第一章 アジテーション その4
路地の突き当りを右に折れた。下り坂に速度を上げると、ストリップ劇場の手前でミニ・バンが左折した。進入禁止の看板が蒼穹の視界に飛び込む。
缶ジュースを積んだトラックが、目の前の坂を登ってきた。虹の模様が車体の横に大きく描かれている。
先に交差点に突っ込んでみせる。蒼穹は猛烈にダッシュした。勢い付けて車体を傾け、トラックの直前を左折した。
驚いたドライバーの顔が、飛ぶように後方に流れていく。
〈ごめんなさい。驚かせて〉
心の中で謝りながらも、蒼穹はスピードを緩めない。路地は一転、登り坂になる。
出足が遅れたぶん、距離を空けられていた。坂を登り切ったミニ・バンが、下り坂を降りて姿を消していく。
「〝ママ〟この先の道は、どうなっているの?」
『突き当りで鋭角に曲がっているけど、一本道よ。ソラの前方に斜め右に入る小道があるわよね。先に進むと、階段があるのよ。降り切ったところに、左から合流するわ』
〝ママ〟の言わんとする意図を、蒼穹は理解した。いまこそピスト・バイクの本領を見せつけるチャンスだ。
車止めのポールの隙間を抜けて、幅の狭い小道に飛び込んだ。
道はすぐに石段になった。サドルから腰を上げ、膝で衝撃を吸収しながら、石段を駆け降りる。ガタガタと自転車全体が激しく振動した。
歩いている二人連れが、車体の鳴らす騒音に驚いて振り向いた。慌てて階段脇に身を寄せる。スピードを緩めずに、追い越した。
小道に張り出した車止めのポールが、接触の恐怖を煽る。負けてなんかいられない。奥歯を強く噛み締めながら、蒼穹は階段の先を見据えた。
振動が激しすぎて、視界がブレた。
前籠の中で、小包が飛び出しそうなほど跳ね上がっている。箱の合わせ目の染みが、心なしか広がった気がした。
〈次に停まったら、状態を確かめよう。とにかく、いまはミニ・バンに追い着くことだ〉
階段を少し残した時点で、脇道からミニ・バンが飛び出してきた。良いタイミングだ。ミニ・バンの前に飛び出して後ろから追われても、意味がない。
ウィリー・ジャンプして、蒼穹は脇道に飛び出した。
道玄坂の手前で、右折のためにミニ・バンが停まった。
ビルに区切られた視界をパトカーが通り過ぎていく。
パトカーはサイレンを鳴らしていなかった。前照灯も光らせていない。
ミニ・バンがパトカーをやり過ごした。強引に曲がっても、藪を突くようなものだ。権堂に撃ち込まれた銃弾の跡が丸見えになる。
覆面の男たちは状況を冷静に理解していた。
安全運転を装って、ミニ・バンが右折した。
一旦、歩道を走り、蒼穹は車線の切れ目を見計らった。
駅前ほどではないが、日曜の道玄坂は人出が多い。
駐車するトラックの合間を縫って、蒼穹はバニー・ホップで車道に飛び出した。驚く外車の鼻先を擦り抜けて、左車線に移った。
前方で、パトカーのブレーキ・ランプが赤く光った。ウインカーを出して、パトカーが停まる。
信号のずいぶん先だった。制服警官が助手席から降りた。蒼穹に向かって大きく両手を振り、腕を交差させながら停車を求めた。
警官の登場に驚いたミニ・バンが左にウインカーを出して、スピードを上げた。
交差点を曲がると、ショッピング・モールの中を抜ける横断通路に続く。〝ウェーブ通り〟で改造ワゴンが飛び出してきた場所だ。
〈また、元に戻っちゃうのね〉
腰を上げて、蒼穹はペダルを力強く踏み込んだ。限界までクランクを回し、どこまでもスピードを上げる。
登り坂だが、警察官の到着よりも早く交差点を曲がる自信があった。
ミニ・バンが左折した。スピードを上げたままで車体を傾け、蒼穹は後に続いた。
横断歩道の手前で、驚いた歩行者が足を停めた。
呼子を鳴らした警官が駆け寄ってくる。
警官の顔が視界を流れた。切り裂いた風圧に負けないように、蒼穹は息を止めてペダルを踏んだ。
警官は蒼穹を見据えていた。ミニ・バンに疑いを持った様子ではなかった。
〈覆面を外しているのね。さすがに覆面の二人連れを見たら疑うはずだもの〉
最悪の場合は顔だけでも確認してやろう。
正面を塞ぐビルに強い圧迫感を覚えた。横断通路の桁下の高さを示す赤いトラ・マークが実際より低く感じられる。
飛ぶように疾走しながら蒼穹はいつになく強い不安を覚えた。
警官の呼子が続いていた。かなり距離を空けたはずだ。いい加減に諦めて欲しい。
「ねえ、〝ママ〟。このまま走ったら、どこに行くと思う?」
『隠れ家が使えないなら、首都高速に乗るはずよ。この先に、渋谷線の入口があるから』
首都高速に乗られたらアウトだ。さすがに自転車の蒼穹では追い掛けられない。
法規を無視して首都高速を自転車で走れば、ある意味で社会問題だ。メッセンジャーの存在自体が問題視されては、たまらない。
横断通路に入った。狭い空間に溜まった排気ガス混じりの空気に突入した。
眩しい光の中から一転して暗がりになった。一瞬、周りが見えなくなる。通路の先でミニ・バンのブレーキ・ランプが赤く光った。
蒼穹はブレーキを掛けた。交差する通りを、飛び出したスポーツ・カーが横切った。急停車したミニ・バンの鼻先を掠めて、黄色い車体が走り抜ける。
ミニ・バンの走り出すタイミングが遅れた。距離が一気に縮まった。覆面の男の運転が、乱れていた。疲れている様子だった。
おそらく、銀次に切られた右手と、刺された太腿が大きく影響している。
蒼穹はミニ・バンを追い上げた。
急ブレーキに警戒した。突然のブレーキングに操作が遅れ、リア・ウィンドウを突き破った同僚の経験談が脳裏を過った。
どこか他に、隠れ家があってくれればいい。
せっかく追い詰めたのに、首都高速に逃げ込まれて断念。そんな結果では、悔やんでも悔やみきれない。
だが、最初から諦めてはいられない。万が一の可能性だって否定できないはずだ。
『ソラ、聞こえている? 依頼が入ったのよ。対応できるかな?』
「ごめんね、今は無理。誰かに代わってもらえる?」
ペダルを踏みながら、蒼穹は顔を顰めた。
『違うのよ、ソラ。普通の仕事とは違うの。メッセンジャーに名指しでソラを指定しているのよ』
「指名なの? だったら、なおさら後回しに。お願いできないかな」
ミニ・バンが首都高速の高架下を鋭角に右折した。やはり、首都高速に乗る確率は高まった。
状況を知ってか知らないでか、〝ママ〟が、いつになく興奮して話を続ける。
『本当なら、断るところなのよ。匿名だからね。オペレーターが相談してきたから、内容を聞いてもらったの』
「誰なの、いったい。匿名じゃ、解らないわよね」
とにかく、ミニ・バンを見失ったら、そのときは考えよう。追える間は、追い続けなくちゃ。
追い越し車線の前方に、のんびり走る宅配便のトラックが現れた。ミニ・バンが強引に車線を変更した。速度を上げて〝法定速度を守ります〟のステッカーを追い抜いた。
方向指示をした。加速しながら、蒼穹はルーフに派手な看板を載せた営業車の前に出た。
追い越し車線に戻ったミニ・バンが、急ブレーキで停まる。右折する大型トラックの影響で、先の車線が詰まっていた。
やはり、運転が乱れていた。
道玄坂で円山町に向けて走っていた時には、全てについて鋭敏な反応を示したはずだ。
〈前に出て、顔を確かめなくちゃ〉
路側帯を走って、不自然にならないように自転車を停めた。後方を確かめる振りをして、ミニ・バンのフロント・ガラスを覗いた。
四角い顔が特徴的だった。大柄の男は頬に古傷のような凹凸があった。たっぷりのワックスで髪を固め、前髪を少しだけ垂らしている。
顔立ちは日本人とほとんど変わらない。だが、どことなく妙なバタ臭さを感じた。
一方、痩せ型は、どこかイケメンの顔立ちだった。痛みのためか、酷い顰めっ面になる。
蒼穹は痩せ型の笑顔を想像した。いずれにしても、蒼穹の好みのタイプではない。
冗談に失笑すると、追い越し車線が動き始めた。前方に首都高速入口の看板が現れた。無駄を承知で、蒼穹はミニ・バンを追跡した。
一般道を走る限りは、どこまでも追い掛ける自信があった。このまま国道二四六を走り続けて、厚木まで向かっても構わない。
〈お願いだから、首都高速には乗らないで……〉
無線機から、話し続ける〝ママ〟の声が聞こえた。
『依頼主がね、荷物はすでにソラに預けてあるって言うのよ。預かってなんかいないわよねぇ』
〝荷物は預けてある〟の言葉が、蒼穹の心を捕えた。思わず、ペダルを踏む足が遅くなる。
蒼穹の心の隙を狙ったかのように、ミニ・バンが右にウインカーを出した。
首都高入口のランプにミニ・バンが消えていく。
〈残念だわ。何とか追跡できないものかしら?〉
モバイル・フォンのGPS機能を利用すればどうだ、と考えた。だが、電話番号を交換するほど、蒼穹は青葉と親しくない。
バイク便のチームなら高速道路も走行可能だが、今更この時点で連絡しても追いつけるはずがない。
蒼穹は走行車線に戻って、歩道沿いに自転車を停めた。
追いかけるのが無理なら、次の手を考える必要がある。前籠に置かれた小包は、スクランブル交差点で青葉がミニ・バンに連れ込まれたときに初めて気付いた。
何らかの関係がありそうだ。少しでも関係があるなら、手繰っていかなければ。
無線に向かって、蒼穹は声を掛けた。
「待たせてごめんね〝ママ〟。依頼主が〝荷物は私に預けてある〟って言ったのね」
『変なことを言っているでしょう。荷物なんて、受け取っていないわよね』
〈どうして〝TQサーブ〟と蒼穹の名前が解ったのかな。今までの依頼主の中に、怪しい荷物を前籠に入れた張本人がいるのだろうか〉
「今回の騒動が起きる前に、誰かが自転車の前籠に荷物を入れたのよ。依頼主は誰だって名乗っているの? 間違いなく、私の名前を指定したの?」
『依頼主は〝グロースター〟と名乗っているわ。もちろん本当の名前は訊いても答えなかったそうよ。それと、〝ソラ〟だけどね。名前は指定していないみたい。〝シティ・サイクルの使者〟だって』
確かに〝TQサーブ〟には、蒼穹の他に〝シティ・サイクルのメッセンジャー〟はいない。
でも、どうしてチーム名が判ったのかと考えて、蒼穹は苦笑した。
〈そうだわ、メッセンジャー・バッグに、太文字で社名とアドレスが書いてあるわ〉
蒼穹は〝ママ〟に訊ねた。
「配達先は、どこなの? 聞いているよね」
『それがね、〝最初のGに〟と、それだけなのよ。〝ソラ〟には解るかな? 荷物に何か書かれていないの?』
箱の合わせ目に浮き出た染みばかりが気になっていた。走り出してから存在に気付いたので、まだ蒼穹は小包をじっくりと見ていない。
身を乗り出して前籠に近付くと、悪臭が一層激しくなっていた。明らかに腐敗臭だった。
鼠の死骸でも、入っているのではないか。気味が悪いので、自転車ごと揺らして、箱を回転させた。
箱の表面に英文字とローマ数字、矢印がマーカーで殴り書きされていた。
「意味が解らない。横書きで、〝RⅢ〟〝→〟〝G〟〝↓〟だって。どう、〝ママ〟。意味が解る?」
『どうかな。宛名だとしたら、〝RⅢ〟から〝G〟に、の意味は間違いなくあると思うけれど。下矢印は何かな。〝次に続く〟かしら?』
最後の矢印だけでなく、最初の〝RⅢ〟だって理解不能だ。
「依頼主が〝グロースター〟なら、〝G〟よね。依頼主が〝RⅢ〟から荷物を受け取って下に続く。でも、これじゃ、宛先が書いてないわよ」
『口頭では〝最初のGに〟と言ったわ。やっぱり、〝G〟が宛先よ。〝G〟と下矢印をセットにして考えてみたらどう?』
無線の向こうで、ガサゴソと物を弄る音がする。紙を用意して、〝ママ〟が文字を書いている様子だ。何度かコツコツと音がして、ギザギザに塗り潰す。
『あっ』と短く〝ママ〟の声がした。
「どうしたの〝ママ〟。何か解ったの?」
蒼穹が訊くと、慌てた口調で〝ママ〟の声が無線から響いた。
『下矢印じゃなくて、英語で〝ダウン〟なら、意味が通じるわよ』
「そうね〝グース〟ダウン、〝GIG〟ダウン、どちらにも当て嵌まるわね。ありがとう〝ママ〟。受取人は凛華に間違いないわ」
ペダルを逆回転、逆ハンドルを切って蒼穹は街宣車のいる渋谷駅前に自転車を方向転換させた。対向車線の合間を縫って、走行車線に飛び込んだ。
〈凛華を巻き込んでも良いのか〉
全力でペダルを踏みながら、ふと、蒼穹は不安になった。
凛華には悪いが、こんな場所では停まれない。足を止めると、ピスト・バイクは転倒するだけだ。
〈前に進まなければ〉
このまま、青葉を見捨てるわけにはいかなかった。