、って事を知らないようだ。
「ヤマトの国では米から酒を作るのですか。それは驚きです」
「水の質、米の種類によっても味が変わる。拙者は辛口が好みだ」
飲み屋というキーワードに反応したのか、二人は酒の話を始めたようだ。俺は酒豪同士の談義には加わらず、痺れにも似た違和感を残す右手を握ったり開いたりして思慮を巡らす。
間違い無い。確かにこの手に「呪い」の存在を感じた。だが、もっと「呪物」そのものに近づかなければ、その正体までは感じ取れそうにもない。
――さっさとシロウに訊いちまうか?
いや、どんな呪いかも分からないうちに迂闊に動くのは危険だ。
最も怪しく思われるのはシロウが腰に帯びた刀だが、正直なところ、刀について俺の持つ知識は、一介の武器屋の域を出ない。
俺自身が「東洋のロングソード」とも言うべき「刀」という武器を上手く扱えないのも、いま一つピンと来ない理由の一つだが、生産国のヤマトの国から遠く離れた学院都市では、刀に関する資料が少な過ぎて調べようも無いのが最大の理由だ。
魔導院の図書館が利用出来れば良いのだが、図書館の一般開放は春秋、年に二回しか無い上に蔵書は禁帯出ときたもんだ。勉強したくともこれでは話にならない。
考えを巡らせつつ、目をやっていた右手のバングルが突然、オレンジ色に煌めいた。ふと顔を上げると、頭上の魔陽灯が明るい橙色の光を放ち始めていた。
……もう魔陽灯が点る時間か。日が落ちるのが早くなったな。
あの夏の日以来、ルルティアは俺の前に姿を現さなくなった。
まめに顔を出してくれるルルモニが言うには、ルルティアは学生寮を退寮して、学院から魔導塔の研究施設に籍を移したらしい。学院の生徒であるルルモニですらもルルティアとの面会は叶わず、調合した薬を魔導塔の受付に預けるので精一杯だと言う。
ルルティアの話になると、ルルモニはひどく寂しそうな顔をする。自然、俺はルルティアの事を話題に出さなくなった。
それに、いったいこの俺に何が出来るって言うんだ。
追いかけて、捉まえて、それからどうしようって言うんだ。
俺にはもう、始まりも終わりも必要無い。
俺はもう、期待も絶望もしたくは無いんだ。
ルルティアにも……リサデルにも。
*
エトセトラ、それが店の名前だった。ディミータさんから教えてもらったその飲み屋は、一階が雑貨屋で二階に上がる外付けの階段がすぐ横にあった。
俺は二人を下に待たせて階段を上り、もう店が開いているのを確認した。開いてるぞ、と階下に合図を送ると、アッシュを先頭にして二人が上ってきた。
「いらっしゃいませ。ああ、先日はありがとうございました」
扉を開けるなり、長い黒髪の女性がカウンター越しに声を掛けてきた。
「こんばんは。覚えていてくれたとは嬉しいね」
「今日のお連れ様は男性だけなのですね」
「ああ、むさ苦しくて申し訳ない」
「ふふっ、今日は予約は入って無いのでゆっくりしてらして下さい」
磨いたグラスを棚に戻しながら黒髪の美女は微笑んだ。彼女の名は確か、マリィさん、って言ったかな。年齢不詳の美人マスターだ。
「俺は果実酒の果汁割り、ほぼ果汁のみで。こいつらには美味いとこ出してあげてよ」
「僕ら二人は強めでお願いします」
「お前、自分で飲んだ分は自分で出せよ。俺が今日、奢るのはシロちゃんだけだからな」
「分かってますよ。意外に細かいですね」
「ったり前だ。俺は武器屋、商売人だからな」
大きな窓を背にしたカウンター席には椅子が数えるほどしかない。剥き出しの灰色レンガの壁と低い天井には飾り気も商売っ気も感じないが、その狭さと無味乾燥さがかえって居心地良く感じる不思議な店だ。
身長が高いアッシュが、天井からぶら下がったオイルランプを慎重に避けながら一番奥まった席に着き、シロウを挟むようにして横に伸びたカウンターに三人並んで座った。
「あれ程の腕を持ちながら、本当に商人になったのだな。惜しい事だ」
椅子に座るなりそう言って、シロウは腰に下げた使い込まれた小物入れをカウンターの上に乗せ、その中から細長い管を取り出した。
俺は、何が始まるんだろうと、その金属製らしき管を眺めながら「まあ、武器屋になるのが俺の目標だったからね」と言いつつ、シロウに訊いてみた。「で、それ何だ?」
「煙管だ。見たことは無かったか?」
シロウは干草のような物を小さく丸めて管の先端に押し込み、そこに魔火石で火を点けた。
俺は何気無く煙管や魔火石が納まっていた革製の小物入れに手を伸ばす。これでは無いようだ。
「あぁ、思い出した。ドワーフの連中の吸うパイプ煙草みたいなヤツか」
美味そうに紫煙を吐き出すシロウの口元を眺めながら、「魔火石」って大陸の果てまで普及したんだなぁ、と妙に感心する。傍らに目をやると、アッシュは漂う煙の行方を目で追っていた。
「お待たせしました。サングリアとブレンデッドウィスキーです。あと、こちらは昨晩に漬けたピクルスです。お口に合えば良いのですが」
ちょうどそのタイミングで飲み物とツマミが運ばれてきた。俺の前にはオレンジ色の液体の入った足つきグラス。アッシュとシロウの前には透き通った琥珀色の液体に満ちた重厚なタンブラーだ。
軽く杯を合わせ乾杯をする。俺のオレンジ色のは、どうやらフルーツワインをオレンジジュースで割った物のようだ。美味いし飲みやすいが、やっぱり酒は酒だ。俺は口直しに野菜の酢漬けを口に放り込んだ。
二人がほぼ同時にカウンターの上にタンブラーを置く。早くもその中味が半分以上も消失している。なんて恐ろしいヤツらだ。
「殆ど飲まれないのに、よくこんなお店をご存知でしたね。……もしかして、あの女性がお目当てですか?」
「へへっ。お前、酒が入ると感度が上がるな。だが、俺の目当てはこのピクルスだ」
ツマミに出されたシャクシャクしたピクルスは、酸味といい漬かり具合といい、これ以上望めないくらいに絶妙だ。これを食べる為だけにエトセトラに通っても良いくらいに絶品だ。
でも、ちょっとマリィさんが気になるのも嘘じゃない。このミステリアスな黒髪の女性、なんか婆ちゃんと雰囲気が似てるんだよね。軽い相談なんか持ちかけると、婆ちゃんが答えてくれているみたいで心が安らぐ。
「今日は鳥の良い物が手に入りました。蒸しても焼いても美味しいですよ」
マリィさんが空になったタンブラーを下げ、お代わりを持ってきた。静かな所作に彼女のプロ意識を感じる。
「そちらの男性はヤマトの方でしょうか?」
カウンターに肘を置いたまま、シロウは無言で頷く。
「では、鳥に串を打って炙り焼きにしましょうか?」
「ほう、串焼きか。それはありがたいな」
「塩にしますか? タレでも作れますよ」
「いつもなら塩だが、タレが恋しいところだ」
マリィさんは「かしこまりました」と頭を下げ、カウンターの裏に戻った。興味が湧いた俺は、鳥を捌き始めたマリィさんに訊いてみた。
「マリィさん、ヤマトの国に行ったことあんの?」
彼女は鳥から顔を上げずに答えた。「ええ、若い頃に。ずっとずっと昔に」
俺はその返答に満足した。イイね。ウチの客にはいないタイプ、素敵な大人の女性だ。
店内を満たし始めた食欲をそそる香ばしい香りに期待を膨らませながら、俺は身体ごとシロウの方に向き直った。そろそろ本題をぶつけてみるか。
「で、お前、学院都市に何をしにきたんだ? 観光ってワケじゃないよな」
シロウは一瞬、逡巡するように黙り込んでから「拙者より強い奴に会いに来た」と言い、薄い笑みを浮かべた。
「なんだそりゃ? お前、どこの格闘家だ?」
シロウの放つ不穏な空気に違和感を感じつつも、合わせるように笑っておいた。
「もしかして、北部の紛争に参加されるつもりですか?」
アッシュが良いタイミングで口を挟んできた。こいつ、酒が入ると使える男になるな。
シロウはその問いにゆっくりと、深く頷いた。
「ふぅん。で、山王都と海王都、どっちに付くの?」
貧しいヤマトの国にも、高値で取引される輸出品がある。
血で血を洗うような戦乱が何百年も続くヤマトの地では、独自の死生観から生まれた攻撃に特化した戦闘職がある。サムライだ。
まるで儀礼剣のように優美な片刃の剣「刀」を操る軽装の剣士「サムライ」は、馬上の騎士を金属鎧から軍馬ごと両断するほどの圧倒的な戦闘能力を買われ、大陸各地に傭兵として活躍している。
しかし、シロウは「ミササギ何とか流」の当主で、道場には百人余の弟子がいたはずだ。流派の当主が自ら出稼ぎとは考えにくい。
「負けそうな側に付く」
俺の質問に、意味の分からない返答をするシロウ。
「負けてしまっては報奨金も何も貰えませんよ」
ごもっとも。アッシュは海星傭兵騎士団の出身だ。傭兵の生き方は身に沁みているのだろう。だが、何となくシロウの、いやサムライって連中の生き方を思い出した。
「優勢な側にこそ強者がいる。拙者は、拙者よりも強い者に会う為に来た」
「武者修行、と言うことですか?」
「そうとってもらっても構わぬ」
シロウはタンブラーを口元に持っていき、そのまま一気に呷る。それから無意識だろうか。腰の刀の柄に触れた。
不穏な空気が密度を増した。
……やはり、呪物はそれか。