第二章 最初の重力(G) その3
到着した〝目黒天空庭園〟は、思ったよりもずっと巨大な建造物だった。
蒼穹は頭上を見上げた。ループする首都高速のランプが複雑に絡み合って、奇妙な空間を作り出していた。中断された天に伸びる塔に、棘の冠が巻き付いているように見える。
蒼穹は自転車を駐めた。案内板を見ながら、地上階の入口を探して走った。どこまでも続く無機質なコンクリートの壁は、堅牢な監獄を想像させた。
ぽっかりと壁に空いた入口から塔の中に走り込んだ。塔の内側には人工芝のコートが造られた広場があった。
手懸りを求めて、蒼穹は取り囲む壁の内側を駆け巡った。走りながら見上げると、円形に切り抜かれた空が見えた。
天井が大きく空いているのに、閉塞感を強く覚えた。空気が止まっている。息苦しい。圧倒的な力で押さえつけられている感覚だ。
〈あてのない迷走を続けたせいだわ。疲れているのよ〉
無風状態の巨大な穴の底を走りながら、蒼穹は圧し潰そうとする大気の重さを感じた。息が切れ、耳が詰まっていた。
上空を風が吹き抜けていた。高速道路を走るトラックや車のタイヤが擦れて、連続した乾いた音を立てていた。
時折、荷台で積み荷が跳ねる音が、衝撃となって頭上から堕ちてくる。
走りながら蒼穹は周囲を見回した。受け取るべき依頼品が置かれていないか確かめた。
「ねえ〝ママ〟指定場所に到着したわ。でも、解らないのよ。依頼品がどこか、まるで見当がつかないの。何か指示が出されていない? このままじゃ、何も見つからない」
『指示は出されていないけど、画像なら追加されたわ。送信するから、確かめて』
足場が組まれていた建築当時の、建物部分の外観だった。
〈何、これ? さっぱり解らない。どこに目標となる〝G〟が隠されているの?〉
広角レンズで撮影された写真だった。上層部に向かって建物が窄んで写っていた。どこかで見覚えのある形だ。蒼穹は走りながらモバイル・フォンを覗く。
記憶を辿るが、焦るせいで、どうにも思い出せない。〝G〟との関連性も解らなかった。
「解らないわ。何も、関係がないと思うけど」
『何かないの? 〝G〟から連想できるものは。数字とか名称とか』
〈天空庭園全体の形状が〝G〟だ。上から見たら何か見つからないだろうか〉
蒼穹はマップを開き、航空写真に換えた。コートの西側に駐車場が造られていた。
〈〝数字〟? 駐車位置番号は、どうかしら〉
航空写真に駐車場の仕切り線が写っていた。首を回して駐車場の方向を探した。人工芝のコートは円形の庭の真ん中で、金網のフェンスによって区切られていた。
フェンスの向こう側に、駐車スペースがあった。コートから直接は、駐車場に入れない。
工事車両が駐められていた。一般の駐車場ではなかった。鉄製の門扉が閉じられている。
不用意に疑われないように、蒼穹は走るのを止めた。周囲を見回すと、駐車場を隔てる金網のフェンスの近くに空気の抜けたテニス・ボールが落ちていた。
蒼穹は、テニス・ボールを拾って、カプリ・パンツのポケットに捻じ込んだ。ボールに押されて、中のラッキー・コインが太腿に食い込んだ。
〈良い兆候だわ。必ず、重要なヒントが見つかるはずよ〉
前向きに考えることにした。〝常に前向き〟が、蒼穹のモットーだ。糸口が見えないために、自分を見失っていただけだ。
蒼穹は気を引き締めて、広場西の出入口に向かった。
一般通路の横に駐車場入り口があった。鉄の門扉が閉まっていたが、鍵は掛けられていなかった。門柱との間が少しだけ開いている。
閉め忘れたのか。それとも誰かが事前に侵入して、わざと足跡を残したのか?
蒼穹は門扉を少し開けて、駐車場に身体を滑り込ませた。
職員に気付かれないようにと願いながら、落とし物でも探す振りをして駐車場内に足を踏み入れた。
正面に駐車スペースがあった。駐車番号が七番の場所を調べた。アルファベットを順に並べると、七番目の文字が〝G〟になる。
思い付きだが、理屈は合っているはずだ。七番の駐車スペースには、黄色い作業車両が駐められていた。車両の周囲を巡り、ヒントが隠されていないか、と探した。
白いラインの上に、粘着テープが貼られていた。
〈何か、書き込んである〉
しゃがみ込んで、蒼穹は粘着テープを確認した。テープの表面に一綴りの文が書かれていた。
『我々は町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を上げよう。我々が全地に散らされるといけないから』
〝頂が天に届く塔〟の言葉から、蒼穹は追加された画像の意味を理解した。
〈バベルの塔だわ。似たような絵を見た記憶があるわ〉
書かれていた文章は、旧約聖書からの引用だった。
聖書の言葉は、ニューヨーク時代に誘われた教会で聴いた。力を合わせて、神の棲む天に近付こうとした人間たちの驕りが示された一節だ。
蒼穹は、反対側のライン上を確かめた。もう二枚、粘着テープを見つけた。
一枚は『神と闘う場所を探せ』フェルト・ペンで悪戯のように走り書きされていた。
〈天空庭園全体をバベルの塔に例えるならば、神と出会う場所は、屋上の一番高い所ね。でも、神と闘う聖地か? 意味合いが少し違うかな〉
残りの一枚も、一枚目と同じ旧約聖書からの引用だった。
『さあ、降りて行って、そこでの彼らの言葉を混乱させ、彼らが互いに言葉が通じないようにしよう』
人間たちの驕りを諫めようとする神様の言葉だ。
蒼穹は屋上に登る通路を探した。顔を上げると、城壁の内側にエレベーター・タワーが造られていた。
エレベーターが到達する場所に、天空の庭園が存在する。
蒼穹には、庭園が、神聖な場所よりも、神の怒りを受ける危険な場所に思えた。
〈バベルの塔も、神と競うまでもなく、怒りに遭って崩されたのよね〉
粘着テープをポケットに突っ込んだ。立ち上がった蒼穹は、不審な表情で遠くから様子を窺う作業服姿の存在に気付いた。
関係者以外は進入禁止だと、注意するつもりらしい。
「何をしているのですか? そこで」
作業服の男が蒼穹に向かって近寄り始めた。
拾ったテニス・ボールを取り出して、蒼穹は作業服の男に翳して見せた。
「ごめんなさい。すぐに、出ますから」
「勝手に入っちゃだめだよ。そもそも、ネットを越えるボール遊びは禁止だからね」
渋い顔をする作業員に頭を下げた。踝を返すと、蒼穹は小走りで門扉に向かった。開いている隙間から外に出て、門扉を閉めた。
作業服の男は追って来なかった。事務所に戻っていく背中を確認して、蒼穹は安堵した。
〈これで無駄な時間を使わなくて済んだわ〉
一刻も早く、青葉の行方を探さなければいけない。蒼穹は歩きながら、ポケットから粘着テープを取り出した。邪魔にならないように、テニス・ボールに貼り付けた。
〝彼らの言葉を混乱させ〟の文字が気に懸かった。間違いなく何かを暗喩している。
顔を上げると、目の前に地上階の入口があった。
城壁の外を取り巻く歩道が見えた。走り過ぎる人影に、蒼穹は気が付いた。
見覚えのある姿だった。競技用の自転車を漕いでいた。顔は腫れて原形を留めていなかったが、最初に出会ったときからすでに腫れていたから、見間違いはしない。
覆面の男たちに甚振られていた青年だった。
蒼穹は歩道に向かって駆け出した。壁の外に出た。日差しが溢れていた。植えられた並木が深緑の葉を揺らしている。
散策する親子連れの合間を縫って、青年の自転車が速度を上げていった。
〈青葉を探しているのかも〉
全力で追い駆けながら、蒼穹は考えた。青年ならば、詳しい事情を知っているはずだ。行きずりの関係だけなら、原形を留めないほど甚振られはしない。
よほどの物好きでなければ、わざわざ危険など、冒さないはずだ。
「ねえ、待って!」蒼穹は声を出した。
青年の姿は、曲面を描いた壁の陰に消えていた。
〈屋上よ。あの男子も、駐車場のメッセージに気付いたのよ。とにかく、屋上に急ごう〉
外から天空庭園に向かう方法もあったが、改めて場所を探す手間が掛かる。入口から、再び壁の中に駆け込んだ。
天空に伸びたエレベーター・タワーに向かって、蒼穹は全力でダッシュした。
サッカー・チームのユニフォームを着た子供の集団がいた。
エレベーターの扉の前を塞いでいた。ふざけ回る甲高い話し声と、サッカー・ボールをコンクリートの床に叩きつける音が騒々しい。
エレベーターは最上階に停止していた。
待っている人数は、次回の到着分だけでは乗り切れない。
〈邪魔だわね。だいたい何よ。天空庭園は、ボール遊びが禁止と書いてあるわよ〉
エレベーターを諦めた。九階まである人影のない階段に、蒼穹は飛び込んだ。
途中まで登ると、呼吸の音がくぐもって聞こえた。焦ってステップを踏む音が、階段のホールに木霊した。残響と反応し合って不協和音になる。
踊り場に着くたびに、階数を確かめた。手摺を使って次の階段に方向を換える。
〈負けていられないわ。ぜったい、あいつに追いつかなくっちゃ〉
自転車のペダルなら、どこまでも漕ぎ切れる自信はあった。だが、階段を駆け登る動作はさすがにキツい。次第に腿が重くなった。
回転と上下運動では筋肉に対する負荷が、まるで違う。思い返せば、青葉の拉致を目撃してから、蒼穹はずっと走り続けている。
〈途中でなんか停まれないわよ。余計に疲れるから〉
手摺に掴まりながら、なんとか登り切った。蒼穹は屋上の出口を抜けた。
膝に手を当てて、乱れ始めた息を整えた。普段から鍛えていなければ、おそらくぶっ倒れていたはずだ。
顔を上げると、郊外を思わせる緑の光景が広がっていた。芝生や草花だけでなく、地上の公園と同様に樹木まで植えられていた。
庭園は平坦な建物の屋上に肥沃な土を運び、ただ樹木を植えただけの場所ではなかった。円形の形状を生かして傾斜を造り、長閑な丘陵の風景を訪れる者に与えていた。
疲れた身体に鞭を打って、蒼穹は再び走り出した。随所に短い階段が造られている。
庭園を取り囲む外世界の環境は、不調和なまでに工業的だった。取り囲む金網のフェンスの向こうに、蒼穹は視線を向けた。
都心のビルが立ち並び、首都高速の高架が一直線に伸びている。眼下に広がる世界は雑然とした日常の生活空間そのものだ。
目黒天空庭園は、まさに現実から隔離された空間だった。
文字通り空中に浮かんだ別世界だ。
庭園には思ったよりも高低差があった。蒼穹は小高い丘を駆け登った。浮遊した感覚は、たしかに〝神と交わる場所〟を連想させた。
蒼穹はポケットから、テニス・ボールを取り出した。走りながら、貼り付けた粘着テープの文字と目の前の光景を見比べた。
『我々は町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を上げよう』
〝バベル〟とは、バビロンだという説がある。バビロンの空中庭園とは、こんな感じだったのではないか。
〝バベル〟は、神の門を意味する。まさに『神と交わる場所』だ。ヘブライ語の〝ごちゃ混ぜ〟を意味する言葉でもある。
ニューヨークの教会で聴いたメッセージが、不思議なくらい生々しく頭に蘇ってくる。
フェンスの向こう側には、神の国と競り合うように地上の都会が存在している。虚栄と欲望に塗れた、混沌とした都会。まさに〝ごちゃ混ぜ〟だ。
『我々が全地に散らされるといけないから』
技術革新は古代から繰り返されてきた。石に代わって煉瓦が、漆喰に代わって瀝青が使われた。
旧約聖書の時代から人間は文明の崩壊を予感して、不安に怯えてきた。不安の原因は、神に近付こうとする人間の驕りだ。
ニューヨークで聞いた話を、東京で実感するとは思わなかった。
大きな弧を描きながら走る先に、換気所の建物が聳えていた。建物の手前に、蒼穹は顔を腫らした青年の姿を見つけた。
換気所の建物に向かって、最後の庭園が広がっていた。フェンスで隔離され、水田が造られていた。立ち入り禁止の表示がある。川が流れ小高い丘に向かって石段が続いていた。
顔を腫らした青年がフェンスを乗り越えて、最後の庭園に入ろうとした。
「待って! 話を聞かせて」
叫んだ蒼穹の姿を見つけて、青年が最後の庭園に転がり込んだ。
青葉と青年の関係を問い詰めたかった。フェンスに向かって、蒼穹は心を逸らせた。倒れそうなほど前傾の姿勢になって、前に前にと蒼穹は駆けた。