エピローグ
目黒天空庭園を見上げながら、マンションを飛び出した。歩道に駐めた自転車に向かって蒼穹は全力でダッシュする。
ガード・レールからチェーン・キーを外して、サドルに跨った。ペダルを逆に踏んで方向転換。猛スピードで車道に飛び出した。
濃緑の街路樹が風に揺れていた。もうすぐそこまで夏が迫っている。
ヘルメットの下で、伸び始めた髪が風を受けて揺れていた。
〈そろそろ、髪を切らなくっちゃ〉
風を切る爽快感を、ストレートに手に入れるためだ。
メッセンジャー・バッグに取り付けた無線に向かって、蒼穹は話し懸けた。
「依頼品は受け取ったわ。状況に問題はない?」
『オッケーよ。事故も通行止めもないみたい。それよりも、愛車の具合はどう?』
池袋に置き去りにした自転車が、大塚で見つかった事実を〝ママ〟が知っていた。
大塚警察署に引き取りに行くと、渋谷の騒ぎを持ち出されて皮肉を言われた、とまで話が筒抜けだった。
「ひどいものよ。可哀そうに、汚れ切ってゴミ捨て場に置き去りにされたんだから」
『戻ってきただけマシだと思うわ。さすがに自転車泥棒も、ピスト仕様の自転車には驚いたでしょうね。まともに走れなかったんじゃないかしら』
面白がって〝ママ〟が笑う。何も知らない自転車泥棒が空回りしないペダルに困った様子を想像して、少しは溜飲が下がる。
「依頼者から連絡はないかしら? ミュージカルのリハーサルが中断した状態なのよねえ」
『作曲家大先生がストップを懸けたんだから、待つしかないわよねえ。ソラの預かったスコアが最終稿だから、予定より早く着けば、特別ボーナスが出るかもよ』
まことしやかに〝ママ〟が話すが、真偽のほどは定かではない。
「特別ボーナスを貰ってもいいの? 頑張っちゃうけど」
『ラッキー・コインならいいわよ。なくしちゃったんでしょう』
目前に迫ったポリス・カーの回転灯を思い出して、蒼穹は身震いした。
「やっぱり、サービスでいいわ。痛い思いはゴメンだもの」
サドルから腰を外して、全力で蒼穹はペダルを踏み下ろす。
歩道に乗り上げて、国道二四六に入った。車道に降りて、一気に渋谷を目指す。
リハーサル室で到着を待っている劇団員のためにも、蒼穹は最善を尽くすつもりだ。
「ところで、〝ママ〟。訊きたい話があるんだけど、いい?」
『構わないけど、難しい話はいやよ』
蒼穹の隣を大型トラックが走り過ぎていく。前方で渋滞が始まっていた。自転車便の腕の見せ所だ。
車道のスピードが遅くなる。車の間を擦り抜けて前に前にと進む。車の動きが完全に止まった。苛立つドライバーに〈どうだ、参ったか〉と自慢しながらスピードを上げる。
ずっと気にしてきた質問を、蒼穹は〝ママ〟にぶつけた。
「メッセンジャー・バッグに無線機が取り付けられていたのよ。もしかして〝ママ〟の仕業なの?」
一瞬、返事が遅れた。悪戯がばれた子供のように『ふふっ』と笑うと、『ばれた?』と〝ママ〟が答えた。
「いつから? GPSが付いているのに?」
『TQサーブに入社してから、ずっとよ。気付かなかった?』
蒼穹は思わずブーイング。なんだか、探られていたみたいで面白くない。
「なんだかなあ。〝ママ〟らしくないわ」
『ごめんね。ソラの両親から頼まれていたの。〝事故や事件にだけは気を付けてください〟ってね。だから、いつも、出発前に発信器を付けていたの』
蒼穹は驚いて言葉を失った。思いがけない告白だった。
「TQサーブで働いているって、両親が知っていたの? 嘘でしょう。自転車便を続けている事実は、両親に隠し切れていると信じていたわ」
監視されていたようで、不満が残った。でも、蒼穹は自転車便を続けていると両親が知っていて、心配してくれていたと解ると、なんだか心が解放されたようで嬉しい。
『ご両親のこと、悪く思わないでね。発信器は私の独断だから』
いかにもすまないといった口調で、〝ママ〟が謝った。
「平気よ。これからも自転車便を続けられるって話だものね。両親に隠さずに正々堂々と」
『もちろんだわ、でも、女戦士は、もうダメよ。絶対に危険には飛び込まないでね。私にだって、責任があるんだから』
諫める〝ママ〟の言葉を聴かない振りして受け流し、蒼穹は力強くペダルを踏んだ。
可能な限り、クランクの回転を上げていく。
ピスト・バイクは固定ギアだ。空回りはしない。走り続ける限り、足を動かす必要がある。ペダルを停めるのは、メッセンジャーを止めるときだ。
「頑張るわよ〝ママ〟。『配達迅速、TQサーブは、依頼者の要望に全力で応えます』がモットーだもの」
道玄坂上で頭上を塞いでいた首都高速から離れた。あと少しで渋谷のスクランブル交差点だ。
騒動の後で、しばらく渋谷駅前広場の規制が厳しくなっていた。
今日は、久しぶりに凛華の街宣活動が予定されている。『グース・ダウン』は健在だ。
騒動の首謀者として、周東が厳重注意を受けたが、街宣のネタが増えただけだった。
蒼穹は空を指差して、〝衛星を撃ち落とせ!〟と凛華のアジテーションを口にした。
リハーサル室に大切なスコアを届けたら、渋谷駅前を目指そう。
『声を出して! みんなの声が聴きたい!』
凛華の言葉を思い出して、蒼穹は力が湧いた。
〈走り続けよう。回転させる足は決して停めない。ピスト・バイクを転倒させてはいけないのだから〉
まずは、スコアを待つ劇団員たちに、大切なメッセージを届けよう。一秒でも速く届けて欲しいと、心の底から待っている人がいる。
〈届ける荷物が、私の大切なメッセージだ〉
いまなら、自信を持って蒼穹は言える。自転車便は、蒼穹の選んだ大切な仕事だ。
下り坂になった車道を、全力で駆け降りる。車体をバンクさせて、リハーサル室に向かう路地に、蒼穹は自転車を突っ込んだ。〈了〉




