人のもんはとったら、アカン
兄のアパートから、徒歩で10分。
桜の木が目印のそのマンションの五階に、和沙さんは住んでいた。
何度か、兄に呼ばれて遊びに来ていたからよく知っていた。
ピンポーン
ガチャ…。
「あー。九你臣君」
「昨日は、どうも」
僕は、段ボールから真っ赤な日記帳だけを取り出して和沙さんに段ボールを渡す。
「捨ててくれてよかったんやけど」
「母が持っていけと」
「じゃあ、自分で捨てるわ」
「すんません。ほな」
「その、日記帳」
そう言われて、立ち止まった。
「これですか?」
「人のもんは取ったらアカンね。すぐ、死んでしもた」
「えっ?」
「たっくんの話。それ、忘れられへん女の日記帳って知ってた?」
「えぇー。」
「知らんかったんや。最後に書いてんで、あの桜の下で待ってますって。この辺で言ったら、あの桜並木ちゃうんかな?」
「会えるんかな?」
「さあ?桜の季節に行ったら、おるんやない?じゃあね。」
そう言って、和沙さんは扉を閉めた。
桜の季節は、もう始まっていた。
僕は、自転車のカゴに乗せてアパートに戻った。
「九、いい加減。フリーターやねんから、家に戻ってきなさい」
アパートの下で、母親が待っていた。
父親が、車で迎えに来ていた。
「九、ごめんやで。お母ちゃん、九に戻ってきて欲しいねん。龍臣みたいにいなくなって、ほしくないねん。だから、考えたって。な?」
「お父ちゃん、行くで」
「あー。はいはい」
「気ぃつけてな」
「はいはい。ほなな」
「はいはい言いなや」
父は、母に怒られて帰った。
父が、九と呼ぶ時は、お願い事がある時だった。
僕は、自転車に乗って自分のアパートに帰った。
「なあ?九。」
「なんやねん」
「30歳なるまで、実家に帰ったってや、アカンか?」
「えー。おかん、五月蝿いやんけ」
「そうやけど、俺がいななったら。おかん、毎日泣くやろ?俺、おかんには笑てて欲しいねん。なあ?一生のお願いや、九」
「死にかけてんのに、一生のお願い使うんズルいやろ。一生って何回あんねん、ボケーって突っ込み出来へんやろが」
亡くなる一週間前に言われた言葉。
病室を出て、僕は泣いた。
どんどん痩せていく体に、死期がもうそこまできてるのを感じていた。
家に帰って、真っ赤な日記帳を開いた。
夏目美様 梅井芽衣子
と書かれている。
「夏目なんや?みか?びか?なんやねん」
アホな僕には、読み方がわからなかった。
梅井芽衣子って、誰やねん。
そうや。
僕は、スマホを取り出して兄の親友にかける。
プルルル
『もしもし』
「もしもし、竹君。僕やけど」
『あー。九か。どないしたん?』
「夏目みか?びか?って、知ってる?」
『誰やねんそれ』
「美しいって、漢字一文字やねんけど。国語1やったからようわからん」
『アホの自慢すんなや。あー。それでわかったわ。夏目美やわ』
「えー。これで、めいって読むん?」
『当て字やろ?で、それがどうしたん?』
「どこに住んでるかわかる?」
『あー。調べてみるわ。今日、仕事終わったら会えるか?』
「うん。僕は、フリーターやから大丈夫やで」
『了解。じゃあ、仕事終わったらかけるわ』
「はい」
プー、プー。
兄の、若龍臣と竹富行臣は、幼稚園の頃からの幼なじみで大親友だ。
二人は、イケメンツートップの若竹コンビと呼ばれていた。
兄とは、五つ離れていたがそれが自慢だった。
小学校二年まで、兄は同じ小学校にいた。
「若様の弟君」と上級生に呼ばれ、チョコレートをたくさんもらった。
モテ期があるなら、あの時代だけだった気がする。
中学、高校と、頭の悪い僕は女子に一ミリもモテる事はなかった。
そして、僕はそのまま25歳を迎えた。
非モテなだけで、童貞ではない。
ちゃんと卒業した。
って、何を考えてるんだ。
僕は…。
胸を張って言える卒業ではないじゃないか…
僕は、日記帳を見つめていた。