第八章 グロースター(GLOUCESTER) その4
機動隊員に両側から腕を掴まれて、力ずくで蒼穹は群衆の外へと連行された。
抗議の声と頭上に持ち上げたモバイル・フォンの波に囲まれた。
引き摺られるように、抵抗も空しく蒼穹は連行された。腕を振って撮影を止めさせようとする警官の無駄な努力には、敬服した。
渋谷駅ハチ公前広場に集まった群衆は、少しずつそれぞれの方向に移動し始めていた。それでも、容易に身動きできない状況に違いはなかった。
一つの方向に向かって群衆を集めていた力は、嘘のように消滅した。路上に発生した強力な磁場が、青葉の演奏中断によって威力を失った。
群衆の隙間から、青葉の姿が見えた。身振り手振りを加え、演奏の続行を説得する雄太が、青葉のすぐ前にいた。
連行される蒼穹の視界は、取り囲む人垣に遮られて、切れ切れに見えるだけだった。
熱を籠めて説得を続ける雄太の横面を、青葉が平手で叩いた。頬を押さえて呆然と立ち竦んだ雄太の姿を最後に、広場の様子が視界から消えた。蒼穹は夜の路上に引きずり出されていた。
駅前広場を取り囲んだ警察車両が、回転灯の赤い光を周囲の建物に投影させていた。乱闘に加わった半グレや戦闘服の右翼活動家が逮捕され、次々と警察車両に乗せられていく。
ヘッド・ライトに照らされた連行される男たちの影が、路上に無念を残しながら伸びていた。
蒼穹は首を動かして周東の姿を探した。スクランブル交差点に入り込んで、救急車が停まっていた。
運び込まれるストレッチャーに、負傷した周東が乗せられている可能性は高い。
〈致命的な傷でなければいいけど〉
背中を押されて、蒼穹は覆面パトカーに乗せられた。蒼穹に続いて刑事が乗り込んだ。
着崩した背広の内側に、鍛え上げられた肉体を感じた。組織犯罪対策部の吉岡だった。呆れ切った表情で、吉岡が声を潜めた。
「何をやっているんだ。折に触れて情報を教える約束だっただろう。連絡をくれればよかったんだ。危ないから近付くなと、注意くらいは、してやれたのに」
「いまさら調子のいいこと言わないでよ。どうせ、一方通行だったくせに」
わざと聞こえるように蒼穹は呟いた。
「まあ、自業自得だな。大人しくしていれば良いものを、機動隊相手に大立ち回りしてどうするつもりだ。諦めて留置所で頭を冷やしてこい」
運転席の立川が、苦笑しながら振り返った。
「なによ、ケチ! 利用したんだから、助けてくれればいいのに」
「お互い様だな」
立川が肩を竦めた。疲れている様子だった。心なしか髭が濃くなっている。頻繁に無線を交信しながら、なかなか発進しない。指示待ち状態だった。
窓から車外を眺め、吉岡が独り言のように呟いた。
「結局、お嬢ちゃんの奮闘は無駄だったってわけだ」
「無駄な努力とは思いたくないわ」
蒼穹は座席に身体を沈めた。今まで気が張って忘れていた身体の疲れと痛みが、急に襲ってきた。蒼穹は力なく首を横に振った。
「しかし、つまらない話に巻き込まれたものだよな。派手に立ち回った原因が、ただの痴情の縺れだなんて」
「吉岡さん。捜査情報は、まずいスよ」
立てた指を横に振って、立川が話を止めさせようとする。
「構わんさ。具体的な話までは、せん」
呆れた顔で「知りませんよ」と、立川が呟いた。
具体的な話でなくとも、巻き込まれた事件の真相は聞いておきたかった。吉岡の顔を窺いながら、蒼穹は控えめに訊いた。
「痴情の縺れって、向日葵さんの関係、ですか?」
「向日葵も性質が悪いが。輪を掛けて性質の悪い奴に惚れられたからな」
〈性質が悪い奴?〉乱暴だが朴訥な権堂の性格を思い浮かべて、蒼穹は理解できなくなった。性質の悪い奴と呼ばれる要素が、まだ知らない権堂にあるのか。
「権堂さんの性質は悪い、ですか?」
蒼穹が訊くと、立川が皮肉を籠めて笑う。親指を立てて、「親分だよ、親分」と囁いた。
革張りのシートに座っていた老人の格好を思い出した。
イタリア製の背広に、白マフラー、斜に被ったボルサリーノと、キザな姿からしても、いかにも女癖が悪そうだ。
横恋慕した椛島会長にあてつけるために、権堂の情婦だった向日葵が心中立てを真似て小指を詰め、髪を切った。心意気を見せろと脅されたのかも知れない。
「執拗な嫉妬に苦しんでいたのでしょうね。結局、追い詰められた向日葵が会長を刺した」
「そうだな、事件を半グレの仕業と思い込んだ剛劉会の幹部が、事件を聞いていきり立った。抗争になれば、剛劉会も無傷ではいられない。組織潰しの機会を狙う自分らソタイにとって、絶好のチャンスだからな」
企みを巡らす表情で吉岡が自慢げに話した。
「大きな抗争に発展しないように、権堂が真相を探っていた。そこに蒼穹が現れたわけだ」
「青葉の拉致は誰の策略なの? 椛島会長に送り付けられたはずの心中立ての品が、どうして自転車の前籠に入れられていたのかしら?」
発端は解った。だが、痴情の縺れからの発展が突飛すぎる。
悩んでいる蒼穹の姿を見ながら、吉岡が同情する顔つきになった。小さく息を吐き、吉岡が苦笑した。
「蒼穹に指示を送った人物を調べさせてもらったよ。最初にグロースターを名乗る人物が使ったモバイル・フォンは、レンタルでな。何軒もの悪質レンタル業者の中で、転貸されていた。厄介だったぞ、発信者を特定するのは」
「誰ですか、グロースターの正体は?」
蒼穹はシートから身を起こした。ここで聞き逃す手はない。
「権堂の腰巾着の、銀次だ。おそらく、椛島会長から直々に命じられて、腐り始めた〝切断された小指〟の捨て場に困ったんだろうよ。〝次のGを探せ〟と鎌を掛ければ、ヤバいブツが渋谷から離れるからな」
「でも、銀次がグロースターを知っていたなんて、意外だわ」
シェークスピアと暴力団の三下なんて、どう考えても結び付かない。立川が吉岡の話に補足した。
「権堂はな、若いころ役者志望だったんだ。付き合いで、銀次は何度も劇場に足を運んでいる。観劇をしたかどうかは分からないが、リチャード三世の概要を知っていても不思議はない」
「でも、どうして私に……。メッセンジャーなら、誰でもよかったはずよ」
問い掛ける蒼穹の迫力に負けて、立川が身を引いた。片眉を上げて、吉岡が蒼穹に顔を近付けた。
「政論社の街宣であんたを見かけたそうだ。自転車の前籠が都合よかったんだな。だけどな、二回目以降は送信者が入れ替わっている」
たしかに、大橋ジャンクションの画像は逃走するミニ・バンから撮られたものだ。他にも、エンコ詰め、断髪、刺青と、向日葵が荻島会長に送り付けた品とは別に、反戦フォーク・ゲリラの写真や、銀次が選びそうにない品が存在した。
「もしかして周東さんなの?」
蒼穹の言葉を聞いた後で、吉岡が首を横に振った。
「周東も関係するが、他にも送信者がいる」
「誰? 青葉ちゃん? まさか凛華ではないわよね」
最初から関係する人物は他にいないはずだ。混乱する蒼穹の顔を覗き込んで、吉岡が王手を掛けた。
「首都高速の画像は、受信したメールを転送したものだ。わからないか? もう、残されたカードは少ないはずだ」
一番頼りない相手を抜いていた。少なくとも、最初から関係していた人物である必要がある。
「もしかして、雄太クン? 嘘でしょう? どうして? 何もできない〝お坊ちゃん〟よ」
してやったり、とばかりの表情で、吉岡が口元を微かに上げた。
「銀次は蒼穹の他に、周東と椛島雄太、怜人兄弟にも同じ内容の情報を送っていた。椛島雄太は、銀次の情報を利用しようと考えた。妹のために必死だったんだ。才能を信じて〝シンガー、戸田青葉〟を路上から、メジャーの舞台に引き上げたかった。だが、成功物語のためには、将来、必ず邪魔になる障害が存在した」
「怜人と、関係する半グレ集団の〝登龍〟。何よりも、青葉自身の身内として存在する暴力団剛劉会は、最悪よね。近親愛と暴力団関係者。最強のスキャンダルだわ。マスコミが取り上げたら瞬殺のネタね」
蒼穹の理解を確認して、吉岡が笑った。どこか、情けない気持ちが加わっていた。
「向日葵が起こした刃傷沙汰を契機にして、椛島雄太が登龍を利用した剛劉会潰しの計画を開始した。自分らには絶好のチャンスだったんだがな。登龍と剛劉会の抗争が始まれば、一気に二つの組織犯罪集団を叩けるはずだった。ところが、事件の途中で雄太の計略に気付いた権堂が、剛劉会の動きを抑えて、事件解決に動いた」
「残念でした。どんなことでも思い通りには動かないものよ。でも……」
蒼穹には疑問が浮かんでいた。
「でも、なんだ?」
「権堂が組員の動きを抑えたのに、どうして弟分の銀次は事件を大きく広める方向に動いたのかしら。だって、向日葵さんの小指だって見つからない場所に捨てればよかったはずなのに」
蒼穹の疑問を受けて、吉岡が意味深な笑みを浮かべた。
「権堂が会長のために動いたように、銀次は権堂のためを考えて動いたんだ」
「どういうこと? どちらだって同じよね」
話を聞いていた立川が厳しい表情で振り返る。
「半グレと剛劉会の衝突が抗争に発展して会長の立場が危うくなれば、兄貴分の権堂が力を握る好機になると踏んだのさ。椛島雄太が青葉のために剛劉会の壊滅を望んだ理由と同じさ」
「嘘でしょう。雄太クンは、青葉ちゃんに一方的な愛情を抱いて剛劉会の壊滅を企てたはずではなかったの?」
面白がった立川が「ははは」と、軽く誤魔化し笑いをした。途中で、無線が入った。待ちかねた撤収命令だった。
「さあ、帰るぞ」
吉岡の号令に従ってサイレンを鳴らし、立川が右にウインカーを出した。
「ここだけの話だからな。誰にも言うなよ――」吉岡が咳払いをした。蒼穹に向かって声を潜めた。「――銀次は同性愛者だ。権堂を愛していたんだ」
中途半端な思いが蒼穹の心の中に残された。スクランブル交差点での拉致の理由が皆目わからない。
「怜人は? 青葉ちゃんは、どんなふうに関わっていたの?」
「拉致は青葉の自作自演だ。周東の演出に、怜人も力を貸していたんだ」
サイレンの音に紛れたふりをして、吉岡が蒼穹の耳元に囁いた。
先頭から順に、パトカーが動き出す。立川がハンドルを切って、車線に車両を動かした。
「立ち止まらないでください。通行の妨げになります」
拡声器から繰り返される呼び掛けに、蒼穹は流れていく窓の外を眺めた。渋谷駅前を埋めていた群衆が、端から少しずつ散り始めていた。




