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 次の日、志十菜が目覚めたのは午前10時を過ぎた頃だった。学校に遅刻してしまったと思い、起き上がろうとした。その瞬間、身体中に激痛が走った為、痛みが収まるまで起き上がる事を諦めた。妖精は窓から外を眺めていた。余程暇だったようで、志十菜が起きた事に気付くと、すぐに寄ってきて話を始めた。


「志十菜ちゃんのオヤジはもう仕事に行っちゃったよ。あなたを起こさなかったから、学校休めって事じゃない?」


 確かに、学校へ行ける様な状態じゃなかった。それに、父がいない家に独りでいるのは、とても気楽だった。志十菜はゆっくりと起き上がり、顔を洗いに洗面所に向かう。床を踏みしめるたびに身体中が痛み、その度に口から空気が漏れた。うがいをして、顔を洗う。正直鏡を見るのが怖かった。昨日の暴力で、顔が痣だらけになっているのではないかと心配したからだ。しかし、顔は奇跡的に無事で、右のおでこが少し青くなっているだけだった。


 志十菜は朝食の準備を始めようとし、台所に来た。ふとゴミ箱をのぞくと、インスタントラーメンの袋が捨ててあったので、父はラーメンを食べて仕事に行ったのだろうと、推測が出来た。


 志十菜は、朝からラーメンは無理、というよりも食欲が無かった。食パンにマヨネーズをぬり、それをオーブンで焼いて食べた(マヨネーズが香ばしくなり大変美味しい)。


 志十菜は久し振りに、安心した時間を過ごせた。いつものこの時間は、学校で緊張しているし、家に帰れば父親がいて、怒られない様に、細心の注意を払っている。学校が休みの日は、父も休みで、外に出て行こうとすると怒られる。というか、勉強以外のことをしていると怒られるのだ。志十菜は妖精とゆっくり昼間のテレビ番組を見て、時折くる痛みに顔を歪ませながらも、つかの間の自由を楽しんだ。


(もしこの光景を父が見たら、怒るだろうな)

 

 志十菜がそんな事を考えた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。志十菜は、父親かもしれないと緊張し、身体を、いたわるようにゆっくりと、それでいて最大限早く玄関に向かわせた。


 わざわざチェーンをかけ、玄関を開けると、そこに立っていたのは、スーツを着た二人組の男女だった。女性の方は後ろ方に立っていて、玄関の隙間から志十菜に微笑みかけた。


「えーっと、お父さんかお母さんはいるかな?」

「あ、いま仕事中です」


 二人はそれを聞くと、顔を見合わせ、何かを少し話した後、カバンから封筒を取り出し、志十菜に渡した。


「じゃあ、お父さんにこれを渡してもらえるかな?」


 志十菜がそれを受け取ると、二人は「また来ます」と言って、帰って行った。志十菜は不思議に思いながらも、父への手紙なので勝手に見てはいけないと思い、よく見ずに台所のテーブルに置いた。妖精が「どうしたの?」と聞いてきたが、テレビの方が気になる様で、全くこちらを見ていない。志十菜が「わからない」と答えても空返事をするだけだった。


 父親が帰ってくるまで、志十菜と妖精はテレビを楽しむことが出来た。昼にやってる番組は、子供向けのものではないのだが、ほとんどテレビを見たことのない志十菜にとっては、この上ない娯楽だった。特に妖精が、料理番組の調理に対して「どこが三分なのよ! 材料切ってあんじゃん!」など、志十菜が気づかない所にツッコミを入れるのが面白かった。


 そんな楽しい時間も、玄関の鍵が開く音で終わりを告げた。父が帰って来たのだ。今は午後三時だ。いつもより早い。志十菜は慌ててテレビを消し、玄関に向かった。妖精が文句を言っていたが、志十菜にとってはそれどころではない。


「おかえりなさい」


 父は、唸るような声で「おぅ」と返事をした。返事をしてくれるのは珍しい。機嫌が良いようだ。なぜかフラフラしている。酔っているのだろうか。しかし、酒の匂いはしない。志十菜はなぜ機嫌がいいのか、なぜこんなに早く帰って来たのか、疑問が沢山あったが、質問して怒られるのは嫌なため、黙っていた。


 父は、いつものようにタバコに火をつけると、台所からアルミ性の灰皿を居間に持ってきてテレビをつけた。全て鼻唄を伴っての行動だ。異様に機嫌がいい。


「妖精さん、お父さんに魔法かけた?」

「え? かけてないよ」


 そういえば、昨日もこんな感じの時があった。志十菜は昨日の事を思い出しながら、原因を探ったが、わかるわけがなかった。しかし、今機嫌がいいからと言って、油断はできない。なにせ昨日は、機嫌のいい状態から、恐ろしい暴力に発展したのだから。


「おい、志十菜」

「はい!」

「学校は休んだのか?」


 いきなりの父からの質問に、心臓が跳ねた。学校を無断で休んだ事を叱られるかもしれないと思い、志十菜は身体を強張らせた。しかし、嘘をつく事は出来ない。


「あの……今日……学校……休みました」

「……そうか……」


 父は志十菜の方を一度も見ずに、それだけ言った。もしかしたら少しだけ、昨日の事に対して、罪悪感を感じていたのかもしれないが、志十菜にとっては、意味のわからない質問だった。妖精は、志十菜以外には見えない事をいいことに、父の目の前に陣取ってテレビを見ていた。


 六時になり、志十菜は夕食の準備にとりかかった。昨日余った焼きそばでも作ろうかと思ったが、冷蔵庫の焼きそばを見た途端、昨日の事がフラッシュバックし、恐怖と吐き気が襲ってきた。もう二度と焼きそばを食べられないかもしれない。そう思い、今日は何を作るか考えた。父は朝にラーメンを食べたから、夜までラーメンはいやだろうと思い、スパゲティにする事にした。


 スパゲティは、ケチャップで炒めただけの簡素なものにした(隠し味に醤油)。「ご飯出来ました」と父を台所に呼び、自分は椅子に座った。

 父は台所のテーブルに座ると、あの封筒を発見した。


「なんだこれ?」


 そう言って父は、封筒を開け、中から紙を取り出し、読み始めた。


「あの、昼に人が来て……お父さんに見せてって置いて行ったんです」


 父がその紙を読み進めると、見る見るうちに怒りの形相へと変わって行った。志十菜はその表情に戦慄し、無意識のうちに立ち上がり、後ずさっていた。


「お前が通報したのか?」


 志十菜はなんのことか分からなかった。通報と言っても、自分は電話自体ほとんどかけたことがない(かける相手もいない)。

 父は志十菜の鼻先に紙を突きつけ大声で怒鳴った。


「俺が虐待してるって言うのか⁈」


 志十菜が唯一確認できた文字は、児童相談所だけだった。しかし、志十菜にはなんのことかわからない。「虐待してるじゃん」と妖精がヘラヘラと笑い、煽っているが、志十菜は何も言い返せなかった。虐待と言われれば、そうなのかもしれないと思ったが、それを言うと、余計父を怒らせてしまうと考えたからだ。


「誰がお前を育ててやってると思ってんだ!」


 その言葉は、拳と共に志十菜の顔面に入った。志十菜は真後ろに倒れ込み、冷蔵庫の下の段に後頭部を強打した。その一撃で気を失いかけたが、次に喰らった側頭部への踏み付けのおかげで目が覚めた。


「俺がいなかったら生きてもいけないくせに!」


 なおも足を振り上げ、踏み付けてきた。志十菜は声を出さないように、口を抑えて暴力を受けることにした。そのせいで身体は無防備になり、腹を何度も踏まれ、それを防ごうと膝を挙げると、昨日の悲鳴の原因となった場所を踏まれた。志十菜は手の中でくぐもった悲鳴をあげ、涙をながした。それでもまだ父は志十菜を踏もうとしてくる。またあの痛みがやって来る。志十菜はその恐怖から、弾けるように逃げ出した。


「嫌だ! 助けて! 助けて、お願い!」


 志十菜は妖精に向かって叫んでいた。もっとも、妖精が自分に言ってると気づいたのは、志十菜が自分の目の前に走ってきて、膝をつき、両手を組み、神に祈るように懇願してきた時だ。志十菜は鼻から大量に出血しており、左目のまぶたが真っ赤になっていた。


 必死に自分に懇願する姿を見て、妖精は志十菜のことを、哀れだとか、無様だとか思ったが、それ以上に、あまりにも必死すぎて、少し引いていた。


「わかったから、志十菜ちゃん、落ち着いて! 魔法かけてあげるから!」


 そう言ってる間にも、父が迫って来るし、志十菜の救いの声は止まらない。妖精は慌てて父に右手をかざした。


 すると、父の狂気を断ち切り、電話が鳴り響いた(据え置き)。部屋の中はさっきまでの混乱から打って変わって、静寂と、電話のベルだけの世界となった。そこにいる全員が電話に注目し、しばらく経つと、父が思い出したかのように電話へと、ゆっくり足を進めた。


 父が電話をとり、話し始めると、志十菜は呼吸の仕方を思い出し、喘ぎながら妖精に感謝の言葉を言った。


「ありがとう……妖精さん……ありがとう」

「緊急だったから、勝手に優しくなる魔法をかけたけどそれで良い? それに、今回も代償があるのよ。わかってる?」


 志十菜はその言葉を、聞いて俯き、すすり泣きを始めた。妖精は、志十菜の泣き顔には飽きていたので、志十菜を心配するフリをしながら、父の電話の内容に耳を傾けていた。


 どうやら何かしらの取引の電話らしい。父は、金がないだの、次までには金を用意するだの、聞いてるだけで貧乏菌が移りそうな会話をしていた。ある程度金の話が済むと、何故か志十菜の話になったようだ。


「はい、いますが……11歳です」


 この家にいる11歳は志十菜だけだ。


「でも、痩せていますし……ああ、それだけなら」


 父はなにかを了解し、受話器を置いた。そして、受話器から手を離さず、じっと電話を見つめ、なにかを考えていた。

 

「志十菜、飯食ってねろ」


 父は志十菜を見ることなく言い、居間へと歩いて行って、テレビをつけた。テレビが見たくてつけたのではなく、気を紛らわそうとしているようだった。


 志十菜は父の言葉に、はい、と返事をしたものの、鼻血が止まらず、狂ったように大量のテッシュを取って、鼻に当てた。しかも、自分の出した鼻血の跡が、台所から点々と続いていた。鼻をテッシュで抑えながら、鼻血の跡をテッシュで拭き取っていく、やっと拭き終える頃に、血がポタリと落ちた。鼻を抑えてるテッシュが限界を迎えていたのだ。握れば、水をすったスポンジのように、血を溢れさせるだろう。志十菜は鼻に当てるテッシュを取り替え、抑えながら床を拭き終えた。

  

 拭き終えた後は、椅子に座り、テッシュで鼻を抑えたまま、血が止まるのを待った。テッシュを何度取り替えたかわからないほど、血が出て、志十菜はこのまま一生血が止まらないんじゃないかと心配したが、少しずつ出血は減って行ったので、ある程度の量になったら、両方の鼻にティッシュを詰め、そのまま夕食を食べた。鼻から出てるティッシュに、スパゲティが当たって食べにくく、それを妖精が指差して笑っていた。


 いつものように、志十菜と妖精が向かい合って布団に寝ると、志十菜は重々しい表情で、妖精に話しかけた。


「妖精さん、お願いがあるの」

「なぁに? 志十菜ちゃん」


 志十菜は何かを決心したようだ。今までに無いほど強い視線が妖精に向けられている。


「お父さんを優しくする魔法……もう解かないで欲しいの」


 妖精は耳を疑った。魔法の代償は、大きくなる前に受けなければ、その分一気に降りかかる。つまり、1日か2日魔法をかけ続ければ、次の代償では殺される可能性がある。それを理解しているのかと、妖精は思ったが、


「次の代償で死んでもいい。だから、魔法を解かないで……」


 志十菜は、理解していた。命よりも、一時の父の優しさを選んだようだ。


「確かに、このままダラダラ人生を続けても、不幸なだけかもね……。わかった。限界まで魔法は解かないであげる」


 妖精の言葉に志十菜は安心し、感謝の言葉を言った。妖精はため息をつき、


「言っておくけど、限界がくる前ならいつでも変更は可能だからね」

「うん、わかった、ありがとう」


 志十菜は、数日後の死を予感した。少し不安だったが、それまでは安息の日々を過ごせる。志十菜は、暴力からの解放よりも、父から感情をぶつけられる事が無くなるのが嬉しかった。

 志十菜にとって本当の恐怖は、父に自分を否定される事なのだ。志十菜にとって、暴力と自分への否定は同一である。もし、自分が傷ついた分、父に愛してもらえるなら、喜んで殴られるどころか、自傷行為だってするだろう。

 妖精は、涙を流しながら眠りにつく志十菜を見ながら、


(何故、父が自分を愛するようになる魔法を選ばないんだろう? 馬鹿なのかな?)と思っていた。



 次の日、目覚めた志十菜は、身体中の痛みに顔をしかめ、唸りながらトイレに向かった。扉を開ける動作、便座に座る動作、用を足すために、腹部に力を入れる動作、全てに痛みが伴い、痛みを感じるたびに、呼吸が止まった。しかし、妖精に魔法をかけてもらっているので、父親が自分に暴力を振るう事は無いはず。トイレットペーパーを交換しながら、そんなことを考えていた。


 顔を洗おうと、洗面台の前に立った志十菜は、驚愕した。鏡に映っているのは見たこともない人だった。右瞼は赤黒く変色して腫れあがり目がまともに開かなくなっていて、唇の端は切れている。もちろん自分なのだが、それを認識するのに数秒かかってしまった。


 はじめに志十菜が考えた事は、跡が残ったら嫌だとか、痛そうとか、父に対する怒りではなく、学校でどう言い訳をしようかだ。父がやったと、正直に言う選択肢は無い。自分は嘘が下手だから、一番良いのは、見つからない事だが、そんな方法は思いつかない。全く現実的では無い作戦しか思いつかず、頭を悩ませながら顔を洗ったおかげで、水が傷にしみる痛みを感じずに済んだ。

 しかし、解決策はすぐに見つかった。洗面所を出てすぐに、起きてきた父と、はちあわせになったのだ。志十菜の顔を見た父は、眠そうだった目を見開き、歩みを止めた。明らかに驚いているが、すぐに志十菜から目をそらし、洗面所へ入って行った。そして、志十菜の横を通る時、


「今日は学校休め」と言った。


 志十菜は「その手があったか」と気付き、父の入って行った洗面所を見つめながら、さっきまで考えていた現実的ではない言い訳や作戦を、頭の中からほっぽり出した。これでやっと安心して、朝食の準備が出来る。


 この日は昨日と同じように、父が仕事へ行った後、妖精とテレビを観ながら過ごした。トイレに行く度に、少しでも顔の傷跡が良くなっていないか、洗面所の鏡で確かめてしまうが、そんなに早く治るわけがないし、治らなくても数日後には死ぬのだから関係ないと、毎回思い直した。


「魔法が限界になりそうになったら、先に言ってね。なんていうか、準備というか、いきなり来たら嫌だから」


 志十菜は、テレビを観ている妖精に言った。妖精はいきなりなんだと思いながらも、


「わかった。わかった。覚悟を決める時間が欲しいのね? 三十分前くらいで良い?」とテレビを見ながら答えた。

「……えっと……うん、そのくらいで良い」


 一瞬「一時間前が良い」と言いそうになったが、一時間後に殺される事がわかったら、殺されるまでの一時間、ずっと不安になってしまう。それを考えると、覚悟を決めるのに一時間は長いと思い、三十分で良しとした。


 その日は、志十菜の人生の中で一番良い日だった。父が帰って来るまで、訪問者は一切無く、緊張する事が無かったし、それに、魔法は明日までは余裕でもつと妖精に言われた。その事で、父が帰って来ても、普段ほど恐ろしくは無かった。

 五時頃帰って来た父は、今日も上機嫌で帰ってきた。珍しくカバン以外の物を持っていて、それは、ケーキなどを入れる為に使われるタイプの箱だ。父の友人が、志十菜に食べさせてやれと、シフォンケーキを買ってくれたらしい。志十菜は、なぜ父の友人が自分に気を使ってくれるのだろうと不思議に思ったが、食べたことのないケーキの味を想像して、ワクワクした。きっと甘くて、幸せな味がするのだろうと。


 父はいつもの通り、台所に行き、タバコを咥えて火をつけ、ため息とともに天井へ煙を吐いた。いつもと違うのはここからだった。

 父はテーブルにケーキの箱を置き、それを破って平たく広げた。そして、志十菜に今すぐ食えと言い、フォークを渡してくれた。志十菜は嬉しくなり、体の痛みも忘れ、意気揚々とケーキの真正面に座った。


「食べていいんですか?」

「当たり前だ、お前のために買ってくれたんだから」


 魔法の効果は凄い、そう思いながら志十菜はフォークを握った。テレビを見ていた妖精は、普通の親子のような会話を聞きつけ、テレビから興味を移し、台所へ飛んできた。


 シフォンケーキは直径30㎝くらいのホールから、8分の1ぐらいを切り取ったものだろう。その上には満遍なく、白いジャムのようなものが乗っていた。甘い匂いと、鼻に付く、あまり好きではない臭いが志十菜の鼻に入った。


「いただきます」

「あ、そうだ。少し待て、食べてるところ撮影するから」

「え? 撮影?」

「俺が本当にお前に食べさせてるか確認したいんだとさ。疑り深いやつでな」


 父はそう言うと、スマホのカメラを起動させ、志十菜に向けた。志十菜は撮影されるのは初めてで、緊張した。一体どんな表情をすれば、父は満足なのか分からない恐怖があった。


「普通に食え、食いさえすればいいから」


 そう言われて、何か違和感を感じながらも、その違和感の正体がわからず、志十菜はケーキにフォークを入れた。ケーキを一口分だけ切りとり、口に運ぶ。ジャムは長く糸を引き、糸の一部分がポタリとテーブルに落ちた。

 スポンジ部分は、素晴らしい弾力の食感に加え、甘い味と香りが、志十菜の気持ちを暖かくした。幸せの味だ。しかし、その幸せは、ジャムに水を差された。

 ジャムの臭いは、初めから気に入らなかったが、口の中に入れると、その臭いがツンと鼻に抜け、スポンジの甘い香りを殺してしまう。食べ物の臭いとは思えなかった。とくに嫌なのは食感だった。妙に歯や口内、喉に絡みつき、せっかくのケーキの味を感じにくくした。まるで、液体糊を食べてるようだと志十菜は思った。もしかしたら、これが大人の味なのかもしれないと思い、我慢して飲み込んだ。次にケーキを口に含んだときは、ジャムが付いたところだけ、歯の外側にとっておき、スポンジ部分だけ味わった。これなら純粋に美味しいと思え、ケーキの甘い香りも楽しめた。ジャムが付いた部分は、噛まずに飲み込み、すぐに水で流した。


「どうだ? 美味いか?」


 父が聞いてきたので、志十菜は「美味しい」と答えた。もちろん、スポンジ部分だけだ。しかし、父が自分のためにケーキを持ってきて「美味しいか?」と気を使ってくれる事が嬉しくて、それが味を上質なものにしたのだ。


 妖精がケーキを食べる志十菜の顔を見ようと、覗き込んできた。嬉しそうな顔をしているのを確認すると。


「こんな安っぽいケーキで喜んじゃって」とヘラヘラ笑いながらケーキを見た。


 妖精は一瞬にして表情が固まった。


「え? これ、食べてるの? え?」


 妖精は、ケーキと志十菜を交互に見て、信じられないと言った表情をした。


「だって、これ、上にかかってるのって……あ……まあいいか。あなたがそれでいいなら」


 そう言って、妖精は隣の部屋にすっ飛んで行った。


 どうやら、妖精はこのケーキにかかっているジャムが嫌いならしい。でも、自分が嫌いなものを、他人が食べているだけで、あんな反応をするだろうか? でも、自分も昆虫を食べている人を見た時、あんなリアクションになっていた。志十菜は、昼間見たテレビを思い出し、妖精の反応を深く考えなかった。


 志十菜が食べ終えると、父はカメラに向かってお礼を言えと言ってきた。


「美味しかったです。ごちそうさまでした」


 志十菜が深々と頭を下げて言うと、父はカメラを止めた。その後、撮った映像を友人に送り、完食した志十菜を褒めた。なぜケーキを食べただけで褒められるのだろうと思ったが、父に褒められる経験は貴重な為、実に嬉しかった。しかし、魔法の効果だと思い出すと、少しだけ嬉しい気持ちにモヤがかかった。泥沼に足を取られながら、万歳してる気分だった。


 その後は、夕食を作り、風呂に入って寝るだけの平凡な夜を過ごせた。勉強をしろと怒鳴られることもなく、風呂が長いとか、トイレが長いとか、急かされることもなかった。なにより、暴力を振られることがなかった。志十菜にとっては、この平凡な夜が最高に幸せだった。特に、今日は父にケーキをもらえた。友人が買ってくれたものらしいが、父はちゃんと、それを自分に持ってきてくれたのだ。今日はこのまま終われば、まさに100点満点の日だ。志十菜はそう思い、今日の点数が下がるようなことがもう起こらないよう、早く眠ってしまうことにした。


 志十菜は布団に入り、父がケーキを持って来てくれた所から、食べ終わって褒めてくれる所までを、脳内で何度も再生した。そして、何度も嬉しい感情を感じた。数日後の死を想像してしまわないように、眠りに着くまで、再生を繰り返した。


「魔法が持つのは後、24時間くらいかな」


 妖精が呟いた。志十菜は聞こえていないふりをした。

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