令嬢編①:出会い
心地よい風が頬を撫でる感触で目が覚めた。
私は欠伸をしながらゆっくりと伸びをした。膝の上に視線を向けると読みかけの本が乗っかっていた。
夢の世界に関する物語が記された本。つまらない訳ではないけれど、題材が題材なだけに読んでいる途中で私も夢の世界へと誘われてしまったようだ。夢の中で私は一人の男性に恋をして、そして……
「君、そんな所で何をしているんだい? もしかして体調でも悪いのかな?」
目覚めた直後で上の空だった私だけれど、急に声をかけられて体がビクつく。周囲を見回すと、生け垣の向こうから背の高い男性が私を見つめていた。
この学園の生徒の証であるバッジの付いた胸のところまでしかない生け垣から目算すると、男性の高さはおよそ六フィート。ブロンドの短い髪とエメラルドグリーンの瞳を持った生徒となると数は限られてくる。
「大丈夫かい? 人を呼んでこようか?」
「い、いいえ。大丈夫です。少しウトウトしていただけですから……」
バッチリ眠ってしまっていた事は黙っておいた。学園の敷地のこんな外れに一人で、本を読みながら昼寝をしていたなんて恥ずかしくて言えるわけがない。
私は立ち上がって服に付いた葉っぱや土を手で払った。視線を感じてふと顔をあげると、声をかけてきた男性が私のことをじっと見ていた。口角がわずかに上がっている。私は恥ずかしくなって顔を逸した。下級貴族の娘とはいえ、パブリックスクールに通う人間として今の振る舞いは下品だったかもしれない。
「ごめんよ。つい見つめすぎてしまったね。でも、安心したよ。樹の下で眠っている姿を見て、もしかしたら学園に住み着いているお化けなんじゃないかと思ったからね。あぁ、別に悪口で言ったわけではないよ?」
「いえ、こちらこそ紛らわしい格好で申し訳ありません。こんな安物の服に整っていないボサボサの髪では、お化けと間違われても仕方ありませんわ」
私はそう言いながら、チラリと男性を盗み見た。彼は口元を緩めて笑っていた。真っ白な歯が覗いて見える。
「そういう意味ではないよ。まるで童話に出てくるお姫様のようで、この世のものとは思えなかったからさ。君、名前は?」
「オーエンス家の娘、クリサリスと申します。オリアス様」
私が名前を呼ぶと、彼は目を少年のように輝かせた。
「僕の事を知っているのかい?」
「当然です。ウォーカー辺境伯のご子息を知らない人間なんて、この学園には一人もおりませんよ」
「あぁ、そっちかぁ。まぁ、そうだよね。君のような美しい女性に目をつけてもらえるなんて、僕も名が売れたと思ったけど、やっぱり家名の方が有名だよね」
辺境伯の次男坊、オリアスはそう言ってすねたように口を尖らせた。私よりも二つ年上だと聞いていて、噂通りの体格の良さだけれど、振る舞いだけを見ればまるで年下の子供のようだ。
「それで? クリサリス・オーエンス嬢、君はなぜこんな所にいるんだい? 読書をするにしても、もっと快適に過ごせる場所がこの学園にはそこら中にあるだろう?」
生け垣の葉を一枚むしりながら、オリアスは尋ねてきた。もっともな質問だと思う。本を読むなら図書館や使われていない教室を利用すれば良いし、屋外に出るなら中庭に行けば沢山のベンチがある。それなのに、私が本を読んでいたこの裏庭はというと少し大きな木が一本生えているだけで、周りは生け垣に囲まれており、人も全くおらず、あまりにも殺風景だ。こんな場所に来るなんて、人目を避けて逢瀬を重ねたい人たちか、誰にも気づかれずにただ時間を潰したい人間のどちらかしかいないだろう。
私は正直に質問に答えた。
「ここは私のお気に入りの場所なんです。喧騒から離れてゆっくりと出来ますから」
オリアスは短く、へぇ、とだけ言った。その瞳に浮かんだ疑いの色が隠せていない。
嘘は言っていない。見世物のようにジロジロと眺めてくる貴族の令息令嬢やそれを見て嫉妬に燃えて嫌味を言ってくる同級生から身を隠すのに、この場所はうってつけなのだ。
深く突っ込まれるのも嫌なので、話題を相手に向けることにした。
「オリアス様はどうしてこんな人気のない場所へ? もしかして、どなたかと待ち合わせでもされていらっしゃいましたか? お邪魔でしたらすぐにここから立ち去りますが……」
「いやいや。そんなんじゃないから、そのままここにいてくれて大丈夫だよ。それと、もしよければそっちに行っていいかな? 僕も周囲の騒音から逃げてきたところなんだ」
私の答えを聞く前にオリアスは衣服に葉っぱがつくのもお構いなしに生け垣を乗り越えてきた。来てしまったのだから、今更ノーと言うわけにもいくまい。
さっきの私を真似するかのように手で葉を払い落とすと、私のそばへとやってきて木陰に腰を下ろした。立っている私を見上げながら、掌で地面を軽く叩いた。どうやら隣に座れということらしい。
辺境伯の令息の誘いを断るわけにもいかないし、ここから立ち去ったとして行く所もない。私は軽く頭を下げると、近づきすぎないように注意をしながら芝生の上へと居住まいを正して座った。そんな私をオリアスは目尻を下げながら眺め、そして様々な質問を投げかけてきた。
「読書が趣味? 普段からここで本を読んだりしているのかな? 他に趣味はあったりするかい? 君のご実家については存じ上げないのだけれど、どこの生まれなんだい?」
初対面の相手にここまで質問攻めする人物もそうそういないと思う。ただの気まぐれなのか、それとも私に気があるのか。辺境伯の息子に気に入られたと私の父が知ったらさぞ喜ぶだろう。
ただ、確か彼には許嫁がいたはずで、しかもそのご令嬢もこの学園に在籍していると聞いたことがある。その女性にこんなふたりきりの場面を目撃されたら厄介なことになる気がする。
「趣味というほどではありません。物語の世界にいる間はそれだけに没頭出来るので、本を読み漁っているだけです」
「なんだか後ろ向きな理由だね。限られた人間しか通うことが許されないこの学園にいるというのに、何か不満なことでもあるのかな?」
私は口を途中まで開いて、すぐに閉じた。私の事情を説明したところでどうなるだろう。彼の同情は買えるかも知れないけれど、よく知らない相手に自分の弱みを見せるほど私はお人好しではない。
「不満のない人生を送れる人間なんてこの世に一握りしかいませんよ。オリアス様はどうです? 貴方ほどの方なら、私なんかよりも悩みやいざこざに巻き込まれることが多いんじゃないんですか?」
「それは……そうかも知れないね……」
そう言って隣りにいるオリアスは黙ってしまった。気まずい沈黙が流れる。
ふと気がつくと、私は無意識のうちに本の背表紙に押された箔を指でなぞっていた。隣に話をしている人がいるのに失礼な行為だった。気づかれていないか心配になり、そっと隣のオリアスへと目を向ける。すると、彼もちょうどこちらへ顔を向けたところだった。
二人の視線が絡み合い、そしてお互い面映ゆくてすぐにほつれる。
視線を逸した先には彼の大きな掌があり、親指と人差し指には芝生がくっついていた。よく見ると、彼の右手の周りには芝生が散乱している。どうやら、彼もまた気まずくなって無意識のうちに芝生をちぎっていたようだ。私がクスリと笑うと、オリアスは自分の悪癖に気付かれたことを悟り、急いで左手で右手についた芝生を払った。
「いや、ごめん。別に君といるのが退屈とかそういうわけではなくて、ただ、ちょっと沈黙に耐えられなかったというか、手持ち無沙汰になってしまったというか……」
「構いませんよ。笑ったのは私も同じだったからです。指が少し汚れているのがわかりますか? 実は私も無意識のうちに本の装飾を擦っていたみたいなんです」
そう言って、私はオリアスへ向けて自分の手のひらを見せた。彼はよく見ようと顔を近づけながら、私の手を掴んだ。
屈強な体格に似合わず、彼の手は柔らかくすべすべしていた。屋外で風に当たっていたせいなのか、私の体は冷えていたようで、彼の手からはジンワリとした温かみを感じる。
気がつくと、私の心臓の鼓動が早くなっていた。どうしてこんなにドキドキしているのだろう。相手は名前しか知らないし、私たち下級貴族からすれば雲の上の存在で、許嫁もいるはずだ。そんな相手にどうして胸が高鳴っているのだろうか。
「オーエンス嬢? どうかしたかい?」
心配そうに見つめてくる二つの碧眼に私は吸い込まれそうになる。私は心のなかで自戒する。これではまるでうぶな生娘だ。本の中でしか恋愛を経験したことはないけれど。
「私からお見せしておきながら申し訳ありませんが、少し近くはありませんか? もし誰かに見られたら勘違いされてしまいますよ?」
私の言葉を聞いて、ようやく今の自分の行動を冷静に把握出来たようで、オリアスはパッと手を離した。今更焦ったような表情をしている。やっぱり年上には見えなかった。
「オリー! オリアス! どこに行った‼ 出てこいよ‼」
遠くで何人かの男性が叫ぶ声が聞こえる。オリアスがうんざりしたような顔でため息をついた。どうやら、彼の知り合いが探しているようだ。
「すまないね、オーエンス嬢。短い時間だったけど、君とふたりきりで話ができて良かったよ。またどこかで出会ったら、その時はじっくりと話をしたいな」
そう言ってオリアスはすくっと立ち上がり、私がなにか答える前にどこかへと走り去ってしまった。
これが、私、クリサリス・オーエンスと辺境伯の令息、オリアス・ウォーカーとの出会いだった。