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アパートの駐車場に着くと、三階の自宅から、あの怪物が勢いよく扉を開き、八つ当たりするように扉を閉め、階段を降りて来るのが見えた。どうやら志十菜を犯せなかったことに腹を立てているらしい。志十菜は停めてあった車の陰に隠れ、しゃがみこんだ。
他人に姿が見えない妖精は、怪物の行動を堂々と確認した。
「ちょっと、あいつこっちに来るよ!」
志十菜の鼓動が高鳴った。その言葉の通り、機嫌の悪そうな足音はこちらに向かってきた。足音の反対側にはもう車は無かった。いっそアパートの裏側まで走っていくべきか? しかし、裸足とはいえ音を立てたら見つかってしまう。音を立てなくても、あいつの身長なら、車から少し離れただけでこちら側が見える気がする。
「志十菜ちゃん。あいつの車どれだろう? もしかして、今隠れてるこれじゃないわよね?」
志十菜のいる場所は車の運転席側だ。もしこの車が怪物の車なら、絶対に見つかってしまう。志十菜はその場にとどまっていた。この車が怪物の車でない事に賭けたのだ。足音はすぐそこまで来ている。実際には車二つ分離れているが、志十菜には自分の頭の中で鳴っているように聞こえていた。
「あ、だめだ。となりの車通りすぎた」
妖精の言葉に、志十菜は悲鳴を漏らしそうになった。それに気付き、志十菜は今更自分の口を塞いだ。「そんなところにいたのかい? さあ体を洗ってあげようねぇ〜〜」そんな幻聴が聞こえて来た。
「志十菜ちゃん、逃げた方がいいって」妖精が袖を引っ張った。
志十菜は、あまりの恐怖に妖精の声が届いていなかった。そうこうしている間に、怪物が志十菜の隠れている車の前に立った。志十菜は口を抑えたまま硬直している。
「クソが!」
怪物の怒声が響いた。見つかったと思い、志十菜は悲鳴をあげ、怪物の方を見た。しかし、その怒声は車のワイパーに挟まっていた紙に対するものだった。アパートの大家からの、駐車違反の警告だった。自分は見つかっていない。口を塞いでいたお陰で、悲鳴も聞かれなかったし、怪物は紙に集中している。今しかない。
志十菜は怪物の反対側へ回り込み、その場に寝転んだ。車の下から、怪物の足が見える。「今日だけだってのに、舐めやがって!」怪物の声が聞こえる。
(はやくいけ、はやくいけ、見つかりませんように、見つかりませんように)
その想いは、志十菜の頭の中でさえも、言葉になっていなかった。心の声さえ見つかる原因になりそうだったからだ。
怪物が車に乗り込む音が聞こえて、次にエンジンがかかった。志十菜の顔に排気ガスがかかり、志十菜は思わず顔を背けた。車は去って行った。
車が去るのを見送り、志十菜は立ち上がって、胸や腹についた砂をはらった。息が荒くなっており、よほど緊張していたのがわかる。
「いやぁ、危なかったけど、これで家にあいつはいないって、はっきりしたわね」と、妖精はあっけらかんとして志十菜のそばに飛んで来た。志十菜は「うん」と返事をして、アパートの階段を登って行った。
扉には鍵がかかっていなかった。志十菜は恐る恐る扉を開け、ゆっくりと中へ入って行った。
台所に父が座り込んでいた。椅子ではなく床にである。テーブルの脚を背もたれにして、うなだれている。
「あの……お父さん?」
父の顔を見た志十菜は、息が止まった。顔面に殴られたと思われる跡があった。おそらくあの怪物にやられたのだろう。
父は顔を上げ、志十菜を睨みつけて来た。
「体を洗われるのがそんなに嫌か?」
「え?」
父は勢いをつけて立ち上がり、志十菜に迫って来た。
「体を洗うだけだぞ! それだけで金が貰えたんだぞ!」
本当に体を洗うだけで済んだとはおもえなかったが、父は友人とそういう約束をしていたらしい。父は志十菜の髪を掴み、噛みつきそうな勢いで、顔を近づけた。
「こんな事でしか金を稼げないくせに! 逃げてんじゃねぇ!」
父は手で抑え込んだ志十菜の顔面に膝蹴りを喰らわせた。そして、そのまま髪を引っ張り、テーブルに志十菜の顔を叩きつけた。それも、何度も。
志十菜は、暴力を振るわれることは覚悟していた為、それに驚く事はなかった。しかし、自分が金を稼ぐ機会をみすみす逃していた、という事実に驚いていた。顔面をテーブルに叩きつけられながら、父が必死に働いて金を稼いでるというのに、自分は何もしていないと思い込んだ。実際は家事をして貢献しているのだが、褒められたことがない為、全く役に立っていると思えなかったのだ。
怪物に体を好きなようにさせていれば、自分も父の役に立つことが出来たのに、自分はそれを拒否してしまった。志十菜は自分を非難した。暴力を振るわれて当然だと思った。
覚悟のせいか酒のせいか、志十菜は痛みをあまり感じなかった。感じるのは自責の念と、頭を振り回される感覚、テーブルに顔面が打ち付けられる衝撃だった。自分の顔面がテーブルに当たる音の合間に、父の「畜生! 畜生! 俺だって……」という泣き声に近い言葉が聞こえて来た。
「ごめんなさい……」
志十菜は本心から謝っていた。役に立てなくてごめんなさいと、本気で思っていた。意識がなくなっても謝罪の言葉は止まらず、父の暴力も止まらなかった。
テーブルに叩きつけるのに飽きると、今度は志十菜を放り捨て、仰向けに倒れた彼女の頭に蹴りを喰らわせた。そして、椅子を持ち上げ、志十菜の顔面に向かって振り下ろそうとした。
サイレンが聞こえて来た。
いつ呼ばれたのかは分からない。志十菜が服を脱がされた時か、裸で飛び出した時か、それとも顔面にテーブルを喰らっている時か。
椅子を振り上げたまま、父は静止し、窓の外を見た。そして、意識を失っている我が子の惨状を見た。
「ああ、やばい。やっちまった」
そう言うと、椅子を置き、しばらくうろうろした後、その椅子をまた持ち上げ、台所においた。かなりうろたえている。そして、様子を見る為に、玄関から外に出た。
父が出ていってしばらくすると、志十菜は意識を取り戻した。自分の血だまりに驚くことなく、ゆっくりと起き上がる。鼻と口から、粘着性のある血が糸を引いていた。サイレンの音が響き渡る中、志十菜は周りを確認した。
台所のいたるところに、血が飛び散っており、冷蔵庫、コンロ、レンジ、壊れた炊飯器など、見渡すものすべてに志十菜の血が付いていた。中心のテーブルには血だまりができており、端から血が滴り落ちている。そこから引きずるように、志十菜まで血が続いていた。引きずられた血の横に、父の足跡が血で表現されている。
「あら、志十菜ちゃん、生きてたのね。魔法を途中で解いたおかげかもねー」
妖精は、志十菜が体も顔面も血にまみれているというのに、普段と変わった様子はない。
「まったく、父親のくせに子供を売ろうとするなんて、ひどいやつよねー。逮捕されて当然よ」
志十菜は、父が出て行った玄関を虚ろな目で眺めている。その間にも、頭や鼻や口から血が流れ落ちていた。白かったシャツは、もう赤い部分の方が多い。
「私のせいだ。私が自分の事しか考えて無かったから、お父さんに迷惑をかけちゃったんだ」
「はい? 何言ってるの? あの父親は普通じゃないわよ。糞よ。あなたは悪くないわ。まあ、頭は悪いかもしれないけど」
「私がもっといい子だったら、お父さんがあんなに困ることは無かったんだ」
妖精の言葉は、志十菜に届いていないようだ。
「あのね、志十菜ちゃん。あなたが馬鹿なのは、あなたのせいじゃないわ。親が馬鹿だからよ。あなたが罪悪感を感じることはないのよ」
志十菜は、血まみれの顔を真っ直ぐ妖精に向けた。妖精はその瞳を見て驚いた。その瞳は生気が無いが、今迄見た事が無いほど強い眼光を放っていた。
「妖精さん。私をいい子にして」
「いい子ってあんた……」
「誰にも迷惑をかけない子にして! もうお父さんに迷惑をかけたくないの!」
「魔法でってこと? 言っとくけど、その魔法は確実に死を招くわよ? 代償なんて待たずにね。それでも良いのならかけてあげるけど」
「いい! 死んでも良い! もう他人に迷惑をかけたくないの!」
妖精は、志十菜の強い意志に覚悟を感じ、深くため息をついた。そして「わかった」と言った。
「最後に聞くけど、他人に迷惑をかけない、いい子に、なりたいのよね?」
「うん」
「了解!」
妖精は右手を志十菜に向かってかざした。魔法は実行されたようだ。
その瞬間から、志十菜の頭の中に、不思議な思考が駆け巡り始めた。
このまま生きていれば、食費、学費、衣類費、がかかり、父に迷惑がかかる。
学校に行けば、体と頭の弱い志十菜は、先生に面倒をかけてしまう。
道を歩けば、他に歩いてる人の邪魔になってしまう。
トイレに行けば、志十菜が使っている最中は他の人は使えないし、流す水代もかかる。
図書室で本を読めば、本を買う金がかかるし、志十菜が読んでいる間は、他の人が読めない。
息をすれば、その分他の人の空気を奪っていることになる。
志十菜は気付いた。生きているだけで、自分は迷惑な存在だと。
「死ぬしかない!」
志十菜はそう言い、最後の力を振り絞り、ベランダへ通じる戸へ向かって行った。その目は、ベランダの向こうの満月を睨みつけている。両足をひきづるように歩き、戸まで辿り着き、鍵を開ける。鍵が血で滑って、なかなか開けられなかったが、その程度で決心は揺るがなかった。
「頑張れ! 頑張れ! これが終わったらもう頑張らなくて良いんだから!」
妖精は無責任にも応援している。
ベランダは居間の床より一段高い。戸を開け、ベランダの床に手をつきながら、足を上げた。今の志十菜にはそれだけでも重労働だ。呼吸が荒く、息を吐き出すと、血も同時に吹き出してしまう。
ベランダの手すりは金属製で、志十菜が掴むと、塗装がパリパリと剥がれ、それが手にこびりついた。手すりを頼りに、体を立ち上がらせる。しかし、ここからが問題だ。目的地は手すりの向こう側なのだ。志十菜は手すりの一番上に両手をかけ、思い切り体を引っ張り上げ、左足を出来るだけ上げた。
「あとちょっと! あと少し! お尻丸見えだけど、頑張って!」
妖精は人の頑張りに水を差すのが得意なようだ。確かにTシャツしか着ていないから、脚を上げれば見えてしまうだろう。志十菜は、妖精の言葉に吹き出しそうになり、一瞬力が緩んだ。しかし、そこは気合で足を手すりの上部に引っ掛けた。足を掛けることが出来れば、あとは簡単だった。足の力で体全体を手すりに乗せ、体重を利用し、手すりの向こう側へ降りた。体の向きは、部屋側である。後は手を離すだけで、自然と三階下の地面に叩きつけられるだろう。
「はあはあ、やった」志十菜は、息を切らしながらも、達成感に震えていた。
「後はここから落ちるだけだね。志十菜ちゃんも根性あるじゃん」
「へへへ、ありがと」
志十菜は振り返り、月を眺めた。
「満月の夜に死ねるなんて、凄い劇的ね。もしかして狙ってた?」
妖精はこんな時でも軽口をやめない。でも、そのおかげで志十菜は暗い気持ちにならずに済んだ。
「本当に綺麗な月。CGみたい」志十菜はつきを見ている。
「じゃあ、志十菜ちゃんに最後の質問。もし生まれ変わったら、何になりたい?」
志十菜は妖精を見て、にっこりと笑い、
「妖精さんになりたい」と言った。
妖精はこの答えに違和感を感じた。自分に憧れる場所なんて無いだろと。ああ、そうか……CGのほうの妖精か。そう納得した。
「志十菜! おい志十菜!」
父の声だ。志十菜を探しているようだ。血の跡を辿り、すぐにベランダにいることに気付かれた。ベランダの志十菜と、居間の父の目が合った。
「志十菜、そこで何してる? こっちへ来い」
志十菜は、父に対して笑顔で手を振った。最初は片手で。次に両手で。
志十菜は落ちて行った。その最中、父親がベランダに飛び出してきて、自分をつかもうとして来たのが見え、少し嬉しく思った。人に心配をかけて、嬉しくなるなんて、やはり自分は碌でもない人間だと思った。でも、迷惑をかけるのはこれで最後だ。志十菜の心は、人生で最上の安らぎに満ちていた。
アパートに轟音が響いた。志十菜が駐車場に停めてあった車の上に落ちた音である。
野次馬が集まってきた。凹んだ車の屋根に志十菜の血がたまり、滴り落ちる頃にパトカーが来て、その後救急車が来た。野次馬の中から、「やっぱりあの家は子供を虐待してたんだわ」とか「可哀想に」とか、楽しそうな話し声が聞こえて来た。妖精はそのイベントを上空から見つめながら、「もし生きていたら、代償とってあげるからね」と呟いた。
数日後の病院。
志十菜は病室で眠っていた。頭と顔中に包帯が巻かれ、右目と口しか出ていない。歯も何本か折れているようだ。布団で隠れている体も、包帯だらけであることが推測できる。特に酷いのは、父にやられた頭への攻撃で、脳に異常が出るかもしれないという事だ。
妖精は、眠っている志十菜の鼻の穴に手を突っ込んだり、話しかけたりしたが、まったく反応が無く、暇を持て余していた。生きていける保証がないと、代償を取れないため、生死の境をさまよっている状態ではどうすればいいか分からないのだろう。
さらに数日後、志十菜は、助かるかどうか危うい状態だったようだが、今になって容態は落ち着き、命は助かる確率が高くなったようだ。病室も一般病棟に移され、後は目を覚ますのを待つだけとなった。
志十菜のいる病室は四人部屋で、他に子供が三人いた(全て女子。ここは一応女の子用の病室のようだ)。志十菜のベッドは部屋の奥の窓側だった。
昼間、志十菜が寝ている隣では、他の子供にお見舞いの親や友人達が来ていたが、志十菜には誰も来ない。暇を持て余した妖精は、他の子供が読んでる本を覗き見したり、ゲームをしている子供の操作する指を蹴飛ばしたり、子供の親がリンゴを剥くと、それを一口だけかじったりした。しかし、妖精は退屈過ぎて、我慢の限界だった。志十菜が目覚めなくても、生きられる事は決まったのだから、代償を取ってもいいはず。妖精は、志十菜から代償を取ることに決めた。
「寝ているあいだに酷い事が起こるかも知れないけど、起きてる時に起こるよりはマシよね?」
そういい、妖精は左手を志十菜にかざした。 いつも通り、見た目には何も起こらない。が……
妖精が手をかざして2秒後、志十菜がいきなり目を開いた。 その目はキョロキョロと辺りを見回し、妖精を発見すると、
「あ、おはよう、妖精さん」と、何事も無かったように言ったのだ。
「え? うん。おはよう」妖精が返事をすると、志十菜は起き上がり、
「あれ? 妖精さん、小さくなってない? 髪も伸びてるし」と言った。
確かに妖精は小さくなっていた。最初は30㎝くらいあったのに、今はその半分しか無い。髪も短髪だったのが肩甲骨あたりまで伸びている。妖精は、今初めて自分の変化に気付いたようだ。
「まあ、飛びやすいからいいし、髪は伸びるわよそりゃ。それより、志十菜ちゃん。具合はどう?」
「うーん……なんか動きにくい」
そう言うと、志十菜は自分の身体を確認した。
「これが邪魔なんだ」
志十菜は、何のためらいもなく腕に付いていた点滴を抜き、胸や腕に付いていた機械を外し、床に叩きつけた。包帯も気に入らないようで、顔の包帯を取り、腕の包帯も取ろうとした。しかし、腕の包帯は片手ではうまく取れない、ならば食いちぎろうと、噛みつき始めた。だが、歯が抜けているので、うまく噛めずにいた。
(志十菜ちゃんは代償のせいで、少し悪い子になってるのね)
そう思った。魔法が人に迷惑をかけない良い子になりたい。それなら、代償は他人に迷惑をかける悪い子。「まあ、そんなもんでしょうね」妖精は気楽に考えた。
志十菜が心電図メーカーを外した事で、センサーだかアラームだかが反応したのか、看護師(女性)が慌てて病室に来た。病室の入り口から、目覚めている志十菜と目が合い、看護師は、「よかったー」と安堵のため息をもらしながら、志十菜の寝ているベッドまで歩いて来た。
「おはよう、気分はどう?」
「包帯をとりたいの」
「あぁ、ダメよとっちゃ」
看護師はかなり驚いたようだ。志十菜が目覚めた事にではなく、目覚めた後の行動にだ。アパートの三階から落ちて、今まで意識不明だった子が、いきなり起き上がり、包帯を食いちぎろうとしている。
看護師は志十菜を寝かし、腕を抑えて、包帯を取りたがる志十菜の衝動を抑えようとした。そして、胸につけたインカムに「医師を呼んでください。〇〇号室の桜木さん目覚めました」と言った。それが終わる頃には志十菜の衝動は収まっていた。
看護師は、志十菜に巻かれた包帯を確認し、ずれてしまったところを直し始めた。頭と顔に巻かれていた包帯は完全に取れていて、志十菜の膝の上に散らかっていた。それを見た看護師は、「あーぁ」とため息をつき、その包帯を拾い、
「ねえ、なんでそんなに包帯を取りたいの? 頭の包帯取っちゃって」看護師が聞いた。
「傷口が見たいの。どんな風になってるのか見たい」
志十菜は、飛び降りる前とは打って変わって堂々と喋っていた。看護師の目をまっすぐ見て、自分の異様な欲望を主張している。
「そんなに見たいなら、自分の顔みる? 酷い傷よ? 見たら気絶するかもよ?」
「見たい! 鏡あるの?」志十菜は目を爛々と輝かせている。これも見たことの無い表情だ。
看護師はポケットから、小さな鏡を取り出し、「秘密だからね?」と志十菜に渡した。「ありがとう!」志十菜はそれを受け取り、自分の顔を見た。歯が何本か折れており、左目のまわりは赤黒く変色していて目は真っ赤に充血している。おでこの左側には、3センチはあるだろうか。切り傷が縫われていて、糸がまだ抜けていない。
「ウワァ! すごい!」
志十菜は鏡に写った自分をえらく気に入り、赤黒い瞼や、まだ糸の抜けていない縫い跡を指でなぞった。特に赤く充血した白目部分は、「まるでモンスターみたい!」と喜んだ。
「あ、あまり傷口にさわらないでね」
看護師からそう言われると、志十菜は「わかった」と言い、手を膝に置き、鏡を眺め続けた。ふと看護師が足元を見ると、点滴や心電図モニターのコードが外されていることに気づき、そのコードをまとめ始めた。
ひとしきり鏡を眺めた志十菜は、コードをまとめ終えた看護師に鏡を返し、ベッドを降りようとした。
「ん? どこに行くの?」
「トイレとうがい。口の中がなんだかキモいの」
「ちょっと待って、私がついて行くから」
看護師は志十菜の元気さに驚いていた。身体中痛いはずだし、意識不明から目覚めた患者が、30分も経たずにここまで行動的になるのは初めてだからだ。
トイレへ向かう志十菜の歩みは、まるで仕事をバリバリこなすOLのように、まっすぐ前を見て、大股で早歩きだ。伏し目がちな目で、地面を見ながら歩いていた面影はない。その横について歩いている看護師が「痛くないの?」と尋ねた。
「痛いよ。笑っちゃいそう」と志十菜は笑顔で答えた。
「志十菜ちゃん、ドMになっちゃったの?」妖精がふざけた。
「うん、自分の顔をおかずにオナニー出来そう」志十菜は妖精にだけ聞こえるように言った。
この言葉に、流石の妖精も引いてしまった。志十菜の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかったのである。それと、下ネタを言うのは好きだが、言われるのは苦手という自分勝手な理由もあった。
トイレで志十菜がウォシュレットに驚き、それを妖精がからかった後(つまり妖精はトイレの中までついて来た)、医者の診察があった。診察は志十菜が寝ていたベッドで行われた。
ベッドを囲むカーテンが閉められ、上半身を裸にし、看護師(女性)と医師(男性)に囲まれた。本当は服をめくり上げるだけでいいと言われたが、志十菜は脱いだ。窓際のベッドだった為、医師の白衣が太陽を反射し、目がチカチカした。志十菜は窓の向こうから、自分の裸を見ようとしてる変態がいる事を期待したが、向こう側には別の病棟があり、窓といえば曇った突き出し窓(枠の上部を支点に開く窓)ぐらいしかなく、しかも全て閉じていた。
体は問題無いと言うことになった。包帯を巻き直され、後日、脳のチェックをする事を伝えられた。
もちろん、問題ないというのは、安静にしていればの話である。
診察が終わった後、志十菜はお腹が空いていたことに気付いた。今まで意識不明で、血管からしか飯を食っていないので、胃は空っぽだ。その旨を看護師に伝えると、昼飯の時間は過ぎていたが、食事制限が必要な患者ではない事もあり、食事を用意してもらえる事になった。「そのかわり、ちゃんと大人しく待っていてね。包帯もとっちゃダメよ」志十菜は「うん」と答えた。
食事を待っている間に、妖精は絶え間なく志十菜に話しかけて来た。志十菜が眠っている間、余程暇だったらしい。
「志十菜ちゃん、あんたよく生きてたわね! 死んだと思ったわよ! だって、めちゃくちゃ血出てたのよ! 水道代に換算したら10万円くらい行くんじゃないかしら?」
「あはは、10万円の水道代って30万リットルくらいだよ。私の体重超えてんじゃん」
計算したのだろうか。志十菜は妖精の軽口にさらりと答えている。それは、同じ病室の子供達には奇妙な事と写った。なぜなら妖精は志十菜以外には見えないのである。となりの子が、持っているゲームを放置し、呆然と志十菜の方を見ている。「ねえ、誰と話しているの?」ゲームにつながっていたイヤホンを耳から外し、聞いて来た。
志十菜は冷めた目でその子を見返し、答えた。
「妖精よ。知らないの?」
「妖精なんていないじゃん」と言いつつあたりを見回してしまう。
「イマジナリーフレンドってやつよ。子供なら経験あるでしょ?」志十菜は相手を軽蔑した表情で見ている。
質問して来た子は、わけのわからない単語を押し付けられ、その処理に困り、こいつは手に負えないと判断したのだろう。「あ、うん」と返事をして、イヤホンをつけ、ゲームを再開した。
その後も志十菜は人目を気にせず妖精と話した。しかし大人が来ると、看護師でも、一般人でも、妖精との会話をやめた。大人に、頭が狂っていると思われるのは厄介だと判断しているようだ。
「よかった。目覚めたみたいだ」
不意に部屋の外から声が聞こえた。この部屋にいる子供達で、意識不明だった子はいない。つまり志十菜に向かって言っているのだ。しかし、その声の主は見たことがない。
声の主は二人組で、どちらもスーツを着ていた。その二人は他の子供達を怖がらせないように、一人一人にニコニコと挨拶をしながら、部屋の奥の志十菜のベッドの前までやってきた。片方は若く、短髪で中肉中背で爽やか、ヒゲが薄い。もう片方は50歳くらいに見え、無精髭が生えていて、背が小さく、少し強面だった。
「あ、刑事さん、また来たの?」
どうやらこの二人は警察関係者のようだ。看護師の話によると、志十菜が入院してから何度か来ていたらしい。刑事達は志十菜に圧力をかけないように、若い方はベッドの横にしゃがみ、志十菜に目線を合わせて、強面な方は少し離れたところに置いてあった椅子に座った(顔が怖いからだろうか?)。
刑事たちは他愛の無い日常会話や、天気の話を志十菜にふり、その後、ある程度志十菜の緊張が解けたと思った頃に、本題に入った(志十菜は初めから緊張してなかった)。
「君がベランダから飛び降りた時のことなんだけど、実は君のお父さんに疑いがかかってるんだ」若い方が志十菜の顔を見て、話し始めた。
「君がお父さんに投げ飛ばされたのではないか? 或いは、脅されて飛び降りたのではないか? という疑いだよ。その他に、君に対する暴力だね」
実に当然の疑いだ。あの時、自宅には父しかいなかったのだから。それよりも、自分に暴力を振ったのは父親だと確定してないことに志十菜は驚きを感じた。父が自白していないのだろうか? あの状態からどうやって言い訳をしているのだろう?
志十菜は刑事達の質問を聞きながら、ゆっくりとうつむいていき、伏し目がちになっていく。それを見た刑事達は、後ろにいる看護師の無言の圧力により、「思い出したくなかったら、無理しなくて良いからね」という言葉を吐いた。
「あ、あの日は……父の友達が……きて……」
志十菜はたどたどしく、何度もつかえながら、ゆっくりとあの日の夜の真実を語った。
志十菜の語った真実はこうだ。
父の友人が酒に酔い、自分を裸にしようとした。それを止めようとした父が殴られた。自分は裸にされ、友人の手に噛みつき抵抗した。すると、友人はキレて自分に暴行を加えた。自分はおそろしくなったので、ベランダに逃れた。ベランダまで友人は追いかけてきて、自分をベランダから投げ落とした。
志十菜はこの真実を、涙交じりに、しゃくりあげながら語った。そして、語り終えると刑事達から逃げるようにベッドに倒れ込み、大声で泣き始めた。それを見ていた妖精は、あーぁとため息をつき、
「志十菜ちゃん、なんか違くなーい? 大丈夫? 全部あの豚のせいになってんじゃん。やっぱ頭打っておかしくなってんじゃないの?」
と、志十菜の顔を覗きにきた。「大丈夫?」と心配するふりをして、泣き顔を覗くのが目的だった。妖精がニヤニヤしながら志十菜の顔を覗くと、
笑っていた。
志十菜は笑っていた。目は腕で隠しているが、口は確かに口角が上がり、笑っている。妖精と目が合うと、ペロっと舌を出した。妖精は背筋に悪寒が走った。理由は志十菜の表情だったが、なぜその顔に悪寒が走ったかはわからない。
志十菜の泣き真似に、刑事達はバツの悪さを感じたようで、立ち上がり「ありがとう。これで悪い奴は逮捕出来るからね」と志十菜の肩をポンと叩き、去って行った。志十菜の「ウッウッウ」という声は、ただ笑いを我慢しているだけだった。ちょうど笑いすぎて涙も出てきたようだ。
看護師は刑事達を見送った後、ベッドにテーブルを設置し、そこに食事を置いてくれた。「これ食べて元気出してね!」
「いやいや、おばさん! こいつ元気だから! 今人生で一番元気だから!」
妖精は聞こえないと分かっているのに、看護師に話しかけていた。さっきの悪寒を振り払うかのように大声を出している。志十菜は涙を拭くふりをしながら起き上がり、食事を見た。
メニューは、おかゆ、味噌汁、春雨の和え物、ゼリー。全てが少量だ。
「よく噛んで食べてね、あなたは病み上がりだから、いきなり食べるとお腹が痛くなっちゃうよ」
志十菜はそれに「今まさに暗い気分です」というような返事をして、「いただきます」と食べ始めた。
最初に味噌汁をゆっくりとすすった。口の中に味噌汁が入って来ると、味噌の香りが鼻に抜け、その後、味噌の味が口いっぱいに広がり、飲み込むと、食道、胃がふわっと暖かくなった。
「美味しい!」
志十菜は大声で叫んだ。周りの子供たちは驚いて、志十菜に注目した。声に驚いたのではなく、「美味しい」という意見に驚いたのだ。ほかの子供たちは、今日どころか、入院中の全ての食事を美味しいと思えず、うんざりしていたというのに、目の前の包帯グルグル少女は、その食事に感動し、夢中で食べ始めているのだ。これには看護師も驚いていた。病院の食事を美味しいという子供はいても、こんなに感動して食べる子は今までいなかったからである。
「うわ! このへんな細長いのも美味しい!」春雨だ。
「志十菜ちゃん、ゆっくり味わってね」
あまりの感動に、つい勢いが増してしまった志十菜に、看護師が言った。志十菜は、それを聞くと、正気を取り戻し、スピードを落とした。
看護師は、志十菜の行動を可愛いと感じ、ニコニコしながら仕事に戻って行った。
志十菜は、食べ物を口に入れるたびに目を閉じ、その味を味わった。周りの子供達に奇妙に思われながらも、それを気にする事なく存分に味わった。特にゼリーは、今まで味わった事のない味で、何の味かはわからないが美味しかった(ぶどうゼリー。実の甘味だけではなく、皮の苦味もあるため、子供には評判が悪い)。
食べ終わった志十菜は「ごちそうさまでした」を言い、食器を片付ける事にした。本当は、看護師を呼んで片付けてもらうのだが、目の前に食器があると落ちつかないという理由で、ナースステーションまで持って行って、どこに持って行くか聞いた。看護師は、どこに持って行くかの質問には答えず、食器を受け取り、片付けてくれた。
食事を終えた後は暇になり、病院を無駄にうろついた。看護師に見つかるたびに病室に戻されたが、病室に戻るたびに看護師の目を盗み、病院をうろついた。看護師の死角に入ったり、物陰に隠れるなど、だんだんと見つからずにうろつく方法がわかるようになり、夕方になる頃には、病室から出て、病院の入り口に行き、病室に戻るまで一切見つからなかった。しかし、病室にいなかったことは看護師にとがめられた。「いい子にしていないと、夕飯抜きにされちゃうよ」そう言われた志十菜は、「それだけはやめて!」と看護師に哀願した。看護師は志十菜の弱点をつかんでいる、という錯覚に酔いしれ、「じゃあいい子にしていてね」と言った。
志十菜は、看護師の手のひらで操られるフリをして、美味しい夕食を味わった。他の子供たちが不味い、と言って残すので、志十菜はお椀を持って子供たちのベッドを周り、いらない分をもらっていった。食べてからしばらくすると、腹が苦しくて、起き上がれなくなった。志十菜のお腹は、見た事ないほど膨らんでいた。妖精がその腹を見て、体当たりをかまして来たが、かまってられないほど苦しかった。
腹がぽっこり膨らんでる自分が窓に映っている。もう月が出ていた。
「おなかいっぱいダァ」志十菜はベッドから月を見ながら言った。
「昼まで寝てたのに、もう眠くなって来たよ」
「意識不明と寝る事って違うんじゃない? わかんないけど」
「明日はやらなきゃいけない事が沢山あるから、もう寝ちゃおうかな」志十菜は腹をさすっている。
「脳の検査だっけ?」
「それとは関係ないよ」
「え? じゃあ何?」
「秘密」
志十菜はそう言うと、眠りについた。妖精はつまらなそうに「何よー」と言いながら、志十菜の腹に寝そべり、一緒に眠りについた。
次の朝、早く寝たおかげか、志十菜は病室のどの子よりも早起きが出来た。
志十菜は、寝起きとは思えないほど素早くベッドから降り、トイレに行って用を足し、顔を洗った(包帯が巻かれていない部分だけ)。そして、病室に戻ると、向かいのベッドの子を見た。その子のために、親が用意したであろう服が、ベッドの横の椅子に置いてあった。志十菜はそれを盗み、着替えた。白いTシャツと、黒い短パンで、少し大きかったが、動くのに支障が出るほどではない。
着替え終わると、志十菜はベッドで寝ている妖精をつついて起こし、「妖精さん、行くよ」と手招きしながら、病室を出て行った。寝起きの妖精は、眠い目をこすりながらブーブー文句を言っていたが、志十菜がさっさと出て行ってしまうのを見て、慌てて追いかけた。
病院内は静まり返っていたが、看護師は仕事をしていた。看護師に見つからないように、昨日培ったスニーキングテクニックを駆使しながら、志十菜は病院の入り口まで来た。入り口は鍵がかかっていて、開業時間まで開きそうにない。志十菜は開業時間までトイレの個室で待つ事にした。
便座に座り、頬杖をついて時間が経つのを待った。妖精が「一体どうする気なの?」と聞いて来たが、志十菜は「秘密」で通した。トイレの中で開業時間を待つ間、志十菜は服のポケットの中を確認した。ポロポロとクズが出てくるだけで、何もなかった。Tシャツのデザインも確認した。英語だろうか? 読めない文字が書いてあった。
妖精が、志十菜につられてTシャツを見ると、「あれ? そのTシャツどうしたの?」と今更気づいた。
「向かいのベッドの子のシャツだよ。借りたの」
「借りたの? たのんで?」
「いや、無断で」
妖精は「ふぁ〜ん」と、どういう返事をするべきかわからない、と言う声を出した。その声が合図だったかのように、開業時間がきて、病院内の電気が一斉についた。志十菜は個室の扉の隙間からそれを確認し、周りを確認してからトイレを出た。
病院の受付に向かう人や、椅子に座って呼ばれるのを待っている人の影に隠れながら、受付を通り過ぎ、入り口から外へ出た。とても簡単な仕事だった。