ボクサツ君は突き刺さる
「良いいいいいい。度胸だああぁ」
牙王は、ボクサツ君へと歩きだす。牙王の目の前には、逃げそびれた早苗ちゃんが立ち尽くして震えていた。
「あ、あの──」
言いかけた早苗ちゃんの頬を、牙王の太い腕が打ち据える。
鈍い音が響き、早苗ちゃんがボーリングのピンみたいに弾き飛ばされた。彼女は三メートルも離れた植木にぶち当たり、落下して動かなくなった。意識を失ったのだろう。
「お……お前!」
有子の連れの三人の男子高校生達が、牙王の狼藉に怒りを発して取り囲む。彼らは拳を振り上げて、一斉に牙王に襲い掛かった。
「バ……いけない、逃げるんだ!」
ボクサツ君が叫び、駆けだした。が、牙王に辿り着くよりも先に、牙王は男子高校生三人を蹴散らし、跳ね飛ばす。男子高校生は何メートルも飛ばされて、咳込んでのたうち回る。みんな酷くやられていて、とても立ち上がれそうな感じではない。
「……気に入らないな」
酷く穏やかな口ぶりで、ボクサツ君が呟いた。
「なああにがあああ、気に入らないんだあああ? 無関係なあああ奴をおおお殴ったことかあああ」
二人は互いに歩み寄り、殴り合いの間合いに達する。そこで足を止め、無言で睨み合う。空気が、ひりひりとした質感を孕む。誰も言葉を発しない。私たちは固唾を呑んで、ただ二人を見守っていた。
私は内心、ボクサツ君に頼ったことを後悔していた。見た感じ、ボクサツ君の身長は一七◯センチ程度しかない。対する牙王は一九◯センチを超える長身で、鍛えられた腕の太さはボクサツ君の腰回り程もある。まるで大人と子供だ。到底、ボクサツ君が勝てるとは思えなかった。
突然、牙王が右腕を振り抜いた。
ボクサツ君はふわりと腕を潜り、かわす。その流れでとことこと歩き、牙王と背を向け合ったまま、足を止める。
「君は女の子に手を上げた。それが気に入らない」
ボクサツ君の声が、薄く怒りを孕む。
「気に入らない? くはははっ! なんだああぁ? お前はああぁ武士か何かかあ? 女を殴って何が悪い。時代遅れも大概にしろおおっ。気に入らなければあああ、どうす……」
言いかけて、牙王がピタリと動きを止める。牙王は、静かに自らの右腕を上げて掌に視線をやった。右手人差し指が、歪に、外側に折れ曲がっていた。
「うおおおあああ! ボクサツ君んんん。何をしいいたああんだあああ!」
牙王は半狂乱になり、再びボクサツ君に襲い掛かった。丸太みたいな腕を滅茶苦茶に振り回し、合間に蹴りをも繰り出しまくる。
そんな怒涛の攻撃に、ボクサツ君は顔色を変えなかった。ゆるりと、流動的な体捌きで攻撃を避けまくる。命中寸前でギリギリ身を逸らすその動きは、まるで、古い中国映画に登場する達人のようだった。
牙王の攻撃は止まない。
ボッ! と拳が唸り、連続で空を切る。一撃でも当たれば即死だろう。ボクサツ君は受けを使わず、すべての攻撃を体裁きのみで回避している。どの攻撃も、当たりそうなのに当たらない。この状況で、かなり力が抜けている風だ。それは酷くダルそうな動きであり、なんというか、戦っている感じがしなかった。
私には、その事が少し不可解だった。格闘技の試合を見れば解る。プロの格闘技の選手でさえ、カンフー映画の達人のような動きはしない。それが不可能であり、実戦的ではないからだ。ああいった攻防は、創作だからこその物なのだ。
と、私は考えていたのだが、現に目の前ではそれが起こっている。私は、この現実をどう解釈したら良いか解らなかった。
そのまま、ボクサツ君は反撃もせず、一分程も攻撃を避け続けた。やがて牙王が息を切らし、自らの膝に手を衝いて大きく肩を揺らす。ボクサツ君は攻撃を仕掛けるでもなく、その様子を黙って見つめていた。
もしかして、時間を稼いでいるの?
私はやっとボクサツ君の狙い悟り、公園の隅へと目をやった。公園の入り口辺りでは、杏ちゃんと可憐ちゃんとが、こそこそ結界のしめ縄を張っている。
あと少しで、包囲網が完成する!
「うわあああ! クソ野郎おおお!」
突然、怒声が上がる。有子が牙王へと突進して、棒きれで背中を打ち据えた。だが、不意打ちの攻撃は少しも効いている様子がない。棒きれも簡単にへし折れてしまった。
「あ、んた……なんなのよ」
有子が、恐怖を滲ませて立ち竦む。その首を、ぐっと、牙王が掴む。
「おっと、動く、なあああ」
駆け出そうとしたボクサツ君を、牙王が眼で押し留める。有子は盾にされ、首吊り状態で足をバタつかせている。ボクサツ君は人質を取られ、動きを止めざるを得なかった。
「俺にはあぁぁ、分かるぞおぉ。この女はクズだああぁ。お前はああ、女ならクズでも助かるのかああぁ?」
牙王の口角が不敵に上がる。
次の瞬間、牙王は、有子を高々と放り投げた。ボクサツ君は慌てて走り、ギリギリ有子の体を受け止める。
どかり、と鈍い音。
ボクサツ君の隙を突き、牙王が背中に蹴りを叩き込んだのだ。ボクサツ君はモロに蹴り飛ばされて六メートルも宙を舞った。華奢な身体が地面を転がって、ボクサツ君は少量の血を吐いた。そこに間髪いれず牙王が駆け込んで、強烈な蹴りを叩き込む。ボクサツ君は再び蹴り飛ばされて、五メートルも先の植え込みに突き刺さった。
私は悲鳴を上げた。
「あぁっはっはっはああぁ! そんなヒョロヒョロした体で大口をお叩くからだあぁ」
牙王はボクサツ君に歩み寄り、首根っこを掴んでぶら下げる。ボクサツ君は、顔面蒼白で意識を失っていた。
「なんだぁあぁ? もおう、くたばってるじゃないいかあ」
牙王はボクサツ君を高く抱え上げ、植木に向かって投げ飛ばす。ボクサツ君は強かに木に打ち付けられて落下して、もう、ピクリとも動かなかった。
絶望が、私の心臓を締め上げる。思わず息を止めていることにさえ、気がつかなかった。
「うわああぁ! ボクサツ君!」
可憐ちゃんが悲痛な声を上げて石ころを拾う。そのまま投げつけるが、石は牙王の背に跳ね返り、虚しく地面を転がった。可憐ちゃんの怒りを嘲笑うかのように、牙王の狂気を孕む目が、ぎょろりと動く。
「さああてとおおお」
牙王は、公園をぐるりと見まわした。
「決めたあ。次はあああ、お前えだああぁ」
牙王は、ベンチに横たわる葉を指差した。
一方、私は大慌てでボクサツ君に駆け寄って、華奢な身体を抱き起こした。でも、ボクサツ君は反応しない。息をしている気配もない。数回頬を叩いてみるが、やはり目を開けない。そこで恐る恐る、胸に耳を当ててみる。
鼓動が、止まっていた。
「嘘……でしょ」
私はボクサツ君を横たえて、心臓マッサージを施した。私のせいだ。彼を巻き込んだから。私がなんとかしなきゃ!
必死で胸を押し続け、次に、人工呼吸を──。
一瞬、躊躇してしまった。
ボクサツ君は、どちらかといえば美男子の部類に入る。中性的で、まるで女性のように優しげな顔立ちをしてはいる。だからといって、気軽に唇を重ねられる訳じゃない。
だが、私は腹を括って口に唇を重ねた。そっと空気を送り込み、それを繰り返す。そう。これはあくまでも、緊急時の医療行為なのだ!
がっ……! と、ボクサツ君の口から声が漏れる。やがて、彼はゆっくりと目を開けた。
「よかった。死んでなかった」
思わず、視界が滲む。
「うさぎ、ちゃん。痛……」
ボクサツ君は呟いて、ゆるりと身を起す。彼は肉体の損傷を確かめながら、公園の奥に目をやった。
彼の視線の先では、葉が胸倉を掴まれて、高く持ち上げられてもがいていた。可憐ちゃん、杏ちゃん、清道君の三人は、牙王を取り囲み、必死に投石を繰り返している。皆、葉を助け出そうと頑張ってはいるが、牙王は投石をものともしていない。
「動ける? お願い。葉を助けて」
私はボクサツ君に縋りつき、懇願する。
ボクサツ君は、静かに溜息を吐いた。
「……気に入らないね」
「気に入らないって、何が?」
私が問うと、ボクサツ君は静かに葉を指さした。
「君は、弟が大切かい?」
「た、大切よ。大切に決まってるじゃない!」
「嘘だね」
「え? 嘘って──」
「──君は昨日、弟を見捨てたじゃないか。この世界のなにもかもを見捨てて置き去りにして、自分一人だけ死んで楽になろうとしていた。今更、弟が大切だなんて筋が通らないよ」
「そ、それは……そうかもしれない。でも、今はボクサツ君にしか頼れないの。解るでしょ? お願い、します」
「だ、か、ら! そんなに大切なら、自分でなんとかしてみれば良いじゃないか。死ぬのは怖くないんだろう? たった今大切だと言った言葉も、昨日、死ぬと決意した気持ちも、どっちも嘘だったのかい?」
ボクサツ君の眼には、冷淡な、でも強い意思があった。それが軽蔑なのか、怒りなのかは分からない。痛みを感じるような眼光に射抜かれて、私は言葉を失ってしまう。
本気だ。この人は本気で言っているのだ。
手が、震えだす。
「嘘じゃ、ない」
私は、呟き、ボクサツ君から手を離す。ボクサツ君は私の腕から滑り落ち、地面で頭を打った。
そして私は立ち上がる。
「嘘じゃ、ない!」
近くの棒きれに手を伸ばし、引っ掴んで走り出す。棒切れは長く、重い。それを引きずりながら、牙王へと突進する!
「うわああああ! 葉を離せえええ!」
叫びながら、思い切り棒切れを叩き込む。攻撃は、綺麗に牙王の脇腹を捉えた。
鈍い、ゴムタイヤを打つような感触だった。
牙王は、ゆっくりとこちらに振り向いた。全く、効いている気配がない。
太い腕が振り抜かれ、頬に痛みを感じる。その瞬間にはもう、私は宙を舞っていた。
一瞬の浮遊感に、落下の痛み。
咳込む私の傍らに、太い脚がにじり寄って来る。視界が歪む。死ぬってこんなに痛いのか……。そんな思考すら許さぬように、牙王が、ゆるりと足を上げる。悪霊憑きの大男は、止めとばかり、私の頭を目掛けて足を振り下ろした──。