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ルイーゼは焦っていた。何と言ったって、突然ゲームの主要キャラーーアイネが、何の前触れもなく訪れてきたのだ。
毅然とした態度で、ルイーゼに詰め寄るようにつかつかと歩みを進め、立ち止まる。
「あの……何のご用件で?」
バクバクと大きく脈打つ心臓をそれとなく手で抑えつけながら、ルイーゼはアイネの顔をちらりと窺うと、アイネは苦虫を嚙み潰したような顔をしながら、口を開く。
「この中には、婚約者というものがありながら他の男性に恋慕している方がいらっしゃるとか?」
ルイーゼは言われて初めて、自らが失念していた事にようやく気付いた。
アイネという人物は、正義感が強く、教会で育ったためか、少々潔癖の節があるのだ。
決まった相手がいるのにも関わらず、それ以外の異性に対して好意的な感情を抱くという行為自体が、彼女にとって酷く不快なものに感じられるのだろう。
「あの、それは……」
アイネの問いに、クラブ部員が弁解しようとするが、それを遮ってルイーゼが答えた。
「いえ、違うのです。アイネ様。これは恋慕ではありませんのよ。恋慕というものを超えた尊い感情……そもそも、推しというのは唯一のもの。一等特別な感情を抱くもの。推しに対しての感情というのは三者三様。推しというのは非常にデリケートな存在なのですわ。推しがいらっしゃる方が、推しに対して一様に恋慕を抱いているという考えは、少し間違っているのではないかしら。少なくとも、ここにいる方々は違います。私の定義としては、推しというものは神聖で、ただそこに存在していることに感謝を捧げ、見返りなんてなくたって無償の愛を注ぐ対象、宗教、信仰、救い、生きていくために無ければならないものなのですわ。それと……」
「……あの、すみません、もう結構です。何だか頭が痛くなってきました。あなたは婚約者がいないらしいですから、あなたに関してはどうでもいいんです。けれど、問題は婚約者がいるのにも関わらず、そんなことにうつつを抜かしている彼女たちです。口では何とでも言えますよね。彼女たちが恋慕していない証拠などどこにもありませんし。けれど、少なくとも好意的な感情を抱いているという証拠は提示できます」
まさかここで『あなたは婚約者がいない』などという言葉が発せられると思っていなかったルイーゼは大変なショックを受け、一瞬息も忘れて硬直する。いくらでも返す言葉は用意していた筈であったのに、言い淀んでしまう。
「それは……」
「お相手のぬいぐるみをわざわざ手づから作ったり、自分とお相手を小説に登場させていらっしゃるんですよね?……これなんかはもう確実な証拠になると思いますが」
「でも、実際にその推し…お相手に対して、直接的な行動は起こしていないのですわよ?もし恋慕を抱いていたとしても、お相手に対しての直接的な行動を起こさなければさして問題にはならないはず。……違いますか?」
「……それでも!彼女たちには婚約者がいます!」
「……言い訳に聞こえるかも知れないですけれど、彼女たちだって、自分の意志で婚約したわけではないのですよ。親の都合で、婚約させられて、それがもし意にそぐわなくたって、彼女たちはその相手と一生を添い遂げなければならないのです。わたくしたちは、この場所だけで、密かに推しを愛でているだけなのです。決してこの部屋の外ではそのようなお話は致しません。だからせめて、この学園生活の間だけでも、許してはいただけないでしょうか?」
「…それでも、私は許せません。今日はここで失礼させていただきます」
アイネは吐き捨てるように言うと、来た時と同様に毅然とした態度で帰っていった。だがその後ろ姿には、ほんの少しの迷いがあるようにも見えた。
「ルイーゼ様……」
部員たちは一様に俯き、あるいは瞳を潤ませていた。声を必死に殺し、しゃくり泣くものも居た。
「大丈夫よ、あなた達のことはわたくしが守るわ。そもそも、このクラブを立ち上げたのだってわたくしなのですから。設立者としての責務は果たさなくてはね。とりあえず、今日はここで解散にしましょうか。こんな空気でクラブ活動を続けるのも…ね。わたくしは少し考えなければいけないことが出来てしまったので、お先に失礼させて頂きますわ。それでは皆様、ごきげんよう」
虚勢を張り、震える手を必死に隠しながら、部室を出る。部屋の外にはルークが控えていた。ルイーゼの尋常でない様子を見たルークは慌ててルイーゼに駆け寄る。
「お嬢様……何があったのですか!先ほどのアイネ嬢に何か……」
「いいえ、違うの、わたくしが悪かったのよ、わたくしの考えが、甘かったから……」
「ともかく、顔色が悪いですよ!それに、こんなに震えて…保健室へ行きますか?それとも自室にお戻りに……」
「部屋に、戻ろうかしら……付いてきてくれる?ルーク」
「畏まりました」
もたつく足元で、一歩一歩歩みを進めていく。まだ緊張状態が解けていないのか、すぐに足が縺れてしまう。
「危ない!」
足が縺れ、転びそうになるたびに、ルークがそれを補助する。
「お嬢様、お手を」
「手……?」
ルイーゼはルークの腕に腕を絡める。ルイーゼの手は氷のように冷たかったが、ルークの体温に触れ、二人の温度が溶け合っていく。
ルイーゼは生まれてこの方、激しい感情というものに触れることがなかった。
それは、前世でも、今世においても。周りの人々に、優しく、おくるみに包まれて生きていた。悪く言えば、ぬるま湯につかって生きていたのだ。
けれどアイネ、彼女は悪意があってこんなことをしたわけではない
。アイネは彼女なりの正義に則ってルイーゼに勧告しただけだ。彼女たちの立場が危ぶまれてしまうことにもなる、だから、やめた方がいいのではないかという、勧告。
どちらが正しいわけでも、悪いわけでもない。
ただ、人にとっての正義や悪が必ずしも一致しないというだけで。
「わたくし、どうしたらいいのかしら…クラブ活動のこともそうなのだけれど、あのね、わたくし、入学してから毎日欠かさずメルにお手紙を送っているのよ。でもね、返事が来たことはただの一度だってないの……本当にわたくし、嫌われてしまったのかしら……でも、それでも、わたくしは……」
とうとう顔を手で覆って泣き出したルイーゼに、ルークは声を掛けられなかった。ただ寄り添って歩むことしか、彼には。
ルークはただ立ちすくむ。
幼子のように無垢なまま、ぽろぽろと瞳から涙を零すルイーゼから目を背け、推しには見返りを求めないというルイーゼが、メルからの返事が来ないことに嘆き悲しむことに対しての矛盾に気付く日が来なければいいのにと、密かに願った。
寝台の上に横たわったルイーゼは、緊張状態から解放され、張りつめていた糸が切れてしまったかのように、眠りに就いてしまった。
「お嬢様……」
ルークは、寝台の上で魘されるルイーゼの髪を撫ぜる。
「どうして……彼なのですか」
「ん……」
「私では、駄目なのでしょうか」
ぽた、とルークの手の甲に雫が落ちた。ルークは自分が泣いていることにも気付いていないようで、自身の頬を伝う水滴に、ようやく自分が涙を零していたことに気付いたようだった。
「あれ……はは、何で……」
雨粒のようにひたひたと落ちる雫をルークは指先で拭い、唇を強く噛みしめ、ただルイーゼが目覚めるまで、傍にいた。
「お慕いしております。お嬢様」
小さく呟かれたその声は、誰に届くこともなかった。