彼が守りたい場所
「どうぞ」
応接室は空いてなかったからと打ち合わせ用の小部屋に案内し、ミニサイズのペットボトルをあかりと理貴の前に置いた三十半ばの男性――聞くと、理貴の秘書らしい――は丁重に頭を下げる。
そんなことをされると逆に恐縮してしまう。あかりも慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます」
あかりの様子に少しだけ口元を緩ませた秘書は、先程よりもフランクな口調になる。
「では、ごゆっくり」
「ありがとうございます。みんなにもう帰るように伝えてくれますか。帰り際に色々手配してくれて助かりました」
「いえいえ。ですが、帰る際はくれぐれもお気をつけて。……では失礼します」
ドアがパタンと閉められるまで社長の顔を崩さなかった理貴だが、二人きりになると急に相好を崩した。
「嬉しいなぁ、あかりちゃんと会えて」
先程の貼り付けた笑顔とは真逆の見慣れているニコニコ顔を見ると、すっかり酔いが醒めたあかりは冷静になることができた。
「なんなのよ、取引って」
「ごめんね。ほら、以前週刊誌沙汰になったじゃん。やっと落ち着いたのに暇なのか、また僕の女性関係をすっぱ抜こうとマスコミの人がうろついているみたいで」
理貴の説明にあかりはようやく、強引にここに連れてこられた理由を理解する。
理貴の宣言の後、あかりの予想通り連日マスコミは若手実業家社長と女優の恋愛を面白おかしく報道し続けたのだ。
否定し続ける理貴と、良いお友達ですと暗に好意があることを認める発言を繰り返す早見七星は、格好のネタだった。
やっとマスコミが二人を報じなくなったのはつい最近、おしどり夫婦と評判だった芸能人夫婦がW不倫をしているという話題にワイドショーが持ち切りになったからだ。
「やっと落ち着いたところで、マスコミ対策で業務が滞るのは少し困るんだ。今みんな忙しい時期だし」
珍しく疲れた様子でため息をつく理貴に、あかりは詫びた。
「ごめん、そんな時に来ちゃって」
理貴はニコリと笑う。
「僕個人としては大歓迎なんだよ。実際ずっとあかりちゃんに会いたかったし。でも……」
あかりは体が急速に冷たくなるのを感じる。
理貴は突き放したわけじゃない。だが、あかりは思ってしまったのだ。
――早見七星とは話題になってもいいのに、私ではダメなんだ、と。――
(だめだ、このまま居たら……)
きっと今まで溜めていた言葉を鋭いナイフとして理貴に投げつけてしまう。
あかりは、心の内を隠した表情を貼り付ける。理貴ほどではないかもしれないがあかりも仕事柄、得意な方だ。
「わかっている。せっかく話題が落ち着いたところなのに勘違いされたら困るもんね」
サラリと告げたつもりだったが、声は想像以上に硬くなってしまった。理貴はあかりの機微に敏感だ。
あかりが「違うよ」といってほしいのも読み取れたはず。
だけど、理貴が放ったのは一言だけだった。
「そうだよ」
断言する理貴はあかりの予想の範疇外だった。驚いて息を呑んだあかりに、理貴は経営者でもあかりの前で見せる顔でもない表情で淡々と説明する。
「僕は経営者だ。会社と従業員を守らないといけない。だからこの忙しい時期に、くだらないことで部下を煩わせたくない。それに、あかりちゃんは僕にとって大切な人なんだ。たとえ想いが通じなくてもね。あかりちゃんをよく知らない人間に面白おかしく書かれたくない」
きっぱり言い切る理貴の強い口調に、あかりは先程までウダウダ悩んでいた自分を恥じた。
(ここは、理貴の戦場だ……)
あかりが警察官でいることに誇りを持っているように、自分で作り上げたこの会社は理貴の誉れなのだ。
人と争うより、穏便に済ませるタイプの理貴が、早見七星との熱愛時に怒っていた理由。自分の城に土足でズカズカと入って来られたから、あの時、あんな怒りに満ちた声明を出したのだとあかりは合点がいった。
あかりは一呼吸置く。そうすると心が落ち着いく。もしかしたら会えるかも、となんの気無しに会社を見に来たことを反省した。
ならば、とあかりは周りを見回す。目的のものはテーブルの片隅に置いてあった。
「紙とペン、借りていい?」
「え、あぁ。どうぞ」
理貴はあかりの前に紙とペンを置く。あかりは自分の家の住所を書き、理貴に渡しながら立ち上がった。
「え……っと?」
突然渡された理貴は今の状況がわからず、困惑の表情を浮かべた。反対にあかりはスッキリした顔で理貴に伝える。
「帰るから後で来てくれる?」
「え? 来てって……?」
「それ、私の家の住所」
「あ……そうなんだ?」
「好きだって伝えたかったけど、ここじゃ不適切だからさ。後で言うから来てくれる?」
「えっ!?」
ガタンと立ち上がる理貴を訝しげに見るあかりは、先程自分が口を滑らしたことに気づいていなかった。怪訝そうな顔を浮かべながらも、あかりは続きを口にする。
「本当は私のほうが行くのが筋なんだけど、今日外泊許可取ってないから」
「えっ……? あっ……ちょ……待っ」
「じゃ、私先帰るね。お茶ごちそうさま」
焦る理貴をよそに言いたいことを言ったあかりは颯爽と部屋を出ていったのだった。
「えっ……ちょっと! あかりちゃん!!」
手を伸ばした理貴だが、あかりには気付かれることはなかった。虚しく閉じられたドアの音がすると同時に理貴は椅子に脱力する。
「ちょっと待って……って……好きって言った……よな?」
頭をクシャリと掻きむしる理貴の顔は、真っ赤になっていた。




