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小さな風のメロディー

作者: 月乃もみじ
掲載日:2026/02/25

俺が鳴海香織と出会ったのは高校に入学して間もない頃だった。

 中学を卒業したら地元のほとんどの奴が進学するなんてことない、偏差値五十なにがしの高校。

 もちろん数人は専門高校に行ったり、背伸びし地元から少し離れた高校に電車で通うやつもいた。俺は面倒なので徒歩で通える地元の高校に進学した。学力が足りなかったという理由もある。

 「いつも本読んでるけどそんなに面白いのか?」

 「ええ、面白いわ。少なくともこの世の下世話よりね」

 少しハスキーな声で香織はそういい、再び手元に視線を落とす。

 その横顔をなんとはなしに見る。『思い出のマーニー』のマーニーのような顔。髪の色や目の色はもちろん異なるけれど、顔の作りと雰囲気がなんとなく似ていた。映画を見たのはガキの頃なので、どういう内容だったかは、もう思い出せない。だから中身まで似ているかは定かじゃない。

 目線を彼女から窓へ移す。学校が名残惜しい生徒たちの姿が確認できた。昇降口の方に目をやると、まだ桜の花が咲いていた。ほとんどピンク色はなく茶色く味気なく突っ立っている。

 「だーれも来ないじゃん」

 「そうね、でもこれが図書員の仕事なんだから仕方ないわ」

 「なぁ、どうして図書員になろうと思ったんだ?」

 「こうして本が読めるからに決まってるじゃない。そういうあなたは?」

 「じゃんけんで負けたんだよ」

 香織は「かわいそうね」と興味なそうに本を読みながら応えた。

 放課後のチャイムが鳴った。

 「さー帰りましょう」

 バックを持ち、軽く受付を片し、鍵を持って図書室を出た。一階に行き、鍵をポストに入れて自分達の昇降口に向かった。

 「もうこんなに散っちゃったのね、なんか寂しい」

 味気ない桜の木にピントを合わせる。

 「あんたもそんなこと思うのか?」

 「ねぇ、私には名前があるわ。あんたっていうのやめてくれるかしら?」

 「あー、すまん。えーと」

 「香織よ。鳴海香織」

 「鳴海さんね」

 「香織でいいわ」

 「香織」

 「ええ。私も正宗くんと呼ぶね」

 彼女は勝手に決めつけた。

 正門まで来ると香織は「じゃあね」といい、左へ曲がり坂を歩き始めた。

 俺は夕日に眩しさを覚えながら彼女の背中を、見えなくなるまでぼんやり見ていた。

 

 「改めて、わたくし制作委員会の星野と言います」

 「中原です。本日は何卒よろしくお願いします」

 ホテルのロビーで向かいあって座る。

 やがて二人分の飲み物が運ばれてきた。お互い一口飲んだところで星野さんが話し始めた。

 「今回、中原さんの小説を映画化するにあたってお話をすすめていければと思っております。そんなに固すぎず楽にいきましょう」

 「ありがとうがざいます」

 僕は頭をさげる。

 「それではさっそくなんですけど、今回のこの小説は実話というふうに伺っているんでけどお間違いないですかね?」

 「はい、この作品は僕の友達をモデルにして書いた実話です」

 「なるほど。まずはお悔やみ申し上げます」

 「あーいえいえ、もう十年も前の話ですし・・・」

 そこで一口、アイスコーヒーを飲んだ。真夏にクーラーのきいた空間で飲むアイスコーヒーはたまらなく美味しい。

 高校生だった頃では考えられない。

 きっとあいつは今でも「そんな苦いもん飲めるか!飲み物なんてコーラで十分だ」とか言ってるに違いない。

 「とても素晴らしい作品だと思います。読みながら泣いてしまいましたよ」

 「恐縮です」

 「もっと詳しく、そのお友達について教えていただけませんか?」

 「もちろんです。そうですね~・・・・・」

 星野さんはメモの準備を始めた。

 僕は十年前の記憶と小説を照らし合わせながら話始めた。

 

 週に一回、香織と放課後の図書室で顔を合わせる。それが高校生活の一部になった。顔を合わせて図書員の仕事をするだけで特に何かがあるわけではない。

 香織は相変わらず本を読んでいた。

 「もう、高校に入学して二か月経とうとしてるんだな」

 「そろそろ紫陽花の時期ね」

 「花が好きなのか?」

 「ええ、好きよ。色んな花があって色んな特性を持っている。さらに色んな言葉も持っている」

 「それのどこがいいんだ?」

 俺は尋ねた。

 「素敵なのよ」

 「ほう」

 俺は窓から差し込むオレンジの光に目を細めた。

 異性との話に花を咲かせるのが面倒になった俺は、寿命が決定した日のことを思い返した。

 先月のことだ。

 紫陽花じゃなく桜がまだ花びらを咥えている時、俺は定期検診に行きつけの病院に来ていた。血液検査や髄液の検査、脳の検査など二時間ほど病院内を行き来きした。

 診察室に呼ばれて中に入ると、見慣れた医師が晴れない顔で一枚の紙と睨めっこしていた。

 しばらくして、医師は「恐らくあと三年だろう」と苦虫を噛むような顔で告げた。当の本人は実感がわかなかった。長いとも短いとも思わなかった。それくらいだろう。自分の体を見ていれば長くないことは容易に想像できる。

 事の発端は、中学二年のゴールデンウィークを終えた頃。俺は骨の病気だと診断された。ほんの些細な膝の痛みだった。

 その時は治療すれば治ると言われていたので特に気にも留めず病気をやっつける薬を飲んでいた。しばらくサッカーができなくなることを悔やむ程度だった。

 しかし、一年を過ぎても全く治る気配がなかった。むしろ薬の数は一つだったのに三つに増えた。自分の中で嫌な予感が膨らんでいった。これは治らないんじゃないか?と。中学三年になり、皆が受験の騒ぎをしている時も俺は病院のベッドで一人、腕からチューブをぶら下げて点滴を打っていた。

 「俺は一体いつになったら病院を卒業できるの?」

 中学最後の夏休み俺は尋ねた。

 「うーん」

 主治医の新井先生は困った顔になる。

 つづけた。

 「正宗くん、君は癌なんだよ」

 「・・・ガン」

 新井先生は視線を下げる。

 「治るんでしょう?」

 俺の声はいくらか震えていたと思う。

 「あ、ああ。きっと治るさ。今は医学も進歩しているし。一緒に頑張ろう」

 この時、気づくべきだったのかもしれない。医者がきっとなどと曖昧な表現なんてしないことを。すでに病気が治らないことはわかっていたのだ。しかし、親と医師の判断でそれを言わなかった。なぜだろう。俺が絶望すると思ったからだろうか。

それから中学を卒業するまで病気が治るという淡い期待を抱いて治療に従事した。でも自分でも薄っすらわかっていた。俺はきっと治らない。そう思っていた時に寿命が決まった。

 三年。

 俺は絶望なんてしなかった。

 ただ、昨日と同じ毎日を生きる。それだけだった。


 「どうして学校やめないの?」

 学校帰り公園のベンチに座り、紫陽花を眺めながらビンコーラを飲んでいる時、中原が俺に尋ねた。

 「どういう意味だい?」

 「だって正宗、あと三年も生きられないんだろう?だったら学校なんてやめてやりたいことをやればいいじゃん。学校なんかに来ていたら勿体ないよ」

 「中原の言いたいことはわかる。けど、そうなったら生き急いでいる感じがするじゃん。無理やり心臓を動かしている気分になっていやなんだよ」

 中原は浮かない様子でコーラを煽った。

 「僕にはよくわかんないや」

 「これは俺の性分かもな。もし中原が俺と同じ状況になったら学校をやめて好きなことをするだろう? あと俺にはやりたいことがねぇんだよ」

 俺は小さく笑う。

 「そういえば、図書室で話していた女の子は?仲いいの?」

 中原は話題を変える。

 「あー」

 先日、中原が放課後本を借りてきたことを思い出す。

 「別に、ただの図書員のお仲間さ」

 「香織さんだろう?」

 「知ってるのか?」

 「ああ、クラスが一緒なんだ」

 「変な繋がりだな」

 そう言って俺が笑うと、中原も「だな」といい、ようやく歯を見せた。

 「どんな人なの?あの人、顔は美人なのに友達が一人もいなそうなんだ」

 だろうな、と思った。

 「どんな奴か~。本が好きなのと花が好きな奴だな」

 「それだけ?」

 「ああ、それだけだ」一回瞬きをして「なんか、あいつ、マーニーに似てないか?」

 「マーニー?思い出の?」

 「そう」

 「あー言われてみれば雰囲気あるかもな」

 香織に対する情報は本と花が好き。それしか持ちあわせていなかった。特に興味のない人間。

 どうせ、あと一、二か月もすれば前期の委員会は解散し図書員の任務を終える。香織は後期も図書員になるかもしれないが、俺はならない。次は絶対にじゃんけんに負けやしない。

 もう一生関わることはないだろう。

 「そういえば、部活は楽しいのか?」

 「今はあんまりボールに触らせてもらえないけど、やっぱりサッカーは楽しいよ」

 中原はネットにくるまったマイボールを軽く蹴った。

 「まだまだこれからだもんな。リフティングくらいなら付き合えるぜ」

 俺らは腰を上げ、中原はネットからボール取り出し、俺に投げた。

 それを脚でキャッチし二、三回膝や脚で操り中原に渡す。中原も同じようにボールを操った。中一で俺と中原はサッカー部に入った。同じ時期に始めたのに、リフティングをすると俺と中原で確実に差がついていることがわかった。嬉しい反面、少し悲しかった。俺も病気にさえならなければ今頃、中原と同じサッカー部で黄金の滝のような汗を流していたに違いない。俺は少しばかり病気を恨んだ。

 夕日が完全に落ちる前に切り上げ、俺らは家路についた。その頃には図書員のマーニーのことなんて、これっぽっちも頭になかった。

 また俺のなんてことない一日が終わった。

 


 時の流れるのは早いものだ。年々そう感じていたが、寿命を宣告されてからは尚早く感じた。無論、時間の流れは一定だ。俺が生まれてから今まで、一秒の速さは変わらない。

 しかし、どうも俺にはわからなかった。頭では時間の理論を理解しているのだけれど、体がそう感じてくれないのだ。

 気が付けば俺は高校二年になっていた。

 俺の寿命があと二年になってしまった。だからといって目くじら立てて生きているわけではない。日々を過ごすのにイラついてもいない。

 俺は至って冷静だった。

 やりたいことも日々の生活でできること以外なかったし、大切な何かがあるわけでもなかった。だから俺は冷静でいられるのだ。

 しかし、時の流れとともに病気は俺の体を蝕んでいっているようだった。通院の頻度や薬の量がまた増えた。

 十六回目の桜を見る頃に俺は入院をした。別に大したことない検査入院だ。一週間もすれば退院できる。四つベッドが置いてある共同病室で向かいには八十代と思われるおじいさんが二人仲良く談笑している。俺は窓際のベッドで一人音楽を聴いて外を眺めていた。

 「なあ兄ちゃん」

 音楽を聴いていると俺の対面にいるおじいさんが話しかけてきた。

 「はい」

 イヤホンを片耳はずす。

 「どこか悪いのか?」

 「いや、学校の健康診断で少し引っかかったので」

 「あーそうかい。せっかく楽しい時期にな、大変だなぁ。でも人生は長い。少しの入院もいい経験になるさ」

 「そうですね」

 俺は口角を上げて応えた。

 あと二年で死ぬので、もしかしたら俺の方が先に逝くかもしれません、とは言わなかった。言ったところで俺の気持ちは晴れないし、むしろ相手に気を遣わせてしまう。それは嫌なので嘘をついた。

 それからも、おじいさん達は俺に話しかけてくれた。

 退屈な入院生活だったのでいくらか気を紛らわすことができた。

 入院三日目、朝の検査を終え、一階の売店でアイスを買い、自分の病室に戻ると空いていたはずの俺の隣のベッドに新入りがやってきた。

 その新入りは俺を知っていた。

 「あれ、奇遇ね」

 そいつは俺を見つけると、そう話しかけてきた。

 「ほら、図書員で一緒だったじゃない」

 そう言われてやっと思い出す。

 「ああ、香織か」

 「やっと思い出したのね」

 俺は黙って自分のベッドに座った。

 「なんだ兄ちゃんの知り合いか。二人とも健康診断で引っかかるなんて、こりゃ運命だな」

 向かいの二人は楽しそうに笑う。

 「正宗くんも健康診断で引っかかったのね」

 香織はこちらに顔を向けてウインクをした。

 「少し、話さないか?」

 「ええ、いいわ。一階に行きましょう。私もアイスクリームが食べたいわ」

 一階へ行き、香織はバニラのソフトクリームを買った。

 休憩場のベンチに座り、病院内に設けられている池を眺め俺は溶けた棒のアイスを食った。

 「正宗くんも同じ病気?」

 ソフトクリームを上品に食べながら香織が口火を切る。

 「もしかして、香織も?」 

 「ええ、私もよ」

 「香織は治るのかい?」

 香織は優しく首を左右に振る。

 「そっか・・・」

 「正宗くんは?」

 「俺も」つづけて、おどけるに「おまけに余命付きだぜ」といってみた。

 「私も」香織は目を細める。

 香織の笑顔を見たのは初めてかもしれない。

 「ハウロング」

 「え?」

 自慢の髪を揺らして振りかえる。

 「ハウロングって英語でどれくらいって意味じゃないのか?」

 「ああ。正宗くんの発音が悪くてわからなかったわ」

 香織は一回ソフトクリームをなめてから「トゥーイアーズ」といった。

 俺は「ミートゥー」と返した。

 「やっぱり発音が下手だわ」

 俺らは小さく笑い合った。

 「デステニー」

 「ん?どういう意味だい?」

 「運命って意味よ。寿命が同じなんて運命じゃない」

 「そうだな」

 「正宗くんはもっと英語を勉強した方がいいわね」

 再び、溶け始めたソフトクリームをなめた。俺は食べ終えたアイスの棒を意味もなく見つめた。

 それからの入院生活は退屈じゃなかった。

 だって運命の相手が隣にいたんだから。

 

 

 「お待たせしてすみません!」

 僕が高校時代の思い出を話している最中、双葉かほがやってきた。ウエイターが水持ってきたので彼女は紅茶を注文した。

 「双葉かほです。今回の映画で主演女優をやらせてもらいます!」

 彼女は恭しく頭を下げる。

 「あーわざわざお忙しい中、足を運んでいただいてありがとうございます。そんなかしこまらないでください。双葉さんのお話は伺っております。中原さんのお友達だとか」

 「あっそうです。高校の時の」

 「そうなんですね。どうぞかけてください」

 するとそこに紅茶が運ばれてきた。彼女は僕の横に座り紅茶にミルクを入れた。

 「ただすごい縁というか、運命というか、こんなことがあるんですね~」

 星野さんは感心したように自前のメガネをくいっと上げながら僕らに語りかけた。

 「私もとても驚いております。ね?」

 彼女はやや上目遣いで共感を求めてきた。

 「うん」

 「双葉さんもいらっしゃったことですし、改めてお話できればと思ってます!」

 星野さんは姿勢を正す。

 今度は三人で十年前のことを確かめ合うように話した。

 一人より、二人の方が記憶を思い出すのにはいい。僕が覚えていないことを彼女が覚えていたり、彼女が覚えていないことを僕が覚えていたり。

 僕にしか知らないことや彼女にしか知らないことも多くあった。

 僕らはまるで十年前にタイムスリップしたような気分になった。

 まるで二人がすぐそこにいるような、そんな錯覚を覚えた。

 もう、そこに二人はいないのに。


 退院して学校に復帰すると俺は香織を探した。香織が何組かわからないので片っ端から教室を当たってみたけれど、見当たらなかった。

 もう俺が退院してから二週間以上経つ。病室で同じ検査入院だと言っていたので、もう退院しているはずだ。おかしいなと思っていると、そういえばあいつが一番常駐していそうな場所を思い出した。

 放課後、図書室に向かうと、案の定、香織は受付カウンターで本を読んでいた。

 「あら、正宗くんじゃない。図書室にくるなんて珍しいね」

 「香織を探してたんだ」

 「ずいぶん、くさいこと言うのね」

 「悪いかい?」

 「いいえ」

 図書室は俺ら以外に人はいなかった。相変わらず暇そうだ。

 やがて放課後のチャイムが鳴り、一緒に下駄箱で靴を履き替える。

 「なんだか懐かしいわ」

 「この感じな」

 「私のこと忘れたくせに」

 彼女は少し不貞腐れる。

 正門まで来た時、俺はさつきを見に行かないかと香織を誘った。

 「さつきなんて知ってるのね」

 「もちろんさ」

 「あてはあるのかしら?」

 「そこらへんに咲いてないのか?」

 「いやあね。仕方ないわ、私が案内してあげる」

 「運命の人!どこでもついて行きやす」

 香織はあきれた様子で「まったく調子がいいんだから」とため息をついた。でもため息と共に張り付いた顔は楽しそうだったので俺も少しばかり嬉しくなった。

 俺らは太陽を背に正門をまっすぐ歩きはじめる。

 「正宗くんは病気だと知った時どう思った?」

 「んーサッカーができなくなるなぁって」

 「それだけ?」

 「それだけって?香織は違うのか?」

 「まぁでも、私もテニスできなくなっちゃのかぁって思ったかも」

 香織は下唇に人差し指をあてる。

 「そうそう、それから、もう好きな人や友達とかそういう大切な人を作るのはやめようって思ったわ」

 「あー俺もそれは考えた」

 香織は「似たもの同士ね」と俺に笑いかけた。その時、胸が高鳴るのを感じた。

 俺はあわてて視点をアスファルトに変える。

 この胸の高鳴りが今後香織に対して抱く感情の伏線だったことを、この時の俺は知る由もなかった。

 歩いていくと学校の最寄りの駅に着いた。

 控えめでむき出しのホームの横に小さい踏切があり、そこを渡る。

 すこし地面の割合がアスファルトより草の方が多くなりはじめた。気が付くとアスファルトはなくなり完全に草の上を歩いていた。突然、前を歩く香織が足を止めた。

 「あれ、さつき」

 見ると十メートル程先に紅梅色した花がたくさん見えた。

 「少し、ブーゲンビリアに似てるんだね」

 「もしかして、さつき見たことなかったの?」

 「ああ。でも今見てる」

 「私もよ」

 香織はうっとりとした目でさつきを見ていた。

 「花言葉は節制」

 「ふーん、なんかパッとしないな」

 「そうかしら、私たちみたいじゃない?」

 彼女の髪が五月の風に揺れた。この時初めて、彼女のことを異性としてみた瞬間だった。

 その帰り道、俺は香織に連絡先を交換しないか?と打診した。

「ええ、いいわよ」とあっさりと承諾された。

 言って、俺はポケットからスマホを取り出す。

 香織も俺に倣って自分のポーチから取り出した。

 「え?香織、ガラケー?」

 「ええ、そうよ?いけない?」

 「あ、いや。スマホは?」

 「持ってないし、必要ないわ。SNSも興味ないもの。それに私、親と親友しか連絡先知らないし。これで十分だわ」

 俺は香織の番号をスマホに登録した。

 ショートメールを開き『よろー』と送る。香織は不慣れな手つきでガラケーを操作する。数秒後、『こちらこそ。』という返信が来た。

 「ちゃんと届いた?」

 「ばっちりだ」



 土曜日。中原に誘われて映画を観に行くことになった。といっても地元は田舎過ぎて映画館なんていう大層なものは携えていない。全く時代遅れな街だなとつくづく思う。俺らは、お昼前に待ち合わせ電車に乗った。一時間ほどで着き、ショッピングセンターのフードコートで俺はたこ焼きを食べた。ちなみに中原は中華そばを食べていた。

 映画館も内設しているためエレベーターで指定の階まで移動しチケットと、俺はたこ焼きだけでは足りなかったのでチュロスを二本買った。

 「なぁ、どんな内容なんだ?」

 まだ暗くなっていない上映スタジオで中原に尋ねた。

 「小説を読んだことがあって、純愛な話だよ」

 「ふーん」

 次第に暗くなり始め、やがて真っ暗になった。

 それから二時間スクリーンに向かって座り続けた。途中チュロスをかじり、それをコーラで流し込んだ。

 予備知識が全くない俺は最初の方は内容にうまく入り込めなかった。でも、物語が終盤に近付くにつれて次第に引き込まれていった。

 佳境に入ると俺は食い入るように映画を観ていた。やがてエンドロールを迎えた。俺はスクリーンに向かって控えめな拍手を送る。

 映画館を出て適当なファミレスに入り、感想やらをダべり、頃合いで電車に乗った。

 帰りの電車ではお互い無言。

 再び、中原が口を開いたのは地元に着き、家まで歩いている時だった。

 「正宗、香織さんと仲良いの?」

 「え?」

 急に予期しない質問が飛んできて驚く。

 「いや、この前正門付近で正宗と香織さんらしき人を見かけたから」

 そういえば、グランドから正門の間に距離はあっても大きな建物はない。なるほど、部活中に見られていたのか。

 特に、隠すこともないので「まぁな」と返した。

 そうか、中原が今日俺を誘った本当の目的はそれが知りたかったからか。

 「なにきっかけで?」

 「俺ら、はぐれ者なんだよ」

 「なんだよ、それ」

 一拍おいて中原が続けた。

 「でも、よかった」

 「ん?」

 「ほら、正宗、もともと人間関係に消極的だろう?それに余命宣告されてからそれが加速したじゃん?恋人はおろか友達まで作んなくなってさ。過去の友達とも距離とるようになったし。正宗のことをしっかり見てくれる人ができて嬉しいよ。せっかくだし付き合っちゃえよ!」

 「なんだよ、それ」

 香織と付き合う未来を想像してみる。それはそんなに難しいことじゃなかった。


 翌日、朝ご飯で目玉焼きを食べている時、香織にショートメールを送った。

 『今日、少し会えない?』

 ショートメールを送るのは初めてなので、少し緊張した。

 彼女の方はお昼過ぎまで予定が入っているようで、十四時以降なら大丈夫、という返信が来た。余裕をもって、十五時に会うことになった。俺らの家のちょうど中間地点にお寺がある。そこで待ち合わせることになった。

 俺は一日暇だったので午前中はギターを弾いたり音楽を聴いたりして過ごし、昼飯はカップラーメンを食べ、少し早めに家を出た。

 外は、もったいないくらいの気候だった。美味しそうな雲と水色の空、暑くない太陽。少し吹く風が気持ちよかった。

 俺はいつもよりゆっくり歩き、途中古本屋に寄り、バンド雑誌を立ち読みした。キリのいいタイミングでひきあげ、お寺に向かった。

 学校とは反対方向の南へ数百メートル歩く。お寺は少し高めに位置している。お寺の麓には公園と小さい川が流れている。

 俺は、やや急な坂を上り、十段ほど石段をやり過ごした。

先に来て彼女が来るのを待った。少し滲んだTシャツが背中に張り付いたけれど、すぐ乾くだろう。遅れること数分香織が坂を上ってくるのが見えた。「かおりー」と叫ぶ。彼女は目を丸くし、健康的な歯を見せて応えてくれた。

 「ごめんね、少し遅くなって」

 「いいよ、ぜんぜん」

 「お詫びにジュース買ってきたわ。一緒に飲みましょ」

 香織は、緑色の手提げから缶のコーラを出して、俺に渡す。

 二人で石段に座って、彼女は紙パックのコーヒー牛乳を飲んだ。

 「なぁ、香織」

 「なに?」

 「香織は自分が骨になったら、その骨どうしてほしい?」

 「えー、考えたこともないわ。どうしたの、急に」

 「いや、昨日映画を観に行ったんだ」

 彼女はストローをくわえたままうなずいた。

 「その映画も病気で余命宣告を受けた男の子が主人公なんだけど。最後、骨を瓶につめて海に流してほしいっていうんだ」

 「実際に流したの?」

 「うん」

 「どうして海に流してほしかったの?」

 「その人には、付き合ってた恋人がいたんだけど、親の都合で海外に引っ越しちゃって離れ離れになるんだ。それで最後、海に流して君の元まで・・・みたいな」

 「素敵なお話ね」

 「だろう?しかも、主人公は途中自力で会いに行こうと頑張るんだぜ?」

 「どうやって?」

 「自作のポンポン船を作って海を越えて会いに行こうとするんだ。結局計画を練っている最中に病に侵され白紙になるんだけど」

 「ロマンチックね」

 ストローがカラカラという音をたてた。

 「そうだわ、日暮れまで時間があるし、ポンポン船を作ってみない?」

 「どういうことだ?」

 「パックと缶で」

 「そんなことできるの?」

 「確証はないけど、ポンポン船の仕組みは複雑じゃないからできると思うわ」

 言うと、香織は「早く飲んで」と急かした。俺は一気に残りのコーラを胃に流し込む。これだけだと準備不足なようで、近くのコンビニで小さい三本入りの蝋燭とカッターナイフ、接着剤、マッチ棒を買った。

 お寺の麓の公園で工作を開始する。まず、パックと缶をすすぐ。パックを縦半分にカット。パックの底に当たる部分に二センチ程度の間隔をあけて小さい穴を二つ開ける。これで船は完成だ。次にエンジンとなるものを作っていく。缶の頭と尻をカッターで切り落とす。残った缶の腹の部分を接着剤やらカッターナイフやらで長方形かつ袋状に形成する。

 「ストローが一本足りないわ」

 「ストローも使うのか?」

 「ええ、どうしよう」

 香織が上目遣いで見てきた。

 「任せろ!」

俺はコンビニへ走り、パックのレモンティーを買って戻る。

 「きがきくのね」

 肩で息をする俺に香織は労いの言葉をかける。

 先ほど作った袋状に形成した缶にストローを二本、三分の一ほどいれて接着剤でとめる。

袋から飛び出たストローをパックの穴に内側から外側に通せば完成だ。

 「おー、それっぽい!」

 「この缶の部分がボイラーなのよ」

 彼女はしたり顔でいう。

 俺らは小さな川へ移動して船を浮かべた。

 「すげー、ちゃんと浮いた」

 「じゃ、政宗くん。蝋燭をボイラーのしたに設置して、火をつけて」

 「了解!船長!」

 一回川から引き上げ、言われた通りに缶の下に空間があるので蝋燭を接着剤でとめて、もう一度川に浮かべる。そしてマッチで蝋燭に火をつけた。数秒、川に流された後、ストローからポコポコと小さい気泡が出てきた。

 「すげーじゃん!川の流れに逆らって進んでる!」

 「やったわ!」

 優しい川の流れに逆らうように船はゆっくり上流へと走る。俺はそれを見ながらさっき買ったレモンティーを開けて一口飲んだ。

 「私も飲みたいわ」隣で香織がそんなことを言った。

 俺は平然を装い、香織にパックを渡す。彼女は控えめにパックを傾けた。口を放すと、俺にそれを返す。少しためらって、跳ねる心臓をなだめながらレモンティーを飲んだ。

 彼女はまっすぐ船の行方を目で追っていた。

 俺はやりきれない気持ちを自然に向かって叫んだ。

 「せいる・あうぇいー!」

 隣で小さく香織が笑った。

 「セイル・アウェイー!」

 すると俺より発音よく今度は香織が叫んだ。

 「やっぱり発音が下手ね」

 そういって俺らは吹き出して笑った。少し風が吹き、船はまだまだ上流へと進む。色んな鳥たちが個性的に鳴きはじめ、木漏れ日が射した。みんなが笑っているようだった。

 初めての異性との間接キスはレモンティーの味がした。

 当然といえば、当然だけど。俺には最高の味だった。

 

 「正宗くんは行ってみたい国ある?」

 石段に腰掛け、俺は濡れている船を右手に持ち、そこに視線を落としながら考える。

 行ってみたい国・・・か・・・

 「海外にあんまり興味がないんだよなぁ」

 香織は何も言わなかった。

 「香織は?あるのか?」

 「私はハワイ島」

 「王道だね」

 「私にはちゃんとした理由があるわ」

 「ぜひ聞きたいね」

 「ハワイ島にはラニカイビーチがあるのよ」

 「ラニカイビーチ?なんなのそれは?そこから海をみると海が緑色にみえるとか?」

 「ちがうわ。この世で一番天国に近い砂浜と言われているのよ」

 「なるほどねぇ。香織は天国とか信じているの?」

 「どうかしら。あんまり信じてないかも」

 香織は少し目を細める。

 「なんだよ」

 俺も彼女に倣って目を細める。

 「でも、あの世はあると思うわ。そこは、季節問わず色んなお花が咲いていて、私や正宗くんが寝そべっても全然足りるくらいの膨大なお花畑。旬もなくて、ずっと美味しいものが食べられる」

 「例えば何を食べるんだい?」

 「例えばって。うなぎとか?」

 「それじゃダメさ」

 「どうしてよ」

 「あの世でもうなぎを殺しちゃ」

 香織は少し顔をしかめる。

 「じゃ、そこにはうなぎに似たそういう食べものがあって」

 「食品サンプル的な?」

 「そう!食べられる食品サンプル」

 やや必死になる香織がおかしかった。

 「香織は一体だれを信仰しているんだい?」

 「わたしよ。」

 即答。

 「何教だい?」

 「誇大妄想教よ」

 俺は笑い転げる。

 「どうして笑うのよ。わたし正気よ」

 「いや、ごめんごめん」

 「映画の話を聞いたら、ポンポン船でハワイ島へ行ってみたくなったわ」

 俺は笑うのをやめた。

 「確かに、それは名案だ」

 「行けるかしら?」

 「香織が願えば行けるさ」

 沈黙が横たわった。

 「なぁ香織」

 「なぁに?」

 香織は前を向いたまま応える。

 「好きだ」

俺の方を見て少し驚いてから、ゆっくり顔を前に戻した。

 夕暮れの風に髪をなびかせて「私もよ」と言った。

 「正宗くん、ジェームス・ディーンに似ているわね」俺が自分の顔を思い出していると香織は「今、横顔みて思ったわ」といった。

 俺もお返しのつもりで「香織はマーニーに似ているよ」

 「マーニーって?」

 「思い出の」

 「言われたことがあるわ」

 「だれに?」

 「さぁ。忘れちゃった」

 


 高校生活二度目の夏休みがやってきた。俺は相変わらず病院と家を行き来していた。たまに病院で香織と会うこともあった。俺が手を振ると、はにかみながら小さく腰のあたりで手を振り返してくれた。自分の頬をつねってみる。どうやら夢じゃないらしい。もし夢だったら困るので、強くつねるのはやめにした。

 「もう夏休み一週間も過ぎちゃったのね」

 病院の待合室のソファーに座りながら香織が退屈そうに呟いた。

 お互い本日の検査は終わっているため病院にいる必要ない。けれど、なんとなく座って話す形になった。

 ポーンという音と共に誰かの名前と診察室の番号が告げられる。俺らの斜め前のおばさんが返事をして診察室に消えていった。

 「なにか予定はあるのかい?」

 俺が尋ねた。

 「いいえ、特にないわ。かほと一日出かける予定があるくらい」

 「友達作らないんじゃなかったのか?」

 「かほは親友。小学校からよ」

 「そういうことね」

 「正宗くんにもいるでしょう?」

 うーん。

 頭の中で中原の顔が浮かんだ。

 「いなくは、ないかな」

 「ほら」

 「そいつも本読むのが好きな奴だぜ」

 「そうなのね。お話してみたいわ」

 「いつでもできるさ。なんなら、もう会ってるよ」

 「あら、そうなの?」

 「高校一緒だぜ?」

 驚いた顔を見せる。

 「香織の親友は?同じ高校か?」

 「かほは違うわ」

 かほさんは地元から電車で一時間ほどの学校に通っているらしい。なんと底抜けの美人だとか。

 「ぜひ、一度お会いしたいね」

 「ダメよ。正宗くん邪な気持ちが見え見えよ」

 また一つ、ポーンという音と共に診察室に消えていった。

 先ほどのおばあさんは会計を済ませ自動ドアに向かって歩いていた。俺らも立ち上がり、病院を出た。

 外に出ると、ぶわっとした熱気が顔を包んだ。さらに蝉の音が耳を叩く。

 「夕暮れなのに、まだ暑いのね」

 香織はハンカチで額の汗を拭きとった。

 「百年後には夜行性になるらしいよ」

 「そうなんだ」

 「興味ないよな」

 「ええ、だってその時には私たちこの世にいないもの」

 私たち、といってくれるところが嬉しかった。秘密を分け合う盗賊団のような気持ちだ。

 俺は「だなあ」と間抜けな声で応えた。

 「予定がないなら、遊ぼうぜ」

 「いいわよ」

 別れ道まで歩いて、「じゃ、また連絡するわ」と俺。「待ってるわ」と少し照れたようにいう香織。蜩が俺らの進展を茶化すように鳴いていた。俺らは別々の方向に歩き始めた。

 残りの夏休み、俺はしきりに香織を遊びに誘った。水族館に行ってみたり山に登ってみたり、病院で鉢合わせた日にはいつも一緒に帰った。たまに、コンビニでアイスを買い、橋の上で食べたりもした。

 「ジミーちゃん」

 突然、そう呼ばれたときには誤って橋の上からアイスクリームを落としそうになった。

 「なんだい?きゅうに」

 「ジェームス・ディーンの愛称よ。これから正宗くんのことジミーちゃんって呼ぶね」

 「いきなり呼ぶ名が変わると困るんだけど?」

 「もう決めたわ」

 そういって勝手に決めつけ、その日は必要に俺のことを呼んだ。ジミーちゃん、ジミーちゃん、ジミーちゃんと。

 俺は夏休みの時間を利用して、アルバイトを始めた。近所の食堂屋。一日、三、四時間程度定食を運ぶだけの簡単な仕事だ。

 夏休みも後半に差し掛かった、ある検査の帰り香織は海に行きたいと主張した。

 「海かぁ。行ってみたいね。香織と」

 「きっと来年の今頃は思うように動けなくなってると思うの」

 一年後について考えてみる。その頃には余命は半年になっている。きっと入院し、いくつかの管をぶち込まれることになっているだろう。

 「朝、早めに出て夕方には帰れれば問題ないわ」

 「そうだね。おじいちゃん家が海の近くなんだ。顔出すがてら行ってみようか」

 「そうなの。じゃ決まりね」



 「今日は本当にありがとうございました」

 星野さんは頭を下げ、バッグを持ちホテルを後にした。

 「久しぶりに二人のことをこんなに話したね」

 「そうだな」

 夕暮れの太陽がロビーに射してきた。

 「かほ、今日これからなにかある?」

 「いや、今日はもうなにもないけど」

 「じゃ、晩飯でもどう?」 

 「いいね!私もまだ話したりないし」

 ホテルを出て繁華街へ向かった。適当な居酒屋に入り、まだ街が完全に暗くなる前に生ビールで乾杯した。

 「かほは最近どう?」

 スピードメニューが並び、枝豆をかじりながら訊いた。

 「わりと、順調だよ。ちょこちょこCMに出たりしてるし。舞台も出てるし」

 「CM?まじか。なんの?」

 「いや、そんな大げさなやつじゃないよ。なんか新幹線とかに流れるようなやつ」

 「あー、そういうね。でもすごいじゃん」

 「ロルカ君の方がすごいじゃん。小説家になって食べていけてるし今回映画化もされて」

 ロルカとは僕の下の名前だ。中原ロルカ。

 「二人が見守ってくれているんじゃないかな」

 僕らは、斜め上をみながら二人の顔を思い浮かべる。

 「そうかもね」

 少しうっとりした声でかほは共感した。

 一杯目を飲み終わり、二杯目のビールが運ばれたところで僕はかほに話かったことを話すことにした。

 お酒の力を借りないと少し打ち明けづらいし、けれど酔いすぎてしまうと忘れてしまう可能性もあるし、そこそこ大事な話なので、二杯目で切り出すのはベストタイミングだった。

 「実は今日、話したいことがあって」

 「どうしたの、改まって」

 僕は姿勢を正して、神妙な顔つきを作る。

 「実はあいつに頼まれてたんだ。今回の小説のこと」

 「どういうこと?」

 「正宗が亡くなる前に言われたんだ。いつか俺らのことを書いてほしいって」

 「それは初めて聞く話。そうだったんだ」

 「うん。それで、もし映像化されたら俺と香織の骨を流してほしいって」

 「あっ、骨のことは香織も言ってた。骨を瓶につめて流してほしいって」

 「そうだったのか」

 僕は一口、のどを鳴らしてビールを飲んだ。

 「でも、潮時なんじゃない?骨流すの」

 「僕もそう思う。香織さんの骨って持ってる?」

 「うん、もちろん。正宗くんに渡されて」

 「僕も正宗の骨持ってるから、近々海に行かないか?」

 「そうだね。これでやっと成仏できるんじゃないかな?」

 かほは嬉しそうに目を細めた。

 「だと、いいけど」

 僕も彼女に倣って小さく笑った。

 

 

 夏休みを終えると俺と香織が付き合っているのではないか?と噂されるようになった。とはいえ、俺も香織は学校で特別目立つ二人ではなかったので、さほど話題になっているわけでもなかった。顔見知りが数人訊いてくる程度だ。俺は何をいまさらと呆れていた。

 香織は、後期は図書員にならなかった。「どうして図書員にならなかったんだ?」と訊くと「ジミーちゃんと一緒にいたいからよ」と言うもんだから俺は嬉しくて窒息しそうになった。

 俺らは毎日肩を並べて帰った。一人だった帰り道が、香織と一緒だとそれはとても素敵なものになった。

 今日も俺は香織と一緒に帰った。一歩一歩、人生の終わりに向かって歩いているようだった。終わりは始まりだ。たとえ人生が終わっても新しい何かが始まる。香織とこうして知り合えたのだ。新しい何かが始まっても隣には香織がいるはずだ。香織と寿命も同じなんだ。それが俺にとって物凄い強みになっている。何もかも彼女と一緒だ。

 「ずっと一緒にいたいな」

 「どうしたの?きゅうに。当たり前じゃない。私たちはもう出会ったんだから離れることなんてないわ」

 「あの世でも?」

 「ええ、あの世でも、どの世でも。私がいるってことはあなたがいるってことだもん」

 「だな、だって寿命まで一緒なんだぜ?すごくないか?」

 「そうね、約束破って先に逝っちゃうのはなしよ」

 「そんなことするもんか」

 学校の正門を左へ曲がり歩く。公園を通りすぎ、中古のCDレンタルショップを通りすぎる。古ぼけた床屋を左に曲がると住宅街に出る。その一角が香織の家だった。俺らはいつも、その床屋の前で別れていた。俺の家は香織の家の反対側にある。ここまで来ると大幅な遠回りになるが香織と一緒にいられるなら、そんなことどうでもよかった。

 今日も別れ道まで来て、なんとなく立ち話をする格好になった。

 「そろそろ文化祭の時期ね」

 「そういわれてみればそうだね」

 「ジミーちゃん、去年バンドのギター弾きとして出ていたわよね?」

 「あー」

 俺は去年の文化祭を思い出す。香織に認識されていたことが少し恥ずかしく鼻をかく。

 「かっこよかったよ。今年も出るの?」

 「いや、今年は出ないよ。香織は音楽とか聴く?」

 俺はそれとなく話題を変える。

 「ええ、聴くわ」

 「何を聴くんだい?」

 「クラッシックよ」

 「香織らしいな」

 「そうかしら?正宗くんはロックとか?」

 「俺はそうだな。ロックンロールだな。でも、なにで聴いてるの?だってスマホないでしょう?」

 「私はカセットテープで聴いてるの」

 俯き加減でいう。

 「テープ?聴いたことないや」

 「とっても素敵なのよ」

 「ぜひ聴いてみたいね」


 文化祭は平日に行われた。俺らのクラスは定番のチョコバナナを売ることになった。香織のクラスは焼きそば屋だ。午前は律儀に店番をしチョコバナナを作っていたが途中から面倒くさくなったので他の奴に頼み、構内で香織を探した。

 香織は外のベンチで見慣れない女子とお弁当を食べていた。

 「よっ」

 「あら、正宗くんじゃない」

 香織座る女の子が会釈したので俺も軽く頭を下げる。

 「こちらが正宗くんことジミーちゃん。それでこちらが親友のかほ」

 もう一度、お互い会釈をして、俺は空いているスペースに座った。

 かほさんは香織が言っていたように美人だった。

 「いやだ。ジミーちゃん、そんなにかほに見惚れないで」

 「見惚れてねぇよ」

 「嘘ばっかり。さっきからチラチラ見てるじゃない。かほ、女優志望なのよ」

 「ちょっと!余計なこと言わなくていいから」

 かほさんが香織をたしなめる。

 「え!そうなんですね。絶対いい役者になれますよ!」

 「あ、ありがとうございます」

 かほは控えめに頭を下げた。

 「正宗くんたら調子がいいんだから」

 香織は面白くなさそうに言った。

 「それで、今度かほの高校の文化祭で劇をやるらしいの。しかもかほ主演なのよ。正宗くん見に行かない?」

 「おー。そうなんだ。ぜひ行きたいね。劇は何をやるの?」 

 「シンデレラでしょう?」

 「まぁ、そうだけど・・・」

 かほさんは顔を紅く染める。

 それから三人で世間話をした。劇の練習がきついとか、女優の世界は厳しいとか。かほさんは俺らの病気のことも熟知していた。

午後の点呼に間に合わなければいけなかったので俺は先に腰を上げる。

 「じゃ、当日楽しみにしてますね」

 俺はかほさんの前で右手を差し出す。

 「あ、はい。緊張しますけど頑張ります!」

 かほさんも立ち上がり左手で俺の手を握ってくれた。

 それを香織は冷ややかな目で見ていた。

 

 かほさんの文化祭は一週間後の土曜日に行われた。俺と香織は十時頃、最寄りの駅で落ち合った。香織はばっちり化粧をしていた。

 「どうして化粧なんか?香織は劇にでないでしょう?」

 「私がいつお化粧したっていいじゃない。気分なのよ」

 彼女は少し怒ったように言った。

 俺はなんとなく「似合っているよ」といっておいた。香織は言われると少し口角を上げたので俺も胸をなでおろした。行く前から機嫌を損ねられたらたまったもんじゃない。

 学校に着くとすでに賑わいを見せていた。正門にはカラフルなお花が出迎えてくれた。とりあえずスリッパに履き替え構内を散策する。チョコバナナや焼きそばはどの学校も定番のようで俺らは両方買うことにした。二つずつ購入し空きスペースで食べた。

 「劇は何時からなの?」

 「えーと、シンデレラは十四時から」

 香織はパンフレットを見ながら応える。

 「少し時間があるね」

 「他のクラスの出し物を見てみましょう」

 劇の時間まで学校内をゆっくり歩いた。お化け屋敷や化学実験を行うクラスなど、クラスごとの個性があり見ていて飽きなかった。

 時間より少し早めに体育館に行くとステージには四人組のバンドが演奏していた。適当な場所で立見をしていると、やがてバンドははけ、司会が劇をやる旨を告げた。

 「もうすぐ始まるのね。ワクワクするわ」

 一人で隣ではしゃいでいる。

 やがて暗くなりステージにスポットライトが当てられた。主役であるシンデレラが登場するとあちらこちらから、おー、という歓声が上がった。化粧に綺麗なワンピースを着たかほさんは他の役者に比べて頭一つ抜けていた。俺は劇を見ながら、きっといい女優になるんだろなとぼんやり思った。

 俺は女優の世界についてこれっぽっちも理解していないので単なる素人の意見だ。だから当てにはならない。それでも素人の目には光る何かがあった。隣をみると香織もかほさんに見惚れているようだった。三十分ほどで劇は終了した。

 カーテンが両サイドから現れ幕を閉じる。人ごみのなかを縫って外に出た。

 「かほ、綺麗だったね」

 「本当だね」

 「なんだか、遠くに行っちゃったみたい」

 香織は寂しそうに呟いた。

 帰りの電車は終始無言だった。香織はカセットテープを聴いて物思いにふけるように窓の外を眺めていた。俺は香織が遠くへ行ってしまいそうで不安になった。

 

 俺らは入院と退院を繰り返す日々を送った。俺が入院している時は香織や中原、さらにかほさんも香織と一緒にお見舞いに来てくれた。逆に香織が入院をしたときは俺が中原をお見舞いに連れて行った。

 「中原くんも本を読むんですって?」

 お見舞いの花を活けながら中原は背中で応える。

 「うん、本読むよ」

 「好きな作家は誰なの?」

 「僕は太宰かな」

 「さすが、読書家ね」

 「香織さんは?」

 「私は名前のまんま。江國香織が好きよ」

 中原は活けるのを終え、俺の隣に座った。

 「あー。香織さんって江國香織からなんだ」

 「ええ、そうよ。お母さんが好きなの。本を読み始めたきっかけも名前からよ」 

 初めて聞く香織の名前の由来。江國香織が誰だか俺にはさっぱりわからないけど。

 「実は僕の下の名前も作家が由来なんだ」

 「え?そうなのか?」俺は声を漏らす。

 「ロルカくんよね?」香織は天井を見上げて「あっ!もしかしてフェデリコ・ガルシア・ロルカ?」と思いついたように言った。

 「知ってるの?」

 「ええ、確かスペインの詩人よね?私、好き」

 「え!僕も大好きなんだ」

 「素敵な名前ね」

 香織は嬉しそうに笑う。

 香織と中原はしばらく文学や詩人の話をつづけた。俺があまりに退屈な顔をしていたものだから、香織は「こんなに話すと、ジミーちゃんが嫉妬しちゃうわ」といい中原と笑い合った。

 俺は「つづけてくれ」と面白くなさそうに応えた。

 

 「おい中原、お前かほさんのこと見すぎだよ」

 「いや、つい美人で」

 かほさんは中原が見ても美人らしかった。

 「かほさんは彼氏いんの?」

 俺は気になって訊いた。

 「いや、いないよ」

 その回答に俺と中原は顔を見合わせる。

 「でも、私なんだか嬉しいわ。こうして四人が楽しくお話してる感じが」

 香織はつづけた。

 「そうだ、今度四人で出かけない?」

 「おー名案!中原をかほさんとくっつけるために」

 「どうしてすぐそうなるのかしら」と香織はかほさんと目を合わせて苦笑した。

 「そういえば、この前の劇素敵だったよ」

 かほさんは少し頬を紅くして「ありがとう」と言った。

 「劇って?」

 中原が食いついた。

 「ちょっと前に、かほさんの高校で文化祭があって。かほさんのクラスは劇をやったんだ。その主役がかほさんだったってわけよ」

 「なんだよ、それ。僕も誘えよ」

 中原は口を尖らせる。

 「来年は一緒に行きましょう」

 香織がなだめるように言った。

 「正宗、絶対誘えよ」

 「はいはい」

 俺が入院した時、香織、かほ、中原の四人が一つの病室に会することが何度かあった。俺も香織と同じで四人でお話しするのが楽しかった。ずっと続けばいいなと思った。

 結局四人で出かける話はこの日以降出なかった。


 季節は巡り秋を終えて、冬を迎えた。クリスマス・イブは香織と二人でイルミネーションを見に行った。「来年もこうしてジミーちゃんと来れるかしら?」と香織は言った。

 「絶対来れるさ。まだあと一年は余命残ってるんだから、来れるよ」

 「余命はそうかもしれないけど。病院から出られないかもしれないじゃない」

 「そうしたら、二人で抜け出そう」

 「そうね」

 香織は微笑んだ。

クリスマスは香織の家に行くことになった。中原とかほさんも一緒に。スーパーでお土産を買い夕方五時頃に訪ねた。

「いらっしゃい」

俺らはリビングに通された。食卓にはチキンやサラダ、ピザなどが並べられていた。

席に着きオレンジジュースで乾杯する。

「たくさん食べていってね」

 微笑みながらお母さんは食事を促してくれた。笑った顔が香織にそっくりだった。

 「先日オーディションを受けたんです」

 「あら、すごいじゃない!かほちゃんはきっと女優さんになれるわ。だってこんなに可愛いんですもの」

 「僕は小説を書いているんです」

 「あら、そうなの?素敵ねぇ。女優さんに小説家さんかぁ。夢があるわねぇ」

 テンションの高さを差し引けば、話し方も香織に似ていた。俺はそんな会話を聞きながらチキンをかじった。ジューシーで美味い。五人での食事はとても居心地の良い空間だった。

 メインデッシュを食べ終えるとケーキが運ばれてきた。チョコのホールケーキ。プレートにクリスマス、と書かれていた。四等分にお母さんが切ってくれる。

かほさんと香織は半分ほど食べて残していた。その残りは食べ盛りの高校生男子が平らげることになった。

日付が変わらない時間にクリスマスパーティーはお開きとなった。

年末は自分の部屋を片した。いらなくなったCDや漫画を売りに行ったりし身の回りを整理し新年を迎えた。売ったお金はすべて貯金することにした。夏休みから続けているバイトのお金もほとんど使っていないので俺の口座にはゼロが一つ増えた。

冬休みも終わり高校二年が終わろうとしていたバレンタインの日。俺は生まれて初めて手作りのチョコレートをもらった。

「昨日、作ったのよ」香織は照れたようにいった。

綺麗な包装がされてあった。しかも可愛いリボン付きだ。

開けようとすると「ちょっと待って。家に帰ってからにして」と慌てて止めた。

家に帰り自分の部屋に入ると、すぐに開封した。

中には、ハート形のチョコレートとカセットテープレコーダーとカセットテープが入っていた。手紙には『十七歳のお誕生日おめでとう。チョコレート一緒に誕生日プレゼントも送付しました。私のお気に入りの歌が入ってます』とあった。

イヤホンがつなげられたので、昔ウォークマンを聴くときに使っていたイヤホンを引っ張り出し、ぶっさした。

カセットテープの中身はボブディランの『風に吹かれて』だった。

「どういうチョイスだよ」と誰もいない部屋で呟いた。


「テープ聴いてくれた?」翌日の帰り道、香織がいった。

「聴いたよ。ボブディランが好きなのかい?」

「あの曲がとても好きなの。歌で唯一ノーベル賞とったんだよ?とても素敵な歌詞だと思うわ」

香織は立ち止まって「次はジミちゃんの番」といった。

最近、香織は「ジミちゃん」と呼ぶ。一体、伸ばし棒はどこへ行ったのだろう。

「ジミちゃんがお気に入りの曲を持ってきて」

香織は再び歩き出す。

「いつでもいいから私待ってるから」

困ったなぁと心の中で呟いた。

俺は家に帰って、少なくなったCDの棚を睨んだ。百枚近くあったCDは今では数十枚に減っている。

数日後、俺はカセットテープを香織に渡した。

「あら、持ってきてくれたの?なんだかドキドキするわ」

香織は微笑みながらテープを受け取る。

「俺が初めて聴いた洋楽」

「そうなの。楽しみだわ。ありがとう」

最近の俺たちは遠回りしたり寄り道して帰ることが多くなっていた。

香織はベンチに座って制服のポケットからテープレコーダを取り出す。

俺が渡したテープをセットした。

香織は一人で歌を聴いた。目を閉じて口角をあげながら。途中体をリズミカルに揺らした。

「スタンド・バイ・ミーだったのね」

香織はイヤホンをはずす。

「そう」

「言われてみれば、私も初めて聴いた曲、スタンド・バイ・ミーだったかもしれないわ」

 嬉しそうに目を細めた。

 「そばにいてってこれほどいう曲が他にあるかい?」

 「ないわね。これはジミちゃんの気持ち?」

 「そうとも」

 「改めて聴くと素敵な曲ね」

 「ちゃんと録音できてた?」俺は尋ねる。

 「聴く?」

 イヤホンを片耳俺に差し出した。

 「おう、聴くぜ」

 片耳ずつ、イヤホンをはめて俺たちはスタンド・バイ・ミーを聴いた。

 お互いの距離はいつもより近い。香織の小さい頭が肩に触れる距離だ。

 途中髪の毛からは柑橘系のいい香りがした。香織の香りがした。

 そんなつまらないジョークが言えるほど、俺の心に余裕はなかった。


 三月二十一日。

 検査入院の時期がやってきた。悔しくも香織の誕生日だった。

 俺と香織は病院服で中庭のベンチに座って満開になった梅の木を眺めていた。

 「私、十七歳になってしまったわ」

 「一番いい年齢じゃないか」

 「そうかしら。ジミちゃんはまだ結婚できないね」

 「そうだね、香織はできるけど」

 「私、待ってるわ。ジミちゃんが結婚できるまで」

 「俺が十八になったら結婚してくれるのかい?」

 「ええ、ジミちゃんはしたくない?」

 「今すぐにでもしたいよ」

 俺らは見つめ合い、そして笑った。

しばらくそうしていると、香織が一瞬、唇を重ねてきた。俺は少し驚いて今度は俺から唇を重ねた。

「私たち、きつつきみたいね」とほほ笑む。「最高のプレゼントだわ」とつづけた。

梅の花びらが俺らの間をすり抜けていく。春はもうすぐそこにいた。風が俺らにも春を運んでくれているようだった。

「キスは確かこれで二回目だね」

「そんなのいちいち数えなくていいわ」とそっぽを向く。

「素敵な一年にしよう」

「そうね、最後の一年だもの。来年の二月には結婚しましょうね」また春の風が吹いた。

「約束よ」

「ああ、約束だ。でも結婚生活はすぐに終わってしまうね」

「関係ないわ。時間なんて」

「香織は俺より先に死なないでくれよな」

「そんなのわからないわ」

「それでも約束してくれ」

俺はちょっと真剣になる。

「どうして?」

「俺と香織は一か月誕生日が違うでしょう?っていうことは一か月香織が多く生きないと、とんとんにならないじゃないか」

「そんな理由?」

笑っている。

「真剣なのさ」

俺は少し恥ずかしくなって、そしらぬ顔になる。

「わかったわ。先に死なないわよ」

彼女は園児をたしなめるような口でいった。

俺らは、またも同じ病室で入院する形になっていた。

隣のベッドで相変わらずテープで音楽を聴いている香織。すると見慣れた二人組が病室に入ってきた。

「中原くんとかほじゃない」香織は声を弾ませた。

二人が買ってきてくれたゼリーを食べながら四人で談笑した。

「そろそろ桜が咲く時期ね」香織が外を眺めながらいう。

「そうだな、香織は本当に花が好きなんだな」

「ええ、好きよ」

一拍おいて「そうだわ、四人で桜を見に行きましょう」

他三人の反応は、異論はないといった様子。

「それじゃ決まりね。ジミちゃん、検査に引っかかって入院が長引いて、ドダキャンするのはやめてよね」

「するもんか」

「桜はすぐに散ってしまうわ」

「じゃ私、お弁当作ってくるね」手を上げてかほさんがいった。

「お願いします!」俺と中原の声が揃う。

かほさんは引き気味に笑う。

「僕、今教習所に通ってるんだ」

「あー、中原、誕生日四月だもんな?」

「うん、四月二十三日。免許とったら四人で出かけないか?」

「いいわね」

「うん、いきたい!」

「事故るなよ、お前のせいで寿命縮めたくないからな」

「そしたら四人で天国に行けるな」

中原は右の口角を遠慮がちにあげる。

「縁起でもないわ」

「そうだぜ。俺と香織来年の二月に結婚するんだからな」

ちょっと得気に顎を突き出す。

「え、そうなのか?」中原は目を丸くした。

そしていつも持ち歩いているメモ帳にペンを走らせた。

「中原くん、なんのメモかしら?」

「ああ、いや・・・小説のネタになりそうだったから、つい・・・」

「私たちを小説のネタに?」香織は笑いながら尋ねた。

中原はバツが悪そうに頭を搔いた。

小一時間程居座り、二人は腰を上げて帰っていった。

病室には静けさが降りた。

しばらくして香織が「少し散歩に出かけない?」

病院の外へ出ることはできないので庭をお年寄りや走り回る子どもたちを横目に歩いた。昨日見た梅の花はいくらか散っているようだった。

「こうして歩いているとね」隣を歩く彼女が独り言のように呟いた。「いつも『風に吹かれて』の歌詞が浮かんでくるの」

「俺、歌詞をよく理解してないよ。ハウメニーとかいってなかった?」

「人はいったいどれだけ歩いたら一人前になれるの?って歌ってるのよ」

「文学的だね」

香織はこちらに顔を向け、後ろで手を組み「答えはね、風に吹かれてる。友よ、風に吹かれているのよ」

「そこに繋がるわけだ」俺は少し考えて、手をだした。そして「俺と人生を歩きませんか?」といった。

すると香織は「喜んで」と手を握り返してくれた。



心地よい風が頬をなでた。道端にはタンポポが黄色い花をつけて揺れている。どことなく香織の笑顔に似ていた。歩いていくと二年前に卒業した中学校が見えてきた。まだ春休みなようで校庭には人影がない。フェンス越しにみる中学校は当時より小さく見えた。

「どこまで行くんだ?」

数十メートル先を歩く二人に尋ねた。

「お寺の麓の公園だよ。あそこ桜が植えてあっただろう?」

中原はかほさんが作ったというお弁当を紳士に持っている。

中学校から遠ざかると今度はお目当ての公園が見えてきた。

「ほんと、満開じゃない」

香織が横でテンションを上げていった。

中に入り、ポツンと佇む一本の桜の木の下でブルーシートを敷いた。

すぐに花びらがブルーシートの上にのってきた。

「なんか一本じゃ寂しいな」俺は苦笑する。

「そうかしら?私は並木より好きよ。一本の方が」

香織が言うと、俺もそんな気がしてきた。

「開けてもいい?」

中原はお弁当の中身が気になるよう。

「うん、もちろん!味は保証しないけど」かほさんも嬉しそうだ。

四月の風にのって花びらが舞う。その中で食べるお弁当はこの上なく美味しかった。四人はだまってかほさんのお弁当を食らう。

「来年も見られるかしら?」たこさんウインナーを頬張った香織がいった。

「みられるよ。ハネムーンはこの公園になりそうだ」

「それはなんか、いやだわ」今度はたまご焼きを頬ばった。「私、ラニカイビーチに行きたいわ」

中原が「ハワイの?」

「前、言ってたよね?」と俺。

「ええ、その日も、ここにいたわね」

そういえばそうだ。ここで船を作って浮かべたっけ。

「懐かしいわね」香織は遠くを見つめている。

「その日、俺が好きだって言ったんだよね」

「そうだったの?」目を丸くしながらかほさんがいった。

「ええ、そう。あの時は嬉しかったわ」

「なんだよ、この色男」

中原が俺の脇腹をつつく。

そこで四人は声を出して笑った。


雨がよく降る季節に入ったころ、香織は一人で入院することになった。少し前から体調の悪さを訴えていた。決定打になったのは突然出た鼻血が、とまらなかったこと。おかしい、と思って検査したところ入院することになった。

「すぐに退院できると思うんだけど」

「香織が好きな紫陽花が咲いているよ。一緒に見に行こうよ」

来年はもう見られないから、とは言わなかった。

「ええ、つぼみに戻ってしまう前に見たいわ」

香織は外に目をやる。

「今日も雨ね」

「雨は嫌いかい?」

「いいえ、そんなことないわ。私好きよ。雨が降ればお気に入りの傘をさせるし、お気に入りの長靴だって履ける。それから雨音も好き。ジミちゃんは雨、嫌い?」

雨は嫌いだったが、「今好きになったよ」と答えた。

「なによそれ」力なく微笑む。

「香織が好きなものは全部好きなんだ」

「変なの」

言葉が途切れた。雨が叩く窓の音が病室に響く。個室のため余計に雨の音が感じられた。

「そうだ、さくらんぼを買ってきたんだ。一緒に食べようぜ」

香織は小さく頷いた。

「人はどうして生きると思う?」

さくらんぼで頬を膨らませた香織が唐突に投げかけた。

「どうしたんだい?藪から棒に」

「すべての人間は生きる意味があると思う?」

香織の目はどこか切なかった。

俺は苦し紛れに、「あるんじゃないかな」といった。

香織は「いったんどんな意味があるの?」と言いたげな目でこちらを見た。

「きっとどんな生物にも生きる意味はあると思うよ」

「うそよ」息が漏れるように呟く。「じゃ、鶏や牛や魚の生きる意味は人間に食べられることなの?私が病気になったのにも意味があるっていうの?」

俺は何も答えられなかった。

「そんなの人間のエゴじゃない」香織はつづけた。「人間なんて生きたってしょうがないわ。人間なんて絶滅した方がいいわ。地球にとっても他の生物にとっても」

「かおり」

いい訳程度に名前を呼んだ。

呼ばれて香織は我に返った。「ごめんね。ジミちゃんに当たって。ちょっと辛くなっちゃって」

「いいんだ。気持ちわかるよ」

目を伏せて、「少し寝るね」といった。

俺は「おやすみ」といって香織の手を握った。しばらくすると心地よさそうな寝息が聞こえてきたので、そっと手を放し、音を立てずに病室を出た。

外に出ると飽きずに空は雨を降らせていた。玄関口から香織の病室を見上げる。

顔に水があたってよく見えなかった。それは、まるで香織が涙を流しているようだった。


香織は無菌室病棟に移ることになった。病気の状況はあまり良くないことがうかがえた。お見舞いするのも一苦労だ。スリッパに履き替えたり、帽子を被らされたり、マスクをしたり。

「全く別人ね」

俺の恰好みて香織がいった。

「不本意だよ。俺だってこんなのしたくないしさ。早く退院してくれよ」

「これじゃお散歩もできないもんね」

「具合はどう?」

「ええ、いうほど悪くないわ」

「それならよかった」

「ジミちゃんは?学校楽しい?」

「香織がいないからつまんねぇよ」

しばらく何かを考えて口を開く。

「私が退院したら、学校なんてやめてしまわない?」香織はクリーム色のカーテンを見ている。「私たちには未来がないでしょう?だったら学校に行ってもしょうがないじゃない。私入院して思ったの。時間を無駄にしたくないって。一秒でも長くジミちゃんと一緒にいたいって」

「香織の言う通りだな。退院したら学校なんてやめて、毎日会おう」

「ええ」

「だから、早く退院してくれよ」

「すぐに病気をやっつけてやるわ」


ついこの前まで咲いていたはずの紫陽花もつぼみに戻りつつあった。天気も雨から晴れの割合が多くなっている。俺は通っていた小学校の隣にある喫茶店に来ていた。香織のお母さんと差し向かいで。

「体調はどう?」

最近のお母さんは幾分か疲れているように見えた。

「良好です」

「正宗くんは転移とかしていない?」

「転移はしてないです」

「ええ、そう。それはよかったわ。・・・転移してしまったのよ」

そういうお母さんの目は心ここにあらずで、明後日を見ていた。

だれが、なんていうわかりきったことは言わなかった。もちろん、言わなくてもわかっている。

「血液にね」

「・・・血液」意味もなく復唱した。「治るんですよね?」思わず声がうわずる。

お母さんはゆっくり首を左右に振った。「もう治らないわ。夏を越せるかどうかって言われているの」

しばらく沈黙になった。俺の視界は灰色に染まる。聞こえていたはずのBGMも消えてしまったようだ。

「正宗くん」

お母さんの声でやった色と音が戻る。

「はい」

「今行っている放射線の治療がうまくいけば一時的に退院できるそうなの。そうしたら香織とハワイに行ってくれないかしら?」

まっすぐ俺を見る目が二つあった。

「もちろんです。行かせてださい」

「そう、よかったわ」つづけて「香織もとっても喜ぶわ」と小さく息を吐いた。

「香織は病気のことを知っているのでしょうか?」

「いいえ、治療の妨げになると思って言ってないの。これもお願いなんだけど転移のことはしばらく内緒にしてくれる?」

俺はお母さんの顔色を窺うように、頷いた。


つぎの日、ことの次第を伝えるために病室へ訪れた。もちろん転移のことは避けて。

「お母さんがそんなことを?」

「うん、パスポートはあるかい?」

「ええ、あると思うわ。ジミちゃんは?」

「俺もあるよ」

「でも、退院なんてできるかしら?こんな病室にいるのよ?私相当悪いんだと思うわ」

俺は少し焦って「できるさ。香織も強気じゃないと」

香織は浮かない顔のままだ。

「ラニカイビーチに行ったら何がしたい?」

俺は楽しい会話に舵を切ってみる。

「そうね」しばらく考えて「なんでもいいわ。そこにジミちゃんがいるならね」といった。

「行ったら、香織の水着姿が見れるかな?」

「すぐそういう方向にもっていく」

「いやかい?」

「徐々にね」

「ここだとキスはできない?」

「きつつきになれれば平気よ」

香織はいたずら笑みを浮かべる。

俺は本当にきつつきになった気分で、木をつつくように唇を合わせた。

「なんだか、おかしいわ」

「もう一度する?」

「ええ」

もう二回、唇を重ねて、マスクを上げた。


香織は食事をとることができなくなっていた。そのせいで頬はやせこけ、腕は枯れ枝のようになってしまった。

「ちゃんと食べなきゃダメじゃないか」

「どうしても食事がのどを通らないの。食べようとすると吐き気を催しちゃって」

「でも、食べないとお散歩にも出かけられないよ」

「そんなことわかってるわ」

香織はちょっと剣のあるような言い方になる。

「ごめん、香織の辛さわかんなくて」

「いいえ、私が悪いのよ。私が怖いのは死ぬことなんかじゃなくて死ぬ前に私のせいでジミちゃんと喧嘩別れしてしまうことね」しばらく黙って香織が再び口を開いた。「もう、どこか遠くへ行きたいわ。ジミちゃんと一緒に」

希望を口にしているけど、これっぽっちも希望のない声色だった。

「いこう」

咄嗟に言葉を繋ぐつもりでいった。

「どこへ?」

「ラニカイビーチに」

寂しそうに笑って「ええ、いいわね。約束したものね」

「そうだよ。約束したんだ」

「ええ、したわね」

香織は天井をみつめたまんま力なく笑っている。死、というものをリアルに感じた。肉体はそこにあるのに、香織はそこにいないみたいだった。

香織の気分の浮き沈みが激しくなっていった。楽しくお話をする日もあれば、少しのことでイラつき、唾を吐くようなことを言う日もあった。これが治療のせいだというのは俺には痛いほどわかった。

放射線の治療はうまくいっていないのだろう。退院の話は一向に出てこない。これでは約束を果たすことができない。俺はだいぶ焦っていた。

「ジミちゃん、私もう、だめかもしれない」

「そんなことないよ」

「昨日夢を見たの」目を閉じてつづけた。「ジミちゃんとね、ハワイ旅行に行く夢。しかもハネムーン」香織は口角を上げて嬉しそうに、まるで今もその夢を見ているかのように、話しをつづけた。

「明るいうちは、色とりどりのお魚たちと泳いで、疲れたら海辺で休憩するの。オオハシが果てしない大空を飛び回って私たちに挨拶して。近くの売店で南国のフルーツジュースを買って、二人で飲んで。夕暮れになったら火を起こして、夜に備えるのよ。暗くなったら虫と火の旋律を聞きながら、お話するの。そのお話は尽きない・・・」

話疲れたのか、そこで区切って「どんなお話をしたのか忘れちゃった」と薄く笑った。

俺も優しく笑ってみせる。

その話を聞いて、夢が現実で現実が夢ならいいのにと思った。だけど、そんなことはありえない。

「一緒に行こう。ハワイに」

「むりだわ。なんとなくわかるの。私はもうここから出られない・・・」

「いつか話したじゃないか。その時は抜け出そうって」

「話したわね。懐かしいわ。ジミちゃんが連れ出してくれの?」

「ああ、いつだって迎えに来るよ」

「うれしいわ」

どこまで本気なのか。お互いわからなくなっていた。俺には、この病室から彼女を連れ出す勇気はなかった。香織だってここを抜け出す体力はないだろう。遅かったのだ。なにもかも。遅かった。香織が元気だった頃に行っておけば、夢の話が思い出話になったのに。


学校は夏休みに入った。高校最後のそして人生最後の夏休みだ。大いに謳歌するはずだったのに。香織がいなければ意味がない。

その頃になると香織は起き上がることはおろか、喋ることもまともにできなくなっていた。

よくなびかせていた髪の毛も今は抜け落ちていた。そのかわりカラフルなニット帽をかぶるようになった。

「私、約束を破ってしまうわね」

その日は比較的、体調が良いようで饒舌だった。

 あとから思えばこの時、最後の力を振り絞っていたのかもしれない。マラソンで残りの数百メートルを走り切るような。

 「約束なんて破るためにあるんだぞ」そんなこと言ってみたけど、何の慰めにもならない。

 「ありがとう。でも、ジミちゃんと結婚したかったわ」

 香織はあきらめたような表情をしていった。

 「まだ命があるじゃないか。命のある限り人は生き続ける。だから諦めちゃだめだ」

 「ううん、もういいの」そっと目を伏せる。

 「なにがもういいんだい?」

 「もういいのよ。疲れちゃった。病気にも、それから病気を倒すのにも」

 しばらく黙って「でも、よかった」と小さい声で呟いた。

 「ん?なにが?」

 「ジミちゃんの誕生日は二月十四日。私の誕生日は三月二十一日」

 「それがなんだい?」

 「っていうことは、私が生まれてから死ぬまで、ジミちゃんがこの世にいなかったことはないの」一回唾を苦しそうに飲み込みつづける。「私が生まれてきた世界はジミちゃんがいる世界だったのよ。この地球に誕生してから絶命するまでジミちゃんがいてくれた。私が生まれてきた意味はしっかりあったんだわ」

 病室に午後一番の日差しが入ってきた。そこで香織が一筋の涙を流しているのに気がづいた。それでも俺は見て見ぬふりをして「だから言っただろ?」とおどけてみせた。


 翌日、病室に行くと香織は眠っていた。クリーム色のカーテンが妙に暗く感じて、香織が光っているように見えた。俺はすぐ横に立って寝顔を眺めた。貧血のせいで顔は青白く、治療のせいで青紫色の斑点が虚しく張り付いていた。出会った頃の面影はもうない。それでも今目の前にいるのは紛れもなく香織なのだ。

 図書室で俺の戯言をサッカー選手のドリブルのように交わす香織。

 さつきの花言葉を知っている香織。

 病院で再開した時、声を掛けてくれた香織。

 ソフトクリームを上品に食べる香織。

 ポンポン船を作ってよろこぶ香織。

 五月の風に髪をなびかせる香織。

 かほさんと話すと冷たい視線を送る香織。

 俺の誕生日を覚えていてくれた香織。

 『風に吹かれて』が好きな香織。

 生きる意味について問う香織。

 生きる意味を見つけた香織。

 俺のことをジミちゃんと呼ぶ香織。

 俺のことを想ってくれる香織。

 全部香織だ。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ。

今ここで気持ちよさそうに眠っている香織だ。

ぜんぶ違って、ぜんぶ同じ。

「かおり」

名前を呼んでみる。一度では起きなかったので何度か繰り返す。やがて、香織は眉間にしわを寄せて、ゆっくり目を開けた。

「ジミちゃん」

「香織がいなくってしまいそうで」

香織は力なく笑って、「ばかね。私はまだここにいるわ」

「病院はやっぱり寂しい?」

「最近はそんなことないわ。眠っていることが多いから。夢の中ならジミちゃんにも会えるし病気もないし。嫌なことなんて一つもないわ」

「そんな悲しいこというなよ」

「ええ、そうね」

俺は香織の手を握る。少し力をこめれば、砕けてしまいそうな細さだ。香織も反応し貧弱に握り返した。

「私、生きる意味は見つけたんだけど・・・死ぬ意味をまだ見つけられてないの」

「そんなこと考えなくていい。生きることだけ考えようよ」

「ジミちゃん、人間が死ぬ意味はなんだと思う?どうして人間は死ぬのかしら」

香織は俺の言葉には聞く耳を持たず、哲学のような問いをする。

 人間はどうして死ぬのか。それは人間にとって永遠の問いだろう。十七年しか生きていない若造には、到底わかりっこない。それでも香織は真剣に意味を見出そうとしている。そうでもしないと自分の病気との折り合いがつかないからだ。

 「ごめんね、私いつもジミちゃんを困らせちゃう」

 俺は遠慮がちに首を左右に振り、「答えは、きっと風に吹かれているよ」といった。

 香織は少し目を丸くして小鳥がさえずるように笑い、「そうね」と納得した。

  そこで目を閉じ、再び眠りについた。

 

  それから毎日、病室に訪れたが香織は依然眠ったままだ。目を開ける気配すらなかった。香織は一体どこに行ってしまうのだろう。そんなことを毎晩考えた。香織の人生はなんだったんだろう。香織は幸せだったのだろうか。そんなことを考えながらスマホをいじる。今日もSNSには失恋した投稿や、若い女が体を売って得た金をこれ見よがしに自慢する投稿、自分の妖艶な体を写真に撮り投稿するような自己顕示欲であふれている。

 俺は、ブスがいい気になりやがってと毒づいた。

 香織の方が何百倍も可愛い。でも思ってしまう。どっちが幸せなんだろうって。

 顔が不細工でも加工と性欲のコミュニティで自己顕示欲を満たす連中の方が香織より幸せなんじゃないかって。

 一人の人間から想われるより、不特定多数の人にチヤホヤされる方が幸せなんじゃないかって。愛を知らない奴の方が幸せなんじゃないかって。香織は俺だけに想われることを幸せに思ってくれているんだろうか。

 気がつくと俺は泣いていた。悲しくなんてないのに。泣いていた。俺も病気が進行しているのかもしれない。

 伝えてあげたかった。今すぐ。香織を世界一愛しているって。愛は数じゃなくて重さだって。伝えたい。つぎ、目覚めたら開口一番にいってあげよう。そしたら香織はどんな反応をするだろうか。笑ってくれるだろうか。

 しかし、それ以降も香織が目を覚ますことはなかった。夏の佳境も過ぎ、いつの間にかお盆も過ぎ去っていた。

 俺は中原を誘い、近くの川で釣りをした。

 「香織さん、目を覚まさないんだって?」

 「ああ」

 釣り竿は垂らしているけれど、餌はつけていない。暇つぶしの釣りだ。

 川からは、いつか見た、桜の木が緑色して突っ立っていた。

 「香織はもう、桜をみることはできないんだな」ぼそっと独り言のつもりでいった。

 中原はなにも言わなかった。「人間はどうして死ぬと思う?」俺は質問した。

 しばらく考えて、「昔読んだ小説の主人公が、人生は帰り道って言っていた」

 「・・・帰り道・・・」

 「うん、人生は帰り道で死んだら本当の故郷に行けるって」

 「面白い死生観だな」

 「だろう?僕もそれを読んだ時、衝撃を受けたよ」

 「どんな故郷なんだろうな」

 「さぁな。でも、香織さんも正宗も死なないよ。僕が一生覚えているから」

 「それはなんだ、小説のネタにするつもりだからか?」

 「ちがうよ」

 中原は少し不貞腐れた。

 俺は笑いながら「じょうだんだよ」

 「せっかくいいこといったのに」

 沈黙になった。木々が揺れる音だけが横たわった。

 「連れてってやれよ」

 長い沈黙を破って中原がいった。

 「どこへ?」

 「どこへって。ハワイだよ。香織さん行きたがってただろう?」

 小魚が釣り竿を揺らす。

 「連れてってやれよ。最後のチャンスだぞ。ハワイに行けるのは生きているうちだけだ」

 力強い眼差しで俺も見る中原。

 俺は決心する。

 「ああ。そうだな」

 「今は、倫理を気にしているときじゃない。自我を大切にしなきゃいけないときだ」

 「俺、連れていくよ。香織が生きているうちに」

 中原は頷いた。

 その夜、香織にメッセージを送った。

 『いつまで寝てんだよ。早く起きてハワイに行くぞ。そんなに寝てたら寝疲れして起きた時、頭が痛くなるぞ。・・・起きろよ!香織・・・起きてくれ。香織・・・頼む・・・』

 メッセージをうっていると視界が揺れ、画面が見えなくなった。一度、袖で目をこすり送信ボタンを押した。

 


 返信が返ってくることはなかった。

 一週間後、香織は故郷に帰ってしまった。俺を残して、約束を破って、一人でいってしまった。夏の終わりのことだった。




 蝉がうるさく鳴く日だった。家でうたたねをしているとスマホが揺れた。スマホをひらいたけれど見慣れない番号だったので無視することにした。一回目の着信が切れた。すると一秒もしないうちに再びスマホが揺れた。嫌な予感がした。恐る恐る電話にでると、聞きなれた声に似ている声が聞こえた。

 「香織が・・・香織が・・・あなたの名前を呼んでいるわ・・・・」

 それだけ聞き取れた、あとは涙声で何を言っているのかわからなかった。俺は急いで家を飛び出し、自転車を飛ばした。自分が病気であることも忘れて。

 病院につき、自転車を投げ捨て、香織の病室に向かった。

 病室の前でお母さんは泣き崩れていた。両脇にかほさんと中原もいた。二人とも泣いている。

 「会ってやってちょうだい」と真っ赤に、はらした目で俺にいった。

 病室のドアをあける。中に入ると、いつもより質素だった。今まで、繋がれた酸素マスクや、点滴の管などがなかったからだ。

 病室には俺と香織の二人きりだった。

 「さよならね」と香織はいった。

 俺は子供が駄々をこねるように首を横に振る。そして、我慢していた涙が堰を切るように流れだした。

 「香織、行かないでくれ」

 俺は、その場に崩れ落ちて香織の手をとった。すぐに香織の腕が涙で濡れる。

 「私ね、ずっと考えていたの。どうして病気になったのか。どうして私だけこんな辛い思いをしなければいけないのか。ずっと考えていた。でも、やっと答えがでたわ」

 香織はゆっくり瞬きをした。「私はジミちゃんと出会うために病気になったんだと思う。ううん、違うわ。そう思うことにしたの。そう思ったら、嫌なこと全部吹き飛んだの。ジミちゃんのおかげよ。出会ってくれてありがとう」

 「俺を置いていかないでくれ」ようやくそれだけ口にした。

「・・・死んだらまた見つけてくれる?いつか見た、シンデレラのように。王子様がシンデレラを見つけるように。また見つけてくれるかしら?」

 「すぐに見つけるよ」

 香織は安心したように「よかったわ」といった。

 「俺もすぐに行くから」

 「待ってる」儚げに微笑んだ。

 「でも、急がなくていいからね。いつでもそばにいるから」

 「わかってる。香織はどこにもいかない。だから頼む、目を閉じないでくれ」

 「ジミちゃん。大丈夫よ。私は大丈夫だから」瞬きするように目を閉じて「ねぇ、ジミちゃん、あの夏を覚えている?・・・」

 「ああ、覚えているよ」

 香織は口を動かして、なにかを言っているようだったが俺には聞こえなかった。いってしまうのだ、と思った。だんだん遠ざかっていく。顔も体も温もりも。彼女のすべてが。

 もう間に合わない、と思った。もう間に合わないのだ。一緒にハワイに行くことも、結婚することも。病気を治すことも。約束したことすべて。なんて不条理なんだ。俺らが何をしたって言うんだ。もっと悪いことをしている奴らはごまんといるのに。なんで俺たちだけが・・・

 そうだ、あの夏だ。あの夏にはすべてがあったんだ。

あの夏は何一つかけていなかった。

 


 夏の終わりは、なんとなく世界の終わりに似ている。夏の終わりの寂しさが終末のように思えてならない。俺は毎年八月が終わりに近づくと、そんなことをぼんやり思う。楽しい思い出だけがはり付いて、俺らは前に進んでいく。そうやって、秋と冬を過ごす。夏の余韻で過ごしていく。そうすると春がやってくる。それは始まりだ。

 海に近づくと、なんだか涼しい気がした。

 「海なんて何年ぶりかしら」

 電車の窓からうつる海をみて香織がいった。

 俺は毎年おじいちゃんに会っているため、一年ぶりだ。一年経っても海に変わりはない。今日も程よい波をたたせ、たくさんの魚たちを育てている。

 俺たちは先におじいちゃんの家に向かった。

 「操縦の仕方はわかるかい?」

 「エンジンかけて、車の運転の要領でしょう?」

 「ああ、そうだ。あそこは圏外だからトランシーバーを持っていけ。何かあったら連絡するんだぞ」

 「うん、ありがとう」

 「くれぐれも良識ある行動を心がけるんだぞ」

 「わかってる」

 簡単な荷物を二人乗りの小型船に乗せる。先に俺が船に乗り、そのあと香織が乗った。おもちゃのような可愛い船に二人で乗りこみ、エンジンをかけた。メルヘンな音を立ててエンジンがかかる。

 「その、島まではどれくらいかかるの?」

 「三十分くらいだよ。ガキの頃はよくおじいちゃんと釣りしに行ってたんだ」

 「へー、そうなのね」

 しばらく波に揺られていると、小さな島が見えてきた。

 「あれ?」指をさして香織がいった。

 「うん、あれ」

 「本当に小さい島ね」

 俺はスピードを緩めた。

 先に俺がロープを持って降り、近くの木に括りつける。香織が降りるのを手伝い、そのあと荷物を下ろした。

 島の形は三日月のようになっており、縦の長さは百メートルほどだ。

 木々が覆い茂り、空には鷹が旋回して俺たちに挨拶をしていた。

 それぞれ、別々の木々の合間で水着に着替えた。

 船をとめた辺りで、先に海と戯れていると香織が恥ずかしそうに現れた。水着はラッシュガードを着ていた。ひざ下の生足が太陽に反射し眩しかった。

 「はやくこいよー」

 俺は香織に向かって叫び、軽く海水を飛ばす。

 それを訊いて恥じらいがなくなったのか、こちらに向かって走り出した。勢いよく海に入り、水しぶきを起こす。

 俺らは海水をかけあったり、お互いをつき飛ばしたりして海と遊んだ。

 海との戯れに飽きた俺たちは砂浜に腰を下ろした。

 「素敵な島ね。まるで秘密基地のよう」

 俺はペットボトルを潰しながらポカリを飲んだ。海に入っていないと日差しが痛い。

 「いいところでしょう?俺も久しぶりにきたけどやっぱりいい」

 「なんか海を見ていると、この世の嫌なことを忘れられる」

 「嫌なことは海に流せばいい。昔おじいちゃんが言ってた」

 「そうね、海は広いものね。私たちの悩みなんて海からすればちっぽけなものなのかもしれないわね」

 しばらく二人とも黙って水平線を眺めていた。次第に日は傾きはじめた。すると空から、ぽつりぽつりと割と大粒目の雨が降ってきた。すぐに勢いが増していき、視界不良となった。

 「とりあえず、荷物を運ぼう」

 香織は頷き、二人で荷物を木々の下に移動させる。多少雨漏りするが、たくさんの木々はシェルターになった。そのまま雨宿りをした。

 「夕立ね」

 「みたいだね」

 どしゃぶりの中、雷も鳴り始めた。なんだか空が怒っているようだ。時折、すさまじい光を見せ、怒りを爆発させるような怒声が海に響いた。それは俺らに近づいているように思えた。

 「今の近いね」

 隣に座る、香織がいった。

 すると先ほどよりも強い光が視界を襲い、もの凄い音が鼓膜を叩いた。雷は俺らの目の間に落ちた。

 「船大丈夫かしら?」

 「ちょっと心配だなぁ」

 夕立のため、すぐに雷雨は過ぎ去った。俺はあわてて船を確認しに行く。

 「やっぱりか」

 「どうしたの?やっぱり雷にやれた?」歩いてくる香織が心配そうに尋ねた。

 俺は何回かエンジンをかけてみるが舌打ちのような音を立てるばかりで全くかかる気配がない。

 落雷のせいで電装系がやられてしまいエンジンがかからなくなってしまったのだ。

 「エンジンがかからない」

 「大変じゃない。おじいちゃんに連絡しましょう。トランシーバーは?」

 俺は、その場に落ちていたトランシーバーを拾う。船から降り、電源を入れてみるが反応がなかった。こちらも雨か落雷の影響で壊れてしまったようだ。

 俺が首を横に振ると香織は小さなため息をついた。

 「どうしましょう」

 「たぶん、おじいちゃんが迎えに来てくれるよ」

 「そうね、焦っても仕方ないわね」

 俺たちはやや俯き加減で荷物を避難させた場所まで戻った。座っても無言のまま。しばらくつづいた沈黙を香織の声が破った。

 「あ」

 俺は香織のほうを見る。

 「私じゃなくて、あっち、虹よ」

 「ほんとだ」

 綺麗な虹が水平線にトンネルを作っていた。

 「虹って猫みたいだわ」

 「どうして?」

 「触れようとしたら逃げてしまうし、気がついたらいなくなっている。でも、いつだって美しい」

 ロマンチックなことをいう香織の目はうっとり虹に見惚れているようだった。

 そこで二人のお腹が、ぐぅと鳴った。少し笑い、「じゃ俺、釣りしてくる」

 「じゃ、私は火おこしの準備をするわ」

 俺は釣り道具を持ち、よくおじいちゃんと釣りをしていた場所へ向かった。あそこは良く釣れる。

 まだ少し濁りを見せる海にルアーを付けて放り込む。一分もしないうちに、一匹目が釣れた。しかし、そのあとはヒットがなかった。俺はじっとしていられなくなり、船に戻りモリとゴーグルをもって海に潜った。一時間健闘し、計三匹の魚をゲットすることができた。

 香織がいるところに戻ろうとした時、僥倖なことにロブスターと遭遇したので、最後の力を振り絞り全力でロブスターハンターになった。

 結果、魚四匹とロブスターが本日の夕飯となった。

 「ジミーちゃん、お手柄ね」と香織は喜んでいた。

 マッチは雨にぬれずいきていたので、香織が丁寧に集めてくれた固定燃料の山に放り込んだ。すぐに燃え上がり、暗くなった周りを照らしはじめた。

 二人で魚を食べ、最後ロブスターにかぶりついた。香織のかぶりつきはやっぱり上品で控えめだった。なんとか空腹を満たし、なんとなく焚火が放つ旋律に耳を傾けた。

 「火を見ると落ち着くよなぁ」

 「ええ、本能的なことなのかしら」

 「そんな気がしてきた」

 しばらく自然が奏でる音楽にうっとりしていると香織が「こんな生活もいいかもね」といった。

 「ボヘミアンだよな」

 「うん、いいじゃない、ボヘミアン的な生き方。私は好きよ」

 「俺も。でも香織がそんなこというのは意外」

 「今、思ったのよ」

 火の灯りが香織の顔に光と影を作る。笑っているけれど、その表情はもの凄く嬉しそうにも、もの凄く悲しそうにも見えた。

 「星と海と隣に好きな人。これだけで十分な気がしてきた」

 「香織は控えめだね」

 「そうかしら?・・・いつかあの川を渡るのかしら?」夜空を見上げる香織。

 「香織と一緒なら怖くないな」

 空に星が流れる時、俺たちは唇を重ねた。焚火が鳴らすメロディーに導かれるように。

 初めてのキスだった。



 香織のお葬式は夏の余韻を残す九月の一日に行われた。彼女に似つかわしく、つつしまやかに遂行された。参列者はご家族と、俺と中原とかほさんだけだった。みんな彼女の死に涙を流していた。

 俺はお坊さんがお経を読む中、彼女の遺影を見ていた。中学卒業の時に撮られたものだ。

 でも、その遺影には俺が知る香織はいなかった。どこか作り物のような気がした。永遠につづくと思われた読経が終わり、火葬場に移動することになった。普段は曲がらない交差点を右に曲がり山の方へ進んでいく。移り変わる景色が緑色ばかりになった。人間の儚さをぼんやり実感した。火葬場に着いて、とうとう香織は骨だけになろうとしていた。俺は一人、建物の裏にやってきた。壁には茶色い植物が覆いかぶさって下の方は黒ずんでいた。香織が焼かれているあいだも、散文的に佇んでいた。静かな夕日に香織を焼いた煙が情けなく漂っていた。

 俺は制服のポケットから香織からもらったカセットウォークマンを取り出した。イヤホンを耳にはめて、再生のボタンを押す。

 ノイズが入り、少し待つと香織の声が聞こえてきた。まだこの世のどこかに香織が存在している気分になった。

 『・・・ジミちゃん、ジミちゃん、聞こえる?もし私が先に死んだら、こうしてカセットテープに録音しようと思っていたの。・・・ジミちゃんと出会って二年半・・・とっても楽しい思い出ばかり・・・ジミちゃんの無邪気な笑顔・・・ジミちゃんの声・・・ジミちゃんの言葉遣い・・・ジミちゃんの・・・すべてが愛しい。

 短い人生だったけど幸せだったわ・・・ジミちゃん・・・忘れないでね・・・二人が重ねてきた日々はこの世のどんなものよりも意味があったってことを・・・・じゃあね・・・さようなら・・・』


 「ねぇ、パパ~?」

 「ん~?どうした~?」

 「そのお友達の骨はどうしたの?」

 「パパの物語が映画化される時にハワイの海に流したんだ」

 「ハワイってどこ~?」

 「ここから、ずっと遠いところだよ。さぁ由紀、もう寝なさい」

 「うん、わかった。おやすみパパ」

 小さい手にぎゅっと力が込められた。僕の手の中にすっぽり収まってしまうほどだ。僕も控えめにその手を握り返す。艶のある髪を優しくなでていると糸のような細い寝息が聞こえてきた。僕は天使のような寝顔にそっとキスをして部屋を出た。

 リビングに行くと、まだ乾ききっていない髪をたらしながら台本を熱心に読んでいるかほがいた。

 「由紀、寝た?」

 「うん、またあの話をしたよ」

 「由紀、好きねぇ」

 かほは台本から顔をあげて微笑んだ。

 「でも、早いね。もうロルちゃんの作品が映画化されてから五年も経つんだもんね」

 「かほは売れっ子女優だもんなぁ」

 お互い、旧友に思いをはせた。

 「そうだ、五年ぶりにハワイに行かないか?由紀を連れて」

 「そうだね、執筆の方は大丈夫なの?締め切りとか」

 「うん、大丈夫。あの映画化のおかげで経済的にはだいぶ余裕ができたし」

 「そうね、少しは羽を伸ばさないとね」

 「あの二人、あの世でも一緒になっているのかな」僕は独り言のようにいった。

 「あの二人は今も一緒。私たちが流した海に二人仲良く漂ってる。そんな気がする」

 「また、いつか会えるかな。二人に」

 「きっと会えるって。その時まで、二人に負けないくらい幸せでいようね」

 「そうだな」

 そこで僕たちは小さく笑った。その時、いないはずの二人の笑い声も聞こえた気がした。

 小さな風のメロディーにのって。

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