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その少年、バグにつき

ネオ東京、第3学区。空を切り裂くようにそびえ立つクリスタルの巨塔――国立星嶺せいれい英雄学園。

そこは、人類の進化が生み出した「量子適格者クアンタム・アデプター」たちの聖地であり、全人口の8割が特殊能力を持つこの超人社会における、絶対的な頂点だ。

正門の前は、すでに異様な熱気に包まれていた。

「見ろよ! あれ、火野コンツェルンの御曹司だろ? 全身からプラズマ出てるぜ!」

「うわ、こっちは重力使いか……歩くたびにアスファルトが凹んでる」

受験生たちのざわめきが、春の風に乗って鼓膜を揺らす。誰もが自信に満ち溢れ、その瞳には野望という名の炎が宿っていた。

ただ一人、死んだ魚のような目をした少年を除いて。

彼の名は、九条くじょうミナト。

身長170センチ、体重58キロ。特徴、特になし。

強いて言うなら、制服のシャツが少しヨレていることと、この場に致命的に似つかわしくない「一般人オーラ」を纏っていることくらいだ。

「……帰りたい」

ミナトは深いため息をついた。肺の中の空気がすべて絶望に入れ替わるような、重苦しい吐息だった。

なぜ、僕がここにいるのか。

それは遡ること三日前、母親が勝手に出願書類を送りつけたからだ。『あんたの能力、お父さんのビール瓶を冷やす以外にも使い道があるでしょ!』という、科学的根拠皆無の暴論と共に。

「おい、そこどけよ『無能力者ゼロ』」

背後から、ドスの利いた声が降ってきた。

振り向くと、身長2メートルはあろうかという巨漢が立っている。彼の肌は岩石のようにゴツゴツとしており、明らかに物理防御力が高そうだ。

「あ、すみません……」

ミナトが反射的に謝り、道を譲ろうとした瞬間だった。

巨漢がわざとらしく肩をぶつけてきた。

ドンッ、という鈍い音と共に、ミナトの体は弾き飛ばされ――なかった。

「え?」

巨漢の声が裏返る。

肩が触れた瞬間、ミナトの体は微動だにしなかったのだ。まるで、そこに存在しないかのように。

そして、0.5秒後。

ズドンッ!!

「ぐわあっ!?」

何もない空間で、巨漢が突如として吹き飛んだ。まるで、半秒遅れて「衝撃」が到着したかのように、彼は数メートル後ろのアスファルトに無様に転がった。

周囲が静まり返る。

「な、なんだ今のは!?」

「あいつ、指一本触れずに岩山を吹き飛ばしたぞ!?」

「『反射』か? いや、もっと高次元の『因果律操作』か……!?」

周囲の受験生たちが、畏怖の眼差しでミナトを見る。

違う。そうじゃない。

ミナトは冷や汗を流しながら、心の中で絶叫した。

(ただの『通信ラグ』だよ!!)

九条ミナトの能力。

それは、自身の周囲半径1メートル以内の物理現象を、最大0.5秒だけ「遅延ラグ」させること。

ネット回線が悪いオンラインゲームで、撃ったはずの弾が遅れて当たるアレだ。現実世界で、自分の身体判定だけにラグが発生する。それだけの、地味で、役立たずで、日常生活に支障をきたすだけの能力。

さっきの現象は、巨漢がぶつかった「衝撃」の処理落ちが発生し、0.5秒後にまとめてダメージ判定が入ったに過ぎない。

「フッ……」

ミナトは震える手をごまかすために、前髪をかき上げた。

こうなったら、誤解されたままやり過ごすしかない。

「足元、留守だったぜ?」

精一杯の虚勢ハッタリをかますミナト。

その瞬間、試験会場のアナウンスが鳴り響いた。

『これより、第104期・実技選抜試験を開始します。受験生の諸君は、直ちに第3アリーナへ移動してください』

運命のゴングが鳴る。

これは、人類最強の英雄を目指す者たちの物語――ではなく、致命的な「バグ」を抱えた少年が、ハッタリと偶然と0.5秒のズレだけでエリートたちをなぎ倒していく、勘違い系サバイバル・コメディである。

第3アリーナは、東京ドーム5個分はあろうかという巨大な仮想市街地だった。

ビルが立ち並び、廃車が転がるその光景は、まるで特撮映画のセットだ。

『ルールは簡単だ。この街に放たれた100体の「模擬ヴィラン(ロボット)」を破壊し、ポイントを稼げ。制限時間は10分。以上!』

放送終了と同時に、轟音が響き渡った。

「うおおおお! 燃え尽きろぉ!!」

先ほどのプラズマ使いの少年が、両手から高熱線を放ち、目前のロボットを瞬殺する。

「氷結!」

別の場所では、少女が路地を一瞬で凍らせていく。

(レベルが違う……)

ミナトは廃ビルの陰に隠れ、ガタガタと震えていた。

無理だ。あんな怪獣大決戦みたいな状況で、0.5秒のラグ人間が何のできるというのか。

「とりあえず、隠れて時間切れを待とう。不合格でも、参加賞の図書カードはもらえるはずだ」

極めて小市民的な目標を掲げ、ミナトが瓦礫の隙間に身を潜めようとした時だった。

「きゃあああっ!!」

悲鳴。

見上げると、逃げ遅れた女子受験生――栗色のショートヘアに、丸メガネをかけた大人しそうな少女――に、巨大な戦車型の模擬ヴィランが迫っていた。

彼女の足は瓦礫に挟まり、動けないようだ。

「ターゲット確認。排除シマス」

無機質な合成音声と共に、戦車ロボットの砲塔が回転する。

周囲には誰もいない。プラズマ野郎も氷結少女も、遠くで自分のポイント稼ぎに夢中だ。

(……くそっ!)

ミナトの脳より先に、足が動いた。

Iowa大学で学んだ「Show, Don't Tell(語るな、見せろ)」の鉄則が、彼を突き動かす。恐怖はある。だが、目の前の悲劇を見過ごせるほど、彼はまだ大人ではなかった。

「うわああああっ!!」

ミナトは叫び声を上げながら、少女とロボットの間に滑り込んだ。

何の策もない。ただの自殺行為だ。

戦車ロボットが、容赦なく巨大な金属アームを振り下ろす。

質量2トンの一撃。直撃すれば、ミナトの体はトマトのように弾けるだろう。

(終わった……)

ミナトは目を瞑った。

死ぬ。確実に死ぬ。

だが、その時。

極限の恐怖が、彼の脳内の「処理落ち」を加速させた。

――システム・エラー発生。

――局所的エントロピー増大を確認。

――遅延ラグ、最大値へ拡張。

「……え?」

目を開けると、世界が止まっていた。

いや、正確には、目の前に迫る巨大な金属アームが、ミナトの鼻先1センチで「静止」していた。

ピク、ピク、とアームが不自然に振動している。

まるで、読み込み中の動画のように。

(止まってる……? いや、これは僕の能力か!?)

ミナトは瞬時に理解した。

恐怖で能力が暴走し、彼と接触する寸前の「運動エネルギー」の伝達処理が、バグって詰まっているのだ。

今、この空間には「振り下ろされたアームの運動エネルギー」と「ミナトの顔面の座標」が重複しているのに、結果が出力されていない。

物理法則が計算待ちの状態でフリーズしている。

「ど、どいて!!」

ミナトは慌てて少女の足元の瓦礫を蹴り飛ばし(これも少し遅れて吹き飛んだ)、彼女の手を引いてその場から転がり出た。

「いち、に、さん……」

ミナトが安全圏に達し、カウントを数えた直後。

ドオオオオオオオン!!!!

空間が爆ぜた。

蓄積されていた運動エネルギーが一気に解放され、戦車ロボットのアームが自壊した。いや、反作用の処理すらバグったのか、ロボット自体が謎のベクトルに吹き飛び、背後のビルに激突して大爆発を起こした。

爆風がミナトの髪を揺らす。

土煙の中から現れたミナトは、少女を抱えながら呆然と立ち尽くしていた。

周囲の受験生たちが、その光景を目撃していた。

「おい……見たかよ、今の」

「ああ。あいつ、ロボットを『睨んだ』だけで爆殺しやがった……」

「触れてすらいない。念動力サイコキネシスか? いや、もっと凶悪な『破壊の眼』か!?」

静寂の中、ミナトは心の中で突っ込んだ。

(違う! ただのラグ! サーバー落ちみたいなもんだから!!)

しかし、誤解は加速する。

助け出されたメガネの少女が、キラキラした瞳でミナトを見上げ、頬を染めて言った。

「あ、ありがとう……ございます。あなたの能力、凄まじいですね……まるで、神の御業みわざみたい」

「あ、いや、その……」

否定しようとしたが、言葉が出てこない。

これが、後に「災厄の特異点シンギュラリティ」と呼ばれ、学園中を恐怖と爆笑の渦に叩き込むことになる男、九条ミナトの英雄譚の始まりだった。

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