検証 5
1914年3月8日 パリ警視庁
ミシェル・デュポアの執務室
トマス・ゲランはデュポアの机の前に置かれた椅子に座っていた。
パリ警視庁の警視正の執務室。正直、もう少し広くて豪華なイメージを持っていた。
実際には、客を招く様なソファーも無く、重厚な調度品も無い。
恐らくは、部下の報告を聞いたり、調書を読む事だけに使われる部屋。
デュポアの机の向こう側にはそれなりに大きな窓。
その窓ガラスには、たくさんの雨粒。雨は既に霧雨に変わっていたが、時折その雨粒が周辺の雨粒に触れて、重くなって流れ落ちて行く。昔、子供の頃によく見た気がした。
どんよりと暗かった雲に切れ目が見える。薄い青みを帯びた綿菓子。その綿菓子を突き刺す様に、サント・シャペルの黒い尖った塔がそそり立っている。
あと何時間かすれば、薄日が差すかもしれない・・。
あのオーレ夫人の言葉で、ショドロンが関与していたことが証明された。
それはつまり、その裏にマルケスという詐欺師が存在していた事も同時に証明されたと言える。
骸骨面の贋作師など、この世界に何人も存在するはずがない。そしてプロの贋作師が、何の理由も無くモナリザを模写することなど有り得るはずが無いのだ。
この部屋の住人と自分の仮説は正しかった。
もう3年も前の出来事だ。
ショドロンもマルケスも、時の経過に押し流されて、遥か彼方に消え去っている。
事件は解決し、誰も別の真相など求めてはいない。
被害者たちは、ホンの小遣い銭を掠め取られただけの大金持ちに違いない・・。
しかし、自分は一刻も早くこの事実をデュポアに伝えたかったのだ。
ドアの向こうで駆け寄ってくる足音が聞こえた。
乱暴にドアが開いた。
「すいません。お待たせしました・・」
ミシェル・デュポアが駆け込んで来た。
左手には灰色のファイルを抱えている。
彼はそのファイルを机の上に置くと、ゲランに近寄り握手を求めた。
「お忙しいところに押し掛けて来て申し訳ありません」
ゲランは立ち上がって、ニッコリとほほ笑んだ。デュポアのグリップは強かった。自分の持って来た情報に期待している事が分かる。
握手が済むと、デュポアは自分の椅子に座った。
「モンマルトルで起こった殺人事件の容疑者の面通しに立ち会っていました・・」
恐らく走って来たのだろう、少し息が荒かった。
フーと、一息つくと、で、どうでしたと聞いた。
ゲランは、オーレ夫人という女性の事から話し始めた。
少し焦らそうと思ったのだ。デュポアも興味深そうに頷きながら聞いている。
しかし、彼が結論だけを聞きたがっているのは明白だった。
ここは彼の職場で、十数人の部下を指揮しているのだ。
突然、部下がノックするかも知れない。
「彼女に聞きました。・・特別に上手な模写をしている人物はいませんでしたか?」
デュポアが身を乗り出した。両腕を机の上で組んでいる。
ゲランはオーレ夫人の真似をして再現して見せた。
「い、いましたよ。凄い上手な人が・・」
「私、声を掛けようとしたんです。あまりにも上手なんで・・。そうしたら、彼、不機嫌そうな顔で、絵に白い布を掛けて、怖い顔で私を睨んだんです。その顔が怖くて・・。私、3日間ほどルーブルに行けませんでした・・」
「そんなに怖い顔をしたんですか・・」
「だって、もともと骸骨みたいな顔だったんですよ。それが、いまにも襲い掛かって来そうな顔で睨み付けて来たんですから・・」
ショドロン・・?
デュポアが目を見開いた。
「なんて偶然なんでしょう・・」
彼はゲランの目をジッと見詰めた。口が少し開いている。
やがて彼は、眼を閉じて感慨深そうに何度も何度も頷いた。唇が噛みしめられ、両手の拳が力強く握られていた。
「ここに来る前に、シャンパンを買って来ようかと思いましたよ・・」
ゲランが嬉しそうに言った。
彼のこの表情を見るために、オーレ夫人の家からここに直行して来たのだ。
目の前の男には、マルケスやショドロンを逮捕する事は出来ない。
たとえ仮説が現実と符合したとしても、それを証明する証拠は、既に時間によってかき消されてしまっている・・。さらに、パリ警視庁も、ルーブル美術館も、フランス政府でさえも、いまさら掘り返して貰いたくはない汚点に過ぎないのだから・・。
「そうですね。祝杯を挙げたい気分ですね・・」
「近いうちに、またお出で下さい。妻に美味しい料理を用意させますから・・」
二人はまた硬い握手を交わした。
ゲランは再開を約束して、部屋を後にした。
ゲランも、そしてデュポアも、二人はまだ知らなかった。
この事件の裏にいたもう一人の人物の事を・・。




