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偽りの微笑(モナリザ盗難事件を巡るミステリー)  作者: マーク・ランシット


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推理 1


 1914年2月20日 パリ郊外ナンテール


 金曜日の午後3時。

 ミシェル・デュポアは、ナンテール駅からメモした住所に向かって歩いていた。高いアパルトマンの隙間からブローニュの森が見える。近くで子供たちの歓声が聞こえた。その声の方に目を向けると、通りに面した公園で子供たちがサッカーに興じていた。こげ茶色のボールを必死に追い回している少年たちの姿を見ていると、ディボアは自分も久しぶりにボールを蹴りたいなと思った。そう言えば、このところ息子たちとボールを蹴りあうこともなくなっていた。モナリザの事件も沈静化し、漸く家族の間のギクシャクも消えつつあった。こんど、二人に声を掛けてみるか・・。


 トマス・ゲランの自宅は、モン・ヴァレリアン通りにあるレンガ色の屋根のアパルトマンの中にあった。一階の玄関のベルを鳴らすと、質素だが、凛とした雰囲気を身に纏った初老の女性に迎えられた。

 書斎に通されると、トマス・ゲランはソファーに座って、何かのノートを見ていた。恐らく、あの頃の捜査メモだろうと、デュポアは思った。


「ようこそ・・。わざわざ遠くまで足を運んで貰ってすいません」

「いえ、こちらこそご自宅まで押し掛ける事になって、恐縮です」

 ゲランは立ち上がり、デュボアと硬い握手を交わした。

 デュボアは、勧められたソファーの背もたれにコートを掛け、黒のカバンを床に置いて座った。


 二人の出会いは、モナリザ盗難事件が発覚したその日だった。


 1911年8月22日、火曜日。今からおよそ2年6ヵ月前。 

 年老いたルーブルの守衛のブパルダンは、ルイ・ブルーという常連客から問いただされた。

「モナリザは、どこに行っちまったんだよ?」

 見ると、確かに壁にはフックがむき出しになっていて、いつもそこに掛けられていたモナリザの姿が見えなかった。彼は写真部に行って聞いてみたが、そこの連中には知らないと冷たくあしらわれた。仕方なく彼は上司に連絡した。上司が各部門に確認し、モナリザの盗難が発覚した。

 その日、館長であるテオフィル・オモルは休暇中だった為、エジプト館の館長であるジョルジュ・ベネディットにその旨が報告され、パリ警視庁に通報された。


 犯行からおよそ24時間が経過していて、すでに海外に運び出されている可能性があったため、デュボアは各国の警察やインターポールに協力を依頼した。そのインターポールの担当者がトマス・ゲランだった。彼は一年後に定年を迎える予定の大ベテランだったが、デュボアの要求にいつも丁寧に対応してくれた。


「結果的にイタリア警察の手柄になってしまいましたが、モナリザが無事返還されて良かったですね」

 ゲランは優しく労いの言葉を掛けたが、デュボアは、ええ、と苦笑いしただけだった。

 彼は、テーブルの上にカバンから出した手帳を置いた。

 初めての訪問で、あまり長居は出来ないと思っていた。 

 

 ドアが開いて、先ほどの女性、ゲラン夫人がお盆にコーヒーの入ったカップを乗せて入って来た。

 冷め切った身体を温めてくれそうな香りが、立ち昇る湯気と共にデュボアの鼻孔を擽った。

 テーブルにそれを置くと、ゲラン夫人はニコリと笑った。引退後に主人に会いに来たのはあなたが初めてなんですよ。歓迎しますので、いつでも遠慮なくお出で下さい。トマス・ゲランは、余計なことは言わなくてもいいという感じで首を振った。


 事件当初、ゲランの予測した犯人像は、国際的な犯罪者もしくは組織だった。犯人は莫大な報酬を目的にこの犯行に挑んだ。故に、既にモナリザはフランス国外に持ち出されている。そう考えたのだ。


 理由は2つ。


 フランスの地方都市に隠していれば、恐らく見つけ出すことは困難だろう。だが、国外に持ち出す事は難しくなる。つまり、長期間、金にならないという事だ。


 モナリザを盗んででも手に入れたいと望む人間は、並大抵の金持ちではない。その報酬はとてつもない金額になるだろう。となると、実行犯の計画は緻密に練られている筈だ。つまり、盗難後の逃走ルートも、国境での通常の手荷物検査でも絶対に引っ掛からない対応が練られていたに違いない。であるなら、既にモナリザはフランス国外に持ち出されている・・。


 デュボアの推理もほぼ同じ見立てだった。

 しかし、パリ警視庁としてはすべての可能性を捨てる訳には行かなかった。

 国外の捜査はそれぞれの国の警察やインターポールに任せて、国内での地道な犯人探しに奔走するしかなかったのだ。


 モナリザを盗んででも欲しがる人物とは・・。

 ゲラン氏とも、この点で意見を交換した。

 フランス国内にそんな人物はいるだろうか?

 私は恐らくアメリカ人ではないかと考えています。当時のゲランはそうキッパリと言った。


 デュボアはアメリカ人と接触した経験はあまりなかった。

 だからアメリカ人の情報については持ち合わせていなかった。ただ、ゲランの推理には強い説得力を感じた。彼にとって大資本家と言えば、ロスチャイルド家を最初に思い出す。また、広大な領地を所有する貴族たちも巨額な資産を所有している。ただ彼らは既に多数の名画を所有している。いまさら、モナリザに執着するだろうか?


 その他の中堅の金持ちたちはどうだろうか?

 デュボアは首を振った。彼らの中で、私財のほとんどを投げ売ってまでモナリザを手にしたいと考える人間がいるとは思えなかった。資金の面でも、メンタルやモラルの面においても・・。


「アメリカの大金持ちというのは半端じゃありません。我がヨーロッパは良くも悪くもほぼほぼ完成された地域です。しかし、アメリカ大陸は、いままさに発展の真っただ中です。鉄道、自動車、通信、科学、石炭、農業、畜産業、武器や弾薬、銀行業。昨日まで町工場で真っ黒になって働いていた連中が、突然の幸運に恵まれてあっという間に大金持ちになる・・。それが今のアメリカなんです・・」

 当時のゲランの話に、デュボアは引き付けられていた。

「突然大金を手にした人間たちはどんな行動を取るのか、美味しい食事、大きな家、旅行、美女・・」

 それは、物欲であり、直ぐに達成される。それを上回る大金を手にした者たちは、次に社会的な立場を欲する様になる。高額の馬を手にして馬主デビューをする。名立たる名画を集めて有力なコレクターの仲間入りをする。そこには、庶民には立ち入ることの出来ない特別な貴族だけの社会が存在しているのです。

「モナリザを手にすることは、名画を所有するコレクターたちの頂点に立つ事を意味します。もちろん、その事をオープンには出来ませんが、精神的に絶対的な優位に立てるのです」

 デュボアは、ゲランの説明に内心で拍手を送った。

「アメリカのロング・アイランドに住む大金持ちは、自分の邸宅に、自動車が100台入るガレージを作って自慢していますし、かのニューヨークの五番街の一画には、百万長者の2マイルという場所が在って、大理石をふんだんに使った邸宅が立ち並んでいます。その邸宅には、例外なく客室、食堂、図書館、寝室、ギャラリー、舞踏室、社交室、音楽ホールなど、100室以上の部屋があるんです」

 ゲランはインターポールの職員としてアメリカにも何度も出張していた。その言葉には説得力があった。

 

 まるで歴代の皇帝たちの宮殿の様だなと、デュボアは思った。

 つまりは、自分たちの祖先たるヨーロッパへの憧れなのだろう。

 それが、2年と少し前の二人の出会いだった。


「つまるところ、デュボアさんは、今回の決着に納得してないのですね・・」


 トマス・ゲランが突然言った。デュボアは顔を上げて彼の顔を見た。

 自然にフンと笑いが漏れる。


「・・上司も、政府も幕を引きたがっているんですがね・・」






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