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蛹の夢  作者: 楢弓
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令嬢編③:変化

オリアスとビクトリアの破談の噂はすぐに学園中へと広まった。

人を見下すような態度のビクトリアに嫌気が差したとか、オリアスへ向かって侮辱するような事を言ったとか真実味のある話から、ビクトリアと従者が恋仲になったところをオリアスに見咎められたせいだ、実はシンプソン家とウォーカー家の仲が険悪になったために彼らの婚約自体もなくなったのだ、といった明らかなデマなど、様々な情報が錯綜していた。

ただ、一つだけ共通しているのは、学園で人気者のオリアスは完全なる被害者で、畏怖の対象であるビクトリアが加害者扱いされているという点。どの噂を聞いても、オリアスに対しては哀れみを感じるようなオチになっている。

どうしてそんなことになっているのかというと、一つはビクトリアに対して不満が溜まっていたせいだろう。令嬢たちは自分よりも高い地位が約束され、しかもそれに甘んじること無く研鑽を積む彼女に嫉妬し、令息たちは自分よりも広い見識を持っており、しかも自立心のある彼女を疎ましく思っていたのだ。ガス抜きされることもなく溜まりに溜まった不満が今回の一件で爆発し、ビクトリアへの批判へと向いてしまった。本当か嘘かなど彼らには関係ない。ただ彼女の悪評を広めることができればそれで良いのだろう。

もう一つの原因はオリアスの婚約者の席が空いたせいだ。今まではビクトリアという絶対的な存在がいたおかげで表立って行動する人間はいなかったけれど、その彼女がいなくなったことで、もしかしたら自分がその座を手に入れることが出来るのではないかという考えが表面化したのだ。学園に通っている令嬢たちはもちろん、姉妹や未婚の親族がいる令息たちもウォーカー辺境伯との繋がりを求めて、手練手管を弄してオリアスへとアピールをしている。

そんな学園での大騒ぎとは打って変わって、シンプソン家とウォーカー家の関係は特に悪化していないようだ。聞こえてきた噂ではオリアスが両家へしっかりと話を通し、穏便に解決したということになっているらしいけれど、私が心配して尋ねる度に不安そうな顔をしていた彼にそんなことが出来たとは思えない。

たぶん振られた張本人であるビクトリアが動いてくれたのだと思う。根拠は無いけれど、きっとそうなんだろうという確信が彼女の振る舞いを見ていたら浮かんできた。

あれから学園の中で何度か彼女のことを見かけたけれど、相変わらずの優雅さだ。自分が悪く言われている噂も当然耳に入っているだろうに、まるでそんな事は気にしていないと言わんばかりの普段通りの振る舞いで、周囲からは恐れられている様子だった。私なんかと違って、自分に自信を持っているのだと思う。

自信といっても家という後ろ盾を笠に着た傍若無人なものではない。きっとそれは、今まで彼女が挑戦してきたことや努力してきた結果、身につけたものなのだ。彼女と近い立場に担ぎ上げられた今の私には痛いほど分かった。

非公式ではあるけれど、オリアスから求婚を受けた私はあれから花嫁修業の一環として、学園の授業とは比べ物にならないほどの指導を施されている。言葉遣いから始まり、カーテンシーに立ち方、歩き方、座り方、食事のマナーはもちろん、カトラリーの持ち方まで、彼が呼び寄せた専門の人間に指導されている。日常生活に必要な基本が身についたら、今度は社交場で必要となる国の歴史やダンス、歌などを毎日休む暇もなく、手取り足取り教わっている。

しかも、授業の合間や空いている時間にそれらの指導が詰め込まれており、授業のない休日は朝から晩までフルコースとなっているから自宅へ帰ることも出来ず、一日の終りにクタクタになって寮へと戻り睡眠を取るくらいしか私が自由に出来る時間はなかった。

個別レッスンが始まってからというもの、オリアスと会う時間は極端に減ってしまった。私が忙しいという点もあるけれど、学園内ですれ違っても、今までと比べても沢山の友人たちに囲まれて、話しかけられる雰囲気ではなかった。一分、いや、ほんの一言だけでも交わせればそれだけで頑張れる気がするのに、彼は私のことなど気付かずに近くにいる令嬢と楽しそうに談笑している。

以前は彼から私へ話しかけてくれたのに、今では彼の従者へ依頼しないと言葉を交わすことも出来ない。

私は彼のためにこんなに苦労しているのに、どうして彼は私を気にかけてくれないの。

私を伴侶に選んだのは嘘だったの。

彼に対する理不尽な怒りが私の心に住み着き始め、それを自覚する度に私は自分の心の醜さに嫌悪感を抱くのだった。


何の役に立つのか分からない刺繍の指導が終わり、私はよろめきながら廊下を歩いていた。窓の向こうの外はすっかり暗くなっている。こんな遅い時間に校舎に残っている人などいるはずもなく、教室や廊下は人気がない。夕食の時間も既に過ぎてしまっている。寮に何か食べるものはあるだろうか。

ヨロヨロと歩きながら、そんなことを考えていた私だったけれど、急に視界が歪み始めた。立っていられなくなり膝をつく。何が起きているのか理解出来ないまま、視界と共に意識がだんだんと薄れていく。そう言えば、ここ最近は毎日三時間ほどしか寝れていなかったと思い出す頃には、私は完全に気を失っていた。

次に目覚めた時、私は柔らかいソファの上で横になっていた。目だけを動かして周囲を探る。

目の前にあるゴシック様式のテーブルと高そうな陶器のポットには見覚えがあった。ここが何処かと理解する前に、私の脳は覚醒し、ソファから体を急いで起こした。

「びっくりするわね。そんな急に起き上がって大丈夫なのかしら? また倒れられたら流石にここで介抱はせず、医務室へと連れて行くわよ?」

私の向かいのソファに座ってティーカップを口へと運びながら、この部屋の主が見つめてきた。主人の背後には専属の従者がすまし顔で立って指示を待っている。私は衣装の乱れを直しながら立ち上がった。

「ビクトリア様! ご迷惑おかけしてしまったようで申し訳ありません! すぐに出ていきますので……」

「あら? そんなに慌てなくても宜しいんじゃないかしら? もし良ければここでゆっくりして行って構わないわよ? 紅茶やお茶菓子も用意していますし」

「いえ、結構です。お気持ちだけ頂戴しま……」

言葉の途中に、私のお腹から空腹を知らせる音が聞こえてきた。赤面する私をよそに、ビクトリアはセバスへ食べ物を急いでテーブルへ並べるように指示を出した。私がご飯を食べていない事を事前に知っていたかのように、テーブルに美味しそうなパンや焼き菓子があっという間に用意された。

立ち上がって出ていくと言ってしまった手前、早くこの場から立ち去らなければと思うのだけれど、目の前に出されたご馳走に私の視線は釘付けになってしまっていた。気をつけないと口から涎が出てしまいそうだ。

「どうぞ召し上がって。大丈夫よ。毒なんて入っていないから」

「いえ、でも……」

「施しを受けることは別に恥ではないわ。恥じるべきなのはそんな状態に自分の体を追いやってしまった貴方の計画性と周りの気遣いの無さよ。それに、ここまでもてなされておいて、何も手を付けないというのも相手に対して失礼ではなくて?」

そこまで言われて、私はようやくソファに座り直した。

「……いただきます」

「どうぞ。急いで食べると喉に詰まるでしょうから、ゆっくりお食べになってね」

ビクトリアから改めて許可をもらうと、私は一番近くにあったバスケットからパンを手にして頬張った。学園の食堂で出るパンよりも芳醇で柔らかい。このパンならいくらでも食べられそうだ。

いつの間にか私は出された食べ物全てに手を伸ばしていた。レッスンで教わったマナーなど忘れ、セバスがさり気なく手元においてくれたコップで水分補給をしながら、手当たりしだいにパンや焼き菓子を掴み、口へと運んでいった。気づけばバスケットや皿の中にあったはずの沢山の食べ物はほとんど消え去っており、満腹になった私はそのままソファの背もたれに背中を預けた。

貪るような食事をした私を部屋の主と従者は呆れたように眺めていたが、一度も注意をして手を止めさせることはなかった。

「素晴らしい食べっぷりね。見ていて気持ちがいいくらいだわ」

「そうですね。お嬢様なんて、ドレスが着れなくなってしまうと泣く泣く食事を残していらっしゃいますし」

「余計なことを言っている暇があったら、さっさと片付けをなさい。オーエンス嬢へ食後の紅茶を忘れずにね」

出てきた時と同じように、あっという間にテーブルの上から食器が下げられ、私の前に以前と同じく湯気の立ったティーカップが置かれていた。軽く頭を下げてカップを手にしようとすると、ビクトリアが私を制止した。

「以前ここで飲んだ時、苦いのに我慢して飲んでいたでしょう? 我慢をするくらいなら砂糖をお入れになって。別にそれで子供っぽいだとか、味覚音痴だなんて思ったりしませんわ」

「ですが、淑女としては紅茶の味を楽しめるようにならないと……」

「我慢をした状態で味を楽しむことなんて出来る? 快楽の為に多少の無理は仕方がないけれど、無理をし過ぎは良くないわ。何事もね」

「素晴らしいお言葉ですね。ぜひとも私の主人にも聞いてほしいです。最近は乗馬の為に体中傷だらけになっておいでですからね。その度に手当てをしなければならないこちらのことも考えてほしいものです」

余計な事を言うセバスをビクトリアが叱責しているのを眺めながら、私の頭の中では今の言葉が反芻していた。食事も睡眠も満足に取れないほど無理をして、その先に何が待っているのだろう。前までは彼との輝かしい未来を簡単に空想出来たのに、彼に選ばれたはずの今は何も思い浮かべることが出来ない。

疲れて考えるのも億劫になってきた。私はビクトリアに勧められた通り、シュガーポットの蓋を取ると、自分の前にあるティーカップに砂糖を入れた。砂糖が紅茶に溶けていく。スプーンでかき混ぜてから頂いた。程よい甘みでコクが引き立ち、独特の香りが気持ちを落ち着かせてくれる。前回は苦味に意識がいってしまい味わう余裕もなかったけれど、改めて飲んでみて紅茶とはこんなに美味しいものだったのかと驚かされた。

「どうやら、今回は気に入ってもらえたようね。気を張っていた表情がふっと柔らかくなったもの」

「そんなに緊張した顔をしていましたか?」

「えぇ。表情もそうだけれど、顔色も最悪。せっかくの美しい顔が台無しよ?」

彼女に指摘されて、つい私は自分の顔に手を添えた。そんなに酷いのだろうか。誰も何も言わなかったし、毎日鏡で顔を見ているのに。

「そりゃ、人前でレディの顔にケチをつけるなんて普通は出来るわけないじゃない。しかも、オリアス・ウォーカー辺境伯子息の次期婚約者筆頭である貴方に。周りからの扱いも変わったのではなくて?」

ビクトリアの言う通りで、オリアスたちの破談が広まると同時に、まるで、今まで虚仮にしていた私に復讐されるのを恐れるかのように同級生たちが優しく接してくるようになった。それに、今まで話したことがないような上級生や下級生も声をかけてくる。私に取り入っておこぼれに与ろうという魂胆が見え見えで、現金な人たちだと関心したほどだ。

「それに、貴方はただ鏡を見ているだけでしょう? 視るべきなのは鏡に写った自分の姿よ。漠然と眺めているのではなくて、自身の変化に気付けるようにちゃんと観察をしなければ駄目。分かった?」

まるで子供に言い聞かせるかのように注意をしてくる。彼女の言葉を否定することは出来ず、私はただ素直に頷いた。

「全く、そんなんじゃ愛しの恋人に見向きもされなくなってしまうわよ。まぁ、噂に聞く限りだと、既に興味は貴方から移ってしまっていそうだけれど」

私はソファから身を乗り出した。今の言葉は本当だろうか。

「移ってしまっているって、どういうことですか? もしかして、他の誰かを好きになったとか……」

「落ち着いて。別にどこそこの令嬢と良い関係になっているという話があるわけじゃないわ。ただ、彼の性格上、周りからチヤホヤされるのに弱いから、頑張っている貴方のことよりも持て囃してくれる今の環境の方に関心が行ってしまっているんじゃないかって推測しただけ。貴方のその必死の反応を見るに、どうやら当たっていたようだけれど」

テーブルに手を突きながら話を聞いていた私は、そんなはしたない行動を取ってしまったことが恥ずかしくなり、居心地の悪さを感じながらソファへと戻った。

ビクトリアが私の様子を見つめながら、つぶやくように囁いた。

「本当に彼の事が好きなのね。正直見直したわ」

「……ありがとうございます?」

「どういたしまして。フフッ。なんだかおかしな風景ね。婚約者を奪った相手にお礼を言われるだなんて」

確かにそうだ。なんともなしに話をしていたけれど、彼女から見れば私は約束された将来を駄目にした略奪者のはずだ。私のことを恨んでいてもおかしくはない。

「あの……、すみませんでした。私なんかが出しゃばったばっかりに……」

「そういう言い方はお止しなさい。私だけでなく、貴方自身の価値も貶める発言よ。貴方は既に一人前の淑女を目指す立場になったのだから、謝罪をするにしても自分を卑下するような謝り方だけはしてはいけないわ。決してプライドを捨てない。レディの鉄則よ」

そう言って、ビクトリアは私へウインクをした。私が思っていたよりもお茶目な人なんじゃないかと思った。

「それに、破談にされたことに関しては、別に怒ってはいないわ。むしろ、彼と縁を切ることが出来て清々したくらい」

「え? でも、私たちが部屋から出ていった時、泣いていましたよね?」

私が質問した瞬間、ティーカップを持っていた彼女の手が大きく揺れ、ドレスやテーブルに紅茶が溢れた。傍に控えていた従者がハンカチを差し出すが、彼女は何を思ったのかドレスの袖でテーブルを拭き始め、拭き終わってから自分が何をしたのか気づいたようだった。

「お嬢様、動揺しすぎです」

「べ、別に動揺なんてしていないわ。そんな薄いハンカチでは拭き取れないから仕方なく服を犠牲にしただけよ」

「そうですか。どうでも良いですけど、シミが出来る前に洗濯したいので、早めに着替えてくださいね」

セバスに八つ当たりしながら、ビクトリアは袖をまくって腕まで染みてきた水分をハンカチで拭いていた。よく見ると腕には出来たばかりと見られる傷がいくつもあった。そう言えば、乗馬に挑戦して怪我が絶えないと言っていたっけ。

「あの、大丈夫ですか?」

「え? えぇ、大丈夫よ。気になさらないで。まさか泣いているところを見られていたなんて思わなくて、ほんの少しびっくりしただけだから。本当に、全然大丈夫」

「そうですか……。涙が出たってことは、やっぱりビクトリア様も彼の事を愛していたってことですか?」

その質問に、彼女は少しの間目を閉じた。なんと答えるべきか考えているのだろうか。それとも、彼との思い出を回顧しているのだろうか。目を開けると、彼女はゆっくり、だがしっかり言葉を紡いだ。

「愛していたわ。数インチ程度だけれどね。私が今まで色々なことに手を出していたのは自分の好奇心を満たすためでもあるけれど、将来彼を支えるためでもあったから。自己愛が強くて他人の気持ちなんてこれっぽっちも気にしたことがない人間だって頭では理解していても、やっぱり一度でも好きになった人間を完全に嫌いになるなんて出来るわけがなかった。さっきは清々しただなんて言ったけれど、本当は嘘。未だに彼とすれ違うと心が少し痛くなる。でも、それで良いの。そう思えるってことは、今までの私の気持ちや頑張りが紛れもなく本物だったということだから。それに、いつまでもクヨクヨしていられないでしょう? 人生はまだまだ続いていくのだもの。これまでの記憶は胸に大事に仕舞って、明日の為に前へ進まなきゃ」

そう言って笑うビクトリアの表情はとても晴れやかで、だけどもどこか寂しさを感じた。

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