第1章①
「あー、面倒くさ、」日吉カコは毒突くように言って、大きく息を吐く。「なんで、こう、全く!」
カコは柊木道場の冷たい床にごろんと寝転がり、脳みそを冷やす。
両手を股の間に挟んで丸くなる。
柊木道場は女学院に隣接している剣術の道場で、そこの一人娘の柊木ユナはクラスメイトでカコとはやんごとならない関係なので、道場の合鍵はカコのポケットにいつだって入っている。面倒くさがりのカコにとって道場はうってつけの隠れ場所だった。
「あー、タバコが吸いたい、」吸ったことなんてないけれど。横にごろんとなり左半身を下にする。年中鼻炎で調子の悪い鼻をすする。「なんで私ばっかり」
考えれば考えるほどイライラしてしょうがない。
平穏で、平和で、まったりゆるゆるな、女学院ライフを送りたいだけなのに……。
思えばこれまでの女学院生活、一日だって平穏な日なんてなかった。
遡ること1年半前の入学式。
「へぇ、カコちゃんって言うんだぁ、」ぶらぶらと一人で校内を散策していたら急に上級生に声をかけられた。新入生の胸元には華と一緒に大きな名札が装着されていた。「かわいいじゃん、どこ中出身?」
カコはビクッとなって立ち止まり、その人をまじまじと見ながら「……はぁ?」と返答することしか出来なかった。
綺麗な人。
でも、金髪で、水色のカラーコンタクト入れていて、バッチリメイクで、胸元が大きく開いていて、なんだか色々だらしなさそうな人。
よって、警戒せざるを得ない。
「やぁね、」その人はカコに近づきながら笑顔を作り、手のひらをこちらに向けてひらひらさせる。「睨まないでよ、取って食おうって言うわけじゃないんだから」
「睨んでませんよ、」カコは真顔で言う。「目つきが悪いんです、生まれつきっす」
「彼氏いるの?」その人は不躾に聞いてくる。
「……いませんけど」
「じゃあ、」と言ってその人は急に間合いを詰めてカコの耳元で囁く。「彼女は?」
「はあ!?」急に耳元で囁くから、くすぐったくて、思いのほかその人の声が色っぽくて、カコは大きくのけぞった。「か、彼女ぉ!?」
「そ、彼女、」その人はにんまりと妖艶なスマイルを作る。「ここは男子禁制の女の園、女学院なんだから彼女が一人二人いたって全然不思議じゃない、変じゃない、っていうか普通?」
「……ふ、普通なんすか? っていうか、私、……レズじゃないし」
「ちゃうちゃう」その人は人差し指を立てて大きく首を振る。
「チャウチャウ?」
「レズとか、バイとか、トランスジェンダーとか、そういんじゃなくてさ、この場所、この女学院にいる間は違ってくるんだわさ、みんな愛し愛され恋をするんだわさ」
「はあ、だわさ? ……ってなんですか?」
「要するによ、」その人はカコの鼻に向けてビシッと指差す。「みんな、この場所の匂いにやられてしまうのよ」
「は? 匂い?」
「そう、匂いよ、」その人は両手を広げ、鼻で大きく空気を吸う。「ここだけの匂いがあるでしょ?」
「……私、年中鼻炎なんですよね、」カコは完全に、面倒くさいモードに入っている。カコは目つきの悪い目でその人を見る。「……っていうか、もういいですか?」
「つれないね、カコちゃん、」その人は声音を変えて言う。「……まあ、いずれにせよ、もう私からは逃げられないんだわさ」
という不穏な予言をその人の口から聞いてからカコの女学院ライフは平穏とはほど遠いものになってしまった。
あのとき、あの瞬間に、尾瀬ヒカリコ、とすれ違わなければ……、カコは何度も後悔している。
しかしいずれにせよ、カコはどこかで彼女に捕まってしまっていたような気がするし、カコの女学院への入学が決まった段階で、すでに宿命的に決定付けられていたのかもしれない。確信的なことは、ヒカリコからはどうしたって逃げられないということ。
でも。
隠れ場所くらいはあったっていいでしょ?
「あ、カコちゃんってば!」ユナの甲高い声が道場に響く。「やっぱりここにいた!」
「……すぴー、すぴー」
「もう! 寝たふりしてないでいくよ!」ユナはぽこぽことカコの背中を叩いて強引に起こそうとする。
「……あー、はいはい、分かりましたよぉ、」カコは頭を掻きながら起き上がり、伸びをして目つきの悪い目を見開く。「……で、今日の卍は?」