冒険したくない冒険者の冒険
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――探索者なんてクソだ。
そう思わない日はなかった。
「グリンさん、今日はもう飲み過ぎじゃないですかぁ?」
給仕の女の甘ったるい声が耳朶を打った。
俺は行きつけの酒場で度数の強い火酒をあおってた。ここのところ毎日だ。
味なんてどうでもいい、とにかく強い酒が俺には必要だった。
残り僅かになったジョッキをもち上げると、
「うるへぇ……! 次だ。次の火酒をもっへこい!」
「もー……。ママー! グリンさんに火酒のおかわり!」
俺の吐き出す息に給仕は顔をしかめる。
そして、その踵を返すとパタパタと小走りで離れていった。
カウンター越しの壁に飾られていた鏡がふと目に入った。
そこに映るのは透明感のある緑色の髪。
その髪の下にある顔は酒精で赤に染まっていた。
髪と同じく透明感のある緑色の瞳も真っ赤に充血していた。
――我ながらひどい顔だ。
冒険者としての俺の刻は、既に止まってから久しかった。
離れた席で話す酔っ払いの声が聞こえてくる。
「――時代は冒険だよ冒険!」
「あぁ違いねぇ! ただ探索者だけはやめとけよ!」
「ははは、それは違いねぇ!」
探索者――それは冒険者の中でも迷宮探索に特化した者たちの通称。
冒険迷宮と呼ばれる、地中深く続く穴の中にはこの世の夢が詰まっている。
未知との遭遇。手に汗を握る戦い。
そして、その先に待ち受ける目も眩むような財宝たち。
その宝を持ち帰った先で待ち受ける、名誉と称賛。
冒険迷宮にもぐった数だけ自分が強くなることを感じていた。
俺には力があった。素質があった。計画があった。
ライバルたちとしのぎを削り、俺は冒険迷宮の踏破記録を更新した。
誰もが俺を称えた。
当時の俺にかかれば、どんなにお高くとまった女だろうとモノにできた。
まさしくこの世の春を謳歌していた。
それが今や――
「ちょっと、グリンさん。やめてもらえます? うちはそういうお店じゃないんで」
「わ、わたし裏の掃除してきます!」
ゴミを見るような視線で俺を侮蔑するか、俺の視線からそそくさと逃げていく。
給仕たちと入れ代わるように、カウンターの奥からこの店のママが出てきた。
その手には先ほど頼んだ火酒の入ったジョッキが握られていた。
どん、と俺の座るカウンターにジョッキを置くと、
「あんたも昔はすごかったのだけれどねぇ……。いつまでも過去の武勇伝を引きずっていないで未来を向いたらどぅ?」
ママはその手に持っていたキセルをふかした。
貫録のあるママだ。彼――いや、彼女には随分と昔から世話になっている。
かつては冒険者として鳴らしていただけあって、その立ち姿も堂に入ったものがあった。
筋肉隆々で、化粧をしても隠し切れない威圧感。
女性口調で女性ものを好んで身に纏うママには、誰もが最初は面食らうものだ。
ママの吐き出した紫煙が俺の視界を妨げる。
まるで同じだ。
今の俺にはもう未来が見えなかった。
何も言葉を返さない俺に、ママは大きくため息を吐くと、再びカウンターの奥へと戻っていった。
生ぬるい火酒をぐびりと煽る。
喉をやく熱、鼻を抜けていく酒精の独特の匂い、強い酒精により脳天に走る鈍い痛み。
過度に摂取した酒精により、肌はとっくに汗ばんでいた。
ドクン――。
心臓がはねた。
まただ、また来やがった。
酒精の汗とは違う、冷たい汗が額に浮かぶ。
ドクン、ドクン――。
俺はそれに気づかないフリをする。
そんな痛みなどしらない。関係ないと。
それでも締め付けるような痛みは、俺を放っておいてはくれなかった。
心の臓からじわりじわりと、ただ確実に少しづつその痛みは強くなる。
ドクンドクンドクンドクン――!
酒におぼれることも許されない、激しい痛みが俺の内側から襲い掛かった。
俺は歯を食いしばってそれに耐える。
頬をつたった汗が顎から滴り落ちる。
世界が歪んで見える。
歪む視界の中で地面がせり上がり、今まで見ていた世界が反転する。
違う――俺が地面へと倒れているのだ。
ジョッキが酒場の床を叩き、中に入った液体がぶちまけられた。
床を濡らす液体に顔がつかる。
何も感じなかった。暑さも冷たさも。痛みさえも。
「きゃああああーーッ!!」
給仕の悲鳴がどこか遠くに聞こえた気がした。
他の席に座っていた野郎どもをざわめているのが感覚的にわかった。
足音が駆け寄ってくる。
「大丈夫ッ!? あなたッ! ねぇ! ――この中に冒険者の方いらっしゃいます!?」
「どうかしたのか?」
「彼は探索病なのよ。この人を早いとこ冒険迷宮へ放り込んできてッ! 今日のお代は全部この人につけておくわ!」
「わかった!」
体が揺さぶられる。
俺はどうやら背負われているらしい。
朦朧とする意識の中で、ママさんの声だけが響いた。
「グリン。あなたもう出禁よ」
はは、それは困った。
また行きつけの店を探さなくちゃ、な。
目頭が熱くなる。歪んだ世界が滲んで見える。
探索病に侵された者たちにはそれ特有の発作があるため、探索者の立入を禁止しているところも少なくないというのに。俺たちは――俺は世界のつまはじきものだった。
チカチカと光りながら揺れる世界の中で、俺は俺を蝕むこの病魔を恨んだ。
――探索病。
それが俺の春を終わらせたすべての元凶。
冒険迷宮にもぐり続けた者たちが辿る俺たちの冒険の終点。
探索病とは重度の魔素中毒症状だ。
冒険迷宮は概して魔素が地上よりも地下世界よりも濃い。
冒険迷宮にもぐることで、時間と共にその濃密な魔素をその体へと取り込む。
魔素を取りこんだ体は強くなる、身体的にも魔力的にも。
魔素は深くもぐればもぐるほど濃くなり、それを取り込んだ体もまた強くなる。
そこに大きな落とし穴があった。
繰り返し冒険迷宮へともぐることにより、身体が冒険迷宮の魔素に依存してしまうのだ。
魔素に依存した体は濃密な魔素への中毒症状を起こす。
他の依存との唯一の違いは、魔素を取り込むことを止めると、その体は衰弱死してしまうということ。
しかし、中毒症状を発症した体は浅層の魔素では満足できず、中層、下層へともぐらなければならない。
そして、それはより濃密な魔素を取り込むということであり、中毒症状は進行する。
探索病と診断されて以来、あれだけ夢をもって挑んできた探索も、絶望と共に生きるために最低限の魔素を摂取する作業へと変わった。
そして、それは今も続いていた。
あのころは明日が楽しみでしかたなかった。
どうやって攻略しようか、どんな装備で行こうか、どうやって強くなろうか。
それが今や明日が無事にくるかどうか怯える毎日。
激しい痛みに襲われながら、定まらない視界の中で流れていく景色。
冒険迷宮へ辿り着いたのか、途中からその景色が暗くなる。
いくらか気分がましになる。
振り落とされるように冒険者の背中から下ろされた。
地面に落ちた衝撃が俺の体を駆け抜けた。だが、痛みは感じなかった。
「おい、ついたぞ! ったく。これだから探索者は。お前らが人様に迷惑をかけると、俺たち冒険者まで同じ扱いを受けるだろうが」
冒険者の男は動きの取れない俺の体を蹴り飛ばした。
本気ではなかったのだろう。痛みはなかった。
心臓は痛く、動悸も止まないがずっとマシだ。
おもむろに顔を上げると、冒険者の男はあたりを見渡していた。
俺も釣られて周りを見るが今の時間は誰もいないようだった。
冒険者の男の手が俺の懐へと伸びた。
「――はッ。探索者の連中は金だけは持ってるんだよな。こんなもの迷宮に憑りつかれたお前たちには必要ないものだろ」
引き戻したその手には貨幣の入った巾着袋が握られていた。
「これは運賃として貰っておくぜ」
そう言うと、冒険者の男は笑いながら立ち去って行った。
探検病の発作を発症した者をカモにする。よくある話である。
その背中が見えなくなる頃には、どうにか動けるまでに回復していた。
俺は鉛のように重い体を引きづるように、冒険迷宮の下層へと足を進める。
等間隔で設置された松明の明かりが冒険迷宮を照らしていた。
浅層では途中ですれ違う者もいたが、俺の状態を見ると誰もが俺を避けた。
魔法協会が、探索病が重度の魔素中毒だと声明を出すまで、その病は探索者同士で罹患する流行病と信じられていた時期があったからだ。それゆえに――探索病。
冒険者はジンクスを信じるものだ。
『利き足から冒険迷宮へ足を踏み入れる』『雨が降った日にはもぐらない』『宝箱に入っているお宝は一つ残す』。そう言ったジンクスの例は枚挙にいとまがない。
『探索病の発作を発症している人には近づかない』
これもまた一つのジンクスだった。
壁についた手で体を支えながら、震える足で一歩、また一歩と進む。
通いなれた道。下層への生き方は体が覚えていた。
冒険迷宮の浅層は、明確な深さの決まりがあるわけではない。
その深さ、長さは冒険迷宮によりマチマチである。
しかし、魔法協会によって管理された冒険迷宮では、浅層の終わりは明白であった。
視線の先では、それまで等間隔で用意されていた松明がなくなった。
それが浅層の終わりと、中層の始まりを告げていた。
冒険迷宮の闇が視界を包み込む。
「<闇夜を見通す瞳>」
震える声で魔法を詠唱すると、そのまま歩み続ける。
中層以下の攻略には暗視、または光源の魔法、魔具が必須だった。
何時間歩いたのだろう。歩き続けているのだろう。
中層をしばらく歩き続けていると、いつの間にか胸に走っていた痛みも和らいできた。
それでもまだ鈍い痛みと、強い倦怠感が体に残っている。
やがて、下層へと辿り着いた。
魔素の質が変わるのを肌で感じる。
何も知らなかったころは、この肌をひりつかさせる感覚に興奮していたことも懐かしい。
大きく深呼吸すると、
「だいぶ感覚が戻ってきたな。どうしようか。もう少しもぐって、魔素を蓄えてから帰るか」
探検病の発作の間隔がまた一段と短くなった。
半日ほど滞在するか、高位の魔物をぶっ殺して彼らの魔素を吸収する必要があった。
俺が魔物たちを屠りながら、確かな足取りでさらに足を進めていると、
ちりん――。
どこからともなく鈴のような透き通った音が聞こえてきた。
「こんな下層で鈴……?」
警戒しつつ足を進める。
下層からは人の理から外れた世界が広がっている。
地上と同じ摂理が通じると思ってはいけない。
俺は道中で殺した魔物の牙を持つ手に力をいれた。
魔物をぶっ殺しながら、足を進めていると見覚えのない細い道へと出くわした。
「また新しい道ができているな……」
冒険迷宮は日々その姿を変える。
だからこその冒険。だからこその迷宮。
ちりん――。
鈴のような音はその道の奥から響いていた。
「罠か……?」
知性を有する魔物による罠を疑い、逡巡するが、
「どうせ、俺の人生は遠からず探索病で終わるんだ」
俺は進むことを決めた。
踏み出した道は細く狭い。
人が一人通れるくらいの幅しかない。
予想していた魔物たちからの攻撃はなかった。
道の先には洞窟が広がっていた。
青白く発光している湖と、その中央に浮かぶ小さな陸地。
そして、何より目を引いたのが、
「なんだ、あれは? ――花?」
洞窟の天井からは、大きな蕾が逆向きに生えていた。
「怪しい。極めて怪しい。うーん……<照明>」
魔力の光源を花へと投げつける。
光は湖面を照らし、中央の陸地に辿り着くと、その頭上の花を透かした。
「蕾の中に人? いや、人型の魔物か?」
光は蕾の中で胎児のように丸くなっている影を浮かび上がらせた。
探索者の定石に従うなら、見なかったことにして引き返すべき。
好奇心は人を殺すのに十分だ。
頭ではわかっているが、どうにも蕾に目が奪われる。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ……。中身を見てヤバかったら逃げればいいんだ」
小声で自分にそう言い聞かせると、
「おりゃッ!」
手にした魔物の牙を蕾の根元へ勢いよく投げつけた。
魔法で強化した体から放たれた牙は、弧を描いて狙い通り蕾の根元に当たると、そのまま蕾を刈り取った。
「あっ……」
そうすると、逆さまに生えていた蕾が落下するのは自明の理で。
どしんと鈍い音を立てて、蕾は湖の中央に浮かぶ陸地へと落ちた。
無残に潰れた蕾から液体があふれ、湖につたう。
「……もしかして、やっちまったか?」
生唾を呑み込んでつぶれた蕾を見守っていると、
「痛ったぁぁぁああああッッッッーーーー!!」
蕾の中から洞窟に反響するほどの悲鳴が響いた。
洞窟が揺れ、パラパラと天井から落ちた石が湖に波紋をたてた。
その声の大きさに俺は思わず耳を塞いだ。
しかし、耳を抑えながらも蕾からは注意を逸らさない。
潰れた蕾の中から現れたのは、一人の美しい少女だった。
発色のよい白みがかったピンク色の髪、形のよい乳房、引き締まった腰つき、盛り上がった臀部。
一糸まとわぬその姿に、思わず息が漏れそうになることを意識して我慢しなくてはならなかった。
「誰ッ!? こんな乱暴な起こし方をしたのは――?」
視線の先、陸地で立ち上がった少女は、頭を抑えながら周囲を見渡している。
目を凝らして彼女を観察する。
――人、ではなさそうだ。人語を解する魔物? 参ったな。嫌な予感しか
「――お前か?」
気がついたときには、彼女の顔が俺の目の前にあった。
鼻と鼻が触れ合いそうな距離。彼女の吐く息が俺の頬を撫でた。
ただの瞬き一度で、彼我の距離はなくなっていた。
少女は湖の上に立って俺を見つめていた。
彼女の星型の特徴的な瞳孔へと意識が吸い込まれそうになる。
冷汗が背中をつたう。
――怪物の類か。
視界の隅で彼女の耳飾りが目についた。
それは見かけたことがない小型の鐘鈴の形をしていた。
「何か言ってよ。それとも声が聞こえていないの? 言葉が分からないの?」
どう答えるべきか。
油断はできないが、少なくとも敵意はなさそうだ。
彼女から突如として背筋が粟立つような殺気が漏れる。
「話が通じないなら――殺そうかな」
「聞こえてるよ。ちょっと驚いていただけだ」
俺が言葉を返すと、その殺気はすぐに霧散した。
少女は、
「よかったよかった」
花が咲いたように笑った。
視線を少しでも下げると、彼女の瑞々しくも美しい裸体が見える。
しかし、彼女の美貌を楽しむ余裕は今の俺にはなかった。
この場をどう乗り切るか。ただそれだけを考えていた。
俺は意を決して口火を切った。
「お前は何者だ?」
「私の名前? 私はクロウェア。お前は?」
名乗るぐらいには話をする気はあるようだ。
「俺はグリン」
「そ。よろしくねグリン」
「あ、あぁ」
まるで人と変わりがない。
出会う場所さえまともであったら、勘違いしていたかもしれない。
それに加えて、彼女が湖の上に立っていなかったら。
「それでお前は何者だ?」
「クロウェア」
少女はむすっとした顔を浮かべた。
「え?」
「人の名前を尋ねておいて、”お前”は、礼儀がなっていないんじゃない?」
得体の知れないやつに礼儀作法を説かれた。
でも、確かにその通りだった。
「……それもそうだ。すまない。それでクロウェアは何者だ?」
「さあねー?」
彼女は笑ってそのか細い首を右へと傾げた。
ぶっ飛ばすぞ。
いけない。我慢だ。
彼女の高速移動のからくりがわからないうちは、敵対行動を取るべきではない。
「クロウェアは人か?」
「さあねー?」
彼女は笑いながらそのか細い首を今度は左へと傾げた。
ぶっ飛ばすぞ。
いけない、いけない。我慢だ、我慢。
「クロウェアは人に仇なす存在か?」
「さあねー?」
彼女は笑いながらそのか細い首を中央へと戻した。
「ぶっ飛ばすぞ」
俺は自分が思う以上に気が短いのかも知れない。
「ふふふ、取り繕った顔よりそっちの方がずっといいわ」
彼女は俺の悪態にも気を害した様子はなくただ笑っていた。
彼女がかわいらしいその笑みを消すと、上目遣いで覗き込んでくる。
「ねぇ――私と取引しない?」
「しない」
即答だった。
そんな俺の反応に目の前のクロウェアは頬を膨らませて、むすぅ、とした表情を浮かべる。
彼女の仕草が、見た目通りいちいち少女らしいことが、俺の心を惑わせる。
「えー」
「だいたい、こういう奴と結んだ契約はろくでもない結末を迎えるのがお約束だ」
巨万の富を願った者が代償に家族を失った話。老いず朽ちない体を願った者がスライムに変えられた話。万物を黄金に変える力を願った者がすべてを黄金に変えてしまい餓死した話。美しさを願った者がその美しさゆえに孤独や不安に押しつぶされた話。偉大な支配者を願った者がその権力ゆえに暗殺された話。未来視を願った者が避けられない悲劇を見て絶望する話。豊作を願った者が作物の急激な成長で管理不能になり作物がすべて腐ってしまった話――その例は掃いて捨てるほどある。
いくつか例を挙げ、
「――だから、その話にはのらない」
俺はそう言い切った。
少女は眉を困った顔を浮かべると、
「それは困る。じゃあ、せめて私の願いを叶えてくれない?」
「はぁ?」
なにが、じゃあ、なんだ。
全然意味がわからない。俺がそれを叶える義理もない。
「私の願いを叶える代償に、私がグリンの願いを叶えるよ。なんでも……ではないけど、できるだけ! ね! ね!」
手を合わせて頼み込んでくる。
彼女の見た目相応の気軽い雰囲気がどうにも調子を狂わせる。
「なんなんだお前は……」
かわいい、って言うのはそれだけで有利だ。
どうしても話を聞いてしまいたくなる。
それは頭をぽりぽりと掻くと、
「いちおう聞いておくが、お前の願いはなんなんだ?」
聞くだけ聞いてみるか。
それぐらいの軽い気持ちだった。
彼女は俺の反応に満面の笑みを浮かべると、
「冒険迷宮の踏破」
そう言ってのけた。
「……それは、この冒険迷宮か?」
「うん」
大小数えれば冒険迷宮の数は数えきれない。
中には魔法協会が管理できていない野良迷宮だって存在する。
「大陸でも指折りの深さを誇るこのコラの冒険迷宮か?」
「うん!」
かつて力を合わせて世界を救ったとされる、勇者と王様たちが作ったと言われるのが、この冒険迷宮『コラ』。
コラは冒険迷宮の中でも最も深い迷宮として知られており、まだ誰もその最深部に到達した者はいない伝説の迷宮である。
「……それは残念だったな」
「どうして?」
クロウェアはかわいらしく首を傾げた。
「俺の願いはクロウェアの反対にある」
俺がクロウェアの願いを叶えることはない。
なぜなら――
「俺は冒険迷宮を――探索者をやめたいんだよ」
「うん? それで?」
彼女は傾げた首を反対に傾けた。
どうやら俺の意図が伝わっていないようだ。
「だから、探索病――つまり魔素中毒になるから深層へはもぐらない、って言っているんだ。俺の願いは不治の病である魔素中毒を克服して、陽の下で生きることだから」
それこそが俺の願い。もう一度、もう一度だけ人生をやり直したい。
いつ始まるかわからない発作に怯えて――死の影に怯えて暮らす生活から抜け出したい。
俺にとって明日とは希望だった。探索病と診断された日から俺には明日が見えなかった。
そう言い切ったのにクロウェアは変わらず笑顔だった。
笑顔のまま、
「じゃあ、問題ないね」
「人の話を聞いてたか?」
今度は俺が困った顔をする番だった。
「魔素中毒でしょ? 私、それならなんとかできるわ。
よかった……。グリンの願いが私の叶えてあげられる願いで」
クロウェアはこともなげに笑ってそう言い切った。
「は?」
「え?」
俺は彼女が言っていることが理解できなかった。
「本気で、言っているのか……?」
「なんで私が嘘をつく必要があるの?」
彼女は俺が理解できていないことが理解できていないようだった。
「信じられない」
「証拠を見せればいい?」
大陸一の魔法組織である魔法協会と、大陸一の医学の知識を有するパイエオン教。
二つの歴史ある組織をもってしても、不治の病と判断されたのが探索病だ。
疑う俺を前に彼女は自信満々の様子だった。
「じゃあ私を地上まで連れていって。大丈夫よ。人を取って食べたりなんかしないから」
渋る俺であったが、結局押し切られる形で彼女と地上へ戻ることにした。
それだけ俺にとっては探索病の治癒は抗えない誘惑だった。
俺がクロウェアと出会い、地上に連れて帰ってから三日がたった。
彼女は実際に人を取って食べるようなことはしなかった。
文化の違い? から多少問題行動を起こしたがそれも悪気があってのことではなく、許容範囲だった。
それどころか彼女は恐るべき速さで地上の生活に溶け込んでいた。
「本当に、本当に治せるんだろうな?」
俺は柄にもなくドキドキしていた。
俺と探索病の付き合いは長い。
その付き合いから、発作の間隔、傾向というのもある程度はつかめていた。
魔素が体から抜ける感覚、どのくらいの感覚になれば発作が始まるのか。
その感覚から言うと、最後の冒険迷宮入りから三日目の今日に発作は起きる可能性が高かった。
楽しさ半分、恐ろしさ半分。
そんな緊張感を味わうのは実に久しぶりだった。
少なくともここ十年は感じていなかった感覚だ。
ベッドに腰かけるクロウェアを見つめると、
「うん。大丈夫だよ…………たぶん」
そこは自信をもって言い切って欲しかった。
「……もうここまできたら、何も言わない。ただ、もし治せなかったら冒険迷宮まで連れて行ってくれるか?」
「それは任せて」
それならいい。生きてさえいればなんとかなる。
死ぬこと以外かすり傷だ。
いつもだったら探索病の発作を抑えるために冒険迷宮へと潜っているころ。
俺は発作に備えて、宿の部屋にクロウェアと閉じこもっていた。
探索病の発作の痛みは恐ろしい。
どんなに体を鍛えても、どんなに魔法で体を強化してもその痛みは癒せない。
探索病の発症者は、いつ起こるかわからない発作へ日夜怯えることになる。
発症者にできることと言えば、酒におぼれてその恐怖を誤魔化すことだけ。
何もしていないのに、ただ椅子に座っているだけで喉が渇く。
机の上のコップに入った水を一息で飲み干すと、クロウェアが手ずから水差しで水を注いだ。
俺は恐怖を誤魔化すように口を開く。
「クロウェアはいつからあの下層にいたんだ?」
「さあねー?」
相変わらず捉えどころのない少女だった。
名前以外は年齢も種族も、なぜ下層に、なぜ蕾の中にいたのかも語らない。
もしかしたら彼女もまた知らないのかも知れない。
「そう言えば聞いてなかった。冒険迷宮の最深部には――」
――何があるんだ。
俺はそう言葉を続けることができなかった。
ドクン――。
心臓がはねた。
やってきた。探索病だ。
体の奥底から俺を犯しにやってきた。
ドクン、ドクン――。
体を折り曲げて机に倒れかかると、その拍子に水の入ったコップが倒れた。
コップの中に入っていた水が机の上に、そして床へと流れる。
痛みがこみ上げてくる。じわじわと、だけど確かに。
「う、うぅ……」
「これなら――」
両の頬を柔らかい感触が包んだ。
泳ぐ視界で、彼女の手が俺の顔をもち上げるのがわかった。
彼女の顔がちかづいてくる。
そして――
「ん……」
――二人の唇が重なった。
久しぶりの口づけは優しかった。
彼女の柔らかい舌が、俺の口の中へと入ってくる。
二人の舌が絡み合う。
クロウェアの舌はなんだか甘い味がした気がした。
ドクン、ト、クン……ト……クン…………ン……――。
痛みが消えた。
彼女がゆっくりとその顔を離した。
二人の離れていく唇には透明な橋がかかったが、それもすぐに切れて見えなくなる。
「どう?」
「……驚いた。痛みが消えた」
どれだけ大金をはたいて高名な医者に見てもらおうが、どんなに高い魔法薬を試そうが消えなかった発作の痛みが、彼女との口づけで消えていた。
色々と彼女に聞きたいこと、尋ねたいことはある。
だが、今はこの恐怖から解放されるかもしれない。
その希望が見えただけで、涙がでそうなほど嬉しかった。
滲む視界の中でクロウェアが微笑み、
「よかった。これで信じてくれた?」
十分だ。探索病が治るかもしれない。
その欠片を感じられただけでも今は。
得体の知れない彼女だが、俺には彼女に賭ける理由ができた。
この日から俺の刻が再び動き出す。
クロウェアと共に。彼女の見せた希望のために。
もう一度始めよう。
冒険をやめるための冒険を、冒険者グリンの冒険を。
やってやろうじゃないか。冒険迷宮の踏破とやらを。
――明日を生きるために今を命懸けで冒険しよう。
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よろしくおねがいします。