第二章 最初の重力(G) その4
顔を腫らした青年が砂利道を駆け登った。道を覆う木立の枝葉に隠されて、最も高い場所は確認できない。
〈『神と闘う場所』を探している。間違いなくあいつは、私と同じメッセージを受け取っているはずだ〉
フェンスが近付いた。庭園前の広場を、サッカー・チームのユニフォームが埋めていた。
ふざけ回る子供と、サッカー・ボールに触れないように気を付けた。左右に身体を逸らしながら、最後の庭園前の広場を走り抜けた。
石段を登り、庭園の中の青年が坂の上に消えていく。
『神と闘う場所』は庭園の最も高い場所にある。青年の考えも、蒼穹と同じだった。
走りながら、蒼穹はテニス・ボールに貼った神の言葉を、眺め直した。
『降りて行って、彼らの言葉を混乱させ、互いに言葉が通じないようにしよう』
粘着テープに書かれた言葉に、違和感を覚えた。
〈神の言葉は一方的だわ。互いに言葉が通じなくして、塔と街の建設を中断させたのよ。そうよ、バベルの塔の最も高い場所では、民は神と闘っていないわ〉
ニューヨークの教会で聴いたメッセージを、蒼穹は思い返した。
〈他に、神と闘った人はいなかったか?〉
思い出せなかった。無理を承知だった。無線で蒼穹は〝ママ〟に訊いた。
「知っていたら、教えて。旧約聖書で、誰か神と闘った人はいない?」
『知らないわよ。実家は真言宗だもの。でも、他のスタッフにも訊いてみるわね。知っている人がいるかもしれないから』
無線から響く〝ママ〟の言葉には、いつもの強気な自信は感じられなかった。
〈とにかく、あいつの後を追わなくちゃ〉
フェンスを飛び越えた。蒼穹は最後の庭園に入った。子供たちの非難が背中に集中した。
〈うるさいわね。ボール遊びだって規則違反だからね〉
子供っぽい反論を考えながら、蒼穹は子供たちを無視した。
砂利道は久しぶりだった。ビルの屋上である事実を忘れるほどに、庭園は自然に造られていた。樹木の間から覗く換気所の建物も、自然に埋もれて目立たない。
木立の隙間から見える青空が、足元と同じ高さに並んでいた。山頂に登っていく感覚だ。
振り返ると、庭園に近付く人影が見えた。権堂と銀次だった。
周囲を威圧する雰囲気に恐れをなして、子供たちが道を空けた。
片足を引き摺りながらも、銀次が難なくフェンスを乗り越えた。薄っぺらな口元に、底意地の悪い笑みを浮べていた。
サングラスの権堂が、続いて庭園に攻め込んでくる。
〈逃げられるだろうか? 追跡を諦めて、田圃の陰に逃げ込むべきではないか〉
蒼穹はモバイル・フォンでマップを開き、航空写真に換えた。
〈捕まる前に、依頼品を探さなくっちゃ〉
青年の後を追って、蒼穹は走った。階段の先は、換気所の壁で完全に遮断されていた。壁の先にあるべき、神と交わる場所も、現実には存在しなかった。
壁際にしゃがみ込んで、叢を掻き分けていた青年が顔を上げた。
「近付くな! どうして僕の跡を追うんだ」
痛めつけられた顔を強張らせながら、青年が蒼穹に向かって怒鳴った。
「何を探しているの? もしかして〝依頼品〟? あなたも誰かに指示されているの」
「関係ないだろう。構わないでくれ。僕には時間がないんだ」
苛立ちを露わにして、青年は蒼穹を睨んだ。すぐにまた、しゃがみ込んで叢を手で掻き分ける。
振り返って、蒼穹は権堂と銀次を確かめた。
不自然に身体を左右に揺らしながら、銀次が田圃の端を通り過ぎていた。ズボンに両手を突っ込み、肩を怒らせた権堂が、銀次の後に続く。
威嚇のために歩みはゆっくりだが、確実に二人は近付いていた。
銀次のナイフが覆面の男を刺した。恐怖の瞬間を、蒼穹は思い起こした。
〈青年に向かって、銀次が『話がある』と告げた。『半グレを怒らせた』とも話していた〉
足元で必死になって依頼品を探す青年の顔を、蒼穹は、まじまじと眺めた。無惨に腫れた顔の痣が痛々しかった。同情を覚えながらも、蒼穹は考え直した。
〈他人事ではないわ〉
蒼穹だって、正体の知れない〝グロースター〟からの指示に従って依頼品を探していた。女だからといっても、権堂と銀次の攻撃を免れる保証はない。
〈一刻も早く依頼品を見つけ出して、逃げなくちゃ〉
「解ったわ、自分で探すから、いいわよ」
焦りながら、蒼穹も腰を落として植込みの下を探す。依頼品が何かも解らなかったが、自転車便の荷物と指定されている以上は、小包か封筒の形をしているはずだ。
〈超特急便だから、持ち時間だって限られているわ。早く荷物を引き取らなくっちゃ〉
依頼品だけでなく、次の配達先さえ、まだ分かっていない。
〈拉致された青葉を、最悪の状況から救い出さなければ。メッセンジャーのプライドが懸かっているんだから〉
里山を意識して造られた最後の庭園は、不必要な除草は施されていなかった。フェンスの外にある他の緑地と違い、雑草が伸びるままに放置されていた。
植栽の下に小包や封筒を隠せば、雑草に隠されて簡単には見つけ出せない。そもそも、庭園の最上部が『神と闘う場所』である根拠だって、どこにもない。
草の葉が擦れて、手首が細かな傷だらけだった。土埃に汚れて汗を掻いた場所が痛痒い。額の汗を手で拭うと、泥で汚れた感触が皮膚に残った。
子供のころに学校の草毟りをした時と同じだった。懐かしい感覚だ。息を切らしながら草の間を探している青年の息遣いが、思いがけず身近に感じられた。
〈この男子は、青葉と、いったいどんな関係なのだろう?〉
訊きたいけれど、余裕はなかった。切羽詰まった状況だ。
腰を屈めたまま探す場所を移動した。メッセンジャー・バッグに仕舞った無線から〝ママ〟の声が響いた。
『ねえ、ソラ、聞こえる? 解ったわよ、〝神と闘った相手〟が』
無線機を取り出して、蒼穹は声を潜めた。
「ありがとう。急いで教えて。厄介な状況になっているのよ」
蒼穹の言葉を即座に理解して、〝ママ〟が声を抑えながら早口になった。
『神と直接ではないけど、旧約聖書には〝神の使い〟と闘った人物がいたわ』
「誰? 悪魔なの」
無線の向こうで〝ママ〟が、蒼穹に即座に反応した。
『違うわ。信じられないけれど、イエス・キリストの系譜なの。アブラハムの子イサクの息子ヤコブだわ。ノアの箱舟やバベルの塔に続く時代の人よ』
「よく解らないよ。要するに、聖書の一族なのね」
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、どれもアブラハムの宗教が起源だと説明された記憶がある。
〈祝福された系譜なのに、なぜ?〉
蒼穹は、疑問を抱いた。だが、宗教を学ぶ時間の余裕はない。今は、『神と闘う場所』の隠喩が解けるだけでいい。
焦りながら無線機に向かって、蒼穹は質問を続けた。
「ごめんね、急いで教えて欲しいのよ。ヤコブは、どこで〝神の使い〟と闘ったの?」
『〝ヤボクの渡し〟と書かれているわ。知り合いに借りたのよ、聖書を。他に何か、知りたいことはない?』
〝ママ〟の言葉に、蒼穹は直感した。
〈もしかして、ビンゴ?〉
権堂と銀次がさらに迫っている。
「聖書の個所を読み上げてくれないかな。何かヒントがあるかもしれないから」
『いいわ。聞いてね』
〝ママ〟が聖書を読み上げた。
『ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、神の使いが夜明けまでヤコブと格闘した。神の使いは、ヤコブに勝てないと見てとって、ヤコブの腿の番を打ったので、神の使いと格闘しているうちに、ヤコブの腿の番が外れた』
「分かったわ。ありがとう」
蒼穹は無線を切り、メッセンジャー・バッグに戻した。何が何だか、かえって解らなくなった。〈神の使い? ヤコブの腿の番だって?〉手懸りを探して、蒼穹は周囲を見回した。
「手がかりなんて、何もないよぉ。どうしよう。どうすればいいんだ」
青年が次第に焦り出した。一歩また一歩と踏み締めながら、権堂と銀次が石段を登る気配が近付いた。植込みの間から、暴力的な姿が覗いて見えた。
傷つけられた覆面の男たちの痛々しい姿が脳裏を横切った。女だからといって、殺されない保証はない。銀次が飛び出しナイフを、権堂が拳銃を持っている。
焦った蒼穹は、青年に苛立ちをぶつけた。
「暴力団が追ってきているわよ。何か問題でも起こしたの、あなたは?」
「二人組だろう。気にしなくてもいいんだ。あいつらは、僕に手出しをしない」
面倒臭そうに、青年が言い切った。蒼穹と視線を合わせずに、必死で手を動かし続けている。
「ここじゃないのよ、きっと。指定された『神と闘う場所』とは、別の場所だわ」
里山の麓を見下ろしながら、蒼穹は青年に逃げろと促した。
残虐に笑い、威嚇しながら権堂と銀次が石段を登ってくる。
〈どうしよう。もう、逃げ場なんてないわ〉
捕まって甚振られる姿を思い浮かべたとき、頭に〝ヤコブの腿の番〟の言葉が浮かんだ。
ヤコブは、神の使いとの戦いで腿の関節を打たれた。番は繋ぎ目の意味を持つ。
〈庭園の繋ぎ目なら、乗り越えてきたフェンス部分かしら? 円形の天空庭園から繋がる場所ですものね〉
隠れながら、蒼穹は、近付く権堂と銀次の後方に視線を投げた。
茂みに邪魔されてフェンス部分が良く見えない。目を凝らすと、フェンスに下げられた貼り紙が風に揺れて見えた。
まだ真新しい公園だ。強い風の吹くフェンス部分に、外れかけて揺れる貼り紙がある状況は不自然だった。
〈もしかして、依頼品がぶら下げられているのではないかしら〉
権堂と銀次に気付かれたくはなかった。
脇目も振らずに登ってくる権堂と違って、銀次は落ち着きなく周囲を見回していた。
振り返り、動きを停めるたびに、蒼穹は肝を冷やした。フェンスの貼り紙が依頼品だとは確定していないが、先に銀次に見つかって奪われては困る。
フェンスに戻る道は、藤堂と銀次が登ってくる細い石段だけだ。
庭園の両脇は金網のフェンスで囲まれている。切り取られて空中に浮かんだ形状を見る限り、逃げ込める場所ではない。
中央突破しか有り得なかった。だが、やみくもに単独で突っ走っても無駄だ。
〈なんとか、この男子と二人で協力できないかしら〉
訴えかけるように、蒼穹は青年の顔を覗き見た。切羽詰まって無駄な動作を繰り返すばかりで、青年は蒼穹を見ようとしない。
〈お願いだから、私を見て〉
言葉に出せば、権堂と銀次に気付かれる。
「ない、ない。どこにもないよ。このままじゃ、青葉を取り戻せない」
苛立った青年が短気を起こした。立ち上がって、植栽に踏み込んだ。足を振って樹木や下草を蹴散らした。
「やめろよ、坊ちゃん。里山の自然を守ろうと書いてあるぞぉ」
蒼穹の横を抜けて、銀次が青年に近付いた。揶揄って馬鹿にした表情で、銀次が憔悴しきった青年と向き合った。
青年が顔を上げずに銀次に苛立ちをぶつけた。
「煩いな。勿体ぶっていないで教えてよ。あんたも権堂さんも、今回の話に絡んでいるんだろう。あいつに伝えて欲しい。権利なんか全部を受け渡していいから、青葉を解放してくれってさ。お願いだよ」
「絡んでなんかいねえよ。人聞きが悪いなあ。椛島の坊ちゃんに手を掛ければ命の保証がないぐらい、いくら俺たちだって知っているんだからさぁ」
嫌味たっぷりに言葉をひねり出し、刺した匕首を抉るように顔を捻った。下から見上げるように眼前まで近付いて、銀次が椛島と呼ばれた青年に対峙した。
石段の邪魔者が、権堂一人になった。だからと言って決して有利ではない。容赦なく拳銃で覆面の肩を撃ち抜いた権堂だ。冷徹な姿は、忘れられない。
冷静な分、権堂のほうが遙かに難関だった。迫力も、兄貴分らしく銀次より格段上だ。特別な問題でも起こらない限り、中央突破は無謀だった。蒼穹は難なく捕まるはずだ。
権堂が足を停めた。椛島と銀次から距離を置いていた。万が一、椛島が銀次の囲いから逃れたときのための用心だった。
「いい加減にしてくれよ。これは僕とあいつの問題なんだ」
混乱した椛島が大声で怒鳴った。銀次に向かって、隠していたナイフを突き出した。
椛島の攻撃を軽く躱し、対抗した銀次が飛び出しナイフを光らせた。残忍な表情で口を歪め、銀次が癇に障る高音で、狂ったように笑う。
「危ない、危ない。駄目ですよ、素人の坊ちゃんがナイフなんて使っちゃねぇ」
悪い予感がした。覆面の男を刺したときと同じだった。銀次の眼光が残忍な狂気に満ちていた。
〈手出しをしないと話していたが、あてになんかならないわ〉
権堂も同じ危機感を覚えたようだった。
「やめろ! 銀次」
強い調子で諫めると、権堂が銀次に近付いた。ナイフを仕舞わせるためだった。
蒼穹の脇を権堂が通り過ぎた。
〈今だ! 逃げるチャンスよ〉
中腰のままで蒼穹は石段に飛び出した。逃げようとしたが、権堂に気付かれて腕を掴まれた。力任せに腕を捩じ上げられて、蒼穹は転びそうになった。
「甘く見られたもんだな。お嬢ちゃん相手だからと言って、儂らも簡単に安目を売るわけにはいかんのだ」
威圧的な声だった。余計な感情を削ぎ落した低い声のトーンに、蒼穹は背筋を凍らせた。
〈逃げなくちゃ。殺される〉
腕を振り解こうとした。権堂の腕を擦り抜けた。体勢を取り戻そうとすると、不意に、腹に鈍い痛みを感じた。鳩尾に食い込む権堂の拳が視界に入った。
再び腕を掴まれた。体勢が対面に変わっただけだった。蒼穹は権堂の顔を睨みつけた。
心拍数が上がった。
〝神と闘う〟の言葉が脳裏を過った。護身が大切だと、身体づくりの意味も含めてニューヨークで習ったクラヴ・マガが、蒼穹の中で蘇った。
条件反射で膝が権堂の股間を直撃した。
突然の反撃に顔を歪ませた権堂の鼻めがけて、膝のバネを最大限に生かして頭突きを喰らわせた。
ヘルメットを被っていた分だけ、効果が薄れた。それでも不意打ちは効果的だった。
蒼穹の腕を掴んだ権堂の大きな掌から、僅かだが力が抜けた。
権堂の前腕に拳を叩きつけ、掴まれていた腕を振り解いた。
躊躇することなく、全力で石段を駆け降りる。
ニューヨークでは一度も使わなかった。イスラエル軍の最強接近格闘術を、まさか東京で実践するとは思わなかった。
走りながら振り返って権堂を確認した。ダメージを残した気配は微塵も窺えなかった。苦虫を噛み潰した表情で、権堂が右腕を背広の懐に突っ込んだ。
〈撃たれる!〉
首を竦めて、速度を上げた。顔を戻す瞬間に、権堂の顔が太々しく、笑って見えた。
フェンスが近付いた。フェンスに下げられた封筒が風に揺れていた。
封筒を掴んで引き剥がした。
フェンスを乗り越える。驚いて道を開けるサッカー・チームの子供たちの間を全力で駆け抜けた。
恐れていた銃声は聞こえなかった。
〈わざと逃がして、泳がせるつもりだわ〉
解っていたが、逃げられただけ幸いだった。
階段に向かって、下り坂になった公園を突っ走った。遠く、地上から音量を上げた軍歌が聞こえてきた。
〈凛華だ。助けに来てくれたんだ〉
目尻に涙が滲んでくる。今頃になって恐怖が襲ってきた。負けないように、蒼穹は手の甲で滲んだ涙を拭き取った。