第二章 最初の重力(G) その1
首都高速の高架下を抜け、蒼穹はバス・ターミナルの手前で左折した。緩やかなカーブに添って、流れ始めた車列と共に歩道際の車線を走行した。
安定した走行に、回転するチェーンが軽快な音を立てている。
気持ちは前籠に納まった小箱の中身に集中していた。早く確かめたい気持ちは高まっていたが、怖くもあった。
具体的な時間短縮の要請は、なかった。必然性がない以上、最低限の交通法規は守ると決められていた。
京王井の頭線の高架下で自転車を降り、蒼穹は手で押しながら、ハチ公前を目指した。
緊急で歩行者の間を縫って走る時には気にしなかったが、かなりの人混みだ。
さすがに、日曜の渋谷駅前が閑散としていたら、驚きだ。当然のように渋滞する車道を見ながら、蒼穹は自転車便のメリットを痛感した。
〈これでまた、有効性を疑うクライアントに、自信を持って自転車便を勧められる〉
スクランブル交差点に戻った。『グース・ダウン』のバンド・メンバーは街宣車上のステージから姿を消していた。
単独で、凛華がステージに残っていた。スタンドに取り付けられたマイクに向かって、街宣を続けている。
政論社が主張するテーマは大国からの完全な独立だ。独立以外にも、〝プレカリアート〟の問題が、最近の凛華の主張するテーマとなっている。
一九九○年ごろから断続的に不況が続いてきた。結果として、従来から日本的経営の根底を支えてきた〝終身雇用制〟が崩壊した。
少子高齢化で人手不足が問題視されていた状況から一転して、就職難になった。〝大学は出たけれど〟と揶揄られた昭和初期と同じ状況が、平成の世の中に再び現れた。
篩い落とされ、正規社員に残れなかった若者たちが、アルバイトや派遣社員など長期雇用の保証がない立場として働いている。
〝プレカリアート〟とは、不安定な非正規社員の総称で、メッセンジャーの立場も有期契約労働者、つまり〝プレカリアート〟の一部だ。
以前に説明を受けたとき『たいへんね』と蒼穹は受け答えした。呆れ顔で『ソラも対象者の一人だよ』と凛華に笑われた。
ただし、格差社会を批判して、反発するだけが凛華の主張ではない。
〝胸を張って生きろ! 自らの意見を主張せよ!〟が基本的な凛華の考え方だ。
国粋主義団体の政論社に所属しながらも、凛華は自分の立場を〝右翼内左翼〟と自称する。
穏やかな口調で、非正規労働者の現状を説明する凛華に、集まった若者が耳を澄ましていた。嵐の前の静けさだ。やがて、主張が昂揚し、アジテーションに繋がっていく。
〈まだ、しばらく終わりそうにないわね。困ったなあ、急がないと青葉が心配だわ〉
ガード・レールに沿って自転車を停めた。必要以上に触れないように注意しながら、蒼穹は前籠から小包を取り出した。
箱の合わせ目に不気味な染みが広がっていた。やたらと臭い。箱の表面が湿ってぶよぶよになっていた。
〈怖いわ。慌てて運ぶと、中身が飛び出してきそう〉
不安と共に、悪臭に耐えきれず、蒼穹は肘を伸ばし、できるだけ箱を遠ざけた。いきなり渡されても凛華も迷惑だが、一刻も早く箱の中身を確認したかった。
「どうした、臭いな。生ゴミでも依頼されたのか? それとも、バラバラ死体か?」
笑えない冗談を口にしながら、周東が近付いてきた。白い戦闘服の裾が揺れている。
凛華のメッセージが昂揚しながら続いていた。邪魔にならないようにと、周東が秋黎会の街宣車に蒼穹を導いた。
政論社の黒い街宣車と対を成すように、秋黎会は真っ白な大型バスを街宣車に使っていた。圧迫感は強いが、どこかスタイリッシュだった。
街宣車が臭くなるからと謝って、周東が戦闘服の大男に蒼穹の小包を預けた。髪を明るい緑色に染めた隊員だった。
保守的な右翼団体でありながら、代表の周東の影響を受けて、秋黎会はかなり先鋭的だ。
『グース・ダウン』の活動をプロデュースする周東は、IT機器を使った芸術集団Gトラッドの代表でもある。
〝右翼内左翼〟と自称する凛華と周東の相性が良い理由は、どちらも先鋭的な異端児だからだ。
強面の表情を崩して、緑色の隊員が可愛らしい表情を見せた。小包を預けて、蒼穹は周東に続いて街宣車に乗った。
ドアを閉めると、愛想笑いをしていた緑色の隊員が窓の外で顔を顰めた。腕を伸ばし、できる限り小包を身体から離している。
〈臭いものを任せて、悪かったかな〉
緑色の隊員を心配しながら、蒼穹は苦笑した。蒼穹だって、誰かも判らない依頼者に〝臭いもの〟を押し付けられた被害者だ。
街宣車の室内は、武骨な外見に似合わずディスプレイや音響機器で溢れていた。
白いノート・パソコンの画面には、演奏する『グース・ダウン』の映像が流れていた。映像の左側に窓が開かれ、表示されたコマンドの列が上に流れては、消えていく。
凛華のライブ映像の編集中だった。
周東に勧められて、窓際の長椅子に座った。パソコンの前に置かれた回転椅子を動かして、向き合うように周東が腰を下ろした。
「それじゃ、聞こうか。〝G少女〟は、どうなった?」
〝G少女〟はシンガー・ソングライター戸田青葉のキャッチ・コピーだ。重力とギターの〝G〟を掛けている。
頼りなげな少女の印象ながら、青葉は圧倒的にギターが上手かった。
心の底に流れる情念に似た複雑な思いを、震えるような声で謳い上げていく。独特な歌唱法も、青葉の特徴だった。
以前から『交差点の反対側にすごい才能がいるよ』と、周東が話していた。
自らプロデュースする凛華の手前、周東が正面切って褒めはしなかった。だが、ことあるたびに〝G少女〟と呼んで評価し、同時にライバル視していた。
拉致された青葉を追った経緯を、蒼穹は周東に説明した。
「首都高速に逃げ込まれたのよ。それ以上は、追えなかったわ」
「さすがに、ママチャリで首都高速は、あり得ないものな」
周東はどことなく面白がっているようにも見えた。蒼穹は真意を疑ったが、日頃の街宣活動で度胸が据わっているためだろうと考えて、無理やり納得した。
「途中で青葉が逃げるチャンスは、あったのよ。でも〝まだ逃げられない〟と迷っている間に捕まった。再びミニ・バンに押し込められちゃったのよね」
「途中で犯人は停まったのか?」
驚く周東に、蒼穹は首を傾げ、小さく頷いて見せた。
「途中で弱っちょろい男子が捕まって甚振られていたの。犯人たちがアジトに逃げ込もうとした現場を目撃したんだと思うわ。それか、嫌がる青葉を引き摺り出した犯人を止めようとした、とか。そこに、暴力団風の二人組が割り込んできたのよ」
珍しく周東が興味を示した。
「ヤクザが絡んでいるんだな、今回の話は」
周東に頷いて、蒼穹は話を続けた。
「大変だったのよ。ヤクザの二人が、拳銃とナイフで犯人の二人に怪我を負わせたんだから」
「犯人とヤクザは、仲間ではなかったのか?」
身を乗り出した周東に向かって、蒼穹は即座に頭を振った。
「仲間ではないわよ。ヤクザたちは、犯人の二人を〝半グレ〟って呼んでいたわ。結構、本気で、血みどろの喧嘩をしたのよ」
「この辺りのヤクザなら剛劉会かな。〝半グレ〟は中国人じゃなかったかな」
ミニ・バンに乗っていた二人組の面影を思い起こして、蒼穹は頷いた。
「確かに、ヤクザは剛劉会の権堂と名乗っていたわ。ヤクザは犯人たちを〝登龍〟と呼んでいたわね。首都高速に逃げられる前に顔を見たけど、日本人にしては、印象が、どこかバタ臭かったな」
「〝登龍〟は、日本人だけど、中国残留孤児の二世、三世だね。バックに黒社会が絡んでいる。基本的に剛劉会とは友好関係にあると思っていたけれど、何かトラブルでもあったのかな」
蒼穹は、権堂と犯人の遣り取りを思い出した。
「ヤクザが〝もっとヤバいことを、隠している〟だろうと、犯人を問い詰めていたわ。内容は話していなかったけど、口先だけではなかったみたい」
「抗争でもあったかな」怪訝な顔で周東が呟く。話を換えようとして、蒼穹の顔を見詰め直した。「ところで、小包は、どんなモノだった?」
『緑色の隊員に持ってきてもらえば解るわよ』喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
車窓から見える当の隊員は、あからさまに顔を顰め、手を伸ばして、できるだけ身体から離そうと必死だった。
車内に持ち込めば、瞬殺で息が詰まるはずだ。
「依頼主は〝グロースター〟、配達先は〝最初のGに〟と依頼があったみたいよ。小包の箱には、横書きで〝RⅢ〟〝→〟〝G〟〝↓〟と書かれていたわ」
「ふうん、依頼主は〝グロースター〟で、且つ〝RⅢ〟だな。犯人グループのリーダーは意外と知識人かもしれないな」
「知識人なの? どうして、知識人だと思うのかしら?」
〝インテリゲンンチャ〟という聞き慣れない言葉に、蒼穹は戸惑った。要するに「物知り」の意味のはずだ。
右翼活動家の周東は三十代と、まだ若いのに、古めかしい言葉を使うから困る。
「〝グロースター〟はシェークスピア演劇からの引用だな。マルチ・ビジョンの黒文字が『すべてのGは呪われよ!』だったよな。おそらく『リチャード三世』の冒頭で、謀略のために流布された偽の予言、『頭文字Gの男が王の後継ぎを殺す』の捩りだ。即位前のリチャード三世の名前が〝グロースター公リチャード〟だからな」
「『リチャード三世』だから〝RⅢ〟か。確かに、符合するわね。でも〝最初のG〟が〝G↓〟だとしたら、第二、第三と〝G〟が続くのかしら」
蒼穹の疑問に、周東が口を曲げて苦笑した。当然だとでも言いたげに、頷いて見せた。
「もしかすると小包の中に、次の〝G〟が指示されているかも知れないな。最初と同じで蒼穹あてに電話が入る可能性もあるけどな。とにかく、開けてみよう。あの匂いと染みでは、相当ヤバいから覚悟したほうがいいぞ」
「でも『グース・ダウン』宛だから、まずは凛華に渡さなくちゃ」
蒼穹にしては珍しく、完全に逃げ腰になっていた。匂いだけでも不安だった。追い打ちを懸けるように周東が脅すから、最悪だった。
「俺は『グース・ダウン』のプロデューサーだからな。開ける権限は、ある」
お茶目な表情で周東が揶揄った。周東が開けても構わないが、できるだけ蒼穹自身は箱に触れたくなかった。
話を逸らすために、蒼穹は周東に向かって身を乗り出した。
「不思議だった点があるのよ。犯人を追っているとき、ディスパッチャーにお願いして110番通報してもらったのね。でもね、いつまで待っても来てくれなかったのよ」
「おそらく、位置を間違って通報したんだろうよ」
どうでもいい顔をして周東が適当に答えた。心は、もはや小包に飛んでいる。
「間違いは考えられないわ。ディスパッチャーは私たちメッセンジャーの位置をGPSで確認できるもの」
「ふうん、現着しなかったのか。遅くなっただけではないようだな」
パトカー未着の問題に、周東が興味を示した。頭を振って、蒼穹は説明を続けた。
「違法だけど、カー・ロケ情報を見て貰ったの。でね、パトカーは現地付近に間違いなく集まっていたのよ。でも、現場までは、入ってこなかった」
「公安でも絡んでいるんじゃないのか? 重要な案件があれば、機捜も入ってこないぞ」
ようやく周東が関心を持った。身を乗り出して、回転椅子に浅く座り直した。
話を続けようとすると、街宣車の外で騒ぎが起こった。
「うわあ、なんだこりゃあ」
緑色の隊員が飛び退いて眼を剥いた。足元を凝視していた。染み出た臭い浸出液で粘着テープが剥がれ、箱の底が抜けたらしい。
箱を放り投げ、腰を抜かした緑色の隊員に代わって、リーゼントの隊員が街宣車のドアを開けた。
「大変です、周東さん。箱の底が抜けて、中身が飛び出しました」
「何だ、中身は?」椅子を倒して、周東が立ち上がった。「行こう。蒼穹も自分の目で実際に確かめたほうがいい」
手を引かれて蒼穹は、渋々と立ち上がった。
飛び出していくリーゼントと周東に続いて、車外に出た。目を逸らそうと思う端から、路上に落ちた異物が視界に飛び込んできた。
切断された小指だった。
今まで嗅いできた匂いと、指で触れた湿った箱の感覚が、即座に蘇った。
不快で熱い塊が腹の底から込み上げてきた。思わず顔を逸らして、蒼穹は掌で口を覆った。〈最低! なによ、これ〉