最終回
志十菜の目的地は自宅らしい。病院から出て、すぐ近くの公園に周辺の地図があり、志十菜はそれを見て、自分の位置を確認した。歩いて30分くらいはかかりそうだ。
志十菜は「よし!」と気合を入れて歩き出した。天気が良く、朝の涼しい風が肌をなでる。散歩には最適の日だ。歩くたびに体が痛まなければだが。
十分くらい歩くと、志十菜の息が荒くなってきた。どうやら、包帯のせいで暑いようだ。涼しい風も包帯に防がれ、ほとんど恩恵がない。元から運動神経がなく、それでいて負傷中の志十菜は、ただ歩くだけでも沢山汗をかいた。履いてるものが病院のスリッパだというのも要因の一つだろう。自宅のアパートに着く頃には包帯から汗が滴るほどになっていた。アパートの影に入り、ひとまず呼吸を整えた。
アパートの一階には大家が住んでいる。住民に何も言われなければ何もしない、言われればめんどくさそうに仕事をする、まぁ適度な距離感の大家だった。
志十菜は大家の部屋のチャイムを鳴らした。部屋の中からチャイムの音が聞こえ、人が歩いてくる音が、かなり奥から聞こえる。自分の部屋もこのくらい音が漏れてるなら、私が殴られてる音とか叫び声なんて、丸聞こえだっただろうと思うと、何か恥ずかしい気持ちになった。全裸でその辺歩いてるようなものだと思った。まあ、全裸で走ったのだが。
中から出てきた大家は意外と若く、三十代くらいのオヤジだった。ほかの仕事もしているのだろうか? 志十菜を見ると、驚いた顔をして、「あれ? 桜木さんトコの子だよね? 退院したんだ」と明るい反応をしてくれた。説明する手間が省けたのはいいが、志十菜はこの人を知らない。アパートの前で人に挨拶することはあったが、他人の顔を見るのは怖かったので、目を合わせられず、顔なんて覚えられないのだ。
「あの、帰ってこれたんですけど、家の鍵が無くて」
「ああ、そうか。お父さん、今、警察だからね……合鍵貸してあげるよ。お父さんが帰って来たら返してね」
「いえ、一度開けてもらえれば、ランドセルの中に予備の鍵があるので」
「ああ、了解了解。じゃあいこうか」
大家はサンダルを履き、志十菜とともに三階の自宅へ上がっていった。
「ねぇ、志十菜ちゃん。なんで家に父親がいないってわかったの?」
「いや、上がってから降りるのがめんどくさかったから、確認しないで大家の所行ったの」
なるほどである。
大家は鍵を開けると「どうぞ」と言い、志十菜の礼を聞いて帰って行った。
部屋の中は暗く、志十菜の印象よりももっと暗くなっていた。外が明るかったから、そのギャップもあるかもしれない。中まで歩いて行くと、血を拭いた跡がある。志十菜が飛び降りた後、父親がまずいと思って慌てて拭いたのだろう。フローリングの隙間に血が残っているし、天井に飛び散った血は拭けていない。志十菜は、慌てて血を拭く父の姿を想像し、滑稽だと思った。
冷蔵庫の前に来た。ここにも血の拭き忘れがある。のどがカラカラの志十菜は、扉を開け、中からビールを取り出し、それを開けて飲んだ。やはりまずい。流しでビールを吐き捨て、水道から水を飲んだ。
「ビール開けちゃって、お父さんが帰ってきたら怒るよ」
「うん、そろそろ帰ってくるかもね」
妖精の言葉にも志十菜は動じず、電話の下の引き出しからハサミを取り出した。そして洗面所まで行き、頭と顔の包帯を取り、全裸になってから、髪を切り始めた。髪が床にパラパラと落ちる。妖精は、志十菜の行動に驚きながらも「せめて新聞か何か引きなさいよ。お父さんに怒られるよ」と言ったが、志十菜は「大丈夫だから」と言うだけだった。
髪をベリーショートに切り終えると、志十菜は「よし」とハサミを洗面台に捨て置き、自分の腕や足や胴体を眺めた。包帯に髪がついてしまっている。それを見ると、ハサミをまた拾い、包帯を全て切り捨ててしまった。
それが終わると、志十菜はまとわりついた髪を流すためにシャワーを浴びた。バスタオルで体を拭き、服を着て、洗面台の前に立ち、鏡の自分を見た。
短髪になった志十菜はおでこがよく見えるようになった。左おでこの、縫われた傷もはっきり見える。左目の周りが赤黒いのが少し目立つが、時間とともに消えるだろう。
「よし、これでオーケー」
志十菜はそう言うと、早歩きで、風呂場や居間、トイレの戸締りを確認した。「一体何やってんの?」と言う妖精の質問には「面白いこと」と答えておいた。台所では、コンロの上に上がり、換気扇の羽の隙間にタオルを何枚も押し込んだ。そして、コンロと壁の隙間の足元にある、ガス警報器のコンセントを抜き、最後に自分のランドセルをあさり、千円札と家の鍵を取り出した。
ここまでくれば、妖精でも何をしようとしているのかわかったが、妖精は、志十菜の有無を言わせない行動力に何も言えなかった。言えたとしても言葉で止めることは不可能だろう。志十菜は妖精の予想通り、ガスコンロの元栓を開け、ホースを抜いた。元栓の周辺の匂いを嗅ぎ、ガスが漏れてる事を確認すると、志十菜は「うひひ」と嬉しそうに笑い、玄関に走って行き、自分の靴に履き替え、外に出た。
外に出た志十菜は、一度、この前父といったスーパーの方を確認し、鍵を閉めた。「ガチャン」という心地の良い音が響き、志十菜はそれを聞いて、目を閉じ、悦に浸った。まるで部屋の中に宝物を閉じ込めたような気分だった。
志十菜は妖精に視線を向け。
「一度やってみたかったの」と言い、階段を駆け下りて行った。
志十菜は自宅から見えるスーパーに一直線に走って行った。スーパーの前に置いてあるベンチから、自宅が見える事を確認すると、そこに座り込み、地面につかない足をぶらぶらゆらし始めた。自宅の方を見つめ、今か今かとワクワクしているのが妖精にも伝わってくる。
しかし、その期待は裏切られた。一時間たっても自宅には誰もこない。昼飯を買いに来た客で賑わうスーパー。志十菜の目の前をあらゆる人間が通り過ぎて行く。その人間たちに視界を邪魔されながらも、志十菜は飽きもせず自宅を見続けた。
「ねぇ、今日はお父さん帰ってこないんじゃないの?」妖精は勝手に標的は父だと思っている。実際そうだ。
志十菜の視線は、自宅を睨みつけて離さなかった。父が家の中に入れば、タバコを吸う。それが起爆スイッチだ。早く見たい、父の焼け焦げた死体が見たい。アパートが吹き飛んで、自分の泣き声を無視した奴らを困らせたい。早くしろ。
妖精は志十菜が全く会話をしてくれないので、暇で仕方がなかった。取り敢えず志十菜の頭に乗ってぼーっとしていたが、ふと面白いことを思い付いた。父が家に帰って来た瞬間に代償を取るのをやめる。そうすれば、志十菜の人格は元に戻る。人格が戻った志十菜は、ガスが充満した家に入っていった父にどんな反応をするだろう? 自分のした事に後悔し、慌てふためくだろうか? 泣きわめくだろうか? 想像するだけで笑顔が溢れてしまう。妖精はその想像を楽しみながら、父が帰ってくるのを待った。
客の出入りが落ち着いて来た頃、アパートに父が帰ってくるのが見えた。距離が遠くて小さくしか見えないが、あれは絶対に父だと確信した。志十菜は立ち上がり、自宅を凝視し、妖精は左手に力を込めた。
父は鍵を開け、自宅に入っていった。志十菜はそれを見ながら「よし、よし」とつぶやいている。
それを見た妖精は、志十菜の視界に割り込んで、勿体ぶって言った。
「ごめんね志十菜ちゃん。時間が来ちゃったみたい」
妖精は志十菜に向かって左手をかざそうとした。代償の解除行動だ。すると、志十菜は素早く妖精を捕まえ、その左腕を引っこ抜いた。コンセントを抜くように簡単に抜けた。妖精は一瞬、何が起こったか分からず、数秒の間自分を握りしめている志十菜を見つめ、やがて痛みを感じ、叫びだした。
志十菜は妖精を両手で掴み直し、睨みつけた。
「妖精さん、可愛そう。いくら叫んでも、誰も聞いてくれないんだもの」
妖精は叫びながら、言葉になる一歩手前の罵倒を志十菜に浴びせている。
「今からお父さんが死ぬところを一緒に見よう」そう言い、志十菜は妖精を自宅の方へ向かせた。妖精を握る力はだんだんと強くなり、パキパキと骨を折る感触が手に伝わって来た。
「ごめん! ごめんって! 何か気に入らない事したなら謝るから! 離して!」
妖精の声は激痛の悲鳴とともに出ていた。
「ほら、お父さんが死ぬところ見なよ。妖精さんはもう用無しだよ」
父は家に入った時、すぐガス漏れに気づいた。息を止め、元栓を閉めて、台所の窓を開け、玄関も開けた。玄関を開けたところは志十菜にも見えていた。その後、台所の椅子に座りタバコを咥え、ライターを取り出し、着火しようとした。つける瞬間、「あ、つけちゃだめだ」と思ったが止められなかった。ついうっかり、いつもの癖でガスは爆発した。間抜けな最後である。
スーパーからもそれは見えた。轟音が響き、周辺の人は一斉に注目した。アパートは燃え上がり、煙が空へ登っていった。志十菜はそれを見た後、目を閉じ、ゆっくりと快感を味わった。まるで病院で食事をしている時のようだ。
「もう……最高……。妖精さんもそう思わない?」
妖精を自分に向き直させ、志十菜は笑顔を妖精に当てつけた。
「何でお父さんを殺しちゃったの? これから頑張れば、愛してくれるかもしれなかったのに」
妖精は自分の楽しみでしか行動していなかったのに、今になって初めて志十菜の感情を代弁していた。志十菜も妖精の言い分はわかる。自分はいつだって父の愛が欲しいという動機で行動し、努力して来た。だからこそ、その感情に言いたいことがあった。
「その感情がいらないんだよ」
志十菜はそう言うと、目一杯口を開け、妖精の頭に噛み付いた。妖精の悲鳴を聴きながら頭蓋骨を砕き、歯を食い込ませたまま妖精の首を引きちぎった。すると、冷たいクリームが舌を撫で、ミルクの甘い香りが鼻に抜けた。甘さが口全体に広がるのを志十菜は目を閉じて味わった。
目を開けると、志十菜の手にはソフトクリームが握られていた。コーンは握り潰されて、手には溶けたクリームが大量に垂れていた。志十菜はそれを見ると、手についたクリームをなめ回し、コーンを食い尽くした。ポケットに手を入れると、千円あったはずのお金が700円になっていた。
アパートの煙に人々が注目している中、志十菜はため息をつき、スーパーに入っていった。スーパーの中は冷房が効いており、いきなり体の表面が冷やされた事で、志十菜はやっと、今まで自分が暑い場所にいたことに気づいた。トイレでベトベトになった手を洗い、入り口近くのファーストフード店の前に来た。昼をすぎて暇そうにしている女性店員に、
「すみません。ソフトクリーム下さい」と無邪気全開の声で言った。
店員はそれを聞くとにこりと笑い。
「あら、また? そんなに食べて大丈夫?」と聞いて来たので、
「今日は特別な日だから、良いって父が言ってくれたんです」そう言い、300円を渡した。
「そうなんだ、よかったねぇ〜」と店員はお金を受け取り、ソフトクリームを作り出した。志十菜はその光景を嬉しそうに見ている。隣で子供が母にソフトクリームをねだっているのが聞こえた。
志十菜はソフトクリームを受け取り、店員にお礼を言って、さっきのベンチに戻って行った。スーパーの前の道路を消防車が走っていく。スーパーの客たちはそれを見て楽しそうにしていた。
ベンチに座りソフトクリームを味わっていると、子供と母親がスーパーから出てきた。子供の手にはソフトクリームだ。美味しそうに食べている。
しかし、志十菜は確信している。
アパートの火災を見ている人の楽しみも、今の自分の楽しさには敵わない。子供が持っているソフトクリームも、自分が食べているソフトクリームには敵わない。
志十菜は今、ここで一番幸せな少女だった。
ソフトクリームを食べ終えた志十菜は、お腹いっぱいだった。そろそろ病院に帰ってやってもいいけど、病院は退屈なので、学校の図書室に行って、本を借りてから行こう(無断で)。そういえば、妖精が出てきたあの本、途中までしか読んでなかった。よし、それにしよう。
短髪で、白いTシャツ、黒い短パン。身体中が傷だらけの志十菜は夕日に背を向けて歩き出した。