令嬢編④:決意
生け垣を通り抜けて裏庭へ入ると、芝生の上には沢山の落ち葉が散らばっていた。辺りを見回してもまだ誰もいない。私は一度深呼吸をしてから裏庭を進んでいき、葉が無くなって寂しい姿になった大木の根本まで行くと腰を下ろした。
彼は来てくれるだろうか。来てくれたらまだ望みはあるけれど、もし来なかったら……
私はどちらを望んでいるのだろう。彼の気持ちがまだ私に向いていたとしても、今の辛い生活は変わりはしない。でも、彼が見てくれているなら、きっと耐えることは出来ると思う。だから約束通りここへ来て、私へ愛を囁いてほしい。
そう期待する一方で、徐々に芽生えていた彼への不信感が私へ告げる。彼はそもそも私のことなど好きではない。彼が愛したのは私の瞳に映る自分の姿。周囲の人間とは違った感性を持っていた私を通して、自分が身にまとっている虚像を見て悦に浸りたかっただけ。満足したら私は用済みでもう必要はない。
胸に手を当て、頭を振る。話もしていないのにそんな風に決めつけるのは良くない。仮にそうだとしても、そんなことも見抜けずに舞い上がり、そしてそんな彼のことを好きになってしまった私が悪いだけだ。
私自身、彼のことをちゃんと愛していたのか自信が無くなってきている。恋愛をしている自分に酔ってしまうなんてよく聞く話で、私も恋に恋したただの乙女に過ぎなかったのではないかと思うようになってきた。でも、それはきっと言い訳で、自分が好きだった彼に幻滅して嫌いになりたくない、自己防衛本能からそう思いたいだけなのだと思う。
好きの反対は嫌いなら、好きのベクトルが大きければ大きいほどその反動は膨れ上がるし、そのギャップを乗り越えるまで矛盾した二つの感情が心のなかでせめぎ合うことになる。その結果、どちらかの気持ちを誤魔化そうとわざと盲目なふりをしたり、都合の良い言い訳をでっち上げてしまう。
でも、そんなふうに自分一人では抱えきれないほどの感情が湧いてくるということは、それだけ相手のことを愛していたという証拠。もし相手が私から気持ちが離れてしまっていたとしても、自分の愛と相手の愛がたまたま運良く交差しただけで一つになることはなかったということだ。
自己嫌悪に陥っていた私がそう思えるようになったのも、あれから頻繁に相談に乗ってくれたビクトリアやセバスのおかげだ。多くの迷惑をかけて、助ける義理などこれっぽっちもないはずなのに、見捨てたら目覚めが悪いからと言って、ある時は朝早くから、またある時は夜通し、私のまとまりのない話を真剣に聞き、忖度のない意見を述べ、親身になって話をしてくれた。本当は孤独な私を放って置けなかったからだということに気づいているが、彼女の露悪的な振る舞いを無駄にしないためにも黙っている。
結局、オリアスが裏庭へとやってきたのは約束の時間から一時間ほど経過し、空が夕暮れに染まった頃だった。彼は急いできたかのように息を切らせながら生け垣を乗り越えて私に近づいてきた。本当は向こうの曲がり角で私がまだ待っているのを見つけ、そこから走ってきただけなのだけれど。
「待たせてしまってゴメンよ。時間通りに向かうはずが外せない用事が出来てしまってね。これでも急いだんだよ?ただ、途中でいろんな人に話しかけられてほんのちょっと対応していたらこんな遅くなってしまったんだ」
「大丈夫ですよ。オリアス様がお忙しいのは私も理解しております。ただ、正直に言いますと、もう少し待ってみていらっしゃらなければ、約束を反故にされたと思って帰ってしまうところでした」
「おいおい。君からの誘いを無下にする訳ないじゃないか。僕はいつだってクリスのことを考えているんだよ?」
息を整えながら、笑みを浮かべて彼は言った。夕焼けに照らされたその笑顔が妙に薄っぺらく見えたのは、私の心が変わってしまったからだろうか。それとも……
「それで? わざわざこんなところに呼び出して、今日はどうしたんだい? 何か相談でも?」
「そんな警戒しないでください。ゆっくりお話をしたかっただけですよ? どうぞこちらへお越しになって?」
眉間にシワを寄せている彼を安心させるために私は微笑みながら隣を指差す。だが、彼は下唇を噛み締め、目をキョロキョロと左右させた。
「あー、実はこれから夜会に呼ばれているんだ。その準備もあるからあんまり話は出来ないんだよね。特に用がないのであれば、また今度では駄目かな?」
「そうですか……。それならしょうがありませんね」
「そう、そうなんだ。いやぁ、本当に申し訳ない」
私の聞き分けの良さに安堵したかのように、彼は口角を吊り上げた。どうしてか、私の目には意地の悪い悪魔のように映った。立ち去ろうとしている彼に私は質問を投げかける。
「それではいつになさいますか?」
「え? 何が?」
質問の意味が本当に分かっていないようだ。それもそうだろう。彼の知っている私なら、文句も言わずにそのまま彼を見送り、来るはずもない今度を延々と待っているような人間だった。でも、今は違う。ここで彼の本当の気持ちを確認する。そのために覚悟を決めてきたのだから。
「オリアス様がご自分で仰ったのではないですか? また今度と。ですから、その今度を今決めてしまいましょう」
「いや、でも、ちょっと戻って予定を確認しなきゃ決められないかなぁ……」
「別に明日や明後日でなくとも構いませんよ? 一週間後でも、一ヶ月後でも、半年後でも、オリアス様のご都合の良い日取りを仰ってください。私の個別指導もそれに合わせて組み直しますから」
オリアスは考え事をするように腕組みをしているが、額から汗が垂れてきていた。今度の質問については意味も意図も理解したようだ。これは彼の気持ちを試すテストだ。なんと答えるかによって、彼にとっての私の優先度が分かる。すぐに会う予定を立ててくれるならまだ彼の中で私の比重が大きいということだし、私の言葉通り何日も待たないと会えないのであれば私の価値がそこまで落ちてしまったということだ。もし、一ヶ月以上待たされるようであれば彼との関係を考え直そう。だが、何より最悪な答えは……。
少しずつ辺りが暗くなり始める。彼はなにか思いついたかのように私に問いかけてきた。
「そ、そう言えば指導の方は順調? 報告では最近は飲み込みが早くなったと聞いたんだけれど?」
「いえ、まだまだです。最低限の所作は身につけることが出来ましたけれど、学ぶべき事はまだ沢山あります。おかげで体重も十ポンドほど落ちましたよ」
「へ、へぇ、そうだったんだぁ。確かにちょっとほっそりしたなぁって思ってたんだ。大変だろうけど、ちゃんと食事は取らないと駄目だよ?」
彼は私を気遣うような言葉をかけてきた。でも、私はその言葉に二つの意味でがっかりした。一つは体型や目の下のくまについて私が自分で言わなければ気が付かなかったこと。そしてもう一つは私の質問に答えず話題を変えようとしたことだ。
もう駄目なのだと実感した。彼がではない。私が、だ。
「お気遣いありがとうございます。ところで、予定が決められないようですので、お伝えしたかったことを今、手短にお話して宜しいでしょうか?」
「え? あ、あぁ、構わないよ。時間がないから急いでね」
私の提案をまるで渡りに船と言わんばかりに食いついてきた。私は立ち上がって小さく息を吸うと、簡潔に伝えた。
「オリアス・ウォーカー辺境伯子息、私と別れていただけませんか?」
予想もしなかったであろう言葉が私の口から飛び出たせいか、オリアスの目と口を大きく開いてこちらを見ている。そんな間抜けな顔を見たくはなかった。少し待つと、ようやく喋れるようになったのか、オリアスが噛み噛みになりながら私へ確認してきた。
「は、はは、はははっ。じょ、冗談にしては笑えないよ? 僕と別れたいだなんてそんな……」
「冗談ではありませんよ。毎日勉強勉強でうんざりしてしまいまして。ウォーカー家の地位を手に入れられると思って我慢はしてみましたけど、正直嫡男でもないスペアでは受け継ぐ土地も権力もそこまでではないじゃないですか? それを理解したら、我慢するのもバカバカしくなってしまいました。感謝はしていますよ? 貴方のおかげで知識も増えましたし、素敵な友人も手に入れることが出来ましたから。ありがとうございました。これからは私に気にせず、お好きにお嬢様方と楽しくお喋りしてください。それではごきげんよう」
暗がりでも分かるほどオリアスの顔色はだんだんと赤くなり、体が震えている。オリアスの気にしている次男坊について刺激したのは効果的だったみたいだ。私はそのまま怒りに震えているオリアスへ背を向けて裏庭の出口へと歩き始めた。落ち葉が風に吹かれてカサカサと音を立てている。生け垣のそばまでやって来ると、背後からオリアスの怒鳴り声が聞こえてきた。
「ふ、ふざけるな‼ この、下級貴族が‼ 僕の事をバカにして、タダで済むと思うなよ‼ お前なんか、こっちから願い下げだ‼ クリサリス・オーエンス‼ お前との婚約は破棄させてもらう‼」
近くに人がいたら何事かと、野次馬としてやって来るところだっただろう。オリアスが予定よりも遅れてやってきてくれたことが幸いした。
私は振り返って、遠くにいるオリアスからも見えるようにスカートの左右を摘み、片足を引いて腰を落とした。
「ありがとうございました。愛しいオリアス様。お元気で」
私の耳にやっと届くくらいの小さな声でつぶやく。視界がぼやけてきた。まだ駄目だ。裏庭から出て、物陰に隠れるまでは泣くのは我慢しないと。挨拶を済ませると、私は素早く振り返って駆け出した。
私は本当に彼の事を愛していた。愛していたからこそ、彼を嫌いになっていくのが怖かった。恐ろしかった。
ごめんなさい。私は良い恋人にはなれなかった。
きっと、彼は私の悪評を流すだろう。しょうがない。好きでも嫌いでもなく保留を選んだ彼に婚約破棄をさせるには、彼を怒らせて私が悪者になるしかなかった。私がいくら言ったところで、他人の気持ちを理解するという能力が欠けている彼には、私の言葉は本当の意味で届きはしない。
私はこれからどうなるのだろう。正直分からない。正式な婚約ではなかったので家同士の争いにならないことは救いだけれど、きっと父は酷く落ち込むだろう。
涙を流しながら走っていると、目の前に二人の人影が現れたのでつい立ち止まる。従者を従えたその令嬢は何も言わずに私のそばまでやって来ると、私の涙や鼻水でドレスが汚れるのも気にせずにそのまま両手で抱きしめてくれた。私はそのままビクトリアの胸で泣きながら、彼女の言葉を思い出した。
人生はまだまだ続いていく。これまでの記憶は胸に大事に仕舞って、明日の為に前へ進まなければならない。
それだ。前に進んでいくしかない。たとえ周りになんと言われようとも、プライドを捨てずに前を向く。
今までドールと呼ばれていた私は明日からはこう言われるだろう。
悪役令嬢、と。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
令嬢編はこれにて終了となります。
今回、初めて令嬢物を書いてみましたが、貴族社会について思ったよりも奥深く、そして難しい題材でした。
17世紀前後のイギリスをモチーフにしてみましたが、紅茶の飲み方だったり、爵位の階級だったり、所々都合良く脚色しました。
勉強不足で勘違いしている点もあるとは思いますが、そこはまぁフィクションということでご容赦ください。
次回は探偵助手編となります。
もしよければ引き続きお読みいただけると嬉しいです。