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移動授業を終え、人もまばらになった教室で、ルイーゼはルークを手招きする。少なくはあるが、まだ教室に残っていた生徒はルイーゼの挙動に注目する。が、ルイーゼは構ってなどいられなかった。
何故他の生徒がルイーゼの挙動に注目するのか。
それは、そもそも、侍従を校舎内で常に連れているというのは普通の事ではないからだ。基本的に、従者や侍従は主の世話にまつわる雑事を終えれば、学園から与えられた専用の部屋で待機させ、連れて歩いたりするものではないのだが、ルイーゼにいたっては特例で許されていた。それは、この学園の理事長とシュクーリン公爵が旧知の仲であったこと、理事長がシュクーリン夫妻が大変な親バカである事を知っていた事による温情であるのだが、度を越した鈍感であるルイーゼはまったく気付いていない。
むしろどうして皆様は連れていらっしゃらないのかしら?くらいの事を考えているだろう。
ルークがルイーゼの元へ来たところで、ルイーゼは一呼吸置いて、ルークに語り掛けた。
「あの、ルーク……何もそこまで敵意を剥き出しにしなくてもいいと思うのだけれど」
「何も?そこまで?お嬢様は何も分かっていらっしゃらないようで!俺が、どれだけ……!」
「ルーク……?」
ルークはルイーゼに詰め寄り、拳を力強く握りしめる。ルイーゼがびくりと肩を震わせ、怯えた目でこちらを見ていることに気付き、ルークはようやく冷静になると、自らの拳から血が滴っていることに気付く。
「ルーク……!は、はやく手当を!」
「いいえ、私は大丈夫ですから。……とにかく、あの男に近付くのはお止めください。きっと良くないことが起こります」
「でもわたくし」
「私はただ、お嬢様の身を案じているのですよ。初対面であの馴れ馴れしい態度、他の者達が見たらどう思うでしょうか?メル様だってきっと幻滅なさるはずですよ。婚約破棄して数か月も経たないうちに他の男に乗り換えるふしだらな女だと」
「メルの名前を出すのはやめて!!」
ルイーゼの話には聞く耳も持たずに、ただ自分の話だけを一方的に続けるルークの口から、メルの名を出され、ルイーゼは反射のように拒絶してしまう。
ルイーゼにとって、メルは何よりもかけがえのない存在。換えることの出来ない、大切な存在なのだ。だからこそ、メルをこんな風に、ルイーゼを詰るために使って欲しくはなかったのだ。
「……ごめんなさい、大きな声を出したりして……。皆様も、申し訳ありませんでした。」
まだ教室内に残っていた生徒に謝罪すると、ルイーゼは心を落ち着かせ、いつもルークと接している時を思い出して、いつも通りであることに努める。
「でもルーク、心配してくれるのは嬉しいのだけれど、杞憂よ。佳蓮様は何か悪意があってわたくしにちょっかいをかけているわけではないと思うし、それに……」
「そうだといいですが。……お嬢様、これだけは忘れないでください。何があろうとも、私だけは味方です。世界を敵に回そうとも、全人類が貴女を糾弾しようとも」
「ルーク、本当にどうしたの?何かあったのなら、わたくしに……」
「何もありませんよ。ただ、いつものようにお嬢様の軽率な行動が転じて、大事になってしまうのではないかと案じているだけです」
「な、何よ……!この、ルークの、お、おばか!」
残念なことに、ルイーゼには人を罵倒した経験などまるきりないのである。その手に関しての語彙能力はからっきしなのであった。
普段は穏やかで、辛辣なことは言ってくるものの、困っているときには必ず助けてくれる、優しい兄のように思っていたルーク。
ルークは、変わってしまったのだろうかとルイーゼは心を痛ませる。
またメルのように、自分が何かしてしまったのだろうかと、頭を悩ませるが、ルイーゼは周りを見ることが得意ではない。他人の感情の機微に鈍く、それなのに無償の愛などを誰彼構わず与えてしまう。
無償の愛を与えることが、それこそが正しいのだと、盲目的に思いこんでいるのだ。
◆
「今日の授業では、この国に伝わる古くからの伝承についてを取り扱う。これは作り話などではなく、事実に基づいた伝承であるから、しっかりと聞くように」
次の授業は、歴史の授業だった。髭を蓄えた老齢の教師は、ゆったりとした口調で語りだす。
「今から数千年前、今よりも信仰というものが重んじられていた頃の話だ。アスリニケ神殿……この国の中央にある神殿に、ある巫女がいた。名を、ロベリアという。ロベリアは平民の出で、不思議な力を操ったことから、両親や周囲の人間に気味悪がられ、孤児院に預けられることとなったのだが、その噂を聞いて興味を持ったその土地の司祭様がその孤児院に出向き、ロベリアと直接対面したそうだ。すると、ロベリアは会話の途中、様子がおかしくなった。まるで人間とは思えないような声で、未来予知をしたのだと言う」
「未来予知……?」
「何だか怖い……」
未来予知という言葉を聞いて、教室内がざわついた。
魔法や魔術といった概念はあっても、未来予知などというものは、この世界においては人知を超えた力であり、そんなものは夢物語に過ぎないと考えられていたからだ。
「うむ。そうだな。何も知らない者には恐れられても仕方がないことなのだろうが、この司祭様は神に仕えている身であるから、すぐに分かったそうだ。―――この娘には、神が降りているのだと」
「あの、先生。質問をよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「どうして一介の平民に過ぎないロベリアに、神が降りていたのでしょうか」
「それは今も色々な学者が日夜論議を交わしているのだが……これといった断定できる結論は出ていない。神のきまぐれであったとか、または神の生まれ変わりであったとか。この国で信じられている神――セレオス神だが、セレオスが神となる前、セレオスもまた、平民の出であったという。セレオスは繊細で勇敢な少女だったそうだが、彼女もまた、不思議な力を操ったという。そしてある時に、村に疫病が流行り、疫病を呼び寄せたのはセレオスだと村中から断罪され、火刑にされた。磔にされ、燃え盛る炎の中にいても尚、セレオスが村人に対して罵詈雑言を吐いたりすることは無かったという。ただセレオスは静かに、自らの死を待っているようだったと言われている。それから三日三晩、セレオスは燃え盛る炎に包まれた。けれどセレオスは息絶えることなく、灰になることもなく、そのままの姿でそこに磔られていたという。とうとう恐ろしくなった村人たちは、燃え盛る炎を鎮火させ、セレオスを柱から下ろした。そうして地上に下ろした瞬間、セレオスは息を引き取ったそうだ」
誰もが息を呑んだ。無論、ルイーゼもである。この国の民ならば、誰もが知っている伝承であるが、ここまで詳細で、残酷なものであったとは、予想だにしていなかったのだ。
「このことから、今ではロベリアはセレオス神の生まれ変わりであるというのが最も有力な説となっている。そして、先ほどの話に戻るが、ロベリアに神が降りていると確信を持った司祭様は、そのことを中央の神殿まで伝えた。伝えてすぐ、ロベリアを中央の神殿――アスリニケ神殿に呼び寄せることに決まった。ロベリアが神殿に来てからも、未来予知は続いていた。次の日の天気だとか、そんな程度のものが多かったが、時には大きな災害も予知したという。彼女は多くの民を救ったのだな。それから、懐疑的であった教会の重鎮達もロベリアの予知を信じるようになり、民衆からの支持も得られるようになった。それからしばらくしてのことだった。とうとう、あの神託が下される」
ルイーゼは固唾を呑む。この先に起こることは知っているはずなのに、これから語られる事実が、酷く、恐ろしかった。
「神託を下す前日、ロベリア付きの修道女の報告書には、ロベリアの様子がおかしい、と記されていたそうだ。突然苦悶の声をあげ、そこら中を這いずり回ったりし、かと思えば、茫然自失とし、空を見つめてブツブツと何か呟いていたらしい。あまりの異常事態に、教皇様までもがロベリアの元へと集った。そして次の日の明朝、ロベリアは大勢の聖職者達の前で、こう告げた。『この世界はじき滅びるだろう』。それを聞いた聖職者の一人が、悪ふざけはやめろと叫んだ。すると、直接頭の中に、言葉では形容できないような嫌な音が響いたという。この異常事態を重く見た教皇は、この神託の事実を隠匿し、神託を外部へ漏らしたものには重い処罰を与えるとしたうえで、今までにこういった事例がないか、神殿に勤める聖職者達、総員を集結させ、古文書などを一から洗い直させた。しかし、何も見つからない。そんな風にてをこまねいていると、次の信託が下る。」
「『運命さえも捻じ曲げられる強い意志と、清廉な魂を持つ者によってなら、世界は救われん』。『私は見てみたいのだ。人間が、自らの力で運命を切り開くその瞬間を』。『私は人間に唄を与えよう』。『さあ人間、どうか私に奇跡を見せておくれ』。その神託を下したあと、ロベリアはこと切れた。まるで、かつてのセレオスのように。なんとか蘇生を図ったが、結局ロベリアが息を吹き返すことは無かった。この国の伝承についての詳細はここまでだ。下った神託についての解析は今も続いているが、ちっとも進歩はない。この世界はいつ滅びへと向かうのか。運命さえも捻じ曲げられる強い意志と、清廉な魂を持つ者とは誰なのか。与えられた唄とは何なのか。人間を憎悪してもおかしくない程の仕打ちを受けたセレオス様が、どうして人間の奇跡を望んだのか……私達は、これから起こりうる様々な事象に対して、予防していかなければならない。勉学に勤める君たち、そして真実を知る我々は、強い意志と、清廉であることに努めなければいけないね。勿論、唄も。音痴では駄目かもしれないからね」
最後にそう教師がふざけてみせると、張りつめていた空気が、いくらか緩んだ。それと同時に、終業のチャイムが鳴る。教師は終業の挨拶をし、教室を出た。
そうしてふと、ルイーゼは思い出す。
「瘴気がこの国を侵していくのは、二年に入ってからだわ……!」
そう、いわずもがなルイーゼは、メルとの幸せな生活で完全に幸せボケしてしまっていたのである。