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偽りの微笑(モナリザ盗難事件を巡るミステリー)  作者: マーク・ランシット


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贋作 6


 1914年2月25日 ルーブル美術館


 水曜日のルーブルはそれ程混んではいなかった。

 一時期のモナリザ人気も過ぎ、ルーブルはいつもの日常を取り戻していた。

 

 今日、ミシェル・デュポアは警官としてではなく、一人のパリ市民として入館していた。

 午前中に職務を終え、午後から休みを取った。

 エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)に電話をすると、ポール・マルタン教授はルーブルに行っていると告げられた。写生かな、と思った。


 先ずはモナリザに挨拶しようと、サロン・カレに向かった。

 聞いていた通り、部屋のあちこちににイーゼルが立てられ、鑑賞者の邪魔にならない場所で写生が行われていた。歩きながらそれらの絵を見て行くと、実物を完璧に模写しようとする人もいれば、自分なりの個性のある作品に仕上げようとする人もいた。ただ、どれ一つとっても、本物のモナリザの前では重厚さに欠けるというか、薄っぺらく見えた。それは単に歴史の積み重ねや、経年による古さから来るものではなかった。画家の持つ力量の差だと実感した。


 ラ・ベル・フェロ二エール(美しきフェロ二エール)の展示してある部屋に入ると、同じ様に模写をする人たちが散在していた。しかし、一ヵ所だけに人混みが出来ている。


 近寄ってみると、その中心にはマルタン教授がいた。

 近くのイーゼルの前に人がいないことから、模写に来た人たちなのだろうと思われた。

 口に手を当てて驚いている様な仕草の人、腕組みをしてただただ感心している人・・。

 デュボアは、その人たちの肩越しから教授の絵を覗き込んだ。

 えっ、と声が出た。

 モナリザの模写で感じた薄っぺらさが感じられない。たった今描かれている作品にも拘わらず、壁に掛けられた本物をそぎ落として、キャンバスに写し込んでいるみたいに錯覚した。


 デュボアは、人を掻き分けて教授の肩越しからその絵を見た。

 それから、そこを離れて実物を見に行く。絵に顔をくっ付けるほどの距離で実物を観察した。

 この本物を、ただ少し小さめのキャンバスに移し替えただけ・・。


「デュボアさん」

 後ろから声がした。振り向くと教授が微笑んでいた。

 教授がイーゼルから離れてデュボアの方に歩み寄る。すると、教授の肩越しから絵を見ていた人たちが、教授の絵に近寄って、デュポアが本物にしていた様に、顔をくっ付ける様に絵を見つめた。そして、本物と交互に見返しながら、違いを探そうとした。


「3年くらい通ってるけど、こんなに上手い模写は初めてだよ・・」

 そんな呟きが聞こえた。


「丁度、休憩しようと思ってたんです。軽くお茶でもどうですか?」

 教授はデュポアの二の腕に手を当てながら誘った。

「ええ、私は構いませんが、でも、絵はどうするんですか?」

「このままにして置きましょう。絵具が乾けば、もう模写は終了ですから・・」

 

 筆や絵具、そしてパレットを道具箱に仕舞うと、教授はスタスタと歩き出した。

 デュポアが振り返ると、教授のイーゼルの前では依然として数人が何か議論を始めていた。


 二人はルーブルを出て、近くのカフェに入った。

 いつもは外にテーブルが並んでいるが、今は寒くて仕舞われていた。

 空はどんよりと曇り、木枯らしが吹きすさんでいる。


「素晴らしい仕上がりですね」

 暖かい店内で、コーヒーとクレープを注文した後に、デュポアは言った。

「ええ、我ながら良く描けたと満足しています」

 教授はいつもの様に煙草に火を付けると、美味しそうに吸った。


「周りにいた人たちも感心しきりでしたよ」

「まあ、これでも美術大学の教授ですからね。それくらいでなければ、生徒たちに笑われてしまいますよ」

 教授は、真っ白な顎髭をゆっくりと撫でた。そして、こげ茶色のフレームの奥の瞳で、探るようにデュポアの顔を見つめた。

「何か良いことでも有ったんですか。いつもより表情が明るいですね・・」

「いや、特に何かあった訳ではないです。もし私の表情が明るいとすれば、教授の絵が素晴らしかったせいですかね・・」

 デュポアは、先日のゲラン氏との一件については話さなかった。

 顔に動揺が出ていない自信はあったが、教授の顔は納得していなかった。

 もしかしたら、教授には人の心が読める特別な能力があるのかも知れない。


「贋作が完成するのはいつ頃になりそうですか?」

 デュポアは運ばれて来たコーヒーに砂糖を入れて、それをかき回しながら聞いた。

「1か月ほど見て下さい。色々と試しながら完成させるつもりですので・・」

「完成するのが待ち遠しいですね」

 さっきの模写で、素晴らしい贋作が出来上がるのは間違いなかった。ただ、絵具表面のひび割れの状態だけが気がかりだった。教授は、どの様にして表面にひび割れを作るつもりなのだろうか?

 その方法を聞いたら教授は教えてくれるだろうか?

 それとも、完成してからのお楽しみと茶化すのだろうか?


 そもそも、なぜ贋作作りに協力してくれたのだろうか?

 再びあの疑問が胸を過った。

 私の気持ちを汲み取ってなのか、それとも自分なりの興味を試す実験の為なのか・・。

 どちらにしても、自分にとってありがたい事には違いなかった。


 窓の外にはリヴォリ通りの向こうに、チュイルリー庭園の緑が広がっていた。

 春になれば、華やかな花々で色づくことだろう。しかし、今はまだその時をジッと待っていた。

 リヴォリ通りを行き交う人々は、コートに身を包み、白い息を吐きながら足早に通り過ぎて行く。


「教授も学生の頃は画家を目指していらっしゃったんですか?」

 何気ない質問に、教授はチラリとデュポアを見てから、コーヒーカップを口に運んだ。

 灰皿の上の煙草から紫煙が立ち昇っている。

 周りの客たちの穏やかな会話が心地よく耳に響いていた。


「どうでしょう・・」

 そう呟くように言うと、立ち昇る紫煙に視線を泳がせた。

 思いがけない教授の反応に、デュポアは眉を顰めた。


「確かに腕には自信がありました。しかし、この世界で生き残るためには、特別のインスピレーションが必要だとも分かっていました。それを手にする為に、藻搔き続けていた様に思います・・」

 

 教授は、煙草を手に取ると、一旦吸おうとして、手を止めた。


「デュポアさんは、数学は得意ですか?」

 えっ、デュポアは教授の意外な質問に声を上げた。いえ、特にはと答える。


「数学の世界にも、数多くの天才たちが存在します。しかし、その中で輝かしい実績を残せる人間は、ほんの僅かです」

 教授は一瞬だけデュポアを見たが、直ぐに窓の外に視線を向けた。


「数学の天才たちにも二通りの人間が存在します。一つは、未知の定理に全身全霊を掛けて挑むタイプ。彼らは、無垢であまりにも純粋です。やがて、単純に見えた定理の内側には、無限の闇と罠が待ち構えていることに気が付くのです。そして、その罠に取り付かれるた人間は、帰る場所を見つけることが出来ずに、ひたすら闇の中を彷徨い続けるのです。そして、もう一つは、無垢では無くなったタイプです・・」

 しばらくの沈黙の後、教授はデュポアの目をジッと見詰めた。その顔は真剣そのものだった。


「先日お話ししたファン・ゴッホも、精神病院に入れられ、最終的には銃で自殺したと言われています・・」

 デュポアは、何も答えられず、ただ次の言葉を待った。


「著名な画家たちの中にも、不幸な最期を迎えた人間は数多く存在します・・。つまり・・」

 教授は灰皿に目を落とし、吐き捨てる様に呟いた。


「私は、純粋さを捨てて、無難な道に逃げ込んだんですよ・・」



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