第二章 最初の重力(G) その2
切断された小指は、切断面がラップされ、ビニール・テープで巻かれていた。
染み出た血液と膿で良く見えない。だが、接触面は皮膚に密着しておらず、粘着テープの意味を成していない。
切り口の近くが茶色く変色していた。変色していない場所は血の気が失せて、蝋細工のように怪しげな雰囲気だ。
〈まるで、カブトムシの幼虫みたいだわ〉
子供のころに、同級生の男子にカブトムシの幼虫を見せられて泣いた記憶がある。
蒼穹は貧血で倒れそうになった。当時は気付かなかったが、強いトラウマになっている。弱い自分が情けない。
「女だな、この小指は」
冷静に見下ろした周東が、あっさりと決めつけた。顔を背けながら、蒼穹は目だけを動かした。
蒼穹だけが臆病なわけではなかった。
緑色の隊員も、リーゼントの隊員も、蒼穹と同様だった。顔を背けて、込み上げる吐き気と戦っている。
生唾を飲み込み、息を整えた。蒼穹は周東の顔を見上げた。
周東だけが平然としていた。むしろ、興味津々で面白がっている様子に見える。
「どうして、女と判るの……? 小さいから?」
「ネイル・アートが施されている。男でもネイルする奴はいるかもしれないが、男なら骨が太い。それと」再確認するために腰を曲げて、周東が転がった小指を覗き込んだ。「こいつは生きたまま切断されている」
付け加えて周東が断言した。
簡単に受け入れたくはなかった。蒼穹は口を曲げて、首を傾げた。
「どうして、生きていたと断言できるの?」
「切断面の付近に、皮下出血が凝固した跡がある。死体から切り取ったなら、皮下出血は起こらない。死体には、血液の循環がないからな」
「え~、生きていたのぉ~」
生きながら小指を切り取られる痛みを想像して、蒼穹は思わず顔を顰めた。
「気味が悪いか?」
面白がった表情で、周東が蒼穹の顔を覗き見た。場数を踏んでいるせいか、周東の感覚は蒼穹とは明らかにズレている。
「気味が悪いか、と聞かれてもねぇ……」
何のために、生きたままの指を切り落とさなければいけなかったのか。悪趣味の域を通り越している。変質者の影を感じさせた。
蒼穹は、道玄坂の裏路地で目にした刃傷沙汰を思い出した。
銀次と呼ばれたチンピラが、まさしく異常者だった。玩具でも扱うように、銀次が飛び出しナイフを覆面の男の太腿に突き立てた。
迸った血潮と、声を堪えて喘いだ男を見ながら、銀次が笑った。官能に浸るように、醜く相好を崩していた。整った顔立ちだけに、背筋が凍るほど狂気に満ちていた。
〈銀次なら、生きた女の指を切り落とすくらいは平気だわ〉
冷静を装っていたが、サングラスの権堂もかなり危ない人間だった。表情一つ変えずに、いきなり大柄の覆面に向かって銃弾を撃ち込んだ。
〝嫌がる女を脅して床に押し倒し、銀次が匕首を使って小指を切り落とす。脇に立って、冷静な表情で権堂が無慈悲な現場を見下ろしている〟
リアルな情景を想像して、蒼穹は思わず身震いした。
『ショット・ザ・GIG・ダウン!』
『衛星を撃ち落とせ!』
掛け合いコールが始まった。煽り立てる凛華と、興奮が高まる若者たちが、スクランブル交差点前の空気を鳴動させる。
凛華の一挙一動が衆目を集めていた。腕を振り上げる群衆を見回し、蒼穹は足元に転がる〝切断された小指〟を見下ろした。
今すぐに隠す必要があった。路上の興奮が過ぎ去れば、いずれは誰かに気付かれて、騒ぎが起こる。
「箱をちょうだい。急いで」
緑色の隊員から奪い取るようにして、蒼穹は小箱を受け取った。
いつまでも気味悪がっている場合ではなかった。しゃがみ込んで、切断された小指を間近に見た。かつて聞いた幻肢痛の話を、蒼穹は思い出した。
小指を失った女性が、実際には存在しない小指の痛みに苦しめられている。失った小指は、二度と目の前に存在する現実に触れることはない。
蒼穹は顔を顰めた。痛々しい想像に息が詰まった。
〈余計な感傷に浸っている暇はないわ。問題になる前に、何とか処理しなくっちゃ〉
右翼団体で問題が起これば、口実にして公安警察のガサ入れが始まる。本来の事件の捜査よりも、潜在右翼の洗い出しのためだ。聞いたばかりの周東の話を思い出す。
青葉の無事な救出のためにも、無駄な時間を使いたくなかった。
酸っぱくて苦い胃液が、喉元まで込み上げてきた。吐き気を我慢しながら、蒼穹は切断された小指に手を伸ばす。
「俺が拾うから、蒼穹は触らなくていい」
蒼穹よりも先に、周東が手を出して小指を抓んだ。弾力が失われた切り取られた小さな指は、単なる肉塊として拾い上げられた。
蒼穹の持った小箱の中に、周東が拾い上げた小指を収めようとした。
「ちょっと待って。何か、入っている」
段ボールの箱の内側に、紙が貼り付いていた。小指の切断面から滲み出た臭い汁が、乾いて固まった跡があった。
汚れた部分に触れないように気を付けながら、蒼穹は貼り付いた紙を引っ張った。
なかなか取れなかった。力を籠めると、貼り付いた場所が剥がれた。
反り返った紙が蒼穹の指に絡みついた。不気味に湿った嫌な感触に、蒼穹は思わず手を振った。湿った紙を振るい落とそうとしたが、思い直して手を止めた。
何やら、文字が書かれていた。
「早く小指を仕舞って。どこかに隠して」
周東が蒼穹の手から小箱を受け取った。切断された小指を中に入れて、蓋を閉めた。
掛け合いコールが終わり、割れんばかりの歓声が駅前広場を包み込んだ。
「ありがとう! みんなも、頑張って!」
最後に凛華がメッセージを締め括った。
小箱を持って、周東が歩道際の植込みに急いだ。街宣車と戦闘服の隊員が並んで、一角を塞いでいた。一般の通行人が入り込み難い場所だ。
歓声に包まれて、凛華が街宣車のステージから降りてくる。
植込みを離れ、周東が街宣車に登った。何事もなかった風を装って、周東が声援に手を振った。
周東の街宣が始まった。マイクを掴んで、拳を振るう。周東の手に小包は握られていなかった。
箱から剥がした紙を、蒼穹は目の高さまで持ち上げた。ひどい腐臭がした。染み付いた膿で滲んで、文字が読み取り難かった。
まるで冒険物語のような飾り絵が、下地に印刷されていた。飾り絵の上に、指令の文字が手書きされている。
凛華が蒼穹を見つけた。街宣車を取り囲む群衆の間を擦り抜けながら、近寄ってきた。
「どうだった。青葉は無事なの」
良い結果を期待するように、凛華が明るい声を出した。力なく、蒼穹は首を横に振った。状況を察した凛華が小さく息を吐いた。
「状況を訊きたいわ。中に乗って」
街宣車の扉を開けて、凛華が中に入った。蒼穹は凛華に続く。
車内に残っていたバンドのメンバーに席を外すように指示をした。凛華が扉を閉めた。
「実はね……救出できるチャンスはあったのよ。でも、『まだ逃げられない』と言い出して、青葉が自分から進んでミニ・バンに戻ったの」
二人きりを確認すると、蒼穹は凛華に顔を近付けて、小声で告げた。
「どうして? 他に誰か一緒に連れ去られていたの?」
「犯人の二人組以外には乗っていなかったわよ。車の前でオタクっぽい男子が、ボコされていたけど……」
権堂と銀次の存在を教えるかどうかを、蒼穹は躊躇った。凛華まで深入りさせてはいけない気がした。
悩んでいる様子に気付いた凛華が、目の奥を覗き込みながら蒼穹に詰め寄った。
「もっと、ヤバいことがあったのね。隠さないで教えて」
「ヤクザも絡んでいるみたいなの。もっと大きな事件が隠されていると、犯人を襲ったヤクザが口にしていたわ」
蒼穹の言葉に、凛華が敏感に反応した。弱者を食い物にするヤクザの存在自体を、凜華は嫌っている。眉を顰めると、「最低ね」と凛華が口にした。
「犯人の二人組が、ヤクザに襲われて怪我をしているのよ。悪い方向に影響しなければ良いのだけれど」
「他にもありそうね。悪い話が」
凛華が、蒼穹の手から紙を取り上げた。箱から剥がした紙だ。腐臭に気付いた凛華が手を伸ばし、鼻を遠ざけて嫌な顔をする。
「自転車の籠に箱が載せられていたの。中に切断された小指が入っていて、凛華が持っている紙が一緒に入っていたのよ」
「嘘っ、切断された小指なの」
驚いた凛華が、慌てて紙を抓んだ手を更に遠ざけた。
「箱に宛先が書かれていたわ。〝G〟と下に向けた矢印だった」
「もしかして、〝グース・ダウン〟なの?」
あいまいに、蒼穹は首を傾げて見せた。
「断言はできない。でも、おそらく、間違っていないはず」
「本当に、最低! 誰よ、いったい。いきなり小指を送りつけられる覚えなんて、微塵もないけど」
凛華が指を振って紙を捨てようとした。慌てて引き留めた。紙を受け取って、蒼穹は陽射しに翳してみた。
『西に、次のGを探せ』
消えかけた文字を熟視すると、メッセージが現れた。そのとき、メッセージ・バッグに差し込んだ無線から〝ママ〟の声が響いた。
『ソラに新しい依頼が入っているわ』
「依頼人は? また〝グロースター〟なの」
無線の向こう側で〝ママ〟が、言葉を止めた。蒼穹の質問に直接は答えずに〝ママ〟が一方的に説明を続けた。
『写真が送られているわ。依頼人は〝G〟とだけ名乗ったそうよ』
〝ママ〟が送信した画像データを、モバイル・フォンで確認した。自動車から撮影された画像だった。車は薄暗い地下道をカーブしながら走っていた。
「分岐の表示が見えるわね。東名と環状線に分かれるようね。首都高速の渋谷線か……」
『おそらく、ソラが取り逃がしたミニ・バンから撮った写真よね』
位置情報でマップを探すと、首都高速の大橋ジャンクションが表示された。
「右車線を走行している。分岐を新宿方面ね。どうして画像を送ってきたのかな」
『地図に戻ると面白い画像が見られるわよ。航空写真に切り換えたほうが解りやすいかも』
〝ママ〟の指示に従って地図情報を操作した。
「Gだ。本当ね、〝ママ〟。そうか、身近な場所に〝G〟が隠されていたのか。気付きもしなかったな」
ジャンクション自体が、巨大な円形の建造物になっていた。
目黒天空庭園と名付けられていた。ジャンクションの走路に合わせて円形に築き上げられた建物を横切るように、換気所の建物が造られていた。
上空から見ると、まさしく大文字の〝G〟だった。
「どうしたの、蒼穹。犯人からの新しい指示は、何だったの?」
問い掛ける凛華に向けて、蒼穹はモバイル・フォンの画像を傾けた。
「首都高速の〝大橋ジャンクション〟が、次の目標地点みたい」
「大橋ジャンクションなら、このまま街宣車で向かいましょう。急いだほうが良いわ」
凛華が申し出たが、蒼穹は首を横に振った。
「ジャンクションでは、停車して何かを探すなんて、不可能よ。おそらく、探すべき〝G〟は、〝目黒天空庭園〟に隠されているわ。だってほら、よく見るとメッセージの紙は場内案内の地図になっている」
染み付いた膿で変色していたが、地の模様が円形の庭園を表していた。園内案内図だった。横から覗き込んだ凛華が、眼を輝かせた。
「本当だわ。間違いないわね。案内図に印がないかしら? 何か次のヒントが隠されているかも知れない」
「おそらく凛華の考えている通り、じっくりと探せばヒントが見つかるかもしれない。でも、急がなくちゃ、超特急便だから、持ち時間は、十五分」
指示通り天空庭園に到着すれば、次の指示があるはずだ。
「急ぐなら、やっぱり街宣車で送るわ。信号を無視するから、到着が早いわよ」
「休日の渋谷だからね。渋滞したら身動きが取れなくなる。私のほうが早いから、任せておいて」
マップに位置情報を入力しながら、蒼穹は街宣車を飛び出した。歩道に駐めた自転車に向かって全力でダッシュした。
ハンドルを掴んで、自転車に飛び乗った。前籠の腐臭が気になったが、走っていれば、風に飛ばされるはずだ。
「とにかく、街宣車で追い掛けるから、位置情報が解るようにしてね」
大声で話し掛ける凛華を振り返った。小さく頷くと、蒼穹は自転車をターンさせた。
「了解。先に到着して、政論社の〝ど派手な〟バスを待つわね」
片手を上げて合図した。群衆を縫って蒼穹は自転車を発進させた。駅前を過ぎて国道二四六号線に曲がると、思った通り、車道が渋滞した。
隙間を縫って車線を換えながら、蒼穹は全力で国道を西に走った。
「ねえ、〝ママ〟、〝グロースター〟ってどんな人物なの?」
無線に問い掛けると、すぐに〝ママ〟から返事がきた。
『シェークスピアの芝居では〝醜い極悪人〟と表現されているわ』
説明しきれない不安が蒼穹の心に生まれた。不安が大きくなって気持ちが萎えないように、蒼穹は頭を振った。嫌なイメージは頭から消えなかった。